百姓一揆の頻発

農政改革を中心に、幕府年貢収入を増加させた享保の改革。
それは幕府の歳入を安定させた反面、
農民にはより一層の重税を強いる結果になっていた。
続く田沼の政治は重商主義であったが
運悪く飢饉や凶作など天災が頻発、さらに農民を苦しめる。
社会制度の根幹を揺るがす状況は、庶民の不満を爆発させる。
江戸時代の一揆について、ここで改めて考察してみよう。


代表越訴型一揆 〜 江戸時代初期の一揆
室町時代の一揆は、国一揆に代表される如く多分に政治的色合いを帯び、
農民だけでなく下級武士階級までもが連合して上級支配者への反抗を試みる
大規模な争乱であったが、これは兵農分離が未分化の時代を反映したものと
言えよう。織豊政権を経て、武士と農民が完全に分離した後は国一揆形態を
採る事がなくなると同時に、職業軍人化された武士による強権的支配体制が
確立したため、農民による軍事的反抗はかなり難しくなっていく。唯一、例外的な
争乱が島原の乱であったが、これ以外、江戸幕府成立期において農民による
軍事的破壊行為を伴う大規模一揆は記録されていない。だが、支配者層に
対して農民が全く不満を抱かなかったという事はありえない。生活待遇改善、
年貢減免といった意見は常にくすぶっていた。では、こうした不平はどのように
処理されたのか。代表越訴型(だいひょうおっそがた)一揆がその答えであり
江戸時代初期の百姓一揆はほぼこの形態に集約される。
読んで字の如く、農民の代表となる1名〜数名が、定められた手順を飛び越えて
(村民の意見は村役人を通じて代官・奉行へ上げられ、それが領主に伝えられる)
一気に領主(大名)や将軍に直訴する方法である。これならば、農民の主張が
代官や奉行に握りつぶされる事なく確実に領主へ伝えられる。また、暴動を
伴わないために非生産的破壊活動も省略できる。しかし、当然の事ながら直訴は
御法度であり、例え訴えが聞き届けられたとしても直訴者は死罪だ。村の民を
救うため命を懸けた“人柱”が犠牲を厭わずに身を投じる、それが代表越訴型
一揆だったのである。この形態で最も有名なものが1652年(前年とも)に下総国
佐倉(千葉県佐倉市)領で起きた佐倉惣五郎一揆であろう。時の領主・堀田氏の
圧政に耐えかねた公津(こうづ)台方村の名主・木内宗吾(きうちそうご)
将軍・徳川家綱に直訴したという事件である。その結果、佐倉藩の治世は
改められ堀田氏は転封になったが、宗吾とその男子は磔刑に処せられた。
この話は“義民(救民の為に命を投げ打った英雄)”伝説として美化された面が
大きく、史料上における明確な根拠がないのだが、神格化された宗吾は佐倉で
崇拝され宗吾あらため惣五郎として祀られるようになり、彼の行いが佐倉惣五郎
一揆と呼ばれて語り継がれてきたのだった。
宗吾霊廟宗吾霊廟(千葉県成田市)

惣百姓型一揆と打ちこわし 〜 江戸時代中期の一揆
文治政治の時代を過ぎ、18世紀になると社会の様相はだいぶ変化した。武士は
軍人としての性格よりも統治者たる官僚としての意味合いが強くなり、強権的
抑圧は弱まってくる。その一方、政治改革や商業発展に伴って物価の上昇や
作物の専売制、新たな課税対象品目の増加など、それまでとは異なる庶民への
重圧が掛かるようになった。また、享保の大飢饉や天明の大飢饉など、災害に
よる被災者も全国的に増加。享保の改革〜田沼時代は、まさにこうした状況下に
あった。このような不満に対する農民の憤怒は、惣百姓型(そうびゃくしょうがた)
一揆として爆発する。即ち、一揆指導者の下で一致団結した村民全てが暴動を
起こし、実力行動を以って領主に改善を求める形式の一揆だ。統計によれば、
幕府成立〜1700年頃までの一揆発生件数は年間10件未満であったが、農政改革で
年貢徴収増加を目指した享保の改革以後は増加傾向にあり、1750年には年間
20件を突破。数々の災害に悩まされた田沼時代にはさらに増え、天明の大飢饉が
起きた1782年には40件に迫る勢いであった。これらは殆んどが惣百姓型一揆で
1761年の上田騒動(長野県上田市、上田城下に起きた大一揆)などが有名だ。
1764年の明和伝馬騒動では北関東4ヶ国で総勢20万人が蜂起したほど。他、
1771年には天領の飛騨国(岐阜県北部)で大原騒動(飛騨百姓一揆)と呼ばれる
大一揆が勃発、以後18年に渡って混乱が続く。この時期の一揆は、幕藩体制の
動揺や米本位税制の限界から派生する社会的欠陥を如実に表すものであった。

