蝦夷地の時代

江戸時代まで、日本の領土として統治されていたのは
蝦夷地のごく南部、現在の北海道檜山支庁付近までであった。
かの地は寒冷地で米が取れず、希少な特産品を得るのと
海上通商の要地として用いられた港湾を活用した
交易利潤が主な収入であった。しかし、海も陸も
遥かに北へと続いている。果たして先には何があるのか?
対外情勢緊迫の度を深める時代、荒涼の地に挑む男たちが現れた。


松前氏の登場 〜 北で戦国を生き延びた大名の歴史
さてここで大きく時代を巻き戻し、室町時代に遡ってみよう。
続縄文時代から擦文(さつもん)時代に続き、アイヌ文化の栄えるようになった蝦夷地。
しかし阿倍比羅夫の粛慎遠征、平安末期の安倍(安東)氏による入植を経て、室町
時代になると渡島半島南西部に道南十二館をはじめとする和人の拠点が築かれた。
こうした城館を拠点とし、和人の蝦夷地支配は徐々に進行していく。が、軍事力を
背景にした高圧的支配に反感を抱くアイヌの民は時に反発する事もあり、1457年
アイヌの指導者コシャマインを中心とした大乱が勃発する。アイヌ軍は勢いを得て
和人の拠点を次々と陥落させ、道南十二館のうち10箇所までもが落とされた。
かろうじて残ったのは茂別館と花沢館。されど、和人全滅の危機を救ったのは花沢館の
近隣に位置する勝山館(道南十二館には含まれない)の主・武田信広であった。
信広の出自は若狭国(現在の福井県西部)守護武田氏。もちろん、清和源氏の流れを
汲むあの武田氏で、甲斐国(山梨県)の戦国大名・武田信玄と同じ一門である。信広は
日本海交易で縁深かった安東氏に招聘され蝦夷地に赴いたと言われ、花沢館の主で
蝦夷地支配のリーダー格にあった蛎崎季繁(かきざきすえしげ)の客将になっていた。
武門の名家に相応しく、彼は計略を以ってコシャマインを討ち取り乱を平定する。
この功績を喜んだ季繁は、信広を養子に迎え入れた。斯くして、コシャマインの乱
平定という武威と、蛎崎氏の門跡を備えた信広は蝦夷地における和人の首領として
支配権を確立していく。その影響力は遠く樺太にまで及んだと言うが、これは現実的に
どこまで信用できるかは難しいだろう。ともあれ、蛎崎氏による道南支配はアイヌとの
紛争を交えつつも着実に進み、安東氏被官であった立場も次第に脱し独立領主としての
色合いを強めていく。そして戦国時代終盤、蛎崎慶広(よしひろ)は豊臣秀吉に
“夷嶋(えぞがしま、蝦夷地の意味)之主”と認定され、大名の地位を得たのである。
卓越した政治力を持つ慶広は、関ヶ原合戦直前の1599年に徳川家康と誼を通じ、姓を
松前に改める。松前の松は松平(徳川氏の旧姓)、前は前田(加賀百万石太守)から
採ったもので、かつて秀吉が羽柴(織田家家老の丹羽家・柴田家から拝領)姓を
名乗ったのと同じく、天下双璧の徳川家・前田家にあやかったのであった。これが
(中断期はあるものの)幕末まで蝦夷地に根を張った松前氏の始まりである。

