田沼時代
享保の改革により、幕府財政は好転したものの
収入を年貢に依存している以上、幕府の収入は
農作物の作況により左右される宿命に変わりはなかった。
そんな中、発想の転換とも言える新政策を打ち出す人物が
幕政の中心に台頭してくる。
田沼時代の始まり 〜 田沼意次、幕閣に躍進
9代将軍・徳川家重は生まれつき言語が不明瞭で(一説に脳性麻痺と言われる)
彼の発する言葉を正しく理解できたのは小姓の大岡忠光(おおおかただみつ)
ただ一人であったという。このため、忠光は将軍に就任した家重の側用人となり
(吉宗が廃止した側用人制度は、図らずも復活を遂げたのである)重用されたが、
従前の側用人が政治権力を強く握ったのに対し、忠光は権勢を奢る事なく粛々と
役務に専念したため、柳沢吉保や間部詮房のような専横政治にはならなかった。
ちなみに忠光は大岡忠相と同族。大岡家は勤勉実直な人物が多かったようだ。
家重治世期には宝暦事件(宮中において親幕府派と尊王派が対立した事件)以外
大きな政治的問題も発生しなかったため、平穏な時期を維持できた。そんな家重は
1761年6月12日に死去。10代将軍となったのが、家重の嫡男・家治である。
祖父・吉宗をして天才の萌芽を見い出されたと言われる家治は、確かに頭の回転が
良い人物だったようで、趣味の将棋は名人級と評され、彼の棋譜が現在にまで
残されているほどだ。また、絵画にも造詣が深かった。
その家治が全幅の信頼を置いて抜擢したのが田沼意次(たぬまおきつぐ)である。
田沼家は紀州藩士の家柄であったが、吉宗の将軍就任に伴って江戸へ登った。
意次も吉宗によって登用され、家重付きの小姓として頭角を現していく。しかる後
家治への世代交代により幕閣の中心へと躍進したのだった。意次の才覚に惚れ
込んだのか、家治は治世を完全に託したため、以後の世は意次によって政治が
運営されていく。これを田沼時代と呼ぶ。
田沼時代 〜 重商主義政策の展開
かねてから厳しく徹底されていた倹約令であったが、幕府財政を好転させるには
もはやそれだけではどうにもならない時代になっていた。新田開発や年貢徴収の
方法を工夫するのにも限界があり、享保の改革により上げられた税率によって
農村の疲弊を招く弊害も発生(これにより打ちこわし等も増大、詳しくは後記)し
幕府の収入を米だけに頼るのが無理な状況になりつつあった。これに対し、意次が
打った手は商業の活性化である。商人の財を富ませ、その収益に対し課税する事で
年貢米収入とは異なる新たな収益源を増やそうとする画期的な発案だ。現代の
感覚からすれば至極当然な話ではあるが、当時の武士は「士農工“商”」の序列からも
わかるように商業を極端に蔑み(実際には金銭を必要としたにも係らず)商人を
当てにするような政策を忌避していたのだが、意次はそのような偏見に囚われず
実利を重んじる思い切った行動を採ったのだ。
手始めに1761年、米価暴落防止の為に万石以下の武士に対する知行米を買収。
次いで1763年、清との貿易において銀の支払いを停止し銅・俵物(海鼠などの
海産物を干し物とした商品)の輸出に切り替える。戦国期〜江戸時代初頭のような
潤沢な銀生産量と比べ、この頃の鉱山収入はかなり減少していたため、意次は
日本国内から金銀が海外へ流出する事を防ごうとしたのだった。この政策により
次第に幕府の対外貿易は黒字へと転化していく。
田沼、老中へ 〜 さらなる重商主義へ
1767年、田沼意次は側用人になる。遠州相良(静岡県牧之原市)に2万石の所領を
与えられ、軽輩の出から大名に出世。さらに1769年には老中格とされた。幕府の
中で着実に地固めを行い、1772年には正式に老中となった。この時、加増を受けて
所領は5万7000石に。側用人と老中を兼任した意次は、名実共に最高の権力者に
なったのである。以後、幕政は完全に田沼のリードによって運営されていく。
意次は専売制・会所制を積極的に活用、銅・鉄・真鍮などを幕府専売とし特定商人を
優遇する反面、冥加金(商業課税金)を徴収。これ以外にも商工業者に株仲間
(同業組合)をつくらせ価格統制を図る。自由競争が抑制されると同時に、株仲間
以外の者は商売に参加する事が許されず、仲間うちで品質や価格の協定を結ぶ事を
許可して幕府が特定業種の保護を行ったのである。これにより同業者同士の無駄な
競争が回避される為、商工業者に有利な売買が行われるようになり、結果的に
業者の蓄財が図られる訳である。これに対しても冥加金が課せられ、最終的には
幕府収入が増えるようになる、という計算だ。このため、水・油・醤油・酒・酢といった
