享保の改革(2)

庶民の倹しい生活を知る将軍―――。
徳川家光は「生まれながらに将軍」と豪語したが
徳川吉宗は「立身出世した将軍」であった。
贅沢を戒め、無駄を省き、真に必要な事は何か、
施政者たる幕府のあるべき姿を常に模索する吉宗は
不退転の決意で幕政改革に乗り出したのである。


吉宗の幕政改革(1) 〜 新将軍、経済との戦い
1719年、吉宗は相対済し令(あいたいすましれい)を発布。幕府開設以来1世紀を過ぎ
江戸の町は人口50万人を数える世界有数の大都市になっていた。人が集まるところ、
金も集まるのが世の道理。「宵越しの銭は持たない」気風の良さが江戸っ子であったが
それで生活が成り立たず、金を借りたり返したり…いつしか江戸では金銭貸借のトラブルが
日常茶飯事となり、それに関する訴訟が後を絶たない状況になっており、奉行所の
政務に支障を来たす程になっていたのである。政治の簡素化を目指す吉宗は、以後、
金銭貸借に伴う訴訟は取り扱わず、当事者間での解決を命じた。これが相対済し令だ。
(相対済し令は10年間、1729年まで続けられた)
さて、この頃から行われるようになったのが定免法の採用である。言うまでもなく、
幕府の主な収入源は年貢米である。その年貢の収納は、毎年毎年の作柄を検査し
生産量に応じて納入量を決定する検見法(けみほう)が用いられていたが、これでは
豊作の年は収入が多くて良いものの、凶作の年は収入が激減する事になる。幕府の
財政が逼迫する状況の中にあっては、年によって収入量が増減する不安定さが
赤字財政に拍車をかけていたのだ。定免法は、過去数年の平均収穫高から年貢量を
決定、豊作でも凶作でも一定量の年貢を納めさせる方法なので、幕府の収入は
安定する。また、農民にとっても豊作時でも年貢量が増えるわけではないので、
余剰分を確保する事ができた。以下にも記すが、当時の武士の給料である米を
如何にして(幕府にとって)効率的に流通させるかが、幕府財政を立て直す鍵と
なっていた。征夷大将軍である吉宗が戦う相手は、敵兵ではなく米相場であった。

吉宗の幕政改革(2) 〜 洋書解禁と目安箱の設置
1720年、吉宗はキリスト教関係以外の洋書輸入制限を緩和。鎖国の世ではあったが、
長崎から伝わる蘭学(らんがく、オランダから伝わる洋学)が日本よりも先進的である事は
よく知られており、吉宗はその普及により実学の向上を目指したのだ。
さらに翌年、1721年に有名な目安箱を設置する。紀伊藩主時代に置いた訴状箱と同様
江戸においても庶民の直訴を認め、広く政治に対する意見を求めたのである。箱の鍵は
吉宗の御前でのみ開ける事が許され、将軍が直々にその訴状を読んだ。ただし、
匿名での投書は無効とされ、きちんと記名された物だけが採り上げられたという。
こうなると、幕府に対する批判をすればたちまち捕らえられるような事になりそうだが
そのような了見の狭い行いをする吉宗ではなかった。山下幸内(やましたこうない)なる
浪人が堂々と吉宗の政策を批判する投書を行ったところ、罰せられるどころか吉宗から
褒められたというのだ。万民の思いに耳を傾け正すべきを正す、吉宗の名将軍たる
所以である。こうした投書が実際に政治に反映される事が度々あり、特に有名なものが
小石川養生所の設置である。1722年、伝通院(東京都文京区にある寺)前に住む町医者
小川筌船(おがわしょうせん)が病気の貧民を救済する病院施設の設立を訴えたところ
評定所で採決が行われ、吉宗は忠相に命じて養生所の創設を決定したのだ。その年の暮れ、
小石川薬草園の中に建てられた養生所が稼動を開始、幕末まで貧しい病人を救済した。

