行き詰まる幕府

様々な学問が発展を遂げた化政文化期。
それが世の為になるべきだと欲する者あり、
それを嫉み、新たな問題を引き起こす事例あり、
複雑な様相を呈していく。天下泰平の眠りについていた時代ながら
目に見えぬ深部では、静かな不協和音が奏でられていたのである。
その本質には、200年維持された幕府の保守性が
爛熟していく政治学や新時代の科学技術、そして迫り来る外国の圧力などに対して
少しずつ歯車を狂わせていた問題が隠されていた。


蛮社の獄(1) 〜 外国船の往来と海防政策
さて、先般から書き記した通り西洋諸国は日本近海に船を送り込み、着々と東アジアへの
進出を画策していた。遡って1796年、イギリスのブロートンが根室に来航し沿岸を測量。
1804年にロシアのレザノフが通商を要求したのは先述の通り。1808年にはイギリスの軍艦
フェートン号が長崎港内に侵入、長崎奉行が責任を取って自害する事件があった。当時
イギリスはオランダと戦争中で、フェートン号はオランダ船の追撃目的で長崎までやって
来たのである。これをフェートン号事件と呼び、西欧情勢が日本にまで波及した事例である。
イギリス船は1817年にも浦賀(神奈川県横須賀市)に来航。次いで1818年にはイギリス人の
ゴルドンが浦賀を訪れ、1824年にはイギリスの捕鯨船が常陸国大津浜、さらに薩摩国
宝島へやって来て乗組員が上陸している。
幕府は対露外交の緩和策として1806年に文化の撫恤令(ぶじゅつれい)を発布していた。
これは、外国船(特にこの場合ロシア船を対象とする)が来航した場合、乗組員の上陸は
許可しないものの必要な食料・水・薪(燃料)などを渡して帰国するよう説得するもの。
血を流さぬ穏便な方策ゆえ「撫恤令」と称されたのである。しかし、フェートン号事件のような
軍事的威嚇に直面した上、その後も度重なる異国船の来航に業を煮やした幕府は1825年
異国船打払令(無二念(むにねん)打払令とも言う)を発布し、態度を翻した。即ち、今後
異国船が出現した場合は迷わず(=無二の念で)砲撃を加えて強制退去させよという
強硬措置である。こうした最中、1837年にアメリカの商船・モリソン号が江戸沖に現れた為
幕府は規定通りに大砲を放ち、追い返した。しかし、モリソン号は漂流した日本人を
帰国させるため、江戸にやってきた事実が判明した。
これを知った尚歯会(しょうしかい)メンバーは事態を懸念する。尚歯会とは、田原藩
(愛知県田原市)家老であった渡辺崋山や、鳴滝塾で医術を学んだ高野長英(ちょうえい)
紀伊藩士の遠藤勝助(しょうすけ)ら、最先端の蘭学を習得した知識人の会派。見識に
優れた彼らは、人道的行為として日本を訪れたモリソン号を排除したのは誤りとし、
外国船に対する一方的砲撃は西洋諸国に侵略戦争の口実を与えるだけだと危惧した。
幕府に警告する意味で、彼らは次々と論文を記す。長英は「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」
崋山は「慎機論(しんきろん)」である(慎機論は公表せず)。

蛮社の獄(2) 〜 尚歯会メンバー、次々と投獄
大御所時代の最末期であるこの頃、老中・水野忠邦は江戸湾防備に着手。手始めとして、
三浦半島・房総半島・伊豆半島の測量を開始した。測量担当責任者に任じられたのは
目付(旗本・御家人の監督役職)の鳥居耀蔵(とりいようぞう)と韮山(伊豆の主要都市)
代官である江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)の2名。江川は
蘭学知識に明るい学者であり、逆に鳥居は蘭学嫌いという両極端な人物であった。
江川英龍像江川英龍像
水野の忠実な部下である事から抜擢されたが、蘭学に疎いため上手く計画を進められぬ
