元禄文化

綱吉の時代は(良し悪しは別として)
文治政治の完成期であり、赤穂浪士事件を除けば
天下は大いに平穏、商業流通も大繁栄を遂げている。
太平を謳歌する人々のゆとりは、豪華絢爛に花開き
新たな大衆文化が、この時代を特徴付けていく。


元禄文化 〜 富裕商人による華やかな“バブル文化”
“天下の台所”として一大商業都市になった大坂。諸大名の蔵屋敷が立ち並び、
物流と換金、消費といった売買が盛んに行われ、元禄バブルといった感がある
好景気によって、商人たちは巨万の富を得ていく。この時代、そうした経済繁栄を
背景にして富裕層による華やかな文化が作られていった。元禄文化である。
元禄文化を代表する分野は、何と言っても文学作品。天下泰平、豪華絢爛な世情を
反映した作風は、自由な人間性の追及を表現するものばかりだ。例えば、井原
西鶴(いはらさいかく)の記した「好色一代男」「好色五人女」などは“好色物”と
呼ばれ、人間の本能や欲望を前面に押し出した物語。また、“町人物”の代表作である
「日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)」は、商人が色々な商法で財を成していく姿を
描き、まさに元禄時代そのものを書き記している。なお、この作中で呉服商を営む
三井九郎右衛門なる人物のモデルとされたのが三井高利(みついたかとし)、現在の
三越グループの元となる越後屋呉服店を創業した人である(三井の越後屋=三越)。
高利以降、越後屋の主は代々八郎右衛門の名を称しており、それを捩ったものだ。
一方、西鶴と並んでこの時代の代表的作家として有名なのが近松門左衛門
(ちかまつもんざえもん)。彼が得意とした人形浄瑠璃・歌舞伎の脚本は、華やかな
西鶴の作風とは対照的に悲劇的なものが多く、人情をそそるように仕上がっている。
例えば“世話物”の傑作「曽根崎心中」は、徳兵衛なる男と遊女・お初の心中物語。
同様に「冥途の飛脚」は、駆落ちの失敗談。いずれも悲恋のストーリーだ。これら
悲劇の物語に民衆は共感を寄せ、遂には実際に心中を起こす“心中ブーム”が爆発。
社会現象までも巻き起こした門左衛門の作品、人間の情念を赤裸々に表現していた。
文学
好色物
(こうしょくもの)
好色一代男・好色一代女
好色五人女(井原西鶴)
武家物
(ぶけもの)
武道伝来記・武家義理物語(井原西鶴)
町人物
(ちょうにんもの)
日本永代蔵(井原西鶴)
世間胸算用(井原西鶴)
商売繁盛の機知や工夫を紹介する物語
大晦日における町人の悲喜劇
世話物
(せわもの)
曽根崎心中(近松門左衛門)
心中天網島(近松門左衛門)
冥途の飛脚(近松門左衛門)
徳兵衛とお初の心中物語
治兵衛と小春の心中物語
忠兵衛と梅川の駆落
時代物
(じだいもの)
国性爺合戦(近松門左衛門)
明国復興にかけた鄭成功の史実を脚色、
大好評を博す
俳諧
奥の細道(松尾芭蕉)
猿蓑(松尾芭蕉)
笈の小文(松尾芭蕉)
野ざらし紀行(松尾芭蕉)
東北・北陸を巡遊する俳文紀行
芭蕉の俳諧集
関西の俳文紀行
甲子吟行(かっしぎんこう)とも
絵画
土佐派
北野天神縁起絵巻・源氏物語図屏風(土佐光起)
住吉派
洛中洛外図巻(住吉具慶)
装飾画
燕子花図屏風・紅白梅図屏風(尾形光琳)
浮世絵
見返り美人図(菱川師宣)
建築
善光寺再建本堂・東大寺再建大仏殿
工芸
八橋蒔絵硯箱(尾形光琳)
色絵藤花文茶壷(野々村仁清)
鉈彫り(円空)
友禅染(宮崎友禅)
儒学
京学
六諭衍義大意・駿台雑話(室鳩巣)
南学
靖献遺言(浅見絅斎)
陽明学
大学或問(熊沢蕃山)
翁問答(中江藤樹)
古学
聖教要録・中朝事実・武家事紀(山鹿素行)
政談(荻生徂徠)
経済録(太宰春台)
史学
本朝通鑑(林羅山・林鵞峰)
読史余論・古史通・藩翰譜(新井白石)
大日本史(水戸藩)
国学
万葉代匠記(契沖)
源氏物語湖月抄(北村季吟)
自然科学
貞享暦(安井算哲)
蔵志(山脇東洋)
塵劫記(吉田光由)・発微算法(関孝和)
庶物類纂(稲生若水)
大和本草(貝原益軒)
農業全書(宮崎安貞)
元禄文化の代表例
大坂で西鶴が記した「好色一代男」は、江戸で書籍として刊行された。この本の挿絵を
描いたのが菱川師宣(ひしかわもろのぶ)だ。師宣は浮世絵の創始者である。
師宣と並んで代表されるこの時代の絵師が尾形光琳(おがたこうりん)。緻密な構図で
練り上げられた彼の作風は完璧と呼べる完成度を誇っており、作品を見た事のない者は
恐らく居ないだろう。光琳は工芸にも秀でた才があり、蒔絵細工でも名を残した。
その他、この時代の絵画作家は土佐派の土佐光起(とさみつおき)、住吉派の住吉
具慶(すみよしぐけい)、工芸家には京焼の大家・野々村仁清(ののむらじんせい)
友禅染の宮崎友禅など、いずれも錚々たる面々が名を連ねている。
一方、“学者将軍”綱吉の治世下にあって学問の隆盛も著しかったのが元禄時代。
国学(こくがく)では契沖(けいちゅう)が万葉代匠記(まんようだいしょうき)を記し
科学分野においては、もともとは囲碁打ちであった安井算哲(やすいさんてつ)
独自に天文学を極め、新たな暦算方法である貞享暦(じょうきょうれき)を成立させ、
正式に朝廷が採用した。以後、算哲は渋川春海(しぶかわしゅんかい)と改名し、
幕府の天文方に任じられた。
天文学・暦学に深い関連があるのが算学。吉田光由(よしだみつよし)の著した
塵劫記(じんこうき)は、和算の入門書。寺子屋の教科書として普及した。逆に、
和算の最高峰として完成されたのが関孝和(せきたかかず)の著作である発微
算法(はつびさんぽう)。代数計算方法まで記された高度な数学書であると同時に
日本における位取りの単位「一、十、百、千、万、億、兆、京…無量大数」を規定した。
同時期、貝原益軒(かいばらえきけん)は大和本草(やまとほんぞう)という本草書を
記載。本草書とは、動物・植物・鉱物など自然科学の品種を紹介した百科事典で
大和本草では1362種類もの項目が記されている。また、農業全書という農学書を
宮崎安貞(みやざきやすさだ)が発行。こうした書物は、当時確立した
版木出版技術によって大量発行され、日本の学力向上・技術革新に一役買った。
善光寺本堂
善光寺本堂(長野県長野市)

