享保の改革(1)

徳川宗家断絶の危機―――。
一門を粛清した源氏将軍や豊臣家の暗愚に対し、
神君家康が用意した保障策、御三家が機能する時がやってきた。
何と、そこで選ばれたのは
本来ならば将軍レースの候補外にあった意外な人物。
ところが、その人物こそが幕府再生の才覚を持っていた。
権力闘争を勝ち抜いた天英院が推選する、紀州藩主の活躍や如何に。


新将軍誕生 〜 一足飛びに出世した人物は…
1716年8月13日、8代将軍に就任したのは徳川吉宗
天英院が強く推し、英明の誉れ高い紀州藩主であった。
(吉宗を推挙したのは月光院という説もあり判然としないが、ここでは天英院説を採る)
天下の頂点に立った吉宗であるが、本来ならば将軍どころか紀伊藩主になる事さえ
難しい境遇に在った人物である。以下、略歴を示そう。
彼が生まれたのは1684年10月21日。2代紀伊藩主・徳川光貞(みつさだ)の4男であり
紀伊家初代・頼宣の孫、神君家康から見れば曾孫にあたる。吉宗の母・於由利の方
身分の低い出自で、通説に拠れば光貞の湯殿番であった。母の地位、そして4男という
立場にあった事から、幼少の頃の吉宗は父から遠ざけられ、家臣の家で育てられた。
普通ならば、大名の末息子など部屋住みの身分で、家の相続など望むべくもなかった。
況してや家臣に預けられた境遇にあっては、まともな禄を与えられる見込みさえない。
そんな吉宗に転機が訪れたのは1697年の事。紀伊家一門が時の将軍・徳川綱吉に
拝謁する機会があったのだ。この時、吉宗(当時の名は松平頼方(よりかた))は
父・光貞や兄達とは分けられ、別の間に控えており綱吉に目通りできぬ予定であった。
ところがそれを察した老中・大久保忠朝(ただとも)が頼方を呼び寄せ、綱吉に
紹介したのである。長兄・綱教(つなのり)は紀伊藩を継ぐ立場にあり(次兄は早世)、
三兄の頼職(よりもと)は越前国高森(福井県越前市高森町)に3万石を与えられたが
初々しい若武者・頼方の登場に喜んだ綱吉は、彼にも越前国葛野(福井県丹生郡越前町)
3万石を与えて大名に取り立てたのだ。実際に越前へ赴く事はなかったが、思わぬ偶然で
部屋住みの身の上から大名に出世した頼方。ここから、彼の強運が花開いていく。
紀伊家3代当主を継いでいた綱教は、1705年5月に41歳の若さで没した。このため、急遽
頼職が4代当主の座に就くが、その年8月に父・光貞も亡くなった上、頼職までもが9月に
26歳で病死してしまうのである。結果、紀伊家の跡を継ぐ立場になった頼方。部屋住みの
4男坊は、3万石の大名を経て、何と御三家ナンバー2の紀伊家当主に登り詰めたのだ。
徳川吉宗像徳川吉宗像
紀州55万石の太守となった頼方。この時、綱吉から偏諱を受けて吉宗と改名する。
藩主となった彼は、大胆な藩政改革に着手した。当時の紀州藩は、慢性的な財政難に
陥っていた上、綱教・光貞・頼職が立て続けに亡くなった事による葬儀費用を調達すべく
借財が嵩んでいたのだ。しかし、身分の低い出自から藩主になった彼に、失うものは
何もない。大胆な方策を掲げた吉宗は、藩政機構を大幅に簡略化し無駄な部署を排除。
良い意味で庶民的であった事もあり、藩主が率先して質素倹約に努め、藩財政の支出を
減らしていく。その上、和歌山城の大手門前には訴状箱(後の目安箱)が置かれ、民の
訴えを積極的に登用。綱紀粛正や不正役人の摘発などに効果を上げ、紀州の藩政は
見る見るうちに健全化されていった。結果、10万両にも及んでいた幕府からの借用金を
返済したのみならず、藩札(藩内のみで通用する紙幣で、多分に負債しのぎの債券的
要素が大きかった)の解消など見事な実績を残したのである。
吉宗は鷹狩を好み、しばしば家臣を引き連れて領内で狩りを行った。生類憐みの令以来、
鷹狩を行う事は控えられ、禁令が解かれた後もこれを行う者は減っていた風潮にあった
時代にも関わらずである。吉宗曰く「太平に流される世だからこそ、尚武の気風を保ち
東照大権現(徳川家康)が武威を以って天下を治めた気概を取り入れる必要があり、
野に出て体力維持・健康増進に気を配り、また、領内の検分や領民の暮らしぶりを
視察する観点からも、鷹狩は有効である」との事。彼が理想としたのは、神君家康の
政治思想だったのだ。
そんな中に降って湧いた将軍後嗣問題。家格から見れば、御三家筆頭の尾張家が
次なる将軍に近い位置にあった筈であり、権勢の奪還を狙う月光院はこれを支持した。
しかしこの頃、尾張家の当主も次々と落命し、時の尾張藩主・徳川継友(つぐとも)
藩主になってまだ2年あまりしか経っておらず、藩主としての実績に乏しかった(むしろ
極度の緊縮財政策を採った結果、評判は芳しくなかった)。その上、継友は家康の
玄孫にあたるため、曾孫である吉宗よりも代が下る位置にある。こうした事情が考慮され
さらには事実上当時の江戸城を取り仕切っていた天英院の意向が加わり、8代将軍に
吉宗が指名されたのであった。遂に天下の主となった強運の持ち主、吉宗の活躍は―――。