鳥居に対し、自ら学問を修めた経験者である江川はそつなく推進していく。江川は
尚歯会の識者を測量に加え、特に才覚の高い渡辺崋山に助言も貰ったため、当然
水野の評価も高くなった。面白くないのは鳥居である。恨みの矛先を尚歯会と崋山に向け、
根も葉もない報告を水野に上申。崋山は国禁である海外渡航を企んでいるとか、反乱を
起こした大塩平八郎と通じていたとか、明らかに讒言である事が分かる内容であったが
その中に一文、長英や崋山は幕政を批判しているという内容があった。「夢物語」や
「慎機論」の事である。これは紛れも無い事実であったため、止むを得ず水野は尚歯会の
メンバーを処罰した。崋山は郷里の田原で蟄居謹慎、長英は永牢(えいろう、終身刑の事)と
いった具合である。生活に困窮した崋山は、得意の絵画を売って金策に当たるも、それすら
謹慎の身にありながら不届な行為だと咎められ、田原藩に迷惑が及ぶ事を恐れて
最終的には自害。1839年に起きたこの事件を蛮社の獄(ばんしゃのごく)と呼ぶ。
蛮社とは南蛮学問の社中(仲間)と言う意味で、つまりは尚歯会の事を指している。
ちなみに、小伝馬町(東京都中央区、江戸の罪人を収容する牢獄があった場所)に入牢した
長英は1844年6月に起きた牢火災に乗じて脱獄。幕府の目を逃れて逃亡生活を続け、
ある時は農民の姿になり、ある時は郷里の陸奥国水沢(岩手県水沢市)に帰り、更には
伊予国宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)に招聘され藩内で蘭学の指導に当たった
事もある。伊達政宗の庶長子・伊達秀宗(ひでむね)を祖とする宇和島伊達家。
秀宗は側室の子であり、また豊臣家に人質として出され縁を結んでいた為、徳川体制の
成立に伴い父・政宗は嫡子から外した。しかし長男としての立場を重んじた政宗は
大坂の陣の戦功として幕府に秀宗を宇和島藩主へ封じさせる事に成功した。これが
宇和島伊達家で、本家である仙台藩とは別家として代を重ねていたのである。宗城は
後に“幕末の四賢侯”に数えられる人物で、罪人であるにも関わらず長英を用いて
藩の勢力拡大に役立たせようとしたのは見上げた胆の据わりようである。とは言え、
程なく宇和島藩内に潜伏している事が幕府の隠密に発覚してしまい長英は再び逃亡。
この後、彼は自ら薬で顔を焼き、沢三伯(さわさんぱく)と名を変え、大胆にも
江戸市中に住み着き町医者として暮らすようになった。長期に渡った逃亡生活であったが
1850年、遂に三伯が長英である事が発覚。捕り方に囲まれた長英は観念して割腹するも
死に切れず、その傷が元で獄死するに至った。

天保の改革(1) 〜 水野忠邦、改革に乗り出すが…
1837年に徳川家慶が12代将軍に就任していたが、政治の実権は相変わらず大御所の
家斉が握っていた。こうした状況下、大塩の乱や蛮社の獄が起きた訳だが1841年に
家斉が死去、ようやく名実共に家慶の世になった。放埓な大御所時代、幕府財政の悪化や
弛緩した世情になっていた点を改めるため、家慶は大規模な改革が実行できる者を幕閣の
中枢に登用した。老中の水野忠邦・目付の鳥居耀蔵などである。水野は1834年に老中就任。
それ以前は肥前国唐津藩主であったが、唐津藩は長崎警護の義務があり老中に就く事は
出来なかった。このため、何としても老中になりたい水野は遠江国浜松への転封を希望した。
唐津藩の石高は実質20万石、それに対して浜松藩は5万石。自ら望んで減封されても
老中になりたいという“野心家”であった。家慶のおめがねに叶い、改革を任された水野は
早速、強硬な引き締め策を展開する。幕府三大改革の一つ、天保の改革の開始であった。
1841年、水野は幕府改革のお約束である倹約令を発布した。しかし、それまでの倹約令より
