元禄の波風

幕府が成立して80年あまり。もはや戦乱の世はなく
天下泰平を謳歌する時代になっていた。
とは言え、平和な世の中ほど気の緩みがおこり
何かと問題も発生するというもの。
5代将軍の治世、どのように進んでいくのか。


綱吉の幕政改革 〜 学者将軍、理想の国造りを推進
生類憐みの令(下記)で何かと悪評の高い綱吉であるが、決して無能な君主ではない。
彼は朱子学の根本を追求し精進する学者として有名であり、国の統治とは何たるかを
日々追求し続け、治世に活かそうと考えていた。また、綱吉が重用した堀田正俊は
農政家として優れた人物。この2人の思惑は合致し、幕政改革に乗り出した。
手始めに行ったのが、代官の規律遵守。武断の世が終わった事で、代官の腐敗が
横行する世の中になっていた。年貢を搾るだけ搾り、しかも生活に困窮した農民に
高利貸しを行うような悪徳代官が社会問題化していたのだ。綱吉と正俊は、このような
代官を厳しく取り締まり、真に農民のためになる人材と交代させていく。また、当時
続発した「大名家の御家騒動」に関しても毅然とした態度を取り、問題のある家は
容赦なく取り潰していった。御家騒動とは、大名と家臣の間や家臣同士の中で発生した
権力闘争である。この頃、武力による統治秩序が薄れたため、こうした軋轢が表面化し
全国各地で火種が燃えるようになっていたのである。一部には、無能な君主を
改心させるべく家臣が敢えて問題を起こして御家の建て直しを図った例もあるが
(1632年の黒田騒動、1671年の伊達騒動などが好例)往々にしてこれらの騒動は
手の付けられない大問題となる事が多く、大名の統治を破綻させる危機と捉えられよう。
国の根幹を揺るがし家臣領民に迷惑を強いる事を嫌った綱吉は、御家騒動を厳格に
断罪したのだ。その一方、有能な人材は家格にこだわらず登用し、外様大名でも
起用する器量を見せ付けた。外様の登用という思い切った政策を用い、綱吉は
“飴と鞭”の厳格な運用で箍の緩みつつあった幕府の規律回復を狙っていった。

堀田正俊の落命 〜 学者将軍に訪れた不幸
秩序と規律を重んじる綱吉の政治方針はますます加熱。将軍自身、質素倹約に努め
諸大名の範たるよう律し、幕府を支える譜代大名であろうと落ち度があれば即座に
改易などの処分を加えていく。また、人助けをした駿河の農民には褒美として年貢の
免除を申し付けたり、孝行を奨励する触書を発したりして庶民の安寧も目指していった。
こうした取り組みにより、幕府の年貢収入は徐々に好転。ちょうどこの頃、幕府が直轄
管理していた佐渡金山や大森銀山などの産出量が激減し、鉱山収入に行き詰まりが
見えていたのだが、何とかそれを補う事ができた。また、1682年新たに勘定吟味役の
職を設け幕府財政監査を厳格なものにし、できるだけ不要な支出を減らす努力をした。
綱吉が正俊と為したこうした成果は「天和の治」と評されている。現代ではとかく悪評
ばかりが先行する綱吉だが、決して愚君ではなかったのである。
そんな綱吉の歯車が狂い始めたのは1683年から。この年の5月、館林藩主にして将来
将軍職を譲るはずだった愛児・徳松がわずか5歳で病死してしまったのである。さらに
翌1684年8月28日、最も信を置いていた腹心・堀田正俊が、江戸城内御用部屋付近で
若年寄・稲葉正休(いなばまさやす)に刺殺された。正休もその場で討ち果たされた為
この殺人劇の真相は闇の中であるが、ともあれ、綱吉の落胆は大きかった。愛する
息子と片腕とも呼べる部下の死によって、綱吉は精神的に追い詰められたようだ。
なお、御用部屋とは老中や若年寄らが集まって幕政運営を協議する部屋。現代風に言えば
国会議事堂の本会議場といったところであろうか。事件後、将軍に危害が及ばぬよう
御用部屋は将軍の部屋から遠ざけられた。このため、将軍と老中の間を側用人が取り次ぐ
ようになり、以後、側用人の権勢が強まっていく。こうして取り立てられるようになったのが
綱吉の側用人から出世した柳沢吉保(やなぎさわよしやす)である。正俊の死後
1688年頃から吉保が綱吉の腹心として権力を握るようになるのであった。