日常生活品が株仲間業者によって販売されるようになった。
さらに意次は、経済流通を円滑にする目的で南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)という
新たな貨幣を発行する。当時、江戸の商人は金貨(小判)を中心に使用し、大坂商人は
銀貨を使用、一般庶民の用いる貨幣は銅貨(寛永通宝などの小額銭貨)であったが
こうした区別は全国的な商業展開をするには障害となっていたのである。意次が
南鐐二朱銀を作った事でこうした障害が撤廃され、商業活動が盛んになったのである。
蘭学の進歩 〜 天才の時代
甘藷先生こと青木昆陽は、オランダ語の研究を行った洋学者でもあった。その昆陽に
薫陶を受け、蘭学の研究に身を投じたのが杉田玄白(すぎたげんぱく)と前野良沢
(まえのりょうたく)である。彼らはそれぞれ酒井家・奥平家(いずれも譜代大名)の医師で
あるため、必然的に医学研究と蘭学の勉強をリンクさせていく。同じく酒井家の医師
中川順庵(なかがわじゅんあん)や本草学(薬用植物の研究学問)者の田村元雄
(たむらげんゆう)、奥医師(将軍家医師)の桂川甫三(かつらがわほさん)・甫周
(ほしゅう)父子らと交流を深めつつ、オランダ医学を吸収していく。1771年、オランダの
人体解剖医術書「ターヘル=アナトミア」に出会った玄白らは、幕府の許可を得て実際の
解剖を行い、その内容が正確無比である事に驚愕する。実は1754年、京都の医師・山脇
東洋(やまわきとうよう)が解剖をし、1759年に「蔵志(ぞうし)」という書物を刊行したが
これほど詳細ではなかった。西洋医学が日本の医学よりも遥かに進歩している事に驚いた
彼らは、以後、ターヘル=アナトミアの翻訳に没頭、日本医術への貢献を目指す。様々な
苦労を乗り越え、1774年に完成した翻訳書は「解体新書」の名で刊行された。
なお、医学つながりで解説すると1805年に紀伊の医師・華岡青洲(はなおかせいしゅう)が
麻酔剤を用いて乳癌の摘出手術に成功。これは世界初の麻酔手術だと言われている。
さて、玄白・良沢らと交友があった、この時代のもう一人の天才と言えば平賀源内であろう。
讃岐出身の浪人であった源内は何にも囚われない非凡の人で、もともとは本草学の
研究を行っていたのだが、有り余る才能は次第に多方面に渡って開花していく。1756年に
江戸へ出てきた源内は上記の田村元雄に弟子入りし研究を深めた後に長崎へ向かって
(実はこれは2度目の長崎入り)蘭学を修め、その結果1761年に伊豆で鉱床を発見する。
さらに1763年、博物書「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を出版。1764年には火浣布(石綿)を
開発。この後、オランダ商館長に見せられた温度計を自流で創作、1773年には秋田で
鉱山開発の指導を行い、その時に秋田藩士・小田野直武(おだのなおたけ)に洋画の
手ほどきまで行っている。源内は洋風絵画の技法までも習得した“画家”でもあったのだ。
直武は洋画の技法を駆使し、解体新書の挿絵を製作。玄白・良沢と源内の縁は、
直武を通じてより一層深められた。

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小田野直武作 富嶽図
背景の林は手前から奥に向かって
徐々に背を低くしていく。遠近法の使用だ。
水の流れに映った橋脚はリアルで、
談笑する2人もどこか西洋的。
日本古来の題材でありながら、
描画の技法は完全に洋風である。
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他、「土用の丑」の逸話や産業開拓、1776年にエレキテル(静電気発生器具)の活用など
源内の功績は数えるときりがないほど。蘭癖(らんぺき、オランダの風物を好む事)で
開明的思想の持ち主であった田沼意次は、源内らの活躍に大きな期待を持っていたという。
西洋の事情に通じる事は、貿易や外交などに必要であると同時に、日本の国力を上げる
ためでもあった。意次と源内という両人物が、同じ時代に生きたというのも何かの因縁か。
ところが源内は1779年11月21日、誤って(一説には乱心とも)人を斬殺してしまい
獄に捕らえられ、牢内で病に罹り約1ヵ月後の12月18日に獄死した。天才の喪失を
悲しんだ玄白は自ら墓碑銘を考えたという。この他、この時代には蘭学が大きく進歩し
数多くの偉人が誕生している。詳しくは後頁(化政文化の項)で記すが、西洋の学問を