吉宗の幕政改革(3) 〜 上米の制、新田開発、足高の制…
倹約、省力化、綱紀粛正、実学の奨励、民意反映…。可能な限りの方策を採った吉宗でも
幕府の赤字は簡単に改善されない。それほどまでに、累積赤字は重大であった。
もはやどうにもならない状況にあった吉宗は1722年7月、恥を忍んで諸大名に布告した。
以後毎年、石高1万石につき100石の割合で米を幕府に上納して欲しいと。端的に言えば
幕府は諸大名から米を恵んで貰う事にしたのである。ただし、その見返りとして参勤交代で
江戸に滞在する期間を半年に短縮する事を認めている。これを上米(あげまい)の制と言い
(大名統制に緩みを生じさせる遠因にはなったが)当面、幕府は財政難を切り抜ける事が
できたのであった。上米の制は1731年まで続けられている。
もちろん、幕府としても年貢収入の増加に努力は払っている。大岡忠相らの指導で、
幕府直轄地の武蔵野近辺を中心として新田開発を奨励。新たな田畑を切り開く事は
地道ではあるが着実な増収に繋がる。“机上の空論”で話をするのではなく、堅実に
実践を進めるのが吉宗の政治手法であったといえよう。
1723年には足高(あしだか)の制も定められた。改革を推進するには、家柄に捉われず
有能な人材を用いる必要がある。しかし、小禄の者を大役に就けるとしても、それを賄う
費用を捻出せねばならない。従来、こうした場合には単純にその者を加増していたが
それではいくら土地があっても足りなくなってしまう。吉宗はこれを改め、その者が
在職中に限って必要な禄を支給する事にし、職を辞した後は元の禄高に戻す事とした。
これが足高の制であり、こうすることで幕府は有用な人材を確保しつつ出費を必要
最低限に抑える事ができるようになったのである。1724年には再度倹約令を発布。
経済の引き締めによる財政再建、幕府を再生させる吉宗の戦いは佳境に入っていた。

吉宗の幕政改革(4) 〜 八木将軍の物価対策
さてここで、江戸時代の経済を簡略に説明したい。幕府収入の根本は年貢、すなわち
米である。そうして集められた米が換金され、幕府の御用金となる。旗本・御家人の
大半も、幕府から米を給禄として支給され、それを換金して生活費とする。つまり、
江戸時代の経済流通は米を基本として成り立っていた。米価が他の物価を左右し、
米の値が上下するにつれて、他の商品の値段も上下するのが当然であった。
ところが、江戸時代も中期になれば農業技術が向上。米の収穫量は増加し、場合に
よっては米が余剰になり値が下がる事が多くなっていく。また、元禄バブルを経て
商品経済が活性化、米の値と物価は必ずしも連動しないようになる。米価が下がっても
他の商品の値が下がる事はなく、米を換金する幕府(武士)にしてみれば収入の減少
(米価の下落)と支出の増大(物価高騰)という二重のダメージを受けるのである。
こうした状況を「米価安の諸色(しょしき)高」と言い、幕府財政を赤字にさせる
根本的要因であった。
これを見かねた吉宗は、物価統制に着手する。忠相らが諸色価格を調査の上、不当な
価格を設定されていると判断された商品に関して値下げを命じる物価引き下げ令が
1724年2月に発せられた。つまり、経済の根本である米価に連動しない価格上昇は
商人らが暴利を得んとしたものという事である。しかし命令が発せられた後もこうした
高騰価格が下がらなかったため、これらの商人に対しては罰則を発動、儲けを全て
罰金として没収する強硬措置を取っている。同年5月には塩・醤油・味噌・酢といった
生活必需品を扱う商人に同業組合を作らせて価格統制を行うに至り、元禄期から
加熱した自由競争商売を冷却化させ、諸色高を抑え込む方針を採った。
一方、米価を引き上げる政策も積極的に展開。幕府が米を買占め、市場に流通する
量を統制する事で価格の向上を図った。また、米を原料とする日本酒の製造も奨励、
とにかく米穀の余剰状況を解消する事を第一としたのである。何をおいても米、米、米と
米価の事を思案する吉宗を、人々はいつしか「八木(はちぼく、八+木=米の事)将軍」と
呼ぶようになっていた。倹約と緊縮財政、経済統制によって幕府財政は好転していく。