生類憐みの令 〜 歯車の狂い始めた学者将軍
正俊の死後、政治は表立った成果が上がらなくなる。また、徳松に代わる男子もなかなか
産まれず、綱吉の後継者問題も大きくなっていく。何とか男子を得たいと思う綱吉は、
より一層規律を正し、神仏の加護を貰おうと傾倒していった。このため1685年7月に
動物愛護令、生類憐みの令を発し“生きとし生けるもの全てを慈しむ”事を政治理念に
取り込まんとしたのである。無論、その考え方に間違いはない。現代の日本でも、
「動物の愛護及び管理に関する法律」は制定されている程である。しかし綱吉の定めた
この規定は度が過ぎたもので、病気の牛馬の処分禁止・魚や鳥の食用売買禁止など
日常生活に支障を来たすほどの内容であった。1686年には蚊を退治した者までもが
処罰された有様。害虫駆除までもが禁じられるとは本末転倒、動物よりも人間の方が
軽んじられる世の中とされたのだ。綱吉が戌年生まれだった事から、特に犬は大切にされ
迷子の犬は必ず探し出せとか、怪我をした犬は犬医者の診察を受けさせよとの過保護な
政策が打ち出された。1695年、何と幕府は江戸近郊の中野・四谷・大久保に野犬を養う
施設まで作り数万匹もの犬を保護。その面積は16万坪もあったという。“お犬さま”ばかりが
手厚く保護され、そのために人間が苦労する世を嘆き、いつしか庶民は綱吉の事を
“犬公方”とこき下ろしていったが、厳格な規律こそ幕政運営の要と公言する綱吉に
表立って反対できる幕閣は誰一人いなかった。唯一、生類憐みの令に苦言を呈したのが
水戸の御老公、徳川光圀のみであった。こうした事から、光圀は“庶民の味方”という
イメージが出来あがり、かの有名な“水戸黄門漫遊記”の題材とされたのだろう。
ただし、光圀もまた“作り上げられた殿様”である事は否めない。江戸初期の四賢君に
数えられ、世直しの代名詞のように祀り上げられてはいるが、綱吉同様学問に傾倒し
水戸学の創生や大日本史編纂を始めた事で水戸藩の出費は激増してしまい、領民に
過酷な課税を行っているのだ(一説に拠れば、八公二民にまでなっていたという)。
そういう意味では、綱吉も光圀も似たり寄ったりなのである。
さて生類憐みの令は数次に渡って発布され、綱吉の母・桂昌院(けいしょういん)
賛同した事から、エスカレートの一途を辿っていった。親孝行も綱吉自身の掲げる
“規律大事”に叶うものであるので、彼としては生類憐みの令は動物愛護だけでなく
父母への孝を達成するものでもあったのだ。

湯島聖堂の創立 〜 学者将軍、ますます学問に傾倒
朱子学に基づき国の治世を定めた綱吉。彼は勉強熱心で、自分が学ぶだけではなく
家臣らにも盛んに講義を行い、広く知識を浸透させようとした。また、より一層の勉学に
励むため、より良い学者を求めていた。そんな中、儒官の林鳳岡(はやしほうこう)
上野に私塾を開いており、そこで孔子を祀っている話を聞きつける。鳳岡は羅山の孫。
林家は羅山以来、代々幕府の儒官を務めていたのである。そんな林家の私塾はどんな
ものか、興味を持った綱吉は早速訪問。ところが、私邸の孔子廟では規模が小さく
とても綱吉の満足するものではなかった。せっかく有能な儒官が祀っているのだから
もっと大々的に、万民に儒学を広める事の叶う施設を整えるべきと考え、私塾を移転し
新たな聖堂を創建する事とした。その結果、1690年湯島(東京都文京区湯島)に壮大な
聖堂が完成。これが湯島聖堂である。翌年には鳳岡を大学頭(だいがくのかみ)に任じ、
林家は代々にわたってこの職を引き継いでいく。大学頭とは、幕府学問所の長官職。
この他、有職故実を重視した綱吉は寺社の改修にも積極的に乗り出す。学問将軍は
ますます学問に傾倒していくのだが、それにより幕府の出費も増加。せっかく天和の治で
幕府収益が好転したのに、今度はそれを食い潰すほどに財政を圧迫するようになって
しまった。学問好きは結構な話だが、万事限度が肝心という事か。
なお、湯島聖堂建立に先立つ1684年には天文方を設置し暦の改定も行っている。
綱吉は科学面での学問もそれなりに重視していたようである。

