江戸時代前期の政治

戦国乱世が終わり、太平の世となった江戸時代。
技術革新や新田開発などにより農業生産は増大し
平和な時代は商業も活発なものとしていく。
また、国内廻船航路も開発され、いよいよ流通が拡大。
こうした時代の政策は、いかなるものだったのか。


明暦の大火(2) 〜 振袖火事による江戸再編
大火後、“知恵伊豆”松平信綱をはじめとする老中により江戸の復興案が示された。
それによれば、まず手始めに江戸在府中の諸大名には帰国を命じ、この年に参勤予定の
大名は1年の延期を申し伝え、いったん江戸市中から諸大名を締め出す事とした。大火で
焼け出された大名屋敷は160、旗本・御家人の屋敷は600にも及んでおり、彼らに提供する
宿館が無い状況だったためだ。焼け崩れた江戸の町を見せては幕府の威信に関わるので
国へ返し、その間に復興を行う事にしたのだ。で、具体的な復興として考えられたのは
1.江戸城炎上の原因となった大名屋敷を郊外へ移転 2.町屋の中に火除地を設置する
3.江戸市中、特に隅田川に多数の橋を架ける といったもの。順に解説するが、1番の
大名屋敷移転は、それまで江戸城中(外郭部)に木造で大型の大名屋敷が内包されていた
ため、城下からの火事が城内へ類焼する橋渡し役となってしまった事から、これらの屋敷を
城外へ移し、江戸城への火災伝播を防ごうとするもの。この移転は御三家と言えども
例外ではなかった。その結果、家康開府当初に建てられた豪壮な桃山文化の大名屋敷
建築が姿を消し、太平の世に再築された質素重厚な大名屋敷が江戸の外周部分に
置かれるようになった。ちなみに、この再編で紀伊徳川家・尾張徳川家・彦根井伊家が
軒を連ねるようになったため、この場所はいつしか“紀”“尾”“井”の三文字を採った
紀尾井町と呼ばれた。これが現在の東京都千代田区紀尾井町の地名由来である。また、
大名屋敷と同様に(神田明神を除く)大規模寺社も軒並み江戸郊外へ移転させられた。
2番目の火除地設置であるが、政権中枢である江戸の町は町屋がひしめいていたため
小さな火事が次々と燃え移り大規模な火災に発展した反省を活かし、類焼の可能性を
低減する目的で民家密集を抑制し、市街地内に一定の間隔を持たせる空間を用意したのだ。
有名な上野広小路などがこうした火除地の典型である。また、街路の道幅も以前より広くし
類焼防止・迅速な避難路の確保とした。3番の架橋政策もこれに類するもの。大火以前は
川に架かる橋が少なかったため、避難民が閉じ込められて焼死する原因となった。
このため、幕府は江戸市中の橋を増やして避難の円滑化を図ったのである。外縁地への
通路確保や大名屋敷の移転により、江戸の町は全体的に外へ外へと押し出され、結果
それまでの城下町が拡大され、江戸市街地の面積は飛躍的に増大したのである。しかし、
考えてみれば江戸幕府は(本質的には)軍事政権。街路を広くしたり、橋を増やす事は
江戸の町へ外敵が侵入する危険性を増大させる事を意味するはずなのだが、にも拘らず
こうした復興案を提示したのは、既に世が太平となり、戦乱が起きる事など無くなったと
誰もが認識したという意味であった。これもまた、文治政治への転換が図られた事による
ひとつの結果と言えよう。家康が開府し、秀忠・家光が作り上げた江戸の町は、信綱や
正之によって新たな様相に生まれ変わったのである。とは言え、100万都市へと成長する
江戸の町を復興させる費用は尋常ではなく、家康が蓄えた駿府城中の金銀を使わざるを
得なかった。そのためこれ以後、幕府財政は徐々に赤字へと転じていってしまう。