★この時代の城郭 ――― 陣屋(1):陣屋の種類
吉宗が最初の封地とした葛野藩。もちろん、城が構えられた地ではない。この当時、
城が築かれたのは家格の高い大名の本拠地や幕府直轄の要地のみで、それ以外に
城郭は用意されなかった。以前にも記したが、こうした所に置かれたのは陣屋である。
ではここで、改めて陣屋についての考察をしてみたいと思う。「陣屋」という単語の源流を
遡れば、平安時代に宮中警護の衛士詰所をこう称したことに始まり、武士の世になると
兵士の駐屯所を指すようになったものである。戦国時代になれば、合戦時に兵が陣地に
留まるため置かれた臨時の建物の意味になる。要約すれば、陣城の建物といった感じだ。
これが変化して、江戸時代には「正規の城郭ではない武士の拠点=陣屋」となった。
正規の城でない構造物ゆえ、城に比べれば防備面が手薄になっている例が多い。要は、
領主が領内の政治や裁判を行うために設けた“役所”が陣屋なのである。このため、
基本的には敷地を塀で囲い、内部に屋敷や役宅を設置する程度の構えで、正規の
城郭のように櫓が林立したり、天守を揚げたり、多数の曲輪を分割して内部を迷路化
するような事は行われない。しかし、規模の大小こそあれ「城郭」と「陣屋」に明確な
分類規定がある訳ではなく、陣屋といえども城に倣って小高い丘や旧城地を使用し
少しでも防備を固くする努力が行われている。また、幕末期には外国船に対する警備で
築かれた砲台場やその付随陣地も陣屋として定義されたため、軍事機能が全く省かれて
いるという訳でもない。結局のところ、陣屋とは小城郭と呼んでも良い構造物なのだ。
そうした江戸期の陣屋は、学術上大きく3つの分類に分けられている。
A類 家格により領内に城を持つ事が許されなかった「無城格大名」の拠点
 大半の大小名(およそ3万石以下)の館がこれにあたる。
B類 支配者が代官を派遣した陣屋(代官所)
 1.幕府直轄地の陣屋 場所により統治拠点の奉行所なども含まれる
 2.大名が飛び地支配のために置いた出張陣屋
 3.旗本が領地に置いた陣屋
C類 海防のために置いた陣屋
 いわゆる「台場」や、辺境要地の防衛陣地

全くの余談であるが、将軍職を逃した継友のエピソードは落語のネタになっている。
江戸城への登城を命じられ、御三家筆頭の自負から自分が次の将軍だと思い込んだ
継友が、城へ向かう道すがら鍛冶屋の前を通りかかると、聞こえてきた鋼を打つ音は
「トッテンカントッテンカン…トッタテンカトッタ(天下取った)」
これは幸先良いとぬか喜びし勢い勇んで乗り込んだが、結局吉宗が将軍に。
落胆した継友、帰り道に再び例の鍛冶屋の前へさしかかれば、焼けた鉄を水で冷やし
鍛える音が耳に入る。「キシュ〜!(紀州)」と…おあとが宜しいようで。