荻原重秀の貨幣改鋳 〜 改悪貨幣、物価高騰の引き金に
1688年に側用人とされ出世しはじめた柳沢吉保。1694年には老中となり、1698年には
老中筆頭、1706年には大老格となっていく。そんな吉保が財政担当として引き立てたのが
荻原重秀(おぎわらしげひで)なる人物である。勘定吟味役に就いていた重秀は
幕府財政の好転策(?)としてとんでもない案を用意した。貨幣改鋳である。
当時、幕府財政は逼迫の度合いを深めていた。また、物流の発展が進んだにも関わらず
世の中に流通していた貨幣の量は増加していなかった。本来ならば、需要の増加に
伴って貨幣流通量も増やさねばならないのが経済学の基本であるが、幕府には金がなく
鉱山産出量が減った事もあり、新たな小判を作成するための地金がなかった。
そこで重秀は、今まで流通していた小判を回収し、その金の素材に銀を混ぜて新たな
小判を作り直す案を考えたのである。要するに、貨幣の材料になる金の品質を落として
新しい貨幣にする事で、小判の在庫量を増やすというのである。これにより、元々
10枚の小判を作る材料金から13枚の小判を作り出す事が可能となった。増えた3枚が
幕府の儲けとなる訳である。旧来の貨幣の流通量が1.3倍となり、しかも増加分が
幕府の貯えになるのだから、綱吉は一も二もなく飛びついた。斯くして1695年に
発行されたのが元禄小判・元禄銀であった。
ところが、この政策は全く意味を為さなかった。貨幣流通量が増えただけでは、単に
物価が1.3倍に高騰するだけの事なのである。ましてや、旧来の小判よりも粗悪な
小判になったとあらば、貨幣に対する信用度が低下しただけである。新貨幣が
登場しても、幕府財政は計算上だけ貯蓄が増えたのみで、現実的な効果は
なかったのだ。重秀は翌1698年に勘定奉行となったが、物価高騰は止まらなかった。

元禄忠臣蔵考(1) 〜 浅野内匠頭、殿中で刃傷に及ぶ
1701年、和暦で言えば元禄14年の3月14日。この日は、朝廷からの使者が江戸城で
伝達を行う日であった。古式に則り、勅使を迎える準備が整えられたのだが、
その勅使を饗応する役を仰せ付かったのが播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩
(あさのたくみのかみながのり)。そして、浅野に式次の指南をしたのが高家筆頭
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなかよしひさともであった。実はこの2人、
あまり仲が良くなかった。講談や戯作に拠れば、吉良が指南の見返りに賄賂を求めたとか
わざと誤りや無理な注文を付けて浅野を虐めたとか言われている。真偽の程は兎も角、
この日も江戸城本丸御殿松の廊下で浅野に行き会った吉良が、彼を影であざ笑い…
それを見た浅野は堪忍袋の尾が切れ殿中にも拘らず抜刀、いきなり吉良に斬りかかった、
というのが有名な件(くだり)。背中から一太刀、更に額にもう一太刀、猶も斬り込もうとした
所を、居合わせた旗本・梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ、本名は頼照(よりてる))
取り押さえられた。この間に吉良は逃げ果せ、一命は取り留める。一方、捕らえられた
浅野は陸奥一関藩主・田村建顕(たむらたつあき)の屋敷に押し込められた。
この一件に対し綱吉は、勅使饗応の役目を忘れ刃傷沙汰を起こし、幕府の面目を潰した
浅野に対して大いに激怒、即日切腹の命を下した。一方、吉良に対してはお咎めなし。
当時、武士同士の争い=喧嘩については武家諸法度にある通り“喧嘩両成敗”が
大原則であったにも関わらず、こうした処断が為されたのは異例中の異例であった。
この裁決が、後の赤穂浪士討入事件を引き起こすのである。
ともあれ、この事件により播州浅野家は御家断絶となり浅野の居城・赤穂城は召し上げ。
この時、残された家臣らは城を枕に討ち死にする覚悟で籠城せんとする。しかし、
それを押さえたのが国家老・大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)であった。
籠城しても意味はなく、単に無駄死にとして終わるだけだ。そう説いた良雄は、主君切腹の
無念を胸に抱きつつ、粛々として赤穂城を後にした。実は良雄、7年前の1694年に
無嗣によって同じく御家断絶となった水谷(みずのや)氏の居城・備中松山城を幕命に
基づき受け取る任を果たしていた。この時、水谷氏の遺臣らも同様に城で一戦交えて
水谷氏再興を主張しようとしていたのだが、良雄はその無謀を説いて帰順させたのだ。
あの時、水谷氏を降しながら、今回自分だけが籠城などするのは筋道に合わない。
武士らしく潔いけじめを付けつつ、次の一手を考えるのが良雄の戦略であった。