江戸幕府の財源 〜 幕府領地、他の大名を圧倒
関ヶ原合戦後の西軍大名改易、その後の武断政治展開による大名取り潰しを経て
全国諸大名の配置はほぼ確定しつつあった。総石高に対する比率を見てみると、
(概算数値であるが)禁裏御料が3万石、皇族・公家領が7万石(あわせて0.3%)
各宗寺社領が40万石(1.3%)。全国諸大名の領地は2250万石(75.0%)だ。
これに対し、将軍直轄の天領は400万石(13.4%)、将軍直臣たる旗本・御家人の
知行地が300万石(10.0%)となっている。また、大名領の中には御三家・親藩や
譜代大名の領地も含まれているため、大別した“徳川系領地”として考えると、
ざっと1200万石にもなると言われている。大名の中でも最大の領地を擁した加賀
前田家でさえ103万石であるから、いかに徳川幕府の占める領地が大きかったかが
伺えよう。豊臣政権での蔵入地は畿内65万石を含めても220万石でしかなかったのに
徳川幕府は天領だけで400万石。豊臣期に比べても、将軍の権勢が飛躍的に
強化されているのだ。こうした所領から上がる年貢収入は、幕府財源のうち
41.4%を占め、金額にして約166万両。幕府経常収入183万両の大半を占める。
この他、経常収入に内訳されるのは株仲間の冥加金などによる流通収入7万両
(1.7%)、鉱山収入6万両(1.6%)、無役旗本の役金である小普請役金2万両
(0.7%)、大名らからの献上金、商家株仲間冥加金などがある。その一方で
臨時収入に計上されるものも多く、例えば貨幣改鋳差益金、江戸城修築費や江戸
京都・大坂の三都商人から上がる米価維持費などで構成される御用金、御三家・
諸大名・町人・百姓らに貸した金の返済収入である諸貸付返済金、流通収入、
朝鮮通信使・宿駅費用・土木工事費などで調達される国役金などがあった。
特に御用金は幕府収入の17.8%、諸貸付返済金は14.6%の比率に上り、幕府の
重要な財源であった。その反面、鉱山収入などは次第に産出量が減った事により
減少の一途を辿っていく。何より、農業生産物に依存する年貢収入は、その年の
出来不出来により収穫量が変動する事から、必ずしも安定したものではない。
幕府成立当初は家康が蓄えた金銀により潤沢な資金を有したものの、徐々にその
蓄財も放出し、江戸幕府の財政は悪化の一途を辿るようになっていくのである。

江戸時代の税負担 〜 特に農民に対する負担について
士農工商から成る江戸時代の統治制度。人口比率から見ると、武士は6〜7%、
工商民は10%以下。残る80〜85%が農民であった。当然ながら、税負担の大半が
彼ら農民に集中している。まず何と言っても年貢の存在が上げられよう。正しくは
本途物成(ほんとものなり)、本年貢と呼ばれる農業課税は、米納に関して
四公六民(収穫の4割を年貢納入、6割が農民のもの)とされたが、後に五公五民へ
改められている。この他、米納に代わる石代納(こくだいのう)や付加税もあり
農民の負担は実に大きなものであった。さらに小物成(こものなり)、山野・河川
収益に課税される雑税や高掛物(たかがかりもの、高掛三役とも言う)つまり
1.御伝馬宿入用(おてんましゅくにゅうよう)天領宿場の経費 2.六尺給米
(ろくしゃくきゅうまい)江戸城の台所人夫費用 3.御蔵前入用(おくらまえにゅうよう)
浅草蔵前の人夫費用 などが徴収される。また、臨時徴収の税として国役があり
日光での法要・朝鮮使節の接待・河川堤防修築などの事例が起きた場合に課金。
加えて農民の負担となるのが前頁に記した助郷で、定期的に徴用される定助郷
(じょうすけごう)と、臨時に行われる加助郷(かすけごう)の2種類があった。
田畑永代売買禁止令や慶安の御触書で拘束される農民は、「百姓どもは死なぬ
様に生きぬ様に」「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出る」などと呼ばれたほど
過酷な搾取に晒されていたのである。
ところで税負担は工商民にもあった。冥加金・運上金・地子銀(じしぎん)などと
呼ばれるのがそれで、農民の負担に比べれば軽いものではあったが、江戸時代
中期を経て貨幣経済の爛熟期を迎えると大きな金額になっていく。
ついでながら付け加えておくと、商業拡大の一因となったのが航路開発。諸大名の
年貢米は大坂の蔵屋敷に集められ、ここで換金されるのが通例であった。それ故、
大坂は“天下の台所”と呼ばれる一大商業都市になっていく。また、全国の特産品も
主要消費都市である江戸や大坂、京都といった大都市へと廻送されるのが常。
よって、江戸〜大坂〜全国へと続く海上物流航路が拓かれたのだ。江戸〜大坂間の
航路が南海路、江戸〜太平洋岸〜日本海岸へ続くのが東廻り航路、日本海岸〜
瀬戸内海〜大坂への路線が西廻り航路と呼ばれる。

