寛政の改革

商業を重視する田沼時代は
一応の成功を見ていながら、諸人に受け容れられず終了。
それに代わる新たな政権は、重商主義を転換し
昔ながらの重農主義に立ち、規律引き締めによる統制を図り
幕府の改革を成し遂げんと試みる。
江戸時代の三大改革の一つに数えられる寛政の改革が始まった。


寛政前後の藩政改革 〜 為せば成る、為さねば成らぬ何事も…
江戸時代も中庸、幕藩体制は動揺を始めていく。幕政において享保の改革や
田沼時代を経たのと同様、諸藩においても少しずつひずみが生じ、藩政改革を
必要とする時代が始まっていた。例を挙げれば、宝暦年間(1751年〜1763年)に
熊本藩の細川重賢(ほそかわしげかた)は治水・殖産興業に重点を置いた改革を
行い、藩主就任当時40万両と言われた借金を返済した上、藩財政を黒字に
転じさせた。この時、重賢は積極的に下級藩士から才能ある者を藩政に登用し
その能力を開花させる。重賢が改革の補佐役として筆頭奉行に抜擢した
堀勝名(ほりかつな)は藩の金策に多大な貢献を為し、特産品の専売制導入など
商業政策に力を発揮する。また、蒲池正定(かまちまさただ)を奉行に任じた
時の話は有名だ。外出時に雨に降られ、急いで帰城したい重賢は正定が
門番をしていた田際門の開放を命じた。しかし田際門は帰路の近道とは言え
普段は閉切の不明門。禁令を藩主自らが破ろうとした事に対し、正定は
頑として命令を拒否したのだが、その一本気な性格を重んじ、不退転の改革を
進めるための奉行に取り立てたという。
重賢の改革では藩内に時習館(じしゅうかん)という学舎を開き、次代を担う人材の
育成にも努めている。見事な結果を残した重賢は“肥後の鳳凰”と称された。
また、秋田藩では佐竹義和(さたけよしまさ)が鉱業や林業の開発に力を入れ
博物学者の菅江真澄(すがえますみ)を藩内に招聘し領内の地誌製作を進めた。
為せば成る 為さねば成らぬ 何事も
 成らぬは人の 為さぬなりけり
この歌で有名な米沢藩主・上杉鷹山(ようざん)こと治憲(はるのり)が活躍したのも
同じ時代である。謙信以来の名門たる上杉家は、関ヶ原で120万石から30万石に減封。
更に度重なる後嗣断絶の騒動もあって江戸中期には15万石にまで封を減らしていた。
にも関わらず立藩当初から変わらぬ人員を確保し続けたため、当然ながら赤字を
累積させてしまっていたのだ。こうした体質を改められなかった米沢藩において
治憲自身も他家からの養子として上杉家に入り、当時絶望的な状況にあった藩の
再建を託されたのであるが、彼は徹底した倹約と殖産興業に励み民政を充実させ
藩財政を好転させた。忍耐と努力の結果に成果を勝ち得た施政方針は、第35代
米国大統領ジョン=フィッツジェラルド=ケネディに“最も尊敬する日本の政治家”と
言わしめた(本当にそういう発言があったかは不明)という伝説が残された程だ。
いずれの改革でも、優秀な人材を活用し先例にとらわれず現実に即した政治を
行う事ができた藩主だからこそ成功を勝ち取ったのだ。他藩でも同様の状況に
陥っていたが、真に改革を成し遂げられた例は多くない。後世の我々が歴史を
評価するのは簡単だが、当時の状況は四面楚歌、なかなか難しいものがあったのだ。
では、幕政改革はどのように行われたのだろうか。