1707年に再建された巨大な本堂。
江戸時代は善光寺参りなど
有名寺社への参詣が庶民の流行となり
大量の参拝客を迎え入れるために
大型の庇を設けているのが特徴。
当時の時代背景が、建物の構造にも
現れているのである。
学問に関して欠かせないのが儒学の競争。幕府が施政根幹として朱子学の中で
いくつかの派閥が成っていたのみならず、朱子学と対立する陽明学や古学、
心学などの学説も大いに勃興していた。
まず朱子学だが、当時の主流とされた京学(きょうがく)は、もともとを藤原惺窩
(ふじわらせいか、冷泉家末裔にして戦国時代末期の儒学者の発端とする学派。
惺窩の薫陶を受けたのがあの林羅山で、幕府侍講となった林家は朱子学の中心として
君臨し続けていた。しかし、羅山の弟子である山鹿素行(やまがそこう)は古学派に
転じて朱子学のありようを批判。また、羅山の弟弟子・松永尺五(まつながせきご)
教えを受けた木下順庵は木門(ぼくもん)派を成し、新井白石(あらいはくせき)
室鳩巣(むろきゅうそう)など、気鋭の弟子を数多く輩出。大和本草を刊行した貝原
益軒、徳川光圀の師範・朱舜水らも大別して京学派に属したが、林家とは一線を画し
(特に水戸家は御三家にも拘らず将軍家を批判するほどだった)一口に京学と言っても
様々な立場で自論を展開していた。
また、同じく朱子学の中でも別の派閥だったのが南学(なんがく)派。南学派は戦国時代
土佐へ疎開した学者・南村梅軒(みなみむらばいけん)が興した学派。江戸時代に
崎門(きもん)学派の山崎闇斎、垂加(すいか)神道の野中兼山(のなかけんざん)らが
活躍、靖献遺言(せいけんいげん)を著した浅見絅斎(あさみけいさい)や名宰相
保科正之らは山崎闇斎の門下にあった。
その朱子学と激しく対立したのが陽明学(ようめいがく)派。近江聖人と称され、近江国
小川に藤樹書院なる私塾を開いた中江藤樹(なかえとうじゅ)は、数多くの門人を抱え
中でも熊沢蕃山が池田光政に招かれ岡山治世に功績を挙げたのは先述の通り。
儒学にはこの他、古学派や心学(しんがく)派も。古学派の中でも聖学(せいがく)を
興したのが山鹿素行で、兵学者としても名を馳せ、赤穂藩士に兵術を講義していた。
ちなみに赤穂城の縄張りは、山鹿流兵術に大きな影響を受けている。
その赤穂浪士を処分する論拠を挙げた荻生徂徠も古学派に属し、古文辞学派の立場を
とっていた。京都で古義堂(こぎどう)という私塾を構え、古義学派(堀川学派)を称した
伊藤仁斎(いとうじんさい)も古学派の重鎮。
心学派は石田梅岩(いしだばいがん)が名を馳せた。これら儒学派閥の形成は
幕末、佐幕・倒幕各派の政治的論拠を醸成するに至るのだ。

