★この時代の城郭 ――― 小田原城と甲府城:徳川幕府、西の要
小田原と甲府―――戦国期、日本最大の規模を誇った城郭と、屈強な騎馬軍団を
擁した一大城下町である。それぞれ後北条氏と甲斐武田氏の本拠であり、
後北条氏の官僚制度と甲斐武田氏の軍制は徳川氏の統治体制に採り入れられた。
江戸幕府と少なからぬ縁がある両都市は、地勢から見ても江戸の西辺を守る
重要性を持っていた。東海道を進めば小田原、甲州街道では甲府に突き当たる。
よって、戦国時代から繁栄した2つの町は江戸時代においても重視されていた。
小田原には譜代大名が配され、箱根山塊を越えてくる西国勢を迎撃するため
(戦国期よりは縮小されたものの)壮大な近世城郭が構えられた。元禄地震で
天守が滅失した後、すぐさま同規模同形式の層塔型天守が復興されたのも、
西国大名が関東という“江戸の衛星圏”に入った所で厳重な守りを固めている様子を
見せ付ける必要性があったからだ。文治政治体制になって以後、滅失した天守が
同大の層塔型天守で復興された例は他にない。小田原城の重要度が窺えよう。
甲府城も同様だ。甲斐国は四方を山岳に囲まれ、国全体が城郭のようなもの。
その中心にある甲府城は、甲斐国の防衛を指令する大本営となる。仮に甲斐国が
落ちれば、江戸の防備はおぼつかない。よって、甲府城も徳川幕府から重視され
江戸期を通じ、城主となったのは徳川一門と柳沢家(綱吉の信任による)のみ。
織豊系技術を引き継ぐ総石垣の堅固な城郭でありながら、優美な外観も有し
“舞鶴城”という風雅な別称さえ与えられていた。これまた、徳川幕府が甲府城の
維持管理に熱心であった事の現われである。幕末、新撰組が甲府城を守備拠点と
すべく行軍したものの、先に官軍が占拠してしまったため(詳細は後記)甲斐国の
防衛が果たせず、結果として江戸幕府崩壊に繋がったとされるのも頷ける話である。

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左:小田原城(神奈川県小田原市)
右:甲府城(山梨県甲府市)
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