寛政の改革 〜 白河藩主松平定信、老中に
田沼意次に代わり、1787年に筆頭老中に就任し幕政のトップに立ったのは白河藩主
松平定信である。定信は御三卿田安家の出身、家治後継として次の将軍候補に
なるほどの地位にいたが、家斉を後嗣に据えようとした一橋家と田沼意次の工作で
白河松平家の養子に出された人物であった。そうした経緯があってか、定信は意次の
治世を常々批判的に見ていたようだ。その意次が失脚し、新将軍の家斉が就任すると
かつては将軍職を争った相手である家斉の信任を得て老中に抜擢されたのは随分と
皮肉な感がなくもない。ともあれ、政権中枢に腰を据えた定信は、田沼の政治を
根底から払拭するような、大規模な政治改革に着手した。奇しくもこの年は江戸と
大坂の両方で打ちこわしが起き(前頁参照)田沼時代の政策を清算する必要があり、
定信の手腕が試される試練の時期であったと言える。祖父・吉宗の行った享保の改革を
理想とする定信は、厳しい倹約徹底に立ち返り綱紀粛正を目指す。
白河藩主時代、定信は農民を保護する政策を推進。天明の大飢饉が発生し、他国で
大量に餓死者が発生した折も、白河藩内では一人の餓死者も出していない。この経験を
基に、定信は国政においても完全無欠の政策を打ち出そうと決心。翌1788年、将軍
補佐役に就き、商人の特権を排除する目的で株仲間の一部を解散させる命令を
発したところから彼の改革が始まる。この改革を、年号から採って寛政の改革と呼ぶ。
白河小峰城白河小峰城(福島県白河市)
定信は武士や庶民の風俗を矯正し、皆の意識を改革するところに政の根幹を見る。
武士に対しては文武の奨励、庶民に対しては風紀の引き締めを命令。1789年、
衣服や調度品の奢侈を禁止し、贅沢品は悉く街中から姿を消した。また、商人への
極端な債権集中を排除し、武士の生活を救済する事を優先させるため、同年に
棄捐令(きえんれい)を発令。これは5年以前に発生した武士の借金を帳消しにし
その後の分に関しても金利を低く抑える命令であった。その一方、白河藩で行った
救民策を拡大した囲米(かこいまい)の制もこの年に定めた。これは翌1790年から
実施に移され、社倉(しゃそう)・義倉(ぎそう)が設けられる。飢饉や災害に備え予め
米を備蓄させる制度で、社倉は諸大名・旗本に、義倉は町民に出資を命じたもの。
それを発展させ、1791年には七分金積立の制も定められた。江戸の地主たちに町費の
節約を命じ、そのうち七分(70%)を災害時の救済金に充てるものだ。七分積金の
制度は幕末まで有効に機能し、残存積立金は維新後の東京市に収納されたという。
寛政の改革はさらに続く。1790年、火附盗賊改(ひつけとうぞくあらため、町奉行から
独立した機関で、犯罪者検挙の特別警察機構)長谷川平蔵(はせがわへいぞう)
発案により江戸石川島に人足寄場(にんそくよせば)を創った。ここに浮浪者を収容し
職工技能を習得させて社会復帰させる更生施設である。この年には帰農令も発令、
江戸に出てきていた農民に対し、旅費や食料の面倒を見る代わりに本来の農村へ
戻り耕作を命じた。江戸市中の犯罪抑制や農民対策が切実に必要とされていた
社会情勢が見て取れよう。商人の特権剥奪、農村重視といった政策は、田沼時代の
重商主義をやめ、重農主義に復した懐古的封建政策でもあった。

寛政異学の禁 〜 寛政の改革、思想統制に及ぶ
風俗の取り締まりは更に強化の一途を辿る。1791年、江戸の銭湯での男女混浴を禁止。
それまで、男女混浴は当たり前の事であったが寛政の改革により分けられるように。
物価の引き下げも厳しい監視下に置かれ、商品の仕入値から小売価格まで徹底的に
調査・指導が行われていた。庶民の遊興も制限、もちろん賭け事も処罰。さらには
思想や学問の統制も進められ、幕府の意向に反するものは全て禁止にされてしまう。
これについて詳しく記そう。1790年、幕府が社会制度の根幹とし士農工商の起源となった
朱子学のみを思想学問と認め、それ以外の陽明学や古学は排除された。即ち、幕府の
指導力を回復せんがため官立学舎である湯島聖堂での講義は朱子学だけに限定、
これが全国的に波及したのだ。そのため、それまで隆盛していた他の学派は軒並み
衰退せざるを得なかった。これを寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)と言う。
1790年にはこの他にも大がかりな出版統制が行われている。幕府を批判したり
風俗を乱すと認定された書物は出版停止、その作者も処罰した。有名なものが洒落本
(戯作文学)・黄表紙(風俗絵本)作者であった山東京伝(さんとうきょうでん)を手鎖の
刑に処したものだ。当時、江戸の習俗を艶やかにしたためた彼の作品は爆発的に売れて
いたのだが、幕府はこれを摘発し出版を差し止め1791年に京伝を手鎖50日の刑に。
以後、彼は作風の転向を余儀なくされた。