さらに厳しい統制とした今回のものは、高級衣服や装飾品といった「贅沢品」を禁止しただけ
ではなく、料理の食材・子供の玩具・菓子類などまで統制している。祭や花火などの娯楽も
禁止。農商統制を行った徳川吉宗の享保の改革では、一方で庶民の不満を抑えるために
花見場所の提供といった緩和策が並立していたが、水野の改革はとにかく規制一本槍。
同時に、貨幣改鋳(改悪)や株仲間解散令、物価引下げ令も発し、徹底的に経済を幕府の
統制下に置こうとした。これに対して商人らは物価を下げる分、商品の質を落としたり
販売量を減らす事で対抗。結果として、庶民の生活が苦しくなるだけであった。
幕府は規制強化を徹底するため、市中の監視を厳しくする。目付から町奉行に
役職を替えた鳥居耀蔵は、配下の者を使っておとり捜査を行うなどしている。しかも、
その対象は町人に対してのみならず、役人の中でも役務を違える者が無いか極秘に
調査させる徹底ぶり。互いに見張り見張られる役人も町人も、辟易する世になっていた。
鳥居の名は耀蔵、官位名は甲斐守(かいのかみ)。「耀」と「甲斐」を使って、いつしか
庶民は“鳥居のヨウカイ(妖怪)”と揶揄するようになっていた。

天保の改革(2) 〜 対外情勢の変化と上知令の失敗
1841年12月、江戸堺町(さかいちょう、現在の日本橋近辺)にあった歌舞伎小屋が火災を
起こした。中村座から出た火は市村座や操(あやつり)座も巻き込んで延焼。江戸庶民の
娯楽の場が消えたのである。これを機に、水野は歌舞伎の取り潰しを図る。芝居見物など
贅沢の極み、何と言っても歌舞伎役者の派手な生活ぶりは質素倹約の改革に大きく反する
からだ。しかし、この意見に待ったをかけた人物がいた。町奉行・遠山景元(かげもと)である。
遠山は、庶民の不満を逸らす為に娯楽が必要であると水野に説き歌舞伎廃絶を止めさせる。
これにより1842年6月、歌舞伎小屋は(当時としては)江戸の外れである浅草猿若町に移転。
郊外に移る事で何とか存続する事が許されたのである。“遠山の金さん”として現代まで
庶民を守る名奉行の名を残した遠山景元は、実際に庶民の擁護に尽力した人物だったのだ。
しかし、7代目市川団十郎ら当時の花形役者は江戸追放の処分に。この年、人情本作家の
為永春水も処罰されており、水野による保守懐古的改革は止まる事がなかった。
ところで、鎖国を続ける日本の隣にある大国・清では大きな禍が降りかかっていた。
東洋進出を目論むイギリスは、朝貢貿易で覇権を主張する清を骨抜きにするため19世紀に
阿片(アヘン、麻薬の一種)の密売を積極的に行っていく。阿片薬害により清国民衆を
退廃させると同時に莫大な貿易利潤を吸い上げ、清の国家財政も破綻させようとしたのだ。
当然、清は阿片流通防止に躍起となり、1839年に欽差(きんさ)大臣(皇帝からの特命大臣)の
林則徐(りんそくじょ)が大規模な阿片没収・廃棄処分を行う。しかし重要な輸出品を
破却されたイギリスは(麻薬売買と言う明らかに非のある行為でありながら)これを口実に
清に対して開戦、1840年〜1842年に阿片戦争が行われた。圧倒的な近代火力軍備を有する
イギリスに対し、清は脆くも敗戦。以後、不平等条約を押し付けられた上、香港割譲など
植民地侵略を受けるようになっていく。まさにイギリスが狙った結果になったのだ。
この報がもたらされた日本では衝撃が走った。大国である筈の清が、地球の裏側からやってきた
僅か数隻の軍艦に敗北したのである。隣国でこのような事例が起きたとあらば、その矛先が
いつ日本に向けられてもおかしくはない。そう考えた幕府首脳は、対外強攻策であった異国船
打払令を取り止め、1842年7月に天保の薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を発布した。
