化政文化

政治においては享保の改革〜田沼時代〜寛政の改革、
外交においては蝦夷地の確保とロシアの南下、といった具合に
一つの事象が次の事象へとリンクする事が多かったこの時代、
学問においてもまた然り、蘭学の発展は大きな意味を持ってくる。
加えて、政治の退廃は人々の生活をも左右し
この時代の文化に大きな影響を及ぼした。
文化・文政期に爛熟した文化、化政文化の解説。



★この時代の城郭 ――― 江戸時代の再建天守
長らく平穏な時代が続いた江戸幕府の治世。18世紀に入り、外国勢力が日本の
近海に現れ、海防の必要性が問題になりつつあったものの、それでも国内は
太平の世を謳歌していた。一国一城令の制限下で残された城郭の中には火事や
災害で建造物が滅失されたものがあったが、もはや戦乱の世は遠い昔の話。
復旧は最小限、領国統治に関わる政務役所などに限定されていた。特に
天守などは無用の長物。いまさら大名の威光を喧伝する必要はないし、いわんや
軍事的な物見としての利用目的を確保するなど、幕府に対する謀反を疑われ
あらぬ災厄を引き起こすだけなので、天守の再建を見送る大名は多かった。
武家諸法度の明文に拠れば、城郭の修理は石垣や土塁といった“普請”の部分だけ
届出が必要とされ、建物関連の“作事”に関しては申請不要とされていたが、
それでも、幕府の意向を伺い遠慮するのが通例となっていた。
とは言え、一国一城の主ならば勇壮な天守が欲しいと思うのも武士の心情。
幕府に願い出て、正式な許可を貰って何とか天守の再建を目指そうという大名も
居たのが真実である。ほとんど許可が下りなかったようではあるが、交渉上手に
幕府から再建を認められた稀有な例も存在している。津軽氏の弘前城(三重櫓)
山内氏の高知城、紀伊徳川氏の和歌山城などだ。
築城当初、弘前城には5重天守が上げられていた。しかし1627年に落雷で焼失。
以来、長らく天守の無いまま時は過ぎ、幕府の許可もなかなか貰えなかったが
1810年にようやく本丸東南隅櫓を改装して天守代用の3重櫓とする事ができた。
しかし幕府をはばかり控えめな改造に留めたため、本丸外面に当たる東面・南面に
だけ破風を上げ、本丸内面の北面・西面には全く装飾の無い外観になっている。
無論、5重天守など許可されるはずがなかった。
高知城も1727年に城下町の大火が城にまで類焼、天守を失った。再建するまでに
20年の歳月をかけ1747年に復興したが、新式の層塔型天守での再建ではなく、
古式な望楼型天守のままで建て直す事になったのだった。同様に和歌山城も
1846年に焼亡、御三家の面目にかけて5重天守での再建を目指したが果たせず、
結局3重天守として1850年に再築したのである。
いずれの事例も、武家諸法度の特例として天守再建が認められたものだが
従前の天守よりも縮小したり、古式な形態での再建に留まっている。幕府の手前
(徳川一門である紀伊藩であっても)大々的な再建は不可能な話で、層塔型
5重天守という“最新式の大型天守”など望むべくもなかった。天守復元の紆余曲折を
知ると、当時の社会状況や政治力学が垣間見えるのである。
高知城天守高知城天守(高知県高知市)


