正徳の治

意気揚々、自らも国家も厳格に律する目標を掲げ
将軍に就任した綱吉であったが、その思いは空回りし
なかなか結果を出せずにいた。そうこうしている間に
綱吉の後継者問題が浮上していく。
6代将軍・7代将軍への橋渡しはどのように進むのか。


綱吉危篤 〜 後継者は甲府宰相
富士山宝永火口
富士山宝永火口(静岡県御殿場市)

現在、富士山は新五合目まで
車で乗り入れが可能で、そこから
しばらく歩けば、宝永山に辿り着ける。
冬山でなければ、気軽に散策できる場所だが
綱吉の時代、ここから大噴火がおき
関東一円に大被害をもたらしたのである。
元禄文化花開き、太平を謳歌する綱吉の治世。規律厳守を目指す志とは裏腹に
華美な風潮に世は進む。学問に傾倒する綱吉自身、幕府の出費を増やしてしまい
行き過ぎた動物愛護精神に、民衆は辟易する始末。何から何まで空回りする政治に
遂に天も怒りを顕にしたか、1703年に南関東で大地震が発生。元禄地震と呼ばれる
この災害で、江戸市中にも被害が出たのは勿論、震源に近い小田原では城下町が
大火で焼失したのみならず、城の天守も消え失せた。徳川幕府西の枢要である
小田原城は、武家諸法度・一国一城令の中にあって特別に天守再建が許され
旧状に復した層塔型天守が揚がったものの、この地震の復旧途上にあった1707年
11月23日、今度は富士山が中腹から大噴火を起こした。これを元号から採って
宝永の噴火と呼び、以来富士山には肩を張ったような宝永火口が口を開いた。
噴火による降灰は関東一円に被害をもたらし、救済のため益々幕府財政は逼迫。
翌1708年、幕府は臨時の災害救済金徴収を決定、諸大名から100石につき2両を
取り立てるに至った。多難な情勢下の1709年正月、後継者のないまま綱吉は重病の
床に就く。生類憐みの令を引き継ぐよう遺言し、甥である徳川家宣(いえのぶ)
跡継ぎとした。綱吉の亡兄で甲府宰相と呼ばれた徳川綱重(つなしげ)の嫡男が
家宣(初名は綱豊(つなとよ))で、甲府領主の座を継承していた人物。子の無い
綱吉の後継者候補となった折、甲府城から江戸城西ノ丸に移されていた。
数日後、綱吉が息をひきとり正式に将軍後嗣に決定するや、あえて遺命に背き
生類憐みの令を廃止する事を宣言した。天下万民のため、悪法を改める事を自らの
使命とし、綱吉の遺志を絶ったのである。このため、庶民は喝采を以って新将軍を
讃え上げた。また、綱吉時代に絶大な権勢を誇り悪政を留めようとしなかった柳沢
吉保を罷免。儒学者として見識高い新井白石を侍講とし、信を置いた近習である
間部詮房(まなべあきふさ)を新たな側用人に任じ、人事の刷新に務めた。

★この時代の城郭 ――― 小田原城と甲府城:徳川幕府、西の要
小田原と甲府―――戦国期、日本最大の規模を誇った城郭と、屈強な騎馬軍団を
擁した一大城下町である。それぞれ後北条氏と甲斐武田氏の本拠であり、
後北条氏の官僚制度と甲斐武田氏の軍制は徳川氏の統治体制に採り入れられた。
江戸幕府と少なからぬ縁がある両都市は、地勢から見ても江戸の西辺を守る
重要性を持っていた。東海道を進めば小田原、甲州街道では甲府に突き当たる。
よって、戦国時代から繁栄した2つの町は江戸時代においても重視されていた。
小田原には譜代大名が配され、箱根山塊を越えてくる西国勢を迎撃するため
(戦国期よりは縮小されたものの)壮大な近世城郭が構えられた。元禄地震で
天守が滅失した後、すぐさま同規模同形式の層塔型天守が復興されたのも、
西国大名が関東という“江戸の衛星圏”に入った所で厳重な守りを固めている様子を
見せ付ける必要性があったからだ。文治政治体制になって以後、滅失した天守が
同大の層塔型天守で復興された例は他にない。小田原城の重要度が窺えよう。
甲府城も同様だ。甲斐国は四方を山岳に囲まれ、国全体が城郭のようなもの。
その中心にある甲府城は、甲斐国の防衛を指令する大本営となる。仮に甲斐国が
落ちれば、江戸の防備はおぼつかない。よって、甲府城も徳川幕府から重視され
江戸期を通じ、城主となったのは徳川一門と柳沢家(綱吉の信任による)のみ。
織豊系技術を引き継ぐ総石垣の堅固な城郭でありながら、優美な外観も有し
“舞鶴城”という風雅な別称さえ与えられていた。これまた、徳川幕府が甲府城の
維持管理に熱心であった事の現われである。幕末、新撰組が甲府城を守備拠点と
すべく行軍したものの、先に官軍が占拠してしまったため(詳細は後記)甲斐国の
防衛が果たせず、結果として江戸幕府崩壊に繋がったとされるのも頷ける話である。
左:小田原城 右:甲府城
左:小田原城(神奈川県小田原市)
右:甲府城(山梨県甲府市)


