蝦夷討伐

平安京で政治改革に着手した桓武天皇は
長年の課題となっていた蝦夷の平定に乗り出した。
東北地方を律令制度の下に組みこみ、朝廷の支配力強化を為す事が目的であった。
朝廷軍を率いる坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
蝦夷の猛将・阿弖流為(あてるい)の凄絶なる死闘が幕を明ける。


桓武天皇即位までの東北地方 〜 数度に渡る陸奥遠征
飛鳥時代に遡るが、658年に阿倍比羅夫の陸奥・粛慎遠征が行われたものの
東北地方はなかなか朝廷に従属しない状況が続いていた。
647年に渟足柵(ぬたりのき)、648年に磐舟柵(いわふねのき)が作られ(共に新潟県)
これが朝廷支配の及ぶ北限となっていたのである。
恐らく大化の改新頃の朝廷は「越(こし)の国」(越後国=新潟県)と
「毛野(けぬ)」(下野国=栃木県)までを領土としていたと見られており
陸奥国(福島県以北の東北地方)は全くの未開地帯であった。
比羅夫の遠征により徐々に領土を広げたが、それでも708年に出羽柵(山形県)設置
712年に出羽国(現在の秋田・山形県)の制定が為された程度で
平城京遷都の頃では現在の山形県・宮城県が朝廷領の限界であった。
奈良時代には活発に北伐が行われ、724年多賀城(宮城県)の築城、
733年秋田城築城、737年牡鹿柵(宮城県)設置、
758年桃生(もものう)城(宮城県)・雄勝城(秋田県)築城、
767年伊治(いじ)城(宮城県)築城が成った。
しかし追い詰められる蝦夷の抵抗もその分激しくなっており
実際には一進一退の状況が続いていたのである。

★この時代の城郭 ――― 東北の防衛拠点と政庁機能
上に記した「柵(き、さくと読む事もある)」とは、読んで字の如く国境線にある柵の事である。
また、その柵を守るための警備サイトを指す事もある。
これらは城とまでは言わないまでも、一定の軍事的機能を有する砦のような役割を果たしていた。
領土を分断し、来攻する敵の侵入を阻み、敵領を監視するための施設なのである。
日本の柵は木製の防御柵であったが、これを堅牢な城壁で作ったものが
中国の万里長城である、と言えば理解し易いであろう。
(ただし、万里長城が現在のような構造になったのは明王朝の時代である)
一方、秋田城や多賀城などの「城」は、兵士の駐屯・出撃基地となる
軍事拠点であると同時に、その地方の政庁となる政治拠点でもあった。
いやむしろ、この時代の城は籠城戦を意図していないため
政庁としての役割が主であったと見ても良い。
(籠城戦など、「城で戦う」のは鎌倉末期になってからである)
中でも多賀城は特に大規模なもので、1km四方の城域を高さ約5mの築地塀で囲い
その中には政庁・官庁・兵舎などが建てられていた。朝廷の最前線である多賀城は
この地方の政治・経済・文化の中心となっており、陸奥国府・陸奥鎮守府も兼ねていたのである。
地方施策・年貢の収納、兵士の駐屯・訓練場所という政軍一体の庁舎は
蝦夷征伐の巨大な根拠地とされ、重視されていたのである。

780年、蝦夷出身の伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)が反乱、
伊治城を落とされ、多賀城も炎上してしまう。朝廷は多賀城を奪還したが
依然として蝦夷平定は捗らない状況が続く中で桓武天皇が即位したのである。