外国の船がやって来たならば、薪(燃料)や水を与えて丁重にお引取り願う、としたのである。
と同時に、西洋軍備の研究に着手。敵を知らねば敵に抗う事は出来ないのだ。これに基づき
薪水給与令に先立つ1841年5月9日、武蔵国徳丸ヶ原(東京都板橋区)で西洋砲術の訓練が
実施されている。この訓練では高島秋帆(たかしましゅうはん)が戦術指導に当たった。
秋帆は長崎で西洋軍学を学び、独自の砲術理論を大成した当時随一の西洋軍学者。近代化を
先行させた佐賀藩などに大きく貢献し(後記)1840年には幕府に対して「西洋砲術意見書」を
提出して軍備の近代化を唱えており、為に徳丸ヶ原砲術訓練の指導者として招かれたのだった。

★この時代の城郭 ――― 陣屋(4):台場
異国船打払令、そして西洋砲術訓練へと繋がる強兵策。阿片戦争の衝撃により、西洋
諸国への対応は軟化しつつも、一方で海防の必要性も重視されつつあった日本のおいて
この頃から幕府・諸藩をあげて全国各地に台場が作られた。台場、即ち砲台の据置場であり
大きく分類して陣屋(この場合“戦闘陣地”としての意味合いが強い)の一形態とされている。
その構造は、大砲の発射に適した平坦な単一曲輪の外周を土塁で囲うもの。曲輪の形状は
四辺形である事が多いが、次第に西洋軍学が取り入れられ、砲撃散布界を効果的にするため
台形や五角形といった不定形なものも現れていく。また、敵(外国艦船)からの反撃目標に
なってしまうような高層建築物は作られない事が基本形であり、内部には平屋建ての
弾薬庫や兵員詰所くらいの建物が並ぶ「平らな城郭」である。
台場がクローズアップされるのはペリー来航以後なので、一般の認識では最幕末期の15年
程度に作られたものだと解される事が多いのだが、実際はそれより早い段階から築かれ
江戸時代全期を通じて構築されたものは全国で800あまりあったと言われている。台場の
原型となる遠見番所(外国船の監視所)は寛永年間(3代将軍・家光の頃)あたりから
設置されていたし、外国船の往来が激化した19世紀になると砲座陣地としての台場が
製造されていたのである。特に南海に面した四国・九州地方、それに対露対策として
蝦夷地にこうした台場が多く置かれていき、天保の改革期から加速度的に台場構築が
増加している。
とは言え、この頃は幕府も諸藩も財政難の真っ只中。思ったほどに効率良く台場は
築けず、計画が軒並み遅滞しているところにペリーがやって来てしまう。圧倒的な
軍事力を有する黒船の到来でいよいよ本格的に沿岸防備をせねばならなくなり、幕府や
諸藩は万難を排して台場構築に邁進するが、それは赤字の上に赤字を重ねる事業となり
結果として、幕藩体制の崩壊を早める一因となってしまった。台場設置は軍事的に
効果があったかどうか疑問の上、日本国内の内部秩序を自壊させてしまい、結局は
家康以来続いた江戸幕府体制を守りきる事はできなかったのである。台場とは、
幕藩体制の衰退を体現した、悲しい「仇花の城郭」だったのかもしれない。

1843年、急進的な改革は益々激化の一途を辿る。人返し令を発し、江戸に定住していた
農村出身者を強制的に帰郷させ農業従事を強いた上、田沼時代に失敗した印旛沼の
干拓事業に再度着工。人返しと共に干拓地を新田開発する事で農業収穫を向上させると
同時に、印旛沼排水運河を軍事的に利用しようと言う“一石二鳥”を狙ったものだった。
しかし、これまた庶民の不満が募るだけの結果に。印旛沼事業においては、農村復興の
天才であった二宮尊徳が「干拓の前に沼周辺農民の救済をすべき」と進言したにも
関わらず、事を急ぐ水野は「まず着工ありき」として工事を開始した経緯もあった。
さらに経済対策として、札差(年貢米の換金を取り扱った特権商人)からの借金を
強制的に「無利息・年賦返済」とする決定を下す。事実上、借金を帳消しにする発令だ。