正徳の治 〜 新井白石による政治改革
イタリア人宣教師から西洋事情を聴聞し文献にまとめた「西洋紀聞(せいようきぶん)」や
自らの自伝「折りたく柴の記」などの著作が有名な新井白石。彼が行った政治を、一般に
正徳の治(しょうとくのち)と呼ぶ。その内容は、現実離れするほど高い理想を掲げ
失速した綱吉の治世方針を改め、実情に即したものへと方針転換する事にあった。
まず最初に行ったのが貨幣制度の再編。1710年、それまでの元禄二朱金と呼ばれる
補助貨幣を廃止し、乾字金(けんじきん)への交換を推進。富士山噴火災害などで
支出が増大し、緊急的に貨幣流通量を調整する必要があった事に拠る。幕府財政の
逼迫は明らかであり、1711年には朝鮮通信使の待遇簡素化なども行われている。
1712年には悪貨製造の張本人・荻原重秀も罷免された。
ところで4代将軍・家綱の死去以来、徳川将軍家の後嗣は数少ない弟やその血縁者から
選ばれ、その都度紛糾している。同様に皇室でも皇統男子の少数化が懸念されていた
時期であったため、白石は将軍・家宣と計り朝廷に対して新たな宮家創設を提案した。
これに基づき、1710年に閑院宮(かんいんのみや)家が創立された。それまで、皇統を
補完する親王家は3家(伏見宮・桂宮・有栖川宮)あったが、閑院宮が加わり4家に。
徳川御三家の皇室版と呼べるのがこの4家で、実際に後年、閑院宮家から天皇が即位。
今上天皇に連なる現在の皇統は、この血筋から生み出されているのである。これもまた
白石の功績の一つである。

海舶互市新例 〜 新井白石による経済対策
さて、綱吉後継として期待された家宣であったが、1712年に即位3年で死去してしまう。
7代将軍の座に就いたのは家宣の嫡子、わずか4歳の鍋松(なべまつ)改め徳川
家継(いえつぐ)であった。幼少の将軍が誕生した事により、白石と詮房の存在は
事実上の将軍代理となった。1713年、分地制限令を改定。1715年には海舶互市新例
(かいはくごししんれい)を制定する。この新例は正徳新令(例/令の字は使い分ける)、
長崎新令とも呼ばれ、長崎における貿易額を統制するものだ。それまでも、貿易に
関しては時節に合わせて細かく改変されてきた。例を挙げれば、糸割符制度は1655年
いったん廃止され、銀流出防止のため1668年に銀貨取引を止め金貨取引に変更。
1685年には再び糸割符制度が復活し、同時に貿易年額をオランダ船=銀3000貫・
清船=銀6000貫に制限。いずれも、加熱する貿易を抑え、国内の銀貨が海外へ
流出する事を防ぐ措置だ。その後も1686年に朝鮮=18000両・琉球=2000両とする
貿易年額制限を設けたり、1688年には清船の入港数を年間70隻とする上限を設定。
さらに1709年には清船入港数を年間59隻へと減少させている。
こうした中で規定されたのが正徳新令。貿易年額を、清船については年間30隻・
銀6000貫とし、さらに出港地別に細かく規定。例えば南京船は10隻、広東船は2隻、
寧波(ニンポー)船は11隻…といった具合だ。そして1隻あたりの積荷高も上限が
設定されている。加えて、オランダ船に関しては年間2隻・銀3000貫としている。
国内で産出される金銀銅鉱石が著しく減少した折、その貴重な資金が貿易対価として
海外へ運び出されてしまう事を厳しく防ごうとしたのである。長崎の貿易制限は
これ以後も度々改定されていく。
加えて1714年、悪評高かった元禄小判を改鋳し正徳小判を発行。慶長小判と同等の
品質に戻す事で、貨幣価値を向上させインフレを抑制しようとしたのである。
白石の経済対策は、いずれも綱吉期に暴走した経済政策に歯止めをかけ、貿易
制限と併せて旧来に復する事を狙ったもので、一定の成果を収めた。しかし、幕府の
赤字はそれを上回って悪化し続けたため、思った以上の効果は上がらなかった。
結果としては更なる改革を行う必要が残り、次の時代を待つ事になるのである。