★この時代の城郭 ――― アイヌの「チャシ」
琉球のグスクが本土の城郭と異なる性格・歴史を有したのと同様、アイヌ民族が
独自の発展を為した城址をチャシと言う。その定義としては、一般に16世紀から
18世紀にかけて用いられたものを指し、史上特に有名なものはコシャマインの乱で
使われたものや後述するシャクシャインの乱で登場するものだ。
「チャシ」とは当然アイヌ語、「城」「砦」といった意味で使われる単語だが本来的には
「柵・柵囲い」といったものが起源。だが、チャシの存在は単にそのような戦闘的
施設としてだけではなく、堀や切岸で周囲と明確に区分された特別な敷地たる
「祭祀の場」「談合の場」「見張り場」としての意味合いを持つ。この点、琉球の
グスクと通じるものがなくもない。また、北海道らしい特有の利用法として、川岸や
海岸沿いに設置し「鮭漁の拠点」とする場合もあったようだ。
チャシは全道に約530を数えるが、特に釧路・根室・十勝・日高周辺に多い。
ほとんどのチャシは丘陵を利用した立地で、起伏を基にして平場を拓き、その周囲を
切岸で隔絶し地形効果を出す構造。本州や琉球の城とは異なり、石垣は使わない。
チャシの築かれた場所に関連し、現在は便宜的に4つの形式に分類されている。
1.丘先式 岬や丘の先端部に占位するもの
2.面崖式 崖に面する台地に占位するもの
3.丘頂式 丘の頂部に築造するもの
4.孤島式 平地に孤立し、まるで島が浮くような立地にあるもの
孤島式は実際に湖の中の島をそのまま利用する場合もあった。こうしたチャシは
歴史的起源を遡れば祭祀の場として成立したのが始まりのようだが、いつしか
アイヌの政治的談合の場、そして戦闘要塞へと発展し、和人との戦いにおいて
防衛拠点として活用されていったのである。


和人の蝦夷地支配 〜 アイヌに対する差別的交易
1605年、松前慶広は徳川家康からアイヌ交易独占権を公認する黒印状を発給された。
これに伴い、松前氏は1万石(後に3万石)の大名として公認され、その所領である
檜山地方南部は松前藩領になった。しかし、極寒の地である松前藩領は米の生育が
できないため、1万石という石高は大名としての家格を測るための指針に過ぎない。
松前藩はアイヌとの交易により蝦夷地の特産品を入手し、それを廻船により全国へ
流通させる事で藩の経営を成り立たせていたのである。具体的に言えば、藩領内の
知行地は商場(あきないば)とされて家臣に分知され、そこに廻船を着けさせて交易
利潤を上げさせる方法が取られた。このため、アイヌから得られる産物をいかに
効率よく、独占的に入手するかが問題となってくる。よって、松前藩は和人地と
蝦夷地(ここでは、アイヌ人居住地を指す)の往来を厳しく制限すると共に
(以前はアイヌが直接本州へ出向き交易を行う事もあった)搾取にも近い手法により
アイヌの物品を調達していく。
戦国期から続けられたアイヌとの交易は、本州から回された米をアイヌに分け与え、
その代わりにアイヌが狩猟した動物の毛皮や海産物などを物々交換で得ていたのだが、
江戸期になると和人地における不漁分を補填するため出稼ぎと称して和人が直接
蝦夷地に出向いて漁を行ったり(=アイヌ漁場における乱獲)、物々交換のレートを
作為的に操って暴利を貪るものであった。何より、アイヌにしてみればそれまで比較的
自由に行われていた交易が松前藩による一方的で排他的な交易に限定されたため
日々の暮らしは困窮する一方であった。

シャクシャインの乱 〜 乱後、松前藩による強権的支配体制の確立
当然、アイヌ側では不満が募り、1669年に日高地方の首長・シャクシャインを中心に
全道で一斉蜂起に及んだ。蝦夷地最大の乱と言われるシャクシャインの乱だ。当初、
アイヌの進軍が早く各地で和人は敗退している。しかし、松前藩が部隊を編成し派兵、
さらに幕府への応援要請に伴う弘前藩・秋田藩・盛岡藩の援軍が到着した事で戦局は
逆転。もともと、弓や農具を主体としたアイヌの武装に対し、和人は鉄砲を使用した為
乱の平定は時間の問題であった。とは言え、シャクシャインの指導力は強大であり、
地の利もアイヌ側に有利であったため、松前藩は早期の反乱終結を迫られていた。
このため、和睦と見せかけてシャクシャインをおびき出し酒宴の席上で謀殺する。
有力指導者を亡くしたアイヌは一気に弱体化し、乱の平定に漕ぎ付けただけでなく
その後も松前藩による強権的アイヌ支配が本格化していった。アイヌ部族同士による
政治的連合は頓挫、商場知行制はより一層強化。18世紀になると和人商人に商場での
交易権を与え、そこから運上金を上げさせる場所請負制へと変遷していく。藩による
アイヌ人の強制労役も次第に重いものへとなっていった。こうした仕打ちにより、
アイヌ人の居住環境や生活待遇は劣悪なものになっていく。シャクシャインの乱同様、
和人の横暴に耐えかねた争乱が度々発生し、1789年にはクナシリ・メナシの乱と言う
大がかりな戦いまでが起きているが、松前藩や幕府はこれを力でねじ伏せ、アイヌの
組織的抵抗力は完全に潰えた。北の大地には人知れぬ悲劇が重ねられていたのである。