元禄忠臣蔵考(2) 〜 赤穂浪士、独力で吉良の首級を挙げる
ひとまず赤穂藩の浪士は散開した。浪々の身となった彼らは、それぞれの生活を
送りながら、主君の仇を討つ機を窺ったのである。無論、それを諦めてしまった者も
いたが、ある者は吉良の動きを探り、またある者は資金や武具の調達に動く。この間、
大石良雄は幕府に働きかけ、何とか浅野家再興ができないかという工作も行った。
喧嘩両成敗に適わぬ“犬公方”の裁量に不満を持つ庶民らもこぞって浪士の肩を持ち
世間ではいつしか「浪士による仇討ち」が行われる事が“当然の予定”という風潮に
なっていく。それは即ち、吉良が“憎むべき敵”として認知される事に繋がった。このため、
江戸中心部の呉服橋にあった吉良の役宅は召し上げられ、郊外の本所へ移転。
世論の風当たりを感じた幕府も、吉良を切り捨てる方策に動いたのだ。その一方、
綱吉の裁決を誤審と認める訳にもいかず、大石による浅野家再興の願いも否決。もはや
主君の恨みを晴らす術が一つに限られた赤穂浪士ら47名は、1702年12月14日未明
吉良邸に討ち入った。雪の舞い散る中で行われた襲撃に、吉良方の防備は上手く働かず
激闘の末、吉良上野介は討ち取られた。見事に首級を挙げた浪士らは、そのまま
主君・浅野内匠頭長矩が葬られた品川泉岳寺へ向かい、墓前に仇討ち成功の報告を。
この後、浪士らは自ら出頭し幕府の沙汰に従う事とした。
ところが、幕府内部では赤穂浪士の処分について紛糾する。浪人が徒党を組んで幕府の
重職である高家筆頭の屋敷に押し入り殺傷を行うのは重罪であるとする意見と、主君の仇を
討つため正当な行動、彼らこそ忠義の士であるという意見で真っ二つに分かれたからだ。
特に林鳳岡ら朱子学を大事とする面々は赤穂浪士の助命を訴えている。また、諸大名らも
処罰どころか不屈の忠義心を持つ浪士を召し抱えたいと思う者が続出。簡単な判断は
できなかった。
そんな中、儒学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、時の大老にまで出世していた柳沢吉保に
「浪士の行動は彼らにとっての忠義を貫いたが、法を違えた事に代わりは無い」と献策。
この意見が最終的に綱吉の裁決を得、浪士の処分が決定した。忠義の士に対する最大限の
温情として、犯罪者と言えど斬首ではなく武士らしい切腹で最期を遂げる事になった。
後年、これを題材として作られた講談が忠臣蔵だ。名家を鼻にかける傲慢な吉良に耐えかね
殿中にもかかわらず刃傷に及んだ浅野内匠頭、不慮の事件で城を追われ浪々の身になるも
時節を耐え忍び、遂に主君の本懐を遂げて華と散った赤穂浪士、という筋書きは日本人の
人情に訴えるものがあり、今もなお根強い人気を誇っている。