江戸時代前期の名君 〜 四賢君諸国に文治政治を展開
幕府が文治政治へ転換したのと同時期、全国の大名も同様に治世を確立。中でも
特に賢君とされた4人の大名は有名だ。前頁に記した会津藩主・保科正之、御三家
水戸藩の徳川光圀、岡山の愛民家・池田光政(みつまさ)、加賀百万石の太守
前田綱紀(つなのり)という面々である。保科正之に関しては既に記したので、他の
3名について少々記載する。まず光圀は“水戸黄門”として有名な、あの光圀である。
黄門とは中納言を意味する唐号。明の学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を招き
朱子学に基づいた治世を展開した。水戸藩主は将軍補佐として江戸常府だったため、
実際に光圀が領国へ入った事はほとんど無い。にも拘らず賢君とされているのは、
こうした学問に基づいて“水戸学(みとがく)”と言われる独自の政治理論を編み出し、
徹底した領民愛護と朝廷尊重の施政方針を貫いたからである。秩序を重んじ、国の
基となる農民を大事としたその姿に、人々は“あるべき領主の姿”を重ね合わせ
かの“水戸黄門漫遊記”の講談が生まれたのである。もちろん、現実には光圀が
諸国の旅に出たなどという事は無い。しかし、諸国から有能な人材を募り、学問の
見識を深めたのは事実であり、いわゆる“助さん・格さん”のモデルとなったのが
こうした人材の中にいた佐々介三郎(さっさすけさぶろう)安積覚兵衛
(あさかかくべえ)と言われている。学問を極めんとする光圀は、遂に独自の史書
「大日本史」の編纂に着手したが、これは彼の存命中には完了せず歴代水戸藩主へ
引き継がれた。その終了を迎えたのは、何と幕末近くになってからである。ところで、
その水戸藩主の座は常に讃岐高松藩主と交代交代で継承されている。実は光圀、
父・頼房から家督を譲られたものの、庶兄・松平頼重(よりしげ)を飛び越しての
事であった。頼重は諸般の事情で家督を継げず讃岐高松へと封じられたのだ。
弟でありながら水戸藩を継ぐ立場となった光圀、幼少の頃は素行が荒れて随分と
放蕩をしたようだ。しかし、「史記『伯夷伝』」を読んで感銘を受け、以後は謹み
学問に打ち込むようになる。その結果、上記のような施政を展開したのだが、
秩序を重んじながら自らは長幼の序に反して家督を継いだ事を恥じ入り、兄の子を
水戸家の世継に迎え入れ、実の子を兄の養子に出して序列を正そうとしたのである。
以後、これが慣例となり水戸家と讃岐高松家は交互に家督を継承したのだった。
閑谷学校閑谷学校(岡山県備前市)
続いて岡山藩主の池田光政。関ヶ原戦後、岡山は小早川秀秋に与えられたが、彼は
入府2年にして突然死亡。病死であったが、突然の死去に様々な噂が立ち、棚ボタ的な
“東軍勝利の立役者”が目障りな幕府により暗殺されたとか、裏切った西軍とくに
戦死に至らしめた大谷吉継の祟りであったとか言われる。それは兎も角、嫡子なきまま
わずか21歳で没したため、小早川家は無嗣断絶となり、その後の国替えなどを経て
岡山藩主となったのが池田家であった。「論語」に治世の本質を見た光政は、儒学者
熊沢蕃山(くまざわばんざん)を招いて学問振興と藩政参画に登用。と同時に、俊英の
家臣・津田永忠(つだながただ)を抜擢し、同じく学問の普及や藩政に重く用いた。
彼らの補佐を得た光政は文治主義に基づく藩政改革を実践、新田開発や河川改修と
いった行動的農村発展に取り組む。日本三名園の一つに数えられ、岡山城の外苑として
知られる後楽園の造成は、こうした河川改修事業と併せて津田永忠が執り行ったもの。
と同時に、家臣領民に対する学問の普及にも力をいれ、人材育成の面からも藩政の
発展を企図している。これに基づいて設置されたのが藩学の花畠教場と郷学(ごうがく)の
閑谷(しずたに)学校である。家中武士の教育を重んじ花畠教場を置いたのは当然として
光政の非凡な点は、町民や農民であろうと、志ある者には分け隔てなく学問を授けるべく
閑谷学校までも用意した所にある。藩営の郷学を置いたのは岡山藩が初であった。
もちろん光政自身も学問に打ち込み、没した後に葬られたのは何と閑谷学校の敷地内。
農業知識にも造詣が深く、農民の飢饉対策としてサツマイモの耕作を奨励したほどだ。
サツマイモと言えば享保の改革(後記)で注目される農作物であるが、それをこの時期から
着目していたというのだから、光政という人物の見識がいかに広かったかが垣間見える。
自らは質素倹約に励み、岡山藩は財政が悪化しても年貢率を上げる事が無かった。
まさに愛民家という敬称に相応しい名君と言えよう。
最後に挙げるのは前田綱紀。前田家先々代・前田利常(としつね)の後見を得て藩主の座に
着き、利常の定めた改作法と呼ばれる農業改革政策を維持発展させた。元来、加賀藩領は
一向一揆壊滅以来の混乱で農村が疲弊していたのだが、この制度によりそれまであった
農民の負債を解消した上、安定した年貢納入を確定させる事に成功。何と、改作法の導入で
年貢収益は20%も増加したという。光圀や光政に劣らず学問好きな綱紀は、学問や文芸を
領内に奨励し、金沢は文化の都としても栄えた。彼もまた、有能な学者を招聘しており
朱子学者の木下順庵(きのしたじゅんあん)稲生若水(いのうじゃくすい)といった
人物が加賀を訪れている。祖父・利常が名君として知られていたのだが(外様筆頭である
前田家を警戒する幕府を欺くため、わざと鼻毛を伸ばして暗愚を装っていたという逸話が
利常には残っている)それに負けぬ名君たらんとする綱紀は領民の保護に全力を注ぎ、
遂には「加州(加賀国、前田家の事を意味する)に乞食なし」とまで言われた。
なお、光圀・光政・綱紀と、いずれの人物も優秀な学者を招いて藩政改革を行っているが
保科正之も朱子学者の山崎闇斎(やまざきあんさい)を用いた事を補記しておく。