奥の細道 〜 松尾芭蕉、俳諧を遊興から芸術に昇華さす
元禄文化における最大の芸術家と呼べるのが松尾芭蕉だろう。伊賀国上野の出身、
武士の身分を捨てて俳諧の道に進んだという経歴は、常に「忍者ではないか?」という
憶測を呼ぶが、それは一先ず置いておこう。江戸で蕉風俳諧(しょうふうはいかい)と
呼ばれる新しい俳諧を創作した芭蕉。それまでの俳諧は、奇抜さや洒落、滑稽さを求め
単なる言葉遊びの遊興に過ぎなかったのだが、蕉風俳諧は侘び寂びの境地を求め、
人の心に染み入る真の芸術性を目標としていた。その題材を求め、芭蕉は度々旅に出て
天地の中にある人間本来の姿や、その土地特有の自然や文化・歴史などを深く探り
作り上げる俳句の中に究極の芸術性を取り込む努力を惜しまなかった。こうした旅路で
紀行文を兼ねた俳句集を作り上げたのだが、最も有名な作品が奥の細道であろう。
その旅程は1689年3月27日に江戸を発つ所から始まる。東北へ向かった芭蕉と同行の
門人・河合曽良(かわいそら)は、歌枕(古歌に詠まれた名所旧跡)を辿るために
日光を経て白河古関を通過、二本松・白石・仙台を経由し松島へ。石巻から内陸へ入り
義経主従最期の地である奥州平泉、奥羽山脈を越えて古刹の立石寺を参詣。急流・
最上川は船で下だり、出羽の霊場として有名な月山・湯殿山・羽黒山を踏破、象潟の
景観を眺め日本海沿いに酒田、鼠ヶ関、出雲崎、高田、親不知、金沢、小松へ。
大聖寺から永平寺に向かい、燧ヶ城(ひうちがじょう)址を訪ね敦賀に至り、8月末
大垣へ到着した所で終了(南下して伊勢長島に9月初旬達したものを終了とする説も)。
約6ヶ月、およそ2400kmにも及ぶ長大な行程を2人は歩き通したのである。
“奥の細道”行程図“奥の細道”行程図
芭蕉はこの道において、各地の情景を織り込んだ句を多数残している。
皆よく知る歌だが、特に有名なものをいくつか掲載しておこう。
行く春や 鳥啼(なき)魚の 目は泪 《千住》
夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡 《衣川(平泉)》
閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声 《山寺(立石寺)》
五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川 《大石田(最上川)》
荒海や 佐渡によこたふ 天の河 《出雲崎》
蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ 《大垣》
芭蕉はこの他にも旅を行い、笈の小文や野ざらし紀行といった作品を作っている。
1694年に九州への旅を思い立ち、その途中の大坂で病を得て没したが、最期においても
以下の句を詠み、終わらぬ旅への情念を吐露している。
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる

[意味] 旅の途上で病気になろうとも、
夢の中では草の枯れた野原を旅している…。
左:松尾芭蕉 右:河合曽良左:松尾芭蕉 右:河合曽良



前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る