元禄忠臣蔵考(3) 〜 実際のところ…事件の裏の裏
さて、忠臣蔵といえば「善玉赤穂:悪玉吉良」という構図が当然になって(しまって)いる。
陰険な吉良が何かにつけ浅野に意地悪をし、それに耐えかねた刃傷そして仇討ちという物語が
定着しているからだろう。では、その意地悪と言われるものはどのようなものであったのか?
講談等で作り上げられた仮作を除き、実際にあったと考えられているのが、賄賂の要求と
式次指南の遅滞とされている。まずはこの賄賂であるが、実際には“袖の下”というような
後ろめたいものではなく、当時の認識としては“指南の感謝料”的な意味合いが強かったようで
ごくごく一般的なものであり、ことさら吉良が強欲な人間だった訳ではないのだ。また、指南の
遅滞というのは、吉良が自身の仕事を優先し浅野に対していつまでも指南を行わず、ために
浅野家の準備が行えなかったというものなのだが、これについても解説すると、吉良上野介は
勅使下向の段取りを打ち合わせるため、将軍綱吉の命に基づいて京都へ赴いていた。吉良が
江戸を不在にしている間に浅野家への指南兼任が指定された訳で、浅野家は吉良が全然
江戸へ戻って来ないため儀式直前まで指南が行われなかったと記録しているが、これは単に
浅野側の逆恨みとしか言いようが無い。吉良が江戸へ戻ったのは2月下旬だが、それは吉良が
本来の職務を行っていたが為の事であり、別段、浅野家へ悪意を働かせた訳ではないのだ。
浅野が吉良に恨みを覚え、そのため刃傷に及んだとされる根拠として用いられるのが、浅野を
組み伏せた梶川が記した日記「梶川与惣兵衛日記」で、そこには吉良へ斬り付けた浅野が
「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだ、とある。つまり、浅野は前々から吉良に恨みがあり
殿中にも拘らず抜刀した、とされている。ところが実はこの日記、改竄の疑いが強いのである。
初稿(つまり、刃傷当時の記録)にはそのような記載がなく、むしろ松の廊下における浅野は
意識朦朧、どうやら乱心して刀を抜いたというような記述となっているのだ。浅野には癲癇らしい
持病があったとされており、どうもその症状により事件を起こした感が強い。事件後の聴取でも
「何が何だかよく判らない」と浅野は述べており、遺恨ではなく突発的事件だったのだろう。
だとすれば、綱吉の裁決も当然のものと言えよう。喧嘩ではなく乱心なのだから、吉良に
咎はなく、浅野に一方的な非があると判断して当然である。事件の本質を「喧嘩」とするか
「乱心」とするかで、判断は大きく変わって来よう。そもそも吉良は刃傷に対して何ら反撃を
していないため、互いに争った「喧嘩」には当たらないのだ。
梶川日記は後に書き改められ“浅野に恨みが在った=吉良が悪人であった”と変更されたが
これは赤穂浪士による仇討ち機運の盛り上がりに釣られて、あるいは、幕府側から何らかの
圧力があって、このような事になったと思われる。となれば、(現在に伝わる)梶川日記の
有名な行には、さほどの信憑性がないのである。
赤穂城址赤穂城址(兵庫県赤穂市)
加えて、赤穂浪士による討ち入りについても考えてみたい。忠臣蔵の戯作にあるため、
仇討ちから連なる襲撃は当然、と誰しも考えているのだが、実際にそんな事が許される
筈はない。現代風に罪状を考えれば住居不法侵入、建造物破壊、殺人・傷害罪、という
ところであろうが、いやいや、そんな簡単なものでもないのである。
江戸時代の大名・諸侯というと、連邦国家を構成する国家元首と考えるべきであり、
その家臣は当然、その国の事務官・兵員に相当する。もちろん、江戸屋敷は“大使館”と
言ったところであろう。そこに襲撃をかけ、大量殺人を行ったのである。となれば、
“播州浅野国の旧兵員”が、“吉良大使館に乱入、元首以下大使館員を殺傷”した事に
なろう。こうなると、事情はだいぶ変わってくる。滅亡した浅野国の残党が、敵対する
吉良国に対して報復テロを行ったという感じである。つまり国家間の戦争が、江戸市中で
勃発したのである。もし「N国の特殊部隊が、東京のA国大使館に攻撃を行った」という
ニュースが流れたら、皆様はどう思われるであろうか?
江戸幕府の確立により天下は太平に治まった。その状況下で行われた仇討ちは、戦国
乱世への逆行を意味した。当然、幕府の権威に逆らった重大事件と捉えられる。事は
幕府権威を無視し統治体制への反逆を行った、国家的大罪なのである。浪士の仇討ちは
「仮名手本忠臣蔵」として脚本化されたが、「仮名手本」というのは、いろはにほへと…の
順番で7文字ずつ仮名を並べると、一番端に来る文字が“とかなくてしす”つまり
“咎無くて死す”という言葉になるからだと言われている。しかし上記の事から考えれば
咎無くてどころか、大いに問題ある行動であるのは明らかだ。
ちなみに、封建社会において親族や主君の恨みを晴らす仇討は合法とされていて、ために
劇画や現代のTV時代劇などでも当然のようにそうしたシーンが描かれている。よって、
赤穂浪士の討ち入りも全く不自然な点がないように思われているのだが、本来の仇討は
正当な手続きや許可を経て(個人的仇討は公儀から許可証を必要とし、公的な場合には
大名などが発する主命や上意状がなくてはならない)初めて認められるものなのだ。
そうした手順がない討入りは、正当な仇討ではなく単なる私刑に過ぎない。荻生徂徠が
赤穂浪士を断罪し綱吉も認めたのは、こうした事情に基づいている。一見、忠義の士を
処罰した冷酷な判断に見えるものの、実はきちんとした裏づけのある結審なのである。
以上の事を考慮すると、単純に「善玉赤穂:悪玉吉良」などという構図では片付けられない。
むしろ、発狂した浅野内匠頭の短慮により幕府権威と吉良上野介に対して危害が加えられ
赤穂残党による反乱行為という帰結に及んだと考えるべきで、「悪玉赤穂:善玉吉良」とさえ
言えよう。“固定されたイメージ”を覆すのは難しいものだが、もう少し吉良上野介を
擁護する検証が為されるべきではないだろうか。
黄金堤
黄金堤(愛知県幡豆郡吉良町)