国学の発展 〜 本居宣長の熱意
国学と言う学問がある。西洋科学を吸収しようとする蘭学や、中国の儒教理論を
応用し幕府が士農工商の統治理論に据えた朱子学などとは異なり、日本古来の
宗教観・伝統・習俗・国文学をまとめ、独自の史観や文化・思想を形成する学問だ。
儒教的な「建前」を大事にする朱子学の批判や、仏教的(遡れば異国の宗教である)
道徳観を打破する事から始まった国学は、17世紀中期に下河辺長流(しもこうべ
ちょうりゅう)契沖(けいちゅう)が行った万葉集研究に端を発する。契沖は
成果を著書の「万葉代匠記(まんようだいしょうき)」にまとめた。一方、18世紀に入ると
神道の立場から荷田春満(かだのあずままろ)が復古神道を提唱。国学は様々な流れを
紡ぎ出したのだが、これを集約・体系化したのが賀茂真淵(かものまぶち)であった。
春満に学び、万葉集研究に打ち込んだ真淵は古典研究を通じて日本人の精神性を
研究。成果は「国意考(こくいこう)」「万葉考」などの著書になった。
さらにこの時期、伊勢国松坂で独自に国学を修める者がいた。鈴屋(すずのや)という
書斎に籠もり、古事記研究に一生を捧げた本居宣長(もとおりのりなが)である。
医師であった宣長は医学を学ぶ傍ら、自身の情熱は古典に傾倒していき「日本書紀」
「源氏物語」といった書物を研究。1763年5月25日、旅の途中で松坂に逗留した
賀茂真淵の宿を訪ね国学の真意を教わった宣長は、ますます古典研究に開眼し
遂に国学の大成者となった。なお、宣長が真淵に会ったのは後にも先にもこの日だけ。
しかしその日より真淵の弟子となった宣長は、手紙を通じて疑問や自分の考えを
師・真淵にぶつけて研鑽。遂には「源氏物語玉の小櫛(たまのおぐし)」といった
源氏物語の注釈書、随筆「玉勝間(たまかつま)」、古事記研究の集大成である
「古事記伝(こじきでん)」といった書物を著し、自身の考えを世に示した。
曰く、日本人の情緒は古典文学に示される「もののあはれ」という言葉に代表される
自然崇拝や高尚なる精神性に裏打ちされるもので、規律主義に縛られる朱子学や
仏法とは本質的に異なるとするもの。国学とは、古代日本から連綿と続く自然への
礼賛や民俗の豊かな表現性を讃える高い文化性を信奉したものだった。
なお、宣長の死後平田篤胤(ひらたあつたね)は国学の理想と神道の融合を図り
「平田神道」という独自の学説・宗教観を打ち立てた。国学における天才4人、即ち
荷田春満・賀茂真淵・本居宣長そして平田篤胤を「国学の四大人(うし)」と呼ぶが
一方で復古神道がやがて後世の国粋主義や皇国史観へと繋がっていく。
本居宣長旧宅
本居宣長旧宅(三重県松阪市)

宣長が居宅を兼ねていた学庵。
瞑想に耽る宣長は、他人に邪魔されぬよう
二階の書斎「鈴屋」に上がっては
階段を外してしまい、下から誰も
入れないようにしてしまう事が
しばしばあったという。「鈴屋」の名は、
研究の疲れを癒すため宣長が好んで
鈴を取り付けて鳴らした事による。

江戸時代の教育 〜 藩学の隆盛と幕府学校の変遷
江戸時代の庶民教育と言えば寺子屋、というのは皆さんよくご存知であろう。町人の子に
読み書きの手習いを教える民間塾のようなものである。しかし農業に従事する者たちは
こうした勉学をする暇もなく日々の仕事に追われていた訳であり、また、町人の中でも
富裕層と貧困層の間には格差があった。加えて言えば、国により寺子屋の設置状況に
大きな隔たりがあり、例えば江戸を含む武蔵国や毛利氏が支配する周防国、細川氏の
肥後国などは極端に設置数が多く、逆に駿河国や越後国などは大きな面積を有するにも
拘らず寺子屋の数が少ない。全体的に見ると西国に多く東国に少ない“西高東低”の
傾向にあったが、伊達氏の支配地域や会津藩などは東国の中でも特筆して数が多かった。
また、注目すべきは信濃国で、農業国であるのに寺子屋の設置数が全国で最も多く
就学に熱心だった事が伺える。兎にも角にも、寺子屋の勃興は庶民の識字率を向上させた。
次に武士の教育について考えてみたい。
江戸前期、池田光政が閑谷学校や花畠教場を設置した事は既に記したが、江戸時代も
中期〜後期を迎えると、こうした学校は全国に広がっていく。各地の藩学を挙げれば
キリがないが、代表的なものを紹介すると熊本の時習館(じしゅうかん)・秋田の明徳館・
米沢の興譲館(こうじょうかん)・会津の日新館などがある。なお、時習館を設置したのは
細川重賢、興譲館は上杉治憲。また、明徳館は佐竹義和によって開かれた。寛政藩政
改革の折に解説した3人の賢君である。学問を奨励するのも太守に必要な素養という事か。
そんな中、美濃国岩村藩に置かれたのが知新館。知新館出身者には逸材が多く、その中に
才を買われて幕府大学頭である林家の養子に入った者がいる。林述斎(じゅっさい)だ。
林家私塾であった孔子廟は元禄期に湯島聖堂として幕府公設の学問所になっていたが
1790年、松平定信が寛政の改革において寛政異学の禁を申し渡した後に政治の表舞台を
去った経緯を経て、湯島学問所も改変の必要に迫られた。述斎はこの状況の下、1797年
組織を改めて昌平坂学問所とする。幕府による学問所はこの後に次々と変革。洋書を
取り扱う蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)や医術の研究所である種痘所などが置かれ
それらが最終的に集約され、後の東京大学へと連なっていくのである。