この当時、こうした強硬策を採った藩がいくつか存在するが、幕府(中央政権)が行う事は
全国的な経済混乱を引き起こす結果になってしまう。
そして1843年6月、上知令(あげちれい)を発令。これは江戸・大坂の十里四方にある
大名・旗本の知行地を幕府に返上させ(ゆえに「上知」なのである)、代わりの土地を
別の場所に与えるという命令だ。目的は、主要都市の沿岸防備のため幕府が土地を統合、
天領化させる事とされたが、裏には大名・旗本が所領とする裕福な土地を幕府が手にし、
代わりに幕府が所有する貧困な土地を押し付ける目論見があったと言われる。これに気付いた
大名や旗本は水野の改革に反対する声を一斉に上げた。同時に、上知令の対象となる地では
領民がそれまで貸した御用金(藩主が領民から借りた金)が反故にされる可能性があり
一般庶民の憤怒はピークに達する。一揆や暴動の機運も高まり、四方八方から反対意見が
噴出したため、ここに天保の改革は挫折。将軍・家慶は水野忠邦を老中から解任した。
印旛沼干拓はまたもや頓挫、上知令も撤回。天保の改革は見るべき成果を出さず、
江戸の水野邸は怒りにまかせた江戸庶民が打ち壊そうとする有様であった。
結局、幕府はそれまでの負債を解消するどころかさらに増大させて衰退の一途を辿る。
迫り来る西洋諸国を止める策もなく、1844年にはフランス船が琉球に来航、時を同じくして
オランダ国王・ウィレム2世が幕府に対して開国を勧告。1846年にはアメリカの使節
ジェームズ=ビッドル提督が浦賀に来航し通商を要求しているし、1852年には
オランダ風説書(出島のオランダ商館長が提出した海外情勢報告文書)にペリー来航が
予告されていたのだが、力を失いつつあった幕府は頑なに鎖国維持を奉ずるだけであった。

全国の藩政改革 〜 幕末雄藩の形成
幕藩体制の確立から200年以上を経て諸藩でも政治体制は硬性化しており、しかも
基本的に年貢を税として収穫する以上、作況や突発的天災などで収益は不安定で、
赤字が累積する状況はいずこも同じであった。こうした状況を打破するため、藩政改革に
乗り出した藩は、特産品の活用や実学から導き出される新たな政治理論の応用によって
難局を乗り切ろうとしていた。失敗に終わった藩もあるが、成功を遂げた藩は実力を蓄え
新たな時代への原動力となっていくのである。以下、代表的な取り組み例を列記する。
まず何と言っても欠かせないのが薩摩藩。時の藩主・島津斉興(しまづなりおき)の執政、
側用人の調所広郷(ずしょひろさと)が1827年頃から大改革に着手、500万両もあったと
言われる薩摩藩の負債を処理。その手法は強引とも言える方策で、支配下にある奄美
地方の特産品である黒砂糖の専売制を強化、琉球を通じた密貿易の増発、大坂商人からの
借金返済を一方的に250年の無利子年払いに変更(事実上の踏み倒し)する事などで、
藩の内外に敵を作る事も辞さぬ覚悟であった。特に奄美地方ではこれまで以上に過酷な
製糖の労働が住民に強いられ人権を無視した非道な支配が行われたが、その甲斐あって
薩摩藩は赤字から脱却する。斉興の次代、斉彬(なりあきら)の頃には藩主自らが
率先して改革を指導、西洋軍備の導入による軍制改革や洋式工芸品(ガラス細工など)の
生産販売を行っており、薩摩藩は全国でも屈指の雄藩に成長していった。そのため、
英明の君主である斉彬は“幕末の四賢侯”の一人に数えられている。
お次は水戸藩。徳川御三家でありながら宗家である将軍家とは一線を画する水戸徳川家は
徳川光圀の水戸学を大成させる事を藩の事業の中心としており、当然ながら水戸学の教えを
国是としていた。水戸学は勤皇の理念を第一としており、日本は神国にして異国の夷どもは
打ち払い、天皇の威光を普く四海に広めんとするもの。よって、この頃活発化していた