吉良上野介が心血注いで築いた堤防。
水害が発生するのは、近隣の西尾藩領内から溢れた水が
吉良領内へ流入するためだった。この堤防を築く事で
西尾藩の治水対策に問題が生じる可能性が懸念された為
西尾藩では築堤を嫌がったらしいのだが
領民を救うため、上野介は西尾藩に
頭を下げてこの堤防を築いたという。
値千金の堤防は、黄金(こがね)堤と呼ばれている。
付け加えるならば(全国的には嫌われている)吉良上野介、その領国であった三河国幡豆郡
(現在の愛知県幡豆郡吉良町近辺)では名君として慕われている。幡豆郡は度々繰り返される
洪水に悩まされていたのだが、上野介義央は私財を投じて堤防の構築を行い水害の発生を
防ぐ功績を挙げている。また、何とか領民の暮らしを良くしようと特産品の開発を考え、
浅野内匠頭に懇願して赤穂の塩の作成方法を教えて貰おうとした事があるほどなのだが
浅野はこれを「秘伝の技法」としてむべもなく拒絶した。塩の話と言えば戦国時代、上杉謙信が
甲信の領民を救うため、敵対していたにも関わらず武田信玄に援助を行った話が有名だが
それに比べて浅野のこの仕打ち、あまりにも無慈悲と言うべきではなかろうか。どうやら
「浅野を虐めたのが吉良」というのではなく「吉良を虐めたのが浅野」というのが真相のようだ。
丹波の名君と慕われながら謀反人の烙印を押された明智光秀が、近年復権の兆しをみせた如く
勝手な作り話で嫌われ者に仕立てられてしまった吉良上野介にも、何とか名誉回復の機会を
与えてほしいものである。




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