北方政策(1) 〜 対外防備に先立つ蝦夷地探検
ところでこの頃、日本近海には西洋諸国の船舶が多数出没するようになっていた。
貿易商船のみならず、軍艦も含めての事である。例えば吉宗時代の1739年、ロシア船
3隻が陸奥国を経て安房国や伊豆国沿岸まで来航。東南アジアまで視野を広げれば、
17世紀後半にはイギリスがインドへの侵食を開始し、オランダはインドネシア方面、
フランスはインドシナ(ベトナム)に侵出拠点を構えている。鎖国をしている日本とは
異なり、既に西洋諸国は大陸間渡洋技術を確立させた上、植民地確保にも先鞭を
附ける状況になっていたのだ。特に日本の隣国であるロシアは直接的脅威になりうる
存在であり、多数の船舶が日本近海を訪れている。1771年、ロシア船が阿波国に漂着。
1778年には蝦夷地へ来航したロシア使節が松前藩に通商を要求したほどだ。この時、
松前藩は内密に処理すべく、事件を幕府へ届け出ず独自に拒否した。日本人の中でも
一部の知識人においてこうしたロシアの動きを察知する者がおり、仙台藩医にして
経済学者であった工藤兵助(くどうへいすけ)が対ロシア交易の可能性や蝦夷地開発
計画などをまとめた「赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)」という書物を1783年(頃)に
出版、時の老中であった田沼意次に上奏している。様々な圧力がロシアから日本へと
加わり北方への備えは急務といえたのだが、それ以前の問題として当時の日本
(=幕府)が領土として掌握していたのは、上記の通り蝦夷地の中でも南部の一部だけに
過ぎなかった。ロシアに対抗するにしても、地勢を把握していなければ防備も何も
あったものではない。このため、田沼時代には日本人探検家が蝦夷地以北を調査。
1785年〜1786年にかけて、田沼の命を受けた最上徳内(もがみとくない)らが
東蝦夷を縦走、国後島・択捉島を経て得撫島にまで到達した。ところが直後に田沼が
失脚してしまい、こうした北方政策は結実を迎えぬまま中断してしまう。

北方政策(2) 〜 ロシアの脅威、いよいよ高まる
田沼に代わって政務を執った松平定信は、国内の統制を強化する寛政の改革を断行、
林子平の「海国兵談」の発禁処分を行い、国民が対外的な事象に関わる事を禁止したのは
先述の通りである。しかしその直後、ロシアの使節であるアダム=ラックスマン
1792年に根室を経て松前に来航。表向きの目的はロシアへ漂着した日本人船頭
大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を送還する事であったが、時のロシア皇帝
エカチェリーナ2世の意を受け、幕府へ通商を求める意図があった。これはロシアから
日本に対する初の正式な国交使節であり、幕府にとっては対露政策の重要性が現実化
した瞬間であった。以後、幕府は再び北方政策を重視。1798年に最上徳内や近藤
重蔵(こんどうじゅうぞう)を蝦夷地に送り込み、択捉島に「大日本恵土呂府(エトロフ)」の
標柱を建てた。1799年には東蝦夷地を幕府直轄領に組み込み、1807年には西蝦夷地も
幕府直轄地とされた。これにより松前藩は所領を失い、陸奥国梁川(福島県伊達市)へと
移封されている。幕府の直轄地となった蝦夷地には弘前藩・盛岡藩・仙台藩・会津藩などに
沿岸防備の命令が下され、各藩の兵が駐留。松前藩が行ってきた場所請負制は廃止され
直捌制(じかさばきせい)と呼ばれる幕府とアイヌの直接交易(支配)制度が導入され
アイヌの人民も対露防衛に動員されるようになった。その一方で、民間商船による
蝦夷地への航路開発も活発化し、廻船業者の高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)
択捉島への航路を確立したのもこの頃であった。偉業を為した嘉兵衛は近藤重蔵や
最上徳内らの信頼を得て、1801年に幕府から蝦夷地常雇船頭の役を与えられている。

