★この時代の城郭 ――― 名古屋城主・徳川宗春
将軍として堅実な緊縮財政策をとった吉宗であったが、それ以上の緊縮策で蓄財に
走ったといわれるのが尾張継友。彼の政策により尾張藩は黒字に転じたが、あまりの
倹約ぶりに領民から「ケチ」と評判された上、1730年に死去した。その跡を継ぎ、第7代
尾張徳川家当主となったのが、彼の弟であった宗春(むねはる)である。
藩主に就任した宗春は、継友の政策を全面転換し自由経済主義を採用する。
一説によれば、御三家筆頭の尾張家を差し置いて将軍に就任した吉宗に対する
あてつけだったとも言われるが、真偽はともかくとして、ややもすれば停滞主義に陥る
緊縮財政策を嫌い、経済活動を活性化させて好況を呼び込み財政を好転させようと
考えたのは事実のようである。就任早々、統治指針として示した書物「温知政要」の
中でこうした経済思想がはっきりと明示されており、吉宗の政策によって日本全国が
質素(悪く言えば地味)な雰囲気に包まれる中、名古屋城下だけは異常なまでの繁栄を
取り戻した。その様子は「名古屋の繁華に京(興)が冷めた」とさえ言われている。
この活況により、東京・大阪に次ぐ大都市である現在の名古屋が形成されたとも評され
その考え方は近代資本主義におけるケインズ経済学に通じるものがあろう。理論だけで
考えれば、吉宗の緊縮財政策も、宗春の自由経済策も、共に経済統制としては有効な
考え方だった(ただし、両極端であるが)と言える。将軍に真っ向から立ち向かい、庶民の
娯楽や文化を保護し消費を拡大させる政策で、名古屋城下は一時の夢に酔いしれた。

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当時の名古屋城下再現CG [(C)3kids/色調補正]
家康の命で拓かれた名古屋城下は、いわば
“計画都市”である整然な城下町が並んでいた。
はるか宙空に金鯱を擁く巨大な天守が浮かび、
そこを起点とし城の南方に置かれた
商業地・町民地などが繁栄を謳歌していたのである。
まさに“尾張名古屋は城でもつ”の歌にある通りであった。
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しかし、現代のように経済学が理論的に実証されている訳ではない時代の事。宗春の
放任政策は、消費刺激を通り越して浪費慣習へと変化。好況を呼び込む狙いは、
いつしかバブル破綻への道筋となり、治安の悪化などの問題も多発してしまった。
尾張藩の財政は結果的に赤字へ転落、事ここに至り、尾張藩重臣らの反発と将軍
吉宗からの制裁を受け1738年に宗春は藩主を解任されてしまう。その身は隠居謹慎と
され、名古屋城三ノ丸で幽閉処分に。死して後も罪は許されず、墓石に金網をかけられて
しまう。気概を持って将軍に対抗した名古屋城主は、悲運の結末を迎えたのである。
とは言え、名古屋の繁栄を願った理想と、当時唯一将軍に異を唱え堂々と開放政策を
採った大胆さは異彩を放ち、現在にまで語り継がれている。
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