最澄と空海

平安初期の仏教は、2人の天才によって語られる。
1人は天台宗の開祖である最澄(さいちょう)
もう1人は真言宗を開いた空海(くうかい)である。
中国へ渡り学識を修めてきた両者は、単なる一僧侶ではなく
哲学や科学といった万物の真理を極めた当代一流の知識人であり
仏教史のみならずその後の日本史に大きな影響を与えたのは言うまでもない。
奈良時代に発生した南都六宗(三論・成実・法相・倶舎・律・華厳)に代わる
平安の新宗派はどのようなものであったのか。


最澄の生い立ち 〜 天台宗の成立
766年(767年とも)、近江国(現在の滋賀県)に生まれた最澄は
14歳で出家、788年には馴染み深い琵琶湖を望む比叡山に寺を開いた。
当初は比叡山寺と呼ばれたこの寺こそ後の延暦寺である。
桓武天皇は平安遷都の折り比叡山寺に行幸、最澄との交流を深めた。
学識ばかりを追求し、果ては政界に介入する従来の南都六宗に懸念を抱いた最澄は
法華経の真理こそ仏道の根本、広く万民に安らぎを与える事こそ肝心と考えていたが
この考えに賛同した桓武帝は、唐で学びたい最澄の願いを聞き届け
留学僧として渡海する事を許可した。
かくして804年、第18回遣唐使の一行に加わった最澄は
法華経の研究が最も進んでいると言われた天台山へ向かう。
現在の浙江省寧波(ニンポー)郊外にある天台山は標高1094m、山岳仏教の名山で
この寺に集う僧侶はみな法華経の教えを学ぶ者ばかりであった。
はるばる日本から来た最澄を住職の行満(ぎょうまん)らは温かく迎え
法華経の教えを総て伝授したのである。翌805年、天台山での学習を終えた最澄は帰国。
806年、桓武帝に認められ比叡山延暦寺は独立宗派・天台宗となる。

空海の生い立ち 〜 真言宗の成立
もう1人の天才、空海は774年に讃岐国(現在の香川県)で誕生。
幼名は真魚(まお)といい、15歳で長岡京へ上り
18歳で大学(現在の総合大学とは違い、中央官吏養成機関である)に入学。
しかしここでの儒学思想や役人としての教育に疑問を持ち退学、
万物の真理を求め出家し修行の旅に出たのであった。諸国を放浪した末、
和泉国の槇尾山寺(まきおさんじ、現在の大阪府和泉市にある施福(しふく)寺)に身を寄せ
住職の勤操(ごんそう)を師と仰ぎ仏法の研究に没頭した。
ある日空海は大日経の経典と巡り合う。
この経典は宇宙の生命と人間の生命は一体であるとした大日如来の教えを説いたもので、
これこそ空海が探し求めていた宇宙の真理であったが
その系統的な教えは日本に伝わっておらず、
深意を極めるには唐で密教を学ぶ必要があった。
かくして804年、最澄と同じく第18回遣唐使船に乗船し唐の都・長安へ赴いた空海は
青龍寺に滞在し住職の恵果(けいか)から密教の秘法を伝授されたのである。
水を得た魚のように真言密教の極意を修めたこの天才僧侶は
20年の留学期間をわずか2年にして成し遂げ806年に日本へ帰国。
さらに諸国の寺を訪ね周り、真言の教えを追求していった。