新将軍評 〜 倹約将軍に火事将軍…常識破りの暴れん坊将軍?
紀伊家から将軍家へ。新将軍として江戸城に入った吉宗であったが、紀伊藩から
付随させた家臣はごく少数だけであった。かつて館林藩から入った綱吉や、甲府藩から
入った家宣は、家臣団を引き連れ江戸入りし、旧来の幕臣との軋轢を生んだ経緯がある。
結果、綱吉は柳沢吉保の専横を許し、家宣は家継の代まで間部詮房が権力を握った。
こうした悪習を断つため、吉宗は政治に関わらぬ近習のみを連れたに過ぎず、幕府の
譜代家臣を尊重する姿勢を見せた。これまた、機転の利く吉宗流の人事策であろう。
そのため、大奥内の権力闘争や老中たちとの確執を呼んだ間部詮房や新井白石らは
新将軍の下では立つ瀬がなく、おのずと引退を余儀なくされる。これにより、政治権力は
将軍に集中するようになり、吉宗が幕政改革を行いやすい環境が整ったのである。
昨今の歴史TV番組で話題となるのが、その手始めに吉宗が大奥の女中を大量解雇した
話であろう。江戸城に入るや否や、吉宗は大奥の女性の中から特に容姿の美しい者を
リストアップさせる。何と、入城早々に側室選びかと色めきたった大奥であったが、
然に在らず、候補者はいきなり宿下がりを申し渡されたのである。何ゆえ、と問えば
見目麗しい者ならば、大奥を出ても引く手数多で良縁に恵まれるであろうから人減らしの
対象にしたと言うのである。なるほど尤もな話であるが、それまで聖域であった大奥に
いきなりリストラの手を入れるとは大胆な事件であろう。それほどまでに、大奥は
“金食い虫”であり、また、聖域なき改革を為さねば江戸幕府の予算は窮に瀕して
いたのである。吉宗自身も紀伊藩主時代と同じように質素を貫き、自ら先頭に立って
倹約を厳命した。将軍という権力者になったにも関わらず、贅沢を戒め睨みを効かした
政治姿勢に、人々は「倹約将軍」のあだ名を付けたと言う。
また、吉宗にはこんなエピソードも。江戸城に入ってまもなく、城下に火事が発生。
すわ、江戸城も類焼かと城中が騒然となる中、将軍自らが城の建物の屋根に上がり
火事の状況や風向きを観測。これならば城に火が付く事はない、と皆に知らせ
騒ぎを収めたというのだ。この話から「火事将軍」のあだ名も。兎にも角にも、
型破りな新将軍の登場は、人々に驚きを以って迎え入れられたようだ。

大岡忠相の登用 〜 江戸の行政改革
当時の幕府において、財政再建は急務であった。天和の治の善政を為しながら、
柳沢吉保の台頭により散財させてしまった綱吉期以来の赤字は膨大な額になり、更に
幕府開闢より100年を過ぎた事で社会や経済の制度は大きく変化していたからだ。
改革のスタートと時を同じくする1717年、大岡越前守忠相(ただすけ)が伊勢
山田奉行(幕府遠国奉行の一つ)から江戸南町奉行に抜擢された。史書に拠れば、
山田の地は幕府直轄領に伊勢神宮の神域、それに紀州藩領が複雑に入り組む場所で
特に紀州藩に関する領土争いは長年の問題となっていたのだが、忠相は御三家の威光を
恐れず公明正大な裁決を行い、当時の紀伊藩主であった吉宗が(敗訴したにも拘らず)
忠相の姿勢を評価、将軍になった後に江戸町奉行に招聘したと言われている。しかし、
実際に紀伊藩領係争問題の裁決を行ったのは忠相とは異なる時代の話であり、この説は
後世、忠相の人徳を慕って後から創作された話のようだ。とは言え、山田奉行時代の
忠相は(江戸町奉行になってからの評価ほど有名ではないものの)やはり名奉行として
活躍していたらしく、評判を耳にした吉宗が江戸に呼んだ事に間違いはないようだ。
以後、忠相は吉宗の右腕として大活躍する。
山田奉行所跡山田奉行所跡(三重県伊勢市)
その忠相が中心となって対策を練ったのが江戸の防火対策であった。1718年、町人による
町火消組合をつくらせ、1720年にそれを再編していろは四十七組の町火消制度を確立。
当時、幕府直属の定火消(じょうびけし)と1717年から制定された大名火消が江戸の消火
組織であったが、忠相は町火消を加える事で増強を図ると共に、町民に対して消火の
労力・経費を負わせて幕府や諸大名の負担軽減を狙ったのだ。また、火避地の更なる
拡充を行ったり、瓦葺・土蔵造りの家屋を推奨して町屋建造物の防火性を向上させた。
“火事と喧嘩は江戸の華”と言われた当時だが、火事対策は切実な急務であったのだ。
なお、江戸の都市政策として賭博取締の強化や心中の禁止も行われた。元禄文化で
緩んだ風紀の中、賭博の横行は社会問題化し、綱紀粛正を目指す吉宗・忠相にとっては
取締の強化を必要としたのである。また、心中戯曲の流行に感化された庶民がこぞって
心中しようとする事件が続発、これも社会問題化していたのだが、同じく厳しく禁止し、仮に
心中の片割れが生き残った場合に晒し者とした上で死罪としたり、心中死した者たちは
遺体の葬送を禁じるなどして厳罰に処した。とかく“名裁判官”として有名な忠相だが
大半が後世の創作話である事が多い。それよりも、“名行政官”としての側面の方が
強い人物だったと言えよう。




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