官立学校の系譜

官立学校の系譜

シーボルト事件 〜 来日外国人の栄光と挫折
話は少々変わって…。1823年7月、一人の外国人が来日した。彼の名はフィリップ=
フランツ=フォン=シーボルト。ドイツ人医師である。当時の日本は、西洋諸国の
中ではオランダとだけ国交を結んでいたため、シーボルトはオランダ人と偽って入国。
医療先進国であったドイツの知識をいかんなく発揮した彼は、出島の中だけでなく
長崎の郊外に鳴滝塾(なるたきじゅく)という居館兼医療所を開設する事を許され
広く日本人の治療に当たった。程なく、鳴滝塾の噂は日本中に広まり、蘭学の志ある
者たちが全国から集まり、彼から医術や科学を学ぶようになったのである。
この後シーボルトは江戸へも出府。時の将軍・家斉に拝謁した上、江戸に居る日本人
学者との交流も広げた。例を挙げれば、蝦夷地探検を行った最上徳内や幕府天文方
高橋景保(かげやす、至時の子などである。景保は大日本沿海輿地全図の縮図を
シーボルトに見せ、彼の蔵書であったクルゼンシュテルン(ロシア海軍探検家)が著した
「世界周航記」と交換。互いに学術の見識を深めようという学者同士の連帯感が
為した事である。しかし、これが悲劇の引き金となった。
長崎へ戻ったシーボルトは1828年3月、間宮林蔵にも贈物を送付。樺太が島である事を
発見した偉大なる冒険者との誼を通じようとしたものだ。しかし、当時の日本は鎖国中。
異人との物品交換は禁止されており、林蔵は開封せず幕府へ届け出た。これを契機に
幕府はシーボルトの行動を怪しみ、高橋景保に対しても捜査を行う。その結果、帰国
準備中であったシーボルトの荷物から国禁の大日本沿海輿地図(景保が渡した物)が
発見され、彼は異国のスパイではないかと言う疑念が高まった。結局、景保は禁を
犯した事で捕らえられ獄死。シーボルトは翌1829年に国外追放の処分を受けた。これを
シーボルト事件という。鳴滝塾で日本人に蘭学を教授した功績は大きかったが、彼の
顛末は鎖国中であった日本に暗い影を落としてしまったのである。