★この時代の城郭 ――― 陣屋(3):代官所・出張陣屋
大原騒動は時の飛騨代官・大原一族による農民搾取から始まった訳だが、
飛騨国は一国全てが天領(幕府直轄地)で、統治の本拠は高山に置かれた
幕府の代官所(1777年に改称、飛騨郡代に昇格される)であった。一国を
統べるとあらば、近世城郭に匹敵する大規模な施設が順当なはずであり、
例えば一般の大名ならば肥後国=熊本城・加賀国=金沢城といった巨大な
城郭がそれに相当するし、幕府直轄領であっても駿河国=駿府城・摂津国=
大坂城という名城がすぐに思い浮かぶのだが、飛騨国ではそうした城はなく
高山陣屋がその任に当たっていた。天領陣屋としては全国で唯一現存し
国の史跡になっている高山陣屋だが、もともとは旧領主・金森氏の邸宅を
そのまま活用した役宅であったため、堀や石垣などは全くなく、内部には
雁行造り(家屋を斜め方向に連結させる御殿形式)の屋敷や米倉が並ぶのみ。
軍事面は全く考慮されず、完全に「役所」という表現が妥当なものである。
飛騨が天領となったのは1692年7月の事。それまでは金森氏が領有し、
高山市内の別の場所に高山城が構えられていたが、天領化と共に廃城され
1695年から高山陣屋が機能したのであった。既に戦国乱世は過去の話で、
5代将軍・綱吉が柳沢吉保に傾倒し理論重視の政治を行っていた頃である。
“慶長築城期”の熊本城や“一向一揆根絶拠点”金沢城、諸大名を平伏させる
駿府城や、豊臣政権抹殺の象徴たる大坂城のような、戦闘の城は必要ない。
高山陣屋は「政庁」としての役割だけを与えられ、他国のような重武装の
城郭は不要とされたのだ。幕府所管の代官所は軒並みこうした構造で作られ
旗本の知行地陣屋や大名飛地の出張陣屋もほぼ同様だった。ただし、飛地
支配の代官として任じられたのは現地の有力武士(=戦国期からの古豪)で
ある事が多く、彼らの居館がそのまま陣屋として用いられる事例があった。
このような陣屋は、戦国期以来の武家居館であったため、周囲に堀や土塁を
構える軍事的要素が多少あった事も特筆できる。
小笠代官屋敷黒田邸
小笠代官屋敷黒田邸(静岡県菊川市)

旗本・本多家の現地支配拠点として
現地の土豪・黒田氏が代官に任じられ
永禄年間(1558年〜1570年)に造られた
黒田家の邸宅がそのまま黒田代官所として
機能する事になった。写真にある立派な
長屋門をはじめ、土蔵や米蔵が内部にあり
外周は水を湛えた堀で囲まれている。

社会が激変する江戸時代中期は、農民一揆だけでなく都市部での騒動も発生。
特に享保の改革は米価を釣り上げる事を主眼としており、その後の田沼時代も
重商主義政策で商人を保護した為、いずれもしわ寄せが一般庶民に集中した。
つまり、物価(特に主食である米価)が高騰したため、庶民が食料をなかなか
買えないという事態に陥ったのである。飢饉の多発や生活の困窮で土地を捨てた
農民が職や金を求めて都市部に流入する時代でもあり、農村の疲弊と都市人口の
膨張が悪循環となってより一層、消費財の高騰に拍車をかけ庶民の不満は
加速度的に増大していたのである。この結果、江戸や大坂などの都市民が暴利を
貪る米屋などを襲撃し、破壊行動を行うようになった。これを打ちこわしと言うが、
あくまでも不満解消・商人への制裁が目的であったため家財や商品の強奪、殺人、
火付けなどは行われないのが慣例となっていた。打ちこわしは決して強盗行為では
なかったのである。モラルに従う暴動(?)というのは、当時の日本人が道徳観に
基づく清廉潔白な民族だったという事か。なお、農民一揆と打ちこわしが連動する
事も多く、上記の上田騒動では城に訴え出た一揆衆が、村への帰路に上田城下の
悪徳商人を襲撃し打ちこわしを行っている。
大規模な打ちこわしは、江戸では1733年・1787年・1866年など、大坂では1768年
1787年・1836年・1866年に記録されており、両都市とも享保の改革〜田沼時代と
開国後の物価高騰期に発生している様子が見て取れる。
付け加えると、江戸時代後期〜幕末にかけての一揆は世直し一揆の形態になり
一揆の目的が質権の解消・物価引下げ・専売廃止・土地の再分配などに変化。
惣百姓型一揆のような強訴だけでなく、集団で宗教色を帯びた狂乱演舞などに
身を投じる「ええじゃないか」など、終末的悲壮感による狂気の行動になっていく。