自由闊達に研究できたのも、対外的視野を持つ田沼の時代ならではの事であろう。
御三卿の成立 〜 吉宗・家重から始まる新たな宗家補完体制
さて、ここで話を徳川将軍家に戻す。8代将軍・吉宗の嫡男が9代将軍となった家重、
その嫡男が10代将軍の家治である。しかし、吉宗や家重には次子がおり、それらは
江戸城内に屋敷を与えられ、徳川将軍家一門としての分家を立てている。吉宗の2男は
江戸城北ノ丸田安門の隣に屋敷を構えたため田安家を創設、田安宗武(むねたけ)と
名乗り、同様に一橋門の傍に屋敷を有した事から一橋家の始祖となったのが吉宗3男の
一橋宗尹(むねただ)。家重の2男(家治の弟)は江戸城北ノ丸清水門の前に屋敷を
与えられ清水家を興し清水重好(しげよし)となる。田安家・一橋家・清水家は、吉宗・
家重の代から始まる新たな宗家補完の家と定義され、家康が定めた御三家に倣い
御三卿(ごさんきょう)と呼ばれるようになった。そして御三卿は、早くも家治の次代に
新たな将軍を輩出する役を担う事になる。

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江戸城北ノ丸 清水家跡地(東京都千代田区)
左端に少しだけ写っている櫓が清水門。
清水門の内側は、彼方にそびえる
日本武道館の向こう側までが
清水家の邸宅であった。武道館が
すっぽりと納まるほどの広さからして
将軍一門たる御三卿が
いかに重んじられていたかがわかる。
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家治には家基(いえもと)という嫡男がおり、聡明で将来を嘱望されていたが不運にも
1779年2月24日、急病で死去。わずか18才の若さであった。家治は悲嘆に暮れ、日々の
食事も喉を通らなかったという。他に男子がいなかったため、家治の次の将軍は
御三卿の中、一橋家から選ばれる事になったのである。意次ら幕閣有力者の意向で
宗尹の孫・家斉が家治の養子となり、次期将軍になる事が約されたのだ。

御三卿の成立 ―は親子関係 ―は養子関係 数字は将軍継承順
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田沼時代の災害 〜 印旛沼干拓の失敗、浅間山の噴火…
意次の重商主義政策は一定の成果を挙げ、1770年代における幕府備蓄金は綱吉期
以来の最高値を記録している。では、農政面ではどのような事が行われたのだろうか。
意次が行おうとしたのは、吉宗時代に計画が立案された手賀沼・印旛沼(共に千葉県)
干拓事業の実現である。江戸の東側にある大規模湖沼を干拓し、利根川と江戸湾を結ぶ
運河を掘削する事により広大な新田の確保や治水対策、水運によるさらなる商業利便の
向上といった効果を狙ったのである。予定された運河の総延長は約17kmにもおよび、
完成すれば印旛沼の水を一気に排出する事ができるはずであった。1782年に計画が
承認され、翌1783年から工事が開始。手賀沼に関しては1786年に一応の完成をみた。
しかし印旛沼については運河工事の半ばに大豪雨が襲来、堤防が決壊したため大洪水が
発生してしまった。このため、工事は中止に。悲願の印旛沼干拓は不成功に終わった。
振り返れば田沼時代は数々の天災に襲われている。意次が老中になった1772年に江戸で
目黒行人坂大火と呼ばれる大火事が発生、諸国では洪水や旱魃、1773年には疫病の
流行、1782年には冷害により全国的な大飢饉(天明の大飢饉)が発生している。
天明の大飢饉は1787年まで5年がかりの被害を出すに至る未曾有の大飢餓であった。
そして極めつけとなったのが1783年に起きた浅間山の大噴火である。この年の4月頃から
噴火兆候を見せた浅間山は、5月〜6月にかけて連日の噴火を観測。遂に7月8日、
大噴火を起こし山麓の村々を火砕流で埋め尽くした。特に鎌原村(かんばらむら)では
人口597人のうち477人が犠牲になる大被害を出したという。火砕流の被害はこれだけに
留まらず、吾妻川の流れを塞ぎ洪水を発生させ、下流域を濁流に飲み込んだ。これによる
死者は1000人をゆうに超えた。火山灰は江戸の町にも降り積もるほどで、当然の事ながら
全国的な日照不良を引き起こし、農作物の大凶作という結果に。人知の及ばぬ力で
引き起こされる天災には、飛ぶ鳥落とす勢いの意次と言えど打つ手はなかった。
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