伊能忠敬の活躍 〜 隠居の天才、表舞台への登場
蝦夷地探検と切っても切れない人物と言えば伊能忠敬(いのうただたか)であろう。
上総国山辺郡小関(千葉県山武郡九十九里町)の生まれである彼は、若い頃に下総国
香取郡佐原(千葉県香取市佐原)の商家である伊能家に養子入りして酒や醤油の製造、
それに伴う水運業を為して財を築いた。50歳を過ぎて隠居した翌年、かねてから興味のあった
天文学を修めるために江戸へ出て、当時の天文方(幕府による暦制や科学統括の役職)
高橋至時(たかはしよしとき)に弟子入りしたという異色の人物である。ちなみに
この時、至時は32歳。忠敬は息子と同じような年齢の人物に学問を教わったのである。
ともあれ、忠敬は瞬く間に天文学やそれに関する技法を習得。遂には地球の大きさを
自身の手で算出する事を目標に、標本化の指標とすべく江戸から蝦夷地までの距離を
測量する計画を立案した。時おりしも幕府が蝦夷地の防備を固める為に調査を必要として
いた頃。1800年、幕府から至時に測量の許可が下り、忠敬は意気揚々と蝦夷地へと赴いた。
幕府の財政は悪化の一途を辿っていたが、忠敬はそれにもめげず私財を投じての調査行。
4月16日に江戸を発った忠敬一行は、奥州道中を経て5月22日に箱館(現在の函館)に到着。
ここから海岸線を東へ進み、襟裳岬を過ぎて春別(しゅんべつ、北海道野付郡別海町)まで
探検を行っている。季節が秋となり、協力したアイヌ人がサケ漁を行う時季になったため
ここでいったん調査を打ち切って箱館へ戻った。これが忠敬の第一次調査である。
なお、箱館に逗留した忠敬は間宮林蔵(まみやりんぞう)と知り合い、測量術を伝授する
約束をした。林蔵の活躍は次に記すが、優秀な弟子を得た忠敬は測量に基づく正確な
日本地図製作の覇業に邁進していく事になる。
伊能忠敬像伊能忠敬像
翌1801年、第二次調査を開始。今度は本州東部の測量で、伊豆半島・三浦半島や房総半島、
太平洋岸を踏破し津軽半島まで至る。さらに1802年には日本海側、1803年には駿河・遠江
沿岸の測量を行った。以後、毎年のように忠敬の測量は継続され、日本の大半が調査され
忠敬が赴かなかった地域においては、間宮林蔵をはじめとする弟子たちが測量を行う。
1818年、忠敬は72歳で没したが喪は秘され、弟子たちの手によって測量図の編纂作業が
続けられた。そして1821年、大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)が
完成。我が国初の精密な実測地図の誕生であり、正確さは西洋列強諸国の科学者をも
驚嘆させるほどで、太平洋戦争前後まで日本の標準地図として用いられていた。この地図が
幕府に献上された3ヵ月後に忠敬の死が公表されたのだが、製作者はあくまでも伊能
忠敬とされており、当時の識者らが忠敬に絶大な敬意を表していた事を示している。
ともあれ、日本地図の完成は幕府にとって有益な情報とされた。その一方、極めて正確な
地形図は国防上の機密とされ、伊能図の存在はごく一部の者だけが知るのみであった。