★この時代の城郭 ――― 海国兵談
徹底した定信の出版統制は、ひとつ矛盾した行いに及んでいる。
1786年、軍学者の林子平(はやししへい)は「海国兵談(かいこくへいだん)」を出版。
本の内容は、海防設備や水戦・砲戦などの理論、兵術などの軍学書である。
この頃既に西洋諸国が日本近海に出没、特に極東の大国であるロシアの東進政策は
蝦夷地近辺の領有権や交易路確保に重大な危機を及ぼす可能性が高くなっていた。
対外情勢に関しては後記するが、子平は早くもその危険度に関して慧眼を以って
察知しており、こうした書物を記したのである。全16巻にもおよぶ海国兵談は世論に対し
対外危機を啓発し海防の必要性を説く警世書として認知されているが、内容の詳細を
紐解けば、築城術を紹介する点において特に明るく、まるで戦国時代の築城理論を
約200年後に体系化して出版したかのようである。例えば、土塁の構築については
「土居(土塁の事)には香附、麦門、冬芝と小笹の類を植ゑるべし、土止の為なり」
堀の構造については「堀に二つあり、水堀、乾(空)堀なり…」等々の記載がある。
およそ2世紀に渡る太平の世にあって、過去の遺物ともなっていた築城技術論を
掘り起こし、改めて国防に役立てようと考えた子平の功績は評価に値しよう。実際、
対外情勢は緊迫の度を増しており、彼の危惧は後年に現実のものとなる。
しかし幕府は1792年、こうした軍学書を出版し外国の脅威を一般に流布させる行為を
徒に人心を乱し幕政を批判するものとして弾圧。印刷された海国兵談を破棄させ
その版木も没収する処分にした。もっとも、子平自身が複製書を所有していたため
海国兵談の内容は後世に伝えられたが、正論であっても処罰される方針は寛政の
改革が過度な言論統制を敷き、躍起になって諸事の規制を図ろうとしていた事態の
現われであった。
その一方で同年に定信自身が伊豆や相模の沿岸を視察、翌1793年には諸藩に対し
海防の厳命を発している。幕府としても対外情勢は憂慮しており、海国兵談で
子平が訴えた意見は妥当なものだと認めていた事になる。つまり、内容の良否は
全く無視して、幕府に都合が良いかどうかという一点だけで言論統制が行われて
いたのだ。定信の杓子定規な改革は、ほどなく破綻を迎える。


尊号一件と定信の辞職 〜 寛政の改革、失敗に終わる
定信の政策を簡潔に表せば「全てにおいて徹底した統制」である。武士に対する
統制、商人に対する統制、そして庶民に対する統制。武士は武士として、商人は
商人として、農民は農民としての生活に勤しむべし。それ以外の事は認めず、
全ては幕府の意向に従って、規律にたがう事は厳格に処罰する。こうした統制で
世の中を牽引し幕政の主導権を今一度確認する事が寛政の改革であった。
しかし、世の中はそれほど簡単に割り切れるものではない。清濁併せ呑み、
臨機応変に融通を利かせる事こそ、施政者に求められる力量なのである。
棄捐令は一見、武士の生活を救済するように見えたが、その結果商人や
札差(武士の給米を売買・流通させる特別な職業)は大きな恨みを募らせ
以後、武士に対する“貸し控え”が続出。まるで現代の世の中、大手銀行が
中小企業に対して貸し渋りを行い結果的に景気循環が停滞するかの如く、
当座の資金が必要な武士が商人から一時的な貸付を受ける事が困難になり
武士の生活は却って困窮の度を深めるようになった一面がある。何より、
あれもダメ、これもダメという窮屈な世の中では庶民の恨みが募っていく。
これならば自由闊達な空気に満ちていた田沼時代の方がよほどマシだとされ
次のような狂歌が流行ったのは有名な話である。
白河の 清き流れに 魚(うお)住まず
 濁れる田沼 今は恋しき

