★この時代の城郭 ――― 正保城絵図
1644年12月、徳川家光は諸大名に対して国単位の郷帳、つまり村落の内容を統計編集した
帳票の作成を命じた。これは石高をまとめるだけでなく、国の絵図や街道の帳簿なども
含まれた総合統計で、一般に年号から正保郷帳と呼ばれている。この中に、各地の城郭の
縄張図(一部には城の模型も)作成が課せられており、こうして作成された城絵図を
総称して正保城絵図(しょうほしろえず)と言う。
正保城絵図に記す対象とされたのは軍事施設。よって、本丸・二ノ丸・三ノ丸といった
曲輪の構成を表示する城の縄張図の上に、櫓や門、天守などの建築物が必ず書き込まれ
その城の防御構造がひと目でわかるようになっている。また、城下町の街路といった情報も
書き込まれ、“その城を攻めるならば”という有事の際の状況把握が可能。その一方、軍事
施設ではない御殿や庭園類は記載が省かれているのが特徴(書き込まれている物もある)。
軍事機密情報を幕府の命令で諸大名が提出した事は、幕府が統制力をより強化する狙いが
あったのは言うまでもないが、一方で諸大名が素直にそれに従ったのは、既に幕府の力が
全国に浸透し、反