★この時代の城郭 ――― 大名の“格付け”
一国一城令により、諸大名の持てる城は大幅に制限されたが、大名統制はそれだけに
終わらず、その大名が城を持てるか否かという“格付け”もあった。この分類は上位から
国主(国持)大名・準国主大名・城主大名・城主格大名・無城大名とされている。
国主大名は読んで字の如く、令制国1国(に相当する領地)を所領としている大名。
例えば薩摩の島津氏、肥後の細川氏、伊勢の藤堂氏など。陸奥国は面積が広範なので
仙台の伊達氏、盛岡の南部氏と2家が該当。18家(後に追加され20家)を数え、加賀の
前田家、備前の池田家はこれに含まれ(池田家は因幡の別家もある)、諸大名の中でも
最高位の家格を誇る一群だ。準国主は当然ながら国主に準ずる家格で、筑後柳川立花氏、
伊予宇和島伊達氏、陸奥二本松丹羽氏の3家であった。関ヶ原西軍から復活した立花家と
丹羽家がこれほど上位の家格とされている点が興味深い。
城主大名は国持ちではないものの、居館を城として認められている大名。ここまでが
自分の領内に城郭を構える事ができる大名なのである。城主格大名、無城大名は
残念ながら、城を保有する事が幕府に認められていない。ちなみに城主格大名は
城の保有以外は城主大名と同等の待遇とされる大名家で、無城大名はそれ以下の家格。
これらの大名は城ではなく陣屋を構えて居館としていたが、やはり武士にとって城は
憬れの存在だったらしく、幕府に願い出ては城主大名への昇格を希望していた。
このため、そういう願いが稀に受理され城主大名へ格上げされた例がある。とは言え、
こうしたケースはごくごく限られた事情に基づくものなので、江戸時代全般を通じて
大半の大名は城を持たず陣屋を拠り所としていた。
奥殿陣屋奥殿陣屋(愛知県岡崎市)


