★この時代の城郭 ――― 東北の防衛拠点と政庁機能
上に記した「柵(き、さくと読む事もある)」とは、読んで字の如く国境線にある柵の事である。
また、その柵を守るための警備サイトを指す事もある。
これらは城とまでは言わないまでも、一定の軍事的機能を有する砦のような役割を果たしていた。
領土を分断し、来攻する敵の侵入を阻み、敵領を監視するための施設なのである。
日本の柵は木製の防御柵であったが、これを堅牢な城壁で作ったものが
中国の万里長城である、と言えば理解し易いであろう。
(ただし、万里長城が現在のような構造になったのは明王朝の時代である)
一方、秋田城や多賀城などの「城」は、兵士の駐屯・出撃基地となる
軍事拠点であると同時に、その地方の政庁となる政治拠点でもあった。
いやむしろ、この時代の城は籠城戦を意図していないため
政庁としての役割が主であったと見ても良い。
(籠城戦など、「城で戦う」のは鎌倉末期になってからである)
中でも多賀城は特に大規模なもので、1km四方の城域を高さ約5mの築地塀で囲い
その中には政庁・官庁・兵舎などが建てられていた。朝廷の最前線である多賀城は
この地方の政治・経済・文化の中心となっており、陸奥国府・陸奥鎮守府も兼ねていたのである。
地方施策・年貢の収納、兵士の駐屯・訓練場所という政軍一体の庁舎は
蝦夷征伐の巨大な根拠地とされ、重視されていたのである。
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