吉宗の幕政改革(5) 〜 飢饉対策と甘藷栽培
1730年、吉宗は大坂堂島の米会所を公認。本来ならば、幕府が収公した年貢米を
直接的に管理統制すれば幕府の思い通りに米価を操作できるのであるが、増収による
米余り状態が続いた事により上手く機能しなかったのである。このため、市場原理を
導入するために米会所を認めたのだ。これは世界初の先物取引市場と言われ、瞬く間に
米価は上昇。生活必需品である米穀を投機商品化した事に対し、後世の経済評論家は
否定的見解を示す事が多いようだが、施政者(武士であって商人ではない)吉宗に
とっては、とにかく米価を上げる事が幕府財政を好転化させるための狙いだったので
政策としては成功したと言えよう。そのため1731年には上米の制を廃止できた。

★この時代の城郭 ――― 名古屋城主・徳川宗春
将軍として堅実な緊縮財政策をとった吉宗であったが、それ以上の緊縮策で蓄財に
走ったといわれるのが尾張継友。彼の政策により尾張藩は黒字に転じたが、あまりの
倹約ぶりに領民から「ケチ」と評判された上、1730年に死去した。その跡を継ぎ、第7代
尾張徳川家当主となったのが、彼の弟であった宗春(むねはる)である。
藩主に就任した宗春は、継友の政策を全面転換し自由経済主義を採用する。
一説によれば、御三家筆頭の尾張家を差し置いて将軍に就任した吉宗に対する
あてつけだったとも言われるが、真偽はともかくとして、ややもすれば停滞主義に陥る
緊縮財政策を嫌い、経済活動を活性化させて好況を呼び込み財政を好転させようと
考えたのは事実のようである。就任早々、統治指針として示した書物「温知政要」の
中でこうした経済思想がはっきりと明示されており、吉宗の政策によって日本全国が
質素(悪く言えば地味)な雰囲気に包まれる中、名古屋城下だけは異常なまでの繁栄を
取り戻した。その様子は「名古屋の繁華に京(興)が冷めた」とさえ言われている。
この活況により、東京・大阪に次ぐ大都市である現在の名古屋が形成されたとも評され
その考え方は近代資本主義におけるケインズ経済学に通じるものがあろう。理論だけで
考えれば、吉宗の緊縮財政策も、宗春の自由経済策も、共に経済統制としては有効な
考え方だった(ただし、両極端であるが)と言える。将軍に真っ向から立ち向かい、庶民の
娯楽や文化を保護し消費を拡大させる政策で、名古屋城下は一時の夢に酔いしれた。
当時の名古屋城下再現CG
当時の名古屋城下再現CG [(C)3kids/色調補正]

家康の命で拓かれた名古屋城下は、いわば
“計画都市”である整然な城下町が並んでいた。
はるか宙空に金鯱を擁く巨大な天守が浮かび、
そこを起点とし城の南方に置かれた
商業地・町民地などが繁栄を謳歌していたのである。
まさに“尾張名古屋は城でもつ”の歌にある通りであった。
しかし、現代のように経済学が理論的に実証されている訳ではない時代の事。宗春の
放任政策は、消費刺激を通り越して浪費慣習へと変化。好況を呼び込む狙いは、
いつしかバブル破綻への道筋となり、治安の悪化などの問題も多発してしまった。
尾張藩の財政は結果的に赤字へ転落、事ここに至り、尾張藩重臣らの反発と将軍
吉宗からの制裁を受け1738年に宗春は藩主を解任されてしまう。その身は隠居謹慎と
され、名古屋城三ノ丸で幽閉処分に。死して後も罪は許されず、墓石に金網をかけられて
しまう。気概を持って将軍に対抗した名古屋城主は、悲運の結末を迎えたのである。
とは言え、名古屋の繁栄を願った理想と、当時唯一将軍に異を唱え堂々と開放政策を
採った大胆さは異彩を放ち、現在にまで語り継がれている。

ところが1732年に事態は一転。西日本を中心に虫害が発生し全国的な大凶作に陥った。
これにより米不足の状況となり、図らずも米価は高騰したものの必要な米が流通せず
米不足の状態に。このため、江戸市中では暴騰する米価に怒った庶民が打ちこわしを
行うに至った。将軍のお膝元で起きた騒動は大きな衝撃を与えたが、これに対し吉宗は
以前より研究させていた甘藷(かんしょ)の普及を急がせる。甘藷、つまりサツマイモだ。
米とは別に食用になりうる穀物を生産させれば、仮に米の生産量が減少しても庶民の
食料を確保し、飢饉の防止になると考えたのである。かねてより甘藷の研究を行っていた
蘭学者・青木昆陽(あおきこんよう)を1739年に正式登用、小石川養生所内に甘藷の
栽培農園を拓かせて普及に努めた。この功績から、昆陽は“甘藷先生”と呼ばれている。

