★この時代の城郭 ――― 陣屋(4):台場
異国船打払令、そして西洋砲術訓練へと繋がる強兵策。阿片戦争の衝撃により、西洋
諸国への対応は軟化しつつも、一方で海防の必要性も重視されつつあった日本のおいて
この頃から幕府・諸藩をあげて全国各地に台場が作られた。台場、即ち砲台の据置場であり
大きく分類して陣屋(この場合“戦闘陣地”としての意味合いが強い)の一形態とされている。
その構造は、大砲の発射に適した平坦な単一曲輪の外周を土塁で囲うもの。曲輪の形状は
四辺形である事が多いが、次第に西洋軍学が取り入れられ、砲撃散布界を効果的にするため
台形や五角形といった不定形なものも現れていく。また、敵(外国艦船)からの反撃目標に
なってしまうような高層建築物は作られない事が基本形であり、内部には平屋建ての
弾薬庫や兵員詰所くらいの建物が並ぶ「平らな城郭」である。
台場がクローズアップされるのはペリー来航以後なので、一般の認識では最幕末期の15年
程度に作られたものだと解される事が多いのだが、実際はそれより早い段階から築かれ
江戸時代全期を通じて構築されたものは全国で800あまりあったと言われている。台場の
原型となる遠見番所(外国船の監視所)は寛永年間(3代将軍・家光の頃)あたりから
設置されていたし、外国船の往来が激化した19世紀になると砲座陣地としての台場が
製造されていたのである。特に南海に面した四国・九州地方、それに対露対策として
蝦夷地にこうした台場が多く置かれていき、天保の改革期から加速度的に台場構築が
増加している。
とは言え、この頃は幕府も諸藩も財政難の真っ只中。思ったほどに効率良く台場は
築けず、計画が軒並み遅滞しているところにペリーがやって来てしまう。圧倒的な
軍事力を有する黒船の到来でいよいよ本格的に沿岸防備をせねばならなくなり、幕府や
諸藩は万難を排して台場構築に邁進するが、それは赤字の上に赤字を重ねる事業となり
結果として、幕藩体制の崩壊を早める一因となってしまった。台場設置は軍事的に
効果があったかどうか疑問の上、日本国内の内部秩序を自壊させてしまい、結局は
家康以来続いた江戸幕府体制を守りきる事はできなかったのである。台場とは、
幕藩体制の衰退を体現した、悲しい「仇花の城郭」だったのかもしれない。
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