間宮林蔵の奮闘 〜 対露緊張期に歴史的偉業
さて、話を対露外交に戻す。ラックスマンの来航から12年を過ぎた1804年、ロシアの使節
ニコライ=レザノフが長崎へやってきて幕府に通商を要求。当時、幕府は執政の松平
定信が失脚した直後であり、返答を半年も引き伸ばした挙句に拒否した。レザノフは仕方なく
引き上げたものの、煮え切らない幕府の対応に怒った一部ロシア勢力は1806年に樺太の
松前藩番所、そして1807年に択捉島への攻撃を行う。間宮林蔵はこの時に択捉島内の
会所(アイヌとの交易所)で働いていたため、応戦作戦に参加。しかし日本側は大敗を喫し
林蔵らは止む無く引き上げるしかなかった。こうした経緯で、松前藩は梁川へ移封されたのだ。
さて、蝦夷地支配がいよいよ緊急なものとなった幕府は1807年中に近藤重蔵を蝦夷地に派遣、
松前から宗谷岬までの蝦夷地西海岸の調査を行わせた。続いて1808年、間宮林蔵と松田
伝十郎(でんじゅうろう)を樺太の調査に向かわせる。この探検の目的は、樺太がユーラシア
大陸と切り離された島であるかどうかを確認するもの。4月17日に樺太の南端にある会所の町、
白主(シラヌシ)から松田は西へ、間宮は東へと海岸沿いを北上。樺太が独立した島ならば、
両者はどこかでまた落ち合える、という推測を立てた。しかし極寒の地は彼らの船を容易く
進ませず、間宮は東回りでの北上を途中で断念し、西へ向かって松田の後を追った。
一方の松田は、西海岸のラッカ岬(樺太最西端)まで進んだものの同様に閉塞、引き返してきた
ノテトで間宮と合流。5月20日の事である。間宮の第一回樺太探検は、当初の目的である
島であるかの確認には至らなかったが、この時、松田はラッカ岬に「大日本国国境」の標柱を
立てて日本領の宣言を行っている。
間宮林蔵の樺太探検
間宮林蔵の樺太探検

青線:第一次探検(松田隊) 途中から間宮隊も合流
紫線:第一次探検(間宮隊)

赤線:第二次探検

樺太が島である事は、現地のアイヌ住民には既知のことであったが
これを正式に調査・記録したものはなく口伝のみでの伝承であった。
よって、当時は世界的に樺太がユーラシア大陸と接続された
巨大な半島ではないかという疑念が持たれていたのだが
間宮林蔵が樺太西岸を踏破し、対岸の大陸にまで渡り調査を行い
江戸幕府へ報告書を提出した事で、樺太が半島ではなく
大陸と切り離された島嶼であると認定されたのである。
6月、一行は蝦夷地に引き返すも、なお樺太探検に情熱を注ぐ間宮は早くも翌月から
再探検に出発。これが第二回樺太探検である。この遠征は翌1809年にまで跨るもので
樺太が島である事を確認した上、ユーラシア大陸にまで渡り清国領のデレン(徳楞)や
ロシア領フヨリ(ニコライエフスク)といったアムール川流域都市に潜入した。この快挙で
樺太と大陸の間に横たわる海峡は間宮海峡と命名され、極東ロシアや清帝国、そして
樺太の位置関係が明確なものとなり、幕府の北方政策に大きく寄与したのだった。
この後も間宮は蝦夷地周辺の調査を続け、そのデータが師である伊能忠敬に提供され
忠敬が行えなかった西蝦夷沿岸の測量部分を補完、大日本沿海輿地全図の作成に
貢献している。
ところで対露外交だが、1807年の択捉攻撃(攻撃実行者の名からフヴォストフ事件と言う)に
態度を硬化させた幕府は、1811年に国後島で測量を行っていたロシア軍艦ディアナ号艦長の
ヴァーシリー=ゴローニンを捕らえ捕虜とし、ロシアに対する挑発的態度を採る。
これに対してロシア側は1812年、先述の高田屋嘉兵衛を抑留する策に出て報復。結局
1813年、ゴローニンと嘉兵衛が捕虜交換される事で決着を見た。いわゆるゴローニン事件だ。
この政治的決着には嘉兵衛が大きく働きかけたと言われ、これでいったんはロシアとの
緊張関係が解かれた。1814年には箱館と松前以外の蝦夷地守備隊が撤収された上、
1821年には陸奥梁川に配されていた松前氏が蝦夷地に復帰、松前藩主の座に返り咲く。
しかしこの頃、日本へ進出する西洋諸国はロシアだけではなくなっており(詳しくは後述)、
幕府はより一層、対外的情勢に振り回されるようになっていく。




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