吉宗の幕政改革(6) 〜 享保の改革、総括
西日本で大飢饉が発生した翌年、1733年は一転して大豊作。これで米価は急下落し
一転して幕府財政はまたもや不安定に。吉宗は老中・松平乗邑(のりさと)らと諮り
1735年から幕府主導の米相場を制定、米価を統制価格としている。1736年には
新井白石が改鋳して以来用いられていた正徳金銀から文字(ぶんじ)金銀へと改鋳し
貨幣流通量の調整にも着手。次から次へと経済対策に取り組んでいる。
1742年、吉宗は公事方御定書(くじかたおさだめがき)上下2巻を制定。これは江戸幕府に
おける初の体系的な法令典範で、上巻は基本法令、下巻は判例から導かれる刑事法令を
記載したもの。特に下巻を御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう)とも言う。
吉宗の策定以後、これは幕府の基本典範となり明治維新まで用いられている。
倹約、社会制度の向上に始まり米価・物価統制に心血を注ぎ、法令整備まで及んだ
吉宗の政治は“享保の改革”と呼ばれ、江戸時代の三大改革の一つとして知られている。
他の2改革はほとんど失敗に終わったが、享保の改革は幕府財政の好転を成果として
生み出し(以後の社会制度変革を呼ぶきっかけにはなったが)一応の成功とされる。
幕府の年貢収入が最大値となったのは1740年代〜1750年代とされ、吉宗が享保の改革を
行ったからであり、吉宗の改革がなければ江戸幕府の滅亡はもっと早かったとされる
ほどだった。激闘続きであった“米将軍”の戦いは、勝利に終わったと言えよう。
そんな名君・吉宗は1745年に隠居し将軍職を嫡男の家重に譲った。大御所となった後も
政治を後見してきたが、1751年6月20日に死去。吉宗の葬儀に参列したのを最後に、
彼の盟友であった大岡忠相も政界を引退、この年の12月19日に亡くなった。斯くして、
享保の改革は終わりを告げ、新たな時代へと移っていくのである。
大岡家墓所 窓月山浄見寺大岡家墓所 窓月山浄見寺(神奈川県茅ヶ崎市)

★この時代の城郭 ――― 陣屋(2):無城格大名の陣屋
大岡忠相は足高の制による加増後、寺社奉行・奏者番への昇進による所領の追加も
受け、晴れて旗本から大名へと昇格を果たした。このため、本領である相模国高座郡
堤(神奈川県茅ヶ崎市)の他、三河国額田郡西大平(愛知県岡崎市)に領を封じられ
そこに陣屋を構えている。これが西大平藩庁である西大平陣屋だ。
西大平陣屋はまさに無城格大名の陣屋の好例と呼べるもので、全くの平地に敷地を
構え、周囲を塀で囲っただけの環境となっている。城郭のように高低差があったり
堀や石垣・土塁などといった軍事的障害物が用意される事は一切なかった。敷地内には
役宅や政務庁舎の建物が並んでいたものの、同様に城郭のような櫓や天守はない。
完全に“軍事機能を排除した政庁”となっていたのである。徳川三百諸侯と呼ばれる
諸大名のうち、城を持っていたのは百あまりの大名だけなので、それ以外の無城格
大名の本拠は、こうした陣屋つまり屋敷構えの邸宅だったと言えよう。これこそが
天下泰平の時代を特徴付ける城館の形態そのものなのである。華々しい近世城郭に
比べると見劣りする部分があるのは致し方ないが、このような陣屋が当時の日本の
地方行政を担う中心的役割を果たしてきたのは事実であると共に、地域に密着した
形態の城郭種類として考察してみれば、なかなか興味深いものがある。なお、
陣屋によっては地域特性や歴史的経緯によって多少の軍事性を持たせている
ものもある事を補記しておく。
西大平陣屋
西大平陣屋(愛知県岡崎市)

これは再建された復元門であるが
その奥の敷地が丸見えである事からわかるように
正規城郭のように虎口を構えている門ではない事が
一目瞭然である。また、階段等もないため
敷地の内外で高低差がある訳でもない。陣屋を囲う
堀もなく、軍事機能が一切省かれているのである。





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