外国船の襲来に対する備えを万端にすべく、1830年代から鉄砲や大砲の増産を開始した。
また、藩主・徳川斉昭(なりあき)は人材育成にも力を注ぎ、水戸学の大家にして家老の
会沢正志斎(あいざわせいしさい)を用い藩校・弘道館(こうどうかん)を設立・運営させた。
同じく水戸学者の藤田東湖(ふじたとうこ)や尊王論者の武田耕雲斎(たけだこううんさい)らも
藩政に登用されている。愛民を信条とする水戸学の理念を実践すべく、斉昭が水戸に
偕楽園(かいらくえん、日本三名園の一つで領民と武士が皆で楽しむ為の庭園)を
開園したのもこの時期だ。しかし水戸藩は御三家として将軍家に忠義を尽くすべきと
主張する家臣も多かったため人材のまとまりに欠け、必ずしも上手く改革は前進しなかった。
弘道館弘道館(茨城県水戸市)
続いて紹介するのが佐賀藩。鍋島直正(なおまさ閑叟(かんそう)という号が有名
第10代藩主に就任した頃、佐賀藩も多大な借財に悩まされていた。そこへ追い討ちを
かけるように1835年佐賀城が大火に見舞われ、藩の政治中枢であった二ノ丸御殿が
焼け落ちてしまう。城の再建を機に、藩の政治改革にも着手した直正は、役人の数を
5分の1にする人件費削減から始め、薩摩藩同様に借金の返済を8割放棄の上、残り
2割だけを50年割賦とする圧縮策を商人に認めさせた。その上で領内の特産品である
石炭・陶器・茶などの販売強化を奨励。米の生産性を向上させるため、地主に集中していた
耕作地を貧しい農民に再分配する“農地改革”も行っており、これら諸改革により財政は
急激に好転していった。それを原資に軍制改革にも踏み切った直正は、西洋軍備の導入に
熱を入れる。佐賀藩は代々に渡って長崎警護の役を担っていた為、西洋の技術力や軍備を
詳しく理解していたのである。藩内での大砲鋳造を計画した直正は、1850年に日本初の
反射炉と溶鉱炉を設置、翌年にはこの炉で精錬した鉄を使った大砲が完成した。以後、
佐賀藩は大量の大砲を生産していき、藩の軍備増強のみならず幕府の海防政策にも
大きな貢献を為していった。
最後に紹介するのが長州藩。関ヶ原合戦の敗北により中国地方120万石から防長2ヶ国
37万石へと大減封された毛利家は必然的な財源不足に悩み続けていた。1837年に毛利藩
14代当主に就いた毛利敬親(たかちか)は、藩政改革を表番頭の村田清風(せいふう)
一任。藩主の認知を受けた清風は、独自の発想で新たなる政策を展開していく。何と、
藩内の特産品であった紙・蝋・藍玉の専売を解いたのである。他藩では専売を強化して藩の
収益をさらに増加させていたのに対し、長州藩は逆の事を行ったのだ。しかし、これは
あくまでも取引を活発化させる「解禁政策」だったのである。農民にも売買の自由が
与えられた事で経済が活性化、その頃合を見計らった上で運上金を課税。さらには下関に
越荷方(こしにかた)という役所が開かれ、増収を図る。越荷方は、瀬戸内海を往来する
船舶に対して銀を貸し与えると共に倉庫業を営むもの。この当時、天下の台所である
大坂から行き交う船は多くが瀬戸内海航路を利用していたため、廻船の基地となる
越荷方(同時に船舶の保護も行っていた)は的を射た“貿易商社”になったのである。
海運の要衝である下関という地の利を見事に活かした政策だったと言えよう。斯くして
廻船業を展開する藩外の商人が越荷方を利用する事で貸し付けた銀に対する利息が
収益となり、長州藩は効果的に“外貨獲得”を達成したのだ。佐賀藩と同様、これまた
利潤を原資として西洋軍備の拡充へと繋げていくと共に、藩校・明倫館の再編も行って
人材の育成にも力を注いだ。その結果、長州藩は幕末維新の原動力となる人員を多数
輩出させた上、次代を切り開く軍事力も有するに至ったのである。


★この時代の城郭 ――― 松前城:最後の和式城郭…?