白河藩主・松平定信による潔癖すぎる世は住み難く
田沼時代が今となっては恋しいものである
世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし
 ぶんぶといふて 夜も寝られず

かほど(これほど)窮屈で煩わしい世があるだろうか
ぶんぶ(文武奨励)ぶんぶと騒がれ、毎日縛られている
結局、定信の改革は思ったような成果が出ず民衆の失望感だけが広がった。
その上1793年、尊号一件が起きて定信自身の進退も極まった。尊号一件とは
当時の皇位にあった光格天皇が、実父の閑院宮典仁(すけひと)親王
上皇(退位した天皇)の尊号を贈ろうとした事件。典仁親王は皇位に就いては
いなかったため本来ならば上皇にはなれないが、光格天皇が父親に対して尊号を
贈りその地位の向上を企図したのだ。朱子学に基づく治世秩序を維持しようとした
定信はこれに真っ向から反対する。
ところが、この時将軍の家斉も実父である一橋治済(はるなり)に対し
同様に大御所の尊称を許そうとしていた。無論、大御所は前の将軍の尊称で
治済はそれに当たらない。皇室・将軍家とも、前職者に直系後嗣が絶えて
庶流の家から新たな当主を選んだ事から起きた特殊な事件である。典仁親王も
一橋治済も、実父であるものの彼らの待遇は低く(例えば親王は摂関家よりも低位)
帝や将軍が“孝”として待遇改善を求めたのにも一理あった。が、序列に拘る
定信は“忠”に反する行いは絶対認めず、上皇贈位や大御所の名乗りは不首尾に
終わったのである。
とは言え、この一件で家斉と定信の関係は冷却。改革の成果も出ず、諸人の
恨みを買うばかりとなった定信は1793年に老中を辞する事になった。寛政の改革は
結果的に失敗に終わったのである。

大御所時代 〜 流動的な世情
定信の退任以後は将軍・家斉自身が政治を主導していく。田沼時代から寛政の
改革へ転じた時と同様、家斉の政策は定信のものとは一変した。建前上、倹約は
継続され1805年には関東取締出役(いわゆる八州廻り)が設置されたが、過度な
抑制策は取りやめられ、比較的豪放な政策になる。家斉は性格的に遊興を好む
人物であったようで、必然的に幕府の出費は大きくなり、それに伴って世の中全体が
弛緩した雰囲気で推移したのである。その上、家斉は色を好み側室や子供の数は
江戸幕府歴代将軍で最も多かったため、大奥の維持費も増加した。
子息を諸藩の養子に出したり、姫を縁組させる事で他大名家との結びつきを
広めていったが、これまた将軍家による儀式典礼の増大を招き、幕府財政は
次第に傾いていった。外国勢力に備え海防政策を執る必要もあり、幕府の
出費はさらに悪化。家斉の将軍在位期間は50年にもおよび、歴代将軍の中で
最長であったが、その大半が俗物的時代であり、しかも退位した後も大御所として
実権を握り続け、家斉が死去するまでこうした政策が継続されている。このため
家斉の統治時代は(将軍在職時も含めて)大御所時代と呼ばれている。国内で
大きな政治的事件がなかったため平穏無事な時代が保たれたが、大御所時代の
“負の遺産”は蓄積され、後年の改革の必要性を生じさせたり、江戸幕府崩壊の
前段階となったのであった。




前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る