天才の交流と決別 〜 伝教大師と弘法大師
809年、高尾山寺(たかおさんじ、現在の神護寺)に滞在する空海の元へ
最澄からの手紙が届く。曰く、密教の経典を閲覧したいとの願出であった。
空海はこの願いを快諾し、両者の交友が始まった。
812年には結縁灌頂(けちえんかんじょう、密教入門儀式)を行い
最澄が真言密教の教えを受けたのを始め、一番弟子の泰範(たいはん)を空海に預け
真言宗と天台宗の交流を深めようとした。
一方空海は810年に国家鎮護の修法を執り行うなど精力的に活動、
嵯峨天皇の信任を受けると共に南都仏教界からも注目を集めていた。
ところが813年、理趣釈経(りしゅしゃくきょう)を貸して欲しいという最澄に対し
空海はこれを退けた。最澄は経典を読むばかりであったが
密教を修めるには行法も学ばねばならないからである。
さらに816年、比叡山に帰るよう命じた最澄と別れ
泰範は空海の元に残る事を選ぶ。以来、最澄と空海の縁は離れていった。
経典の貸出しを断られ、愛弟子にも去られた最澄は
その嘆きを振り払うように天台の教義を深める事に没頭していく。
他方、空海といえば816年に嵯峨天皇から高野山の地を与えられ
ここに金剛峰寺を建立し真言宗の本拠とした。また821年には
讃岐国にある満濃池の改修工事を指揮。唐で学んできた空海は仏法のみならず
学識にも優れており、この灌漑用水池を整備する事など容易かったのである。
この工事で讃岐の農民は安定した水利を得る事が出来るようになった。
823年、嵯峨帝に平安京左京の入口にあたる東寺を与えられ教王護国寺と改称。
ここが真言密教で都を護る鎮護国家の砦とされた。
水不足の翌824年、京都神泉苑(しんせんえん)で雨乞いの儀式を行い見事に成功。
828年には綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)と呼ばれる民衆学校を設立、
空海の仏法とは常に民衆を護り民衆の為にある仏教であった。
教王護国寺(東寺)五重塔教王護国寺(東寺)五重塔(京都府京都市南区)
最澄は822年、空海は835年に没する。その死後、偉大な2人に朝廷から
伝教大師(最澄)・弘法大師(空海)の贈名が与えられた。
最澄の開いた天台宗は「法華経こそ仏教の根本」とした教えを説き、
仏の前では何人も平等であると唱えた。その思想は国家安泰のみならず
一人一人の民を救うものという性格を帯びており
やがて法然親鸞日蓮一遍ら鎌倉時代の名僧を生み出していく。
空海の真言宗は、真言密教の加持祈祷や即身成仏の考え方が
現世利益を追求する事に繋がり、平安貴族に広く支持された。
また、「宇宙は万物一体」とした考え方は一般民衆に理解しやすく
空海が民衆の為に公共事業を為し、修行の為に諸国を旅した事も
「弘法伝説」として数多くの民間伝承に残されるようになり
真言宗を世に広める一因となったのであった。
こうした平安仏教は従来の南都仏教に代わる新たな日本仏教の波となり、
その後の文化・社会などに大きな影響を与えていく事になった。

弘仁・貞観文化 〜 平安新仏教とそれに伴う芸術
建築
室生寺金堂・五重塔
彫刻
薬師寺僧形八幡神像
神護寺薬師如来像
神護寺法界虚空蔵像
元興寺薬師如来像
室生寺金堂釈迦如来像
室生寺弥勒堂釈迦如来像
観心寺如意輪観音像
法華寺十一面観音像
教王護国寺講堂五大明王像
絵画
神護寺両界曼荼羅
教王護国寺両界曼荼羅
園城寺不動明王像
書道
風信帖(空海筆)
伊都内親王願文(伝 橘逸勢筆)
光定戒牒(嵯峨天皇筆)
<三筆…空海・橘逸勢・嵯峨天皇>
漢詩集
凌雲集・文華秀麗集・経国集
性霊集(空海)
仏教著作
顕戒論(最澄)
三教指帰・十住心論(空海)
弘仁・貞観文化の代表例
「唐風文化」とも呼ばれるこの時代の文化は、その名の通り
遣唐使によってもたらされた中国の気風、
特に平安新仏教による影響を大きく受けている。
神護寺の法界虚空蔵像、東寺の五大明王像などの彫刻類や
同じく神護寺・東寺の両界曼荼羅といった絵画は
いわずもがな密教に基づく芸術品なので
最澄・空海によって唐から持ち込まれた文化であるし
現存する室生寺の金堂・五重塔は
こうした平安新仏教の志向を受けた山岳仏閣建築物と言える。
平安新仏教は己を高めるため人里離れた山地に篭り
密教の行法を研鑚する事を旨としたため
従来の平地に作られた寺とは異なる建築様式を生み出したのだ。
山地に寺を建てる場合は地形による制約が大きいため
伽藍配置なども南都の寺とは根本的に違い
堂塔も自由な位置で建設されるようになったのである。
最澄の著作「顕戒論(けんかいろん)」は、820年に記された天台理論の書で
大乗戒壇設立を主張し、山岳仏教の清浄を述べたもの。
一方、空海の著作「三教指帰(さんごうしいき、さんきょうしきとも)」は
儒教・道教・仏教の三教を比較したもので、797年の著作。
その空海に嵯峨天皇と橘逸勢(たちばなのはやなり)を加えた三名を
「三筆(さんぴつ)」と呼ぶ。この三名は美しい字を書く書道の達人で、
唐風の力強い文字を記した事で有名である。
書の名人である弘法大師(空海)が書き損じをした事が
「弘法も筆の誤り(どんな名人にも失敗はある)」という諺の由来であるが
三筆と敬われるほどの達人であるからこそ成立した逸話であろう。



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