化政文化 〜 江戸中心、庶民の退廃的文化
文化(1804年〜1818年)・文政(1818年〜1830年)期を中心とし、江戸時代後期に
栄えた文化は、両方の元号を併せて化政(かせい)文化と呼ばれる。元禄文化が
大坂の大商人を担い手とした豪華な文化だったのに対し、化政文化は江戸の庶民を
中心とした退廃的な文化と特徴付けられる。国学や蘭学が隆盛し、専門的学問は
とことん特化する傾向にありながら、庶民の娯楽や文芸は当時の政治状況や社会
情勢を風刺したもので、時代の閉塞感が伝わってくる。と同時に、西洋からの技法を
取り入れた洋画なども描かれるようになり、混沌とした世情が浮き彫りになっている。
文学
黄表紙
金々先生栄花夢(恋川春町)
江戸生艶気樺焼(山東京伝)
洒落本
仕懸文庫(山東京伝)
滑稽本
東海道中膝栗毛(十返舎一九)
浮世風呂・浮世床(式亭三馬)
人情本
春色梅児誉美(為永春水)
読本
南総里見八犬伝(滝沢馬琴)
雨月物語(上田秋成)
脚本
仮名手本忠臣蔵(竹田出雲)
東海道四谷怪談(鶴屋南北)
本朝廿四孝(近松半二)
合巻
偐紫田舎源氏(柳亭種彦)
俳諧
おらが春(小林一茶)
蕪村七部集(与謝蕪村)
川柳
誹風柳多留(柄井川柳ら)
絵画
浮世絵
ささやき・弾琴美人(鈴木春信)
婦女人相十品(喜多川歌麿)
市川鰕蔵(東洲斎写楽)
東海道五十三次(歌川(安藤)広重)
富嶽三十六景(葛飾北斎)
写生画
保津川図屏風・雪松図屏風(円山応挙)
文人画
十便十宜図(与謝蕪村・池大雅)
鷹見泉石像(渡辺崋山)
西洋画
西洋婦人図(平賀源内)
不忍池図(司馬江漢)
化政文化の代表例
寛政の改革で弾圧を受けた山東京伝は洒落本(戯作文学)から黄表紙(風俗絵本)へと
作風を転換。しかし、こうした流れは新たな文芸の波を生み出し、野次喜多道中で有名な
東海道中膝栗毛を記した十返舎一九(じっぺんしゃいっく)や人情本(退廃的恋愛文学)の
為永春水(ためながしゅんすい)らが登場。一方、読本(伝奇小説)の世界では南総里見
八犬伝の滝沢馬琴(たきざわばきん)や雨月物語の上田秋成(うえだあきなり)らが
大活躍。江戸の庶民に読書という娯楽が花開く。他方、俳諧では庶民の苦労や生活風景を
飾り気なしに描いた小林一茶(こばやしいっさ)与謝蕪村(よさぶそん)が腕を競う。
その蕪村は絵画の世界でも活躍、十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)を池大雅(いけの
たいが)らと共作している。が、この時代の絵画で最も重要なのは浮世絵の大成であろう。
平賀源内と同じ長屋に住んでいた鈴木春信(すずきはるのぶ)は多色刷版画である
錦絵(にしきえ)を考案、これがきっかけで浮世絵が爆発的に刷られるようになり、美人画の
喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、役者絵の東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
風景画の葛飾北斎(かつしかほくさい)歌川(安藤)広重らが一世を風靡した。
特に北斎や広重の技法は西洋の芸術文化にまで影響を及ぼしたほどである。
とは言え、西洋画の技術が日本へ入ってきたのもこの時期で、日本人画家の中にも
西洋画に食指を動かす者がいた。何をするにも天才の平賀源内が西洋婦人図を描き、
司馬江漢(しばこうかん)は上野不忍池を描いた銅版画で遠近法を使用。従来の
日本絵画とは明らかに違う世界を作り上げている。
日本画の中でも大きな変化の時を迎えたのが化政文化。円山応挙(まるやまおうきょ)
狩野派の画法をベースにしつつ遠近法や陰影法を学んで客観的な写生画を描き出す。
開明派の俊才・渡辺崋山(わたなべかざん)は日本古来の線画と西洋風の陰影法を
独自に融合させた鋭い技法を確立、下総国古河藩の家老にして崋山同様の知識人として
知られた鷹見泉石(たかみせんせき)の画像などを残している。
この他、社会思想の分野では武士も積極的に商業を活用して藩財政の建て直しを図る
べきとする海保青陵(かいほせいりょう)・倹約と貯蓄から発展させる生産性で、荒廃した
農村の建て直しに辣腕を振るった二宮尊徳(にのみやそんとく)・源平の合戦から徳川
幕府へ至る武家政権の盛衰を記した「日本外史」を通じて尊王論を展開した陽明学者
頼山陽(らいさんよう)などが登場したのもこの時代である。退廃的文化の中ではあったが
こうした社会思想の爛熟は次なる世の中を生み出す原動力になっていく。