1660年代の主な大名配置
1660年代の主な大名配置
居城名称と大名家を記載
数字は石高(単位:万石)

紫字は天領・親藩
青字は譜代大名
赤字は外様大名

ひと目見て、外様大名が
東北や西国といった
江戸の遠隔地に偏って
配置されている事が解る

綱吉の将軍継承 〜 徳川宗家の血筋と皇室将軍擁立問題
時代が移り、保科正之も政界を退いた後に家綱治世を補佐したのは厩橋(前橋)城主
酒井忠清(さかいただきよ)であった。譜代の名家として大老に就任し実権を握り
天下を思うままに動かした事から“下馬将軍”とまで揶揄された人物だ。ところが家綱は
男子を生さぬまま病の床に就き、1680年5月に重篤な病状となってしまった。幕閣は
5代将軍を誰にするかを決するのが最優先懸案となったが、この時に忠清は京都から
有栖川宮幸仁親王(ありすがわのみやゆきひとしんのう)を将軍に迎え入れようと
主張。幸仁親王は徳川家の縁者ではあったが、忠清は形式上だけの宮将軍を擁立し、
鎌倉時代の執権・北条氏のように自身が権力者として君臨しようと目論んだとされている。
これは忠清の没後、彼を貶めんとした恣意で創作された逸話だとも言われているが、
真相はともあれ、宮将軍を立てようとした事は事実である。「長子を以って嫡子とす」と
神君家康が定めた将軍継承において、肝心の長子が居ないのだから、もはや誰が
将軍でも構わないという思惑が忠清にはあったのかもしれない。
しかし、これに反対する意見を出す者が居た。老中・堀田正俊(ほったまさとし)である。
将軍はやはり徳川の血縁者から出すべきもの。家綱には2人の弟が居り、その内の1人が
まだ存命していた。よって、その弟を家綱の養子として迎え入れれば嫡子たり得ると
主張したのだ。確かに、徳川家の者ではない親王を擁立するよりも、最も近い親族が
家督を継ぐほうが正論である。このため、家綱の末弟にして上野国館林25万石の藩主
徳川綱吉が後継者に決定、家綱も臨終でそれを認めた。
家綱没後、8月になって綱吉は5代将軍に正式就任。館林藩主の座は3歳の嫡男・徳松
譲り、自身は江戸城で政務を開始した。さしあたり、徳川の血を絶やそうとした酒井
忠清を大老から解任・隠居させ、綱吉の将軍就任に尽力した堀田正俊を筆頭老中に
引き立てた。以後数年に亘り、綱吉と正俊の二人三脚で幕政の運営が行われていく。
館林城址館林城址(群馬県館林市)




前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る