一方、北の果て・蝦夷地では新たな城が築かれていた。城の名は松前城。代々、
(一時、陸奥国梁川へ転封された事があったものの)蝦夷地の大名として彼の地を
治めてきた松前氏が築いた城である。この頃、北方警備強化の観点から幕府は
松前氏に築城を許可したのだ。1849年に着工、1854年に完成をみた松前城は、
旧来からあった松前氏の館である福山館を拡充したもの。諸外国からの圧力が
強まっていたが、実戦を経験した者がほとんど居ない時代の築城だけあって、
軍学理論を応用した構造になっている。縄張りを担当したのは長沼流兵学者の
高崎藩士・市川一学(いちかわいちがく)。当時の軍学者としては三本の指に
入ると言われた識者であった。海防の城という事で戦闘正面になる海側に対して
念入りな射撃陣地を確保する意図が盛り込まれており、大手側の出入口は厳重な
枡形虎口になっている。また、大砲の砲座を構える事が当初からの設計にあり
洋式城郭のような折れ曲がりが何箇所もある。小ぶりながら天守も築かれ、その
壁面は単なる漆喰土壁ではなく、内部に欅板を仕込んで耐弾性を持たせている。
欅板を塗り込んだ構造は御三家筆頭・名古屋城の天守と同じものであり、北の
小大名が築いた城郭には贅沢なものだったと言える。
しかしこの城は、思ったほどの防備を発揮しなかった。後年、幕末の動乱期に
実戦を経験する事になるのだが、「海に対する砲撃戦」ばかりを重視するあまり
陸上からの白兵戦には全く効果がなかったのである。それもその筈、大手だけが
重防備だった半面、搦手(裏口)の山側に対してはほとんど備えがなく、そちらから
侵攻してきた敵にあっさりと占拠されてしまったのだ。文字通り“机上の空論”、
太平の時代の軍学理論は結局のところ実戦と乖離したものだったという事を
証明したようなものであった。
松前城古写真
松前城古写真

南東方向から見た松前城。
城下町の屋根越しに見た城は
櫓や天守、門が立ち並び
如何にも堅固な様子に見える。
7基の大砲も全て海側を向いていた。
しかし城の裏側に回り込めば
塀1枚で防御されているだけであった。
ところで松前城は、築城時期が江戸最末期という事で一般的に“最後の和式城郭”と
言われている。しかし実際には、1863年に完成した石田城(長崎県五島市)や
明治維新後、徳川家が駿府藩の大名として格下げされた事により駿遠地域に封を
得ていた旧来の大名が押し出されて主に房総半島へ移封され、そこで新規築城した
陣屋の例があるため必ずしも正確な表現ではない。とは言え、規模や重要性それに
完成度(房総の明治陣屋は大半が未完成)を比較すれば松前城こそが最後の
和式城郭の名に相応しい事は明らかであるため、そう呼んで差し支えないだろう。





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