大塩平八郎の乱(1) 〜 救民の学者、世を嘆く
1830年代、庶民の不安感・閉塞感はピークに達していた。それまでの問屋制家内工業から
工場制手工業(マニュファクチュア)へと進化した工業生産は分業制を生み出し、
生産性の向上と引き換えに、職人の単純労働化・人員の“部品化”が加速。こうした
労働の抑圧に加え、政治の停滞、噂として囁かれる外国勢力の足音、文化の退廃は
伊勢御蔭参りなどの大ブームを生み出し、水面下に隠れた庶民の抑圧感を表していく。
そこにやってきたのが天保の大飢饉。1833年から1839年まで続いた大凶作は多数の
餓死者を出し、特に農村の惨状は目を覆わんばかり。一揆や打ちこわしも頻発していた。
こうした中、11代将軍・家斉が隠居し嫡男の家慶(いえよし)が12代将軍に就任する。
将軍宣下に先立つ1836年、時の老中・水野忠邦(ただくに)は式典準備と江戸の米価
安定のため、大坂東町奉行の跡部良弼(あとべよしすけ、忠邦の実弟に命じて大坂の
蔵米を江戸へ回す手配を行った。しかし、これでは大坂の民が米に困窮する。その事態を
危惧したのが大塩平八郎(おおしおへいはちろう)格之助(かくのすけ)親子である。
平八郎は1832年に没した頼山陽の弟子にして、この当時随一の陽明学者。元々は町与力で
既に隠居した身ではあったが、知行合一(学識は行いに一致せねばならない)を旨とする
陽明学の立場から、世の乱れを正すため行動を起こそうとしていた。その息子・格之助は
現役の町与力、即ち跡部の配下である。父の意思を叶えんが為、格之助は跡部に江戸廻米を
中止するよう進言した。しかし、跡部はこれを拒絶した。
政治が困窮する民を救わぬのなら、自身が行わなくてはならない。そう決意した平八郎は
自分と洗心洞(せんしんどう、平八郎が開いていた陽明学の私塾)に通う門人の俸禄を担保に
大坂屈指の豪商・鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)に1万両の借金を依頼。その金で
米を買い入れ、貧しい民に分け与えようとした。しかし、1万両は流石に桁違いの大金。
善右衛門は町奉行に判断を仰いだ。これに対して、跡部はまたもや拒絶の回答。
事ここに至り、大塩は政治の無力・無慈悲に憤怒し、蜂起する決意を固めた。

大塩平八郎の乱(2) 〜 天下の台所・大坂を揺るがす反乱
年が明けた1837年、平八郎は蔵書5万冊を処分、本屋の河内屋に売却した。代金は600両。
その金は河内屋に預けたままとし、生活に困った農民に1朱ずつ分配するよう手配する。
一方で平八郎一党は武器を買い集め軍事教練を実施、2月19日の夕刻に決起する予定とした。
この日は東西町奉行が市中見回りを行い、天満(てんま、大阪府大阪市北区にある地名)で
休息する事になっており、それを襲撃するつもりであった。ところが前日の夜、企みが露見。
一刻の猶予もなくなった平八郎らは、予定を繰り上げて19日早朝に行動を起こした。
奉行所や与力役宅らを襲撃し放火、さらに北船場(きたせんば、大坂の豪商街)へと進撃し
大規模な破壊活動を行ったのである。河内屋から金を受け取り、平八郎の情けを受けた
農民らがこの様子をみて蜂起に加わり、大塩勢は300にも膨らむ。迎撃に出た西町奉行
堀利堅(ほりとしかた)は為す術なく敗退。余勢を買って大塩勢は暴利を貪る商家を
次々と打ち壊していく。ところがここで跡部率いる東町奉行の軍勢が来襲、大塩勢を
押し戻した。結局、反乱は失敗に終わり参加者は捕縛されたり自害する憂き目を見る。
逃亡した大塩親子も、最後には自害して果てた。しかし結果として失敗とは言え、大坂
市街地における5分の1を焦土にしたこの大乱を大塩平八郎の乱と言い、幕府直轄地たる
天下の台所を揺るがした大事件として時代の行き詰まりを明示したのである。そのため、
政治の無力を痛感していた全国の有志は大塩に続いて次々と蜂起、各地で一揆や
打ちこわしが続発する。中でも同年6月に越後国柏崎(新潟県柏崎市)で起きた
生田万(いくたよろず)の乱は最たるもので、国学を修めた学者であった生田万が
大塩同様に救民の志を掲げて柏崎代官所を襲撃したのである。これら騒動の頻発は
幕府治世の衰退、政治経済の混乱に基づいたものであったため、幕府は新たなる改革を
迫られる事になった。




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