藤原氏の政権抗争

平安時代も草創期を過ぎ、安定した時期になると
貴族の政権争奪戦が表面化してくる。
鎌足以来、天皇の側近として政治の中心にあった藤原氏は
他氏の排斥だけでなく同族間でも抗争を繰り返しつつ
巧みに政権を独占してきた。
藤原氏の他氏排斥活動、そしてその政治とは。


薬子の変 〜 平城上皇vs嵯峨天皇
平城天皇は806年に即位、父である桓武天皇の政治姿勢を踏襲すべく
亡き藤原種継の子・藤原仲成(ふじわらのなかなり)
藤原薬子(ふじわらのくすこ)兄妹を重用したが
運悪く病にかかり在位3年で弟の美能親王(みのしんのう)に譲位した。
このため、平城上皇は平安京を離れ奈良の平城京へ移る。
809年に即位した美能親王、すなわち嵯峨天皇は仲成・薬子兄妹ではなく
藤原北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)を側近にし
810年、蔵人頭(くろうどのとう)の役職に任じた。
これを不満に思った仲成は、薬子を使って上皇をそそのかし
嵯峨天皇打倒、平城上皇復位の陰謀を図ったが
いち早く察知した天皇側が先手を打ち平城京へ派兵、平定された。
平城上皇は出家させられ、薬子は自殺、仲成は処刑。この乱を「薬子の変」と呼ぶ。
空海が鎮護修法を行い国家安寧を祈願するきっかけとなった政変である。

薬子の変関係者

薬子の変関係者 (赤字は女性) ―は親子関係

承和の変 〜 藤原良房の台頭
嵯峨天皇の治世は、藤原冬嗣が頭に任命された
蔵人所(くろうどどころ、機密事項管理部門)の設置をはじめ
検非違使(けびいし、京の治安維持・風俗取締・訴訟裁判を取り扱う)発足、
弘仁格式(冬嗣撰上の新格式)の制定など、規律粛正に主眼を置いたものであった。
823年に淳和天皇、833年に仁明天皇が即位した後も
嵯峨帝は上皇として政治を統括し睨みを利かせていた。
が、嵯峨上皇が842年に没し歯止めがなくなった途端に
藤原氏による政変が勃発する。「承和の変(じょうわのへん)」である。
藤原良房(ふじわらのよしふさ)に対立する橘逸勢や
伴健岑(とものこわみね)らが恒貞親王(つねさだしんのう)を祭り上げ
謀反を企んだとし、流罪にされたのだが
この政変では大納言の藤原愛発(ふじわらのよしちか)
中納言の藤原吉野(ふじわらのよしの)までが謀反に加担したとして処罰された。
良房は橘氏・伴氏だけでなく同族でさえ邪魔者として政界から追放したのだ。
この変で政敵を一掃した良房は朝廷第一の実力者となり栄達を遂げていく。
大納言、次いで右大臣に任じられ文徳天皇の時代では太政大臣に出世。
律令制における最高官となった良房は、文徳天皇の死後
858年に皇位を継承した清和天皇の摂政に就き権力を独占。
清和帝は良房の娘・明子(めいし、あきらけいこともが母で、良房の孫にあたる。
この時若干9歳の子供で、外祖父として幼少の天皇に代わり政治を執り行う
摂政の位に就いた良房が事実上の最高権力者と言えたのだ。
(正式には良房が摂政になるのは866年。858年当時は「公卿補任」)
良房の権勢は揺るぎ無いものとなり、この頃から良房の下位において
「No.2争い」が水面下で行われるようになってきた。
藤原氏や他の貴族と一線を画する源信(みなもとのまこと)など嵯峨源氏の一党と
それを嫌う伴善男(とものよしお)らのグループが対立していたのである。
善男は良房に源信の讒言をしてその失脚を狙い、
日本各地は農作物が不作、都では疫病が流行り
864年には富士山が大噴火を起こし、民衆の不安は高まるばかり。
新たな争乱が起きようとしていた。

応天門の変 〜 「伴大納言絵巻」より
良房は善男の讒言を保留し、源信が処罰される事はなかったが
866年、さらに驚くべき事件が発生し政界は動揺する。
平安京大内裏の中、朝堂院(ちょうどういん、国家行事を行う会所)の正門である
応天門(おうてんもん)が閏3月に突然炎上し全焼してしまったのだ。
この火災の原因は政争による放火と目され、あろうことか
源信が犯人と決めつけられた。当然、善男の誣告である事は明らかである。
これを知った良房は証拠もなく源信を処罰する訳にはいかないと処断し
「源信は犯人に非ず」とする清和天皇の言質を取り付けた。
その結果源信は処罰されずに済んだが、犯人は解らず終いとなり月日が流れた。
応天門炎上から約半年後、都の片隅で小さな事件が起きる。
子供同士の喧嘩にその親がでしゃばり、親同士も喧嘩騒ぎを起こしたのだが
片方の親は伴善男に仕える使用人であった。その親はもう一人に対し
「俺に盾突くならば伴大納言様に処罰されるぞ」と毒気付く。
負けずに相手も言い返す「伴大納言は俺の一言で処罰されるぞ」。
…男は伴善男が応天門に放火する処を目撃していたのである。
この騒ぎが役人の知れる所となり、応天門放火事件の真犯人が発覚。
源信に罪を着せようとした伴善男こそ犯人であったのだ。
斯くして伴善男らその一党は流罪となり、この事件の幕が降ろされた。
この事件を「応天門の変」と呼ぶ。応天門炎上事件には謎が多く、
本当に善男が犯人なのかは不明であるが、ここでは平安末期に描かれた
「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」を元に事件のあらましを追ってみた。
ちなみに、伴善男の祖父は藤原種継暗殺事件の犯人として死罪になった大伴継人。
淳和天皇の名が「大伴親王(おおともしんのう)」であったため
大伴氏は天皇に遠慮して伴氏と改姓したのだ。
この一族は大伴古麻呂(橘奈良麻呂の変)、大伴継人(藤原種継暗殺事件)、
伴善男(応天門の変)と数々の事件を引き起こしている。
平安神宮応天門
平安神宮応天門(京都府京都市左京区)

平安神宮は平安遷都1100年を記念して
1895年に建てられた神社。
平安京朝堂院を模して構築されており
応天門は当時のものを
約3分の2に縮めて復元。
程なく源信も死去。伴氏、清和源氏らの競争相手は消えていき
藤原氏の独走体制は磐石のものとなった。
872年に良房が死去した後も藤原基経(ふじわらのもとつね)が摂政を継承。
基経は妹・高子(こうし)を清和天皇に嫁がせ
その間に産まれた陽成天皇の摂政として政治をみたのである。
娘を天皇の妃にし、産まれた幼帝の摂政として
政治を執り行う事で藤原氏の繁栄は築かれた。
その幼帝が成人した後は関白の職に就いて引き続き政権を掌握していったため
こうした藤原氏の政治体制を「摂関政治(せっかんせいじ)」と呼ぶ。
摂関家にはあらゆる権力が集中、朝廷の中心となっていき
天皇の位も意のままに操れるようになっていく。
基経はそりの合わない陽成天皇を884年に退位させ、
55歳という(当時としては)老齢の光孝天皇を皇位に就ける。
基経の独走はもはや誰も止める事ができなかった。
なお応天門は良房死去の前年、871年に再建されている。

摂関政治の開始

摂関政治の開始 (赤字は女性)
―は親子関係 は養子関係 =は婚姻関係 数字は皇位継承順




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