勇者の対決 〜 坂上田村麻呂vs阿弖流為
788年、満を持して蝦夷討伐が開始された。5万もの大軍を送りこんだ朝廷側であったが
これを迎え撃ったのが蝦夷の猛将・阿弖流為である。阿弖流為の迎撃は凄まじく
朝廷の軍勢は散々に打ち負かされる有様であった。
蝦夷の民にしてみれば、自分で開墾した土地を自分で治めているだけの事であり
朝廷の支配は侵略・略奪に他ならず、死活問題として敢然たる抵抗を行ったのであった。
788年〜789年の第1回征伐が失敗に終わった事を受け、791年〜794年に第2回征伐が行われた。
この戦いでは朝廷側が優位に立ち、伊治城を回復。
前回を上回る10万もの軍勢を派遣した成果であった。
第2回派兵において、朝廷側副将軍として活躍した勇者が坂上田村麻呂である。
田村麻呂は類稀な剛の者であるのみならず、寛大で慈悲深き仁の者でもあった。
797年、有能な武官である田村麻呂は蝦夷討伐の為に新設された役職
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられる。すなわち、軍事の最高指揮権者であり
朝廷のあらゆる敵(夷)を征服する武門の棟梁になったのであった。
801年に行われた第3回遠征では、将軍となった田村麻呂の指揮下
朝廷軍は一致団結し戦い、阿弖流為との激闘の末に蝦夷の本拠地・胆沢(いさわ)の地を陥落させた。
翌802年、朝廷は胆沢城を築城、多賀城から陸奥鎮守府を移し東北支配を強固なものとする。
胆沢城跡胆沢城跡(岩手県水沢市)
これを見た阿弖流為は、武勇並ぶものなき田村麻呂に和議を申し出た。
慈愛の将・田村麻呂としても、無益な戦が避けられるのは願ってもない事であり
平安京に赴き朝廷側首脳との和平会談をするように阿弖流為へ提案した。
都へ登れば反乱軍の首領として処刑される危惧があったが、阿弖流為は田村麻呂を信頼して上洛。
ところが、田村麻呂の命乞いも虚しく、その懸念通り阿弖流為は討たれてしまう。
阿弖流為の武勇を惜しむ田村麻呂、田村麻呂の仁義を信じた阿弖流為、
両者の願いは聞き届けられなかったのであった。
朝廷の蝦夷討伐は811年に文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を征夷大将軍にして
行われた事が最後になるが、東北地方を安定した状態で治めるようになったのは
平安時代末期になってからであった。朝廷は征服した地域を律令制に編入し
徴税・労役を課したが、東北地方の民は度々これに反抗し乱を起こしたのである。
一方、悲劇の死を迎えた阿弖流為は伝説の英雄として語り継がれ
現代においても地域の自治独立と民衆の尊厳を訴えた指導者として賞賛されている。
朝廷の東北支配
朝廷の東北支配
線:大化の改新後における朝廷の支配地域
線:平城京遷都後における朝廷の支配地域
線:平安京遷都後における朝廷の支配地域

桓武天皇の政治 〜 すべては民のために
桓武天皇が目指した治世方針は、蝦夷の早期従属による政権安定化と
新都造営などの政治刷新、それに官僚の不正・無駄を廃する事にあり
何よりも民心を安定させる事が最終目標であった。
このため、上記の通り3度に渡る大規模な蝦夷征伐が行われたほか
797年に勘解由使(かげゆし)の役職を新設し、国司交替の際に不正や紛争が起きないよう
解由状(げゆじょう、引継文書)の審査監督を行うようにしたのであった。
また、健児(こんでい)の制を実施し、辺要地以外の軍団を廃止し軍縮を図り
貧農の民を兵役免除としたのである。その他にも畿内の班田収授を改編し
農民の保護と税収の安定を目指した。桓武天皇のこうした施策は一定の効果を示したが、
次第に蝦夷討伐や新都造営工事そのものが民の負担となっていってしまったのである。
805年、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の献策を要れ
軍事(征夷)と造作(建都)の中止を決定。民のための施策が民の負担となるならば
それを切り捨てるのもやむを得ないとする苦渋の決断であった。
律令制の立て直しと民心の安寧を願い続けた桓武天皇はその翌年、806年にこの世を去る。
皮肉にも、その政治姿勢の努力が結果として現れてくるのは
桓武帝の没後、平城天皇嵯峨天皇の時代になってからであった。



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