田沼時代の終焉 〜 佐野大明神の世直し?
幕府財政を好転させたものの、相次ぐ災害に農村は荒廃、物価の高騰など
社会的不満は蓄積されていく。意次は息子の田沼意知(おきとも)を1783年に
若年寄(老中の補佐・江戸城中の支配役)に就け施政の安定化を図ったが、
それもまた世の人々からは“田沼一族による政治独裁”と揶揄されてしまう。
何より、積極的な商業資本活用政策は「田沼と商人の癒着」を疑われ、
(実際にはそうではなかったようだが)賄賂が横行していたかのような悪評が
世の中に蔓延していった。このため、以下のような狂歌が囁かれた。
役人の 子はにぎにぎを よくおぼえ

役人が賄賂を商人から受け取る様を風刺した歌
浅間しや 富士より高き 米相場
 火の降る江戸に 砂の降るとは

「火の降る江戸」とは、目黒行人坂大火を指し
「砂の降る」は浅間山噴火被害の事
災害が頻発する上、物価の高騰に悩む様を表現
めいわ九も 昨日を限り 今日よりは
 寿命ひさしき 安永のとし

年号は 安く永しと 変われども
 諸色高値(しょしきこうじき) いまにめいわ九

明和九年を改め安永元年に改元したが、
物価は高騰したままで迷惑な話である
そうした渦中の1784年3月、江戸城中で旗本・佐野善左衛門政言(まさこと)
意知に斬りつける事件が発生。その傷が元で意知は8日後に亡くなった。意知は
まだ35歳の若さであった。殿中で刃傷に及んだ政言は切腹。
政言が斬りつけた理由は諸説あり判然としないが、一連の災害や社会不安を
「田沼の悪政」と批判した庶民らは、田沼一族に痛撃を食らわせた政言の行いを
「世直し」としてもて囃した。幕府の中でも、反田沼派がこれを機に台頭し始める。
更にこの頃から意次の後ろ盾となっていた将軍・家治が病の床に就いてしまう。
1786年8月25日、家治が没するや反田沼派が一気に江戸城内を掌握。意次は
老中を免ぜられ、閏10月には加増分の2万石も没収された。その後、さらに
田沼家は減封の仕打ちを受け、相良城も徹底的に破却されてしまう。権勢を
失った意次の末路はあまりにも哀れなものだった。意次の失脚により、
重商主義を基本とした田沼の時代は終焉を告げた。
佐野政言墓
佐野政言墓(東京都台東区)

奇しくも政言が事件を起こした後、
一時的に米価が下落。このため
政言の刃傷沙汰は一層
神がかった評判を生み出した。
田沼政治への批判を込めて、彼は
“佐野大明神”“世直し大明神”と
讃えられ、江戸庶民はこぞって
政言の墓参りを行ったという。
失脚以来、昭和まで「生活に困窮する民を顧みず権勢を誇った金権政治家」が
田沼意次の人物像として定着し、悪徳政治家の代名詞の如く評されてきた。
確かに、田沼時代には天災や社会不安が多く、民衆は満足した生活を送っては
いなかったかもしれない。さらに言えば、商人との癒着を疑われた事で意次は
無類の賄賂好きというイメージが植えつけられてしまった。
しかし、近年の再評価によりこうした悪評は大半が捏造されたものだという
意見が出始めている。そもそも江戸時代、賄賂はそれほど悪どい行為とは認識
されず、あくまでも「接待としての贈答金品」程度でしかなかった。しかも意次は、
実際にはそれほど賄賂を好意的に受け取る事は無かったとさえ言われている。
よって、田沼時代に対する悪い評判はその後に政権を握ったメンバーが前政権を
貶める事で自身の正当性を高めようとする意図で流布させた飛語だったと
考えるのが妥当であろう。田沼時代以後、反動的に重農主義が復古しており
重商主義の田沼政権は、彼らにとって相容れない思想だったのだ。
これらの検証から再考するに、田沼時代の重商主義は幕府御用金の増加に
絶大なる効果を発揮しており、決して無能な政策ではなかったと言える。また、
領地の相良では町屋の防火対策や街道・港湾の整備など極めて善政を敷いていた。
田沼の政治が無策無能というのは、実に的外れな話なのである。
強いて言えば、意次には運が無かったのだろう。度重なる天災、それに加え
意次の目の届かぬところで横行した賄賂不正、こういったものが世の反感を買い
彼の政策を台無しにしてしまった。考えてみれば、重商主義政策の採用は
封建時代から一歩進んだ、初期資本主義への脱皮とも受け止められよう。
そういった意味から類推すれば、田沼意次の経済感覚は超一流、いや、
それ以上の天才だったのかもしれない。惜しむらくは、時代がまだ彼を
理解できなかったのだ。田沼意次、その登場は歴史に早すぎたのか―――。




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