絵島生島事件 〜 幼君の裏に見え隠れする女の権力闘争
政治の表舞台をリードしたのが新井白石だとすれば、徳川家の裏側を牛耳ったのが
間部詮房であった。特に家宣死後、家継の父親代わりのような働きを為しており
家継の生母・月光院(げっこういん)とも親密だった事から「家継は詮房の子では?」と
噂されることがしばしば(家継の幼名“鍋松”も、“間部”姓をもじったものと揶揄される)。
事の真偽はともかくとして、この当時「詮房はまるで将軍のようだ」と言われていた。
ところで、家宣には近衛家から嫁いできた熙子(ひろこ)、夫亡き後は天英院
(てんえいいん)と号した正室がいたが、彼女は嫡男をあげる事ができなかった。
この他、側室が何人かおり男子を産むことがあったが、いずれも夭折しており、
唯一成長したのが月光院、すなわちお喜世の方の生んだ家継だったのである。
実の所、天英院と月光院の仲はすこぶる悪かった。関白近衛家の出自という高い
地位にありながら嫡子を生せず閑居していた天英院に対し、身分の低い生まれなのに
家継を生んだ事により将軍生母としてこの世の春を謳歌する月光院。月光院の
暮らしぶりは贅を尽くし、間部詮房と共に天下を握って権力を欲しいままにした姿は、
天英院のみならず旧来の幕臣からも反感を買っていたのである。とは言え、将軍
家継を手元に握る月光院と詮房の権勢は絶大で、両者を追い落とす事は甚だ
難しいものであった。特に大奥は月光院腹心の年寄・絵島(えじま江島とも
取り仕切り、月光院派により江戸城の中にもう一つ“女の城”ができあがっていた。
次第に詮房・月光院・絵島らは世の反感を買い、彼らを快しとしない月光院や
老中、譜代大名らによって追い落とし策が練られるようになっていく。
高遠城址
高遠城址(長野県伊那市)

甲斐武田氏滅亡の折、仁科盛信が戦死し
徳川秀忠の庶子・保科正之が養育された城は
絵島によって三度目の脚光を浴びる事になる。
“スキャンダル”により月光院派政権は崩壊、
絵島は遂に江戸へ戻る事なく、27年後
この地で寂しい最期を迎えるのであった。
そうした情勢の中、1714年1月12日に事件は起こった。月光院の名代として寛永寺
増上寺への墓参りを行った絵島が、門限を破って帰城したのだ。本来、閉門の刻限は
厳しく管理されており、何人たりとも時間外の出入は認められなかったのだが、
権勢を振るう絵島は、自分ならば大丈夫だと甘く考え遅刻したのだった。
(実際、以前も度々遅刻した事があったがその時は地位を利用して許されていた)
門前で入れろ入れないと問答していた事が大きく知れ渡り、絵島の遅刻は大事件に。
しかも絵島は、墓参の帰りに芝居小屋を見物した挙句、その看板役者・生島新五郎
(いくしましんごろう)と密会していたのが明るみになったのだから一大事。大奥の
女性は、すべて将軍に仕えるのが第一義であるにも関わらず、他の男、しかも
舞台役者ごとき(当時、芸妓で身を立てる人間は非常に蔑まれていた)と遊興に
耽っていたとなれば重大な不義である。評定所による審議の結果、絵島は有罪。
大奥を取り締まる役にありながらの密通疑惑は死罪に値するところであったが
月光院による助命嘆願が行われ、信濃国高遠への幽閉と決まった。生島新五郎は
三宅島への遠島。絵島生島事件と呼ばれるこの事件を契機に、大奥の綱紀粛正を
理由とした月光院派の追い落としが行われ、罪に服した者は1500名にも及ぶ。
その結果、月光院の権勢は大いに失墜。政治の主導権は天英院と古参老中に戻った。
絵島のスキャンダルから発展したこの事件、天英院派の見事な政治工作と言えよう。
そうこうしていた1716年、将軍・家継は風邪をこじらせて急逝。享年わずか8歳、
当然ながら実子はいなかった。これにより徳川家光の男系で将軍継承の資格を
有した者はいなくなってしまう(家宣の弟・松平清武(きよたけ)が存命だったが
彼は越智(おち)松平家を興し臣下に下ったため、また年齢も高齢だった事から
将軍後継候補を辞退していた)。徳川宗家の断絶と呼べる事態の発生により、
家康が定めた「御三家の中から将軍候補を出す」状況になったのだ。この時、
次期将軍の選出に大きく関与したのが、勢力を回復した天英院だったのである。




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