天神・菅原道真

他者の追随を許さず権力を独占してきた藤原基経であったが
寿命には敵うはずもなく政治の表舞台から消える時がきた。
突然訪れた権力の空白時期、宇多天皇は親政を行い、片腕として
文章博士(もんじょうはかせ)・菅原道真(すがわらのみちざね)を抜擢した。
雷神として天満宮に祭られているあの道真公である。
偉大な学者・政治家としての道真の活躍、そして忍び寄る魔の気配。


道真の生い立ち 〜 天才少年、文章博士を目指す
道真は幼名を阿古(あこ)といい、845年の生まれ。
父も文章博士の菅原是善(すがわらのこれよし)、祖父は同じく文章博士で
804年の遣唐副使を務めた菅原清公(すがわらのきよきみ)という学者一家である。
文章博士とは律令制における大学(官吏養成学校)の教官の事。
島田忠臣(しまだのただおみ)に講義を受けた道真は、
18歳で文章生(もんじょうせい、大学の学生)になり26歳で国家試験に合格。
877年、わずか33歳で文章博士の位に就くようになった。
祖父・父に続き、学者としての名門・菅原家の名に恥じない活躍である。
ところが886年、突然道真は讃岐国司を命じられる。
国司はその国の行政長官にあたる役職で、任国へ赴き治世を司らなくてはならなかった。
都で文章博士として働いていた身にとって、見た事もない讃岐国(現在の香川県)へ下向し
慣れない領国経営を任せられるのは未知の体験である。
それでも道真は与えられた仕事を全うするために讃岐へ向かい
貧窮に喘ぐ讃岐の領民のため身を粉にするのであった。

阿衡事件 〜 道真・宇多天皇、水魚の交わり
道真が讃岐で働く887年、光孝天皇が亡くなり宇多天皇が即位。
宇多帝は先代の光孝帝に続き藤原基経に関白を命じ詔を出す。
ところがこの詔にある文言が事件を引き起こしたのだ。
そこには「基経に『阿衡(あこう)』の位を与える」と書かれていたが
阿衡とは「位は高いが実質的な職務はない」とも受け取れる言葉であった。
宇多帝は「最高役職を与える」という意味で使ったのだが
基経はこの詔に立腹し職務を放棄、宇多帝の政治は行き詰まってしまった。
周囲の貴族も基経の機嫌を損ねるのを恐れて何も手出しが出来ず
宇多天皇は即位後およそ1年もの間、政が行えない状態に陥る。
この話を聞いた道真は毅然として基経に意見書を送った。
曰く、「阿衡の一言に拘り職務を放棄しては藤原家の名に傷を残す」とあり
基経もこの文を見て態度を改めた。道理の通った道真の考えに感服すると共に
摂関家といえど恐れずに意見した道真の態度にも感心したのである。
これによって政治は前進を始め、窮地を救った道真の存在が
宇多帝に認められるようにもなったのであった。

寛平・延喜の治 〜 菅原道真右大臣に登用
890年に道真は讃岐より都へ帰還。
同年に基経は病を得て関白を辞職、翌891年に死去した。
基経の嫡子・藤原時平(ふじわらのときひら)はまだ若年であったので
宇多天皇は藤原氏を重用せず、道真を側近として政治を行うようになる。
891年、道真は蔵人頭に就任。これ以後宇多帝は関白を置かず
親政(しんせい、天皇が自ら政治を執り行う事)を為したので
この時代の政治を「寛平の治(かんぴょうのち)」と呼ぶ。
親政により宇多帝は藤原氏の顔色を伺わずに思うままの政治が行えたのである。
894年には道真を大使として遣唐使の派遣を決めた。
しかしこの時代、既に唐は国力が衰退しており、民間商船の往来も多く
国家使節としての遣唐使を派遣する意義は少なくなっていた。
これを見た道真は宇多天皇に遣唐使中止を具申、帝もこれを要れた。
7世紀から続いた遣唐使は遂に廃止されるようになったのである。
宇多天皇は897年に譲位、醍醐天皇が即位した。
醍醐帝も関白を置かず親政を行う。この時代の政治は「延喜の治(えんぎのち)」と呼ばれ
関白を全く置かなかった政治体制は後世における天皇政治の理想とされた。
道真は897年に権大納言(ごんだいなごん)、899年には右大臣に昇進し
醍醐天皇の右腕として政治を担った。

昌泰の変 〜 道真雷神と化し多いに都を祟る
醍醐帝の右腕が道真ならば、左腕が時平であった。
時平は道真と同じく897年に大納言、899年に左大臣へ昇進した。
しかし藤原氏の復興を目指す時平にとって、道真は同僚でなく
政治的ライバルでしかなかった。父・基経のように藤原独裁体制を確立するため
時平は道真追い落としを画策する。道真の娘が醍醐天皇の弟へ嫁いでいた事に着目し
「道真は醍醐帝を退位させその弟を皇位に就けようとしている」と讒言したのだ。
901年、この話を真に受けた醍醐天皇は道真を大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷。
謀反人の道真を大宰府への流罪としたこの政変を「昌泰の変(しょうたいのへん)」と言う。
時平の陰謀と見抜いた宇多上皇が取り成すが聞き入れられず
寂しく九州へ追われる道真が都を離れる際に詠んだ歌が次の歌である。
東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
 主(あるじ)無しとて 春を忘るな    菅原道真

[意味] 花の季節になったら、東風に香りを乗せて九州の私の元まで届けておくれ。
  我が家の梅木よ、主人がいなくなったからといって春を忘れてはいけないよ。
903年、道真は大宰府の地で孤独な死を迎え、
一方の時平は907年に新たな格(律令の補足条文)の延喜格(えんぎかく)を撰上、
朝廷の権力を欲しいままに謳歌していた。
ところが909年に時平は39歳の若さで急死する。
しかもその年から3年に渡り各地は疫病・日照りで凶作が続き
923年には醍醐天皇の皇太子が亡くなる。次の皇太子も925年に没し
挙句の果てに930年、平安京清涼殿(せいりょうでん、天皇の居所)に落雷があり
多数の公卿が命を落とした。醍醐帝自身も病に伏して間もなく薨去。
時平や醍醐帝への怨みを抱いた道真が天災を起こし都を呪い
鬼神となって雷を落としたと人々は噂した。
怨みの魂を鎮めるべく、雷神すなわち天神として北野天満宮に祭られるようになり
文章博士であった道真は次第に「学問の神」として信仰されるようになっていく。
現在も続く天神信仰はこうして発生したのである。
北野天満宮北野天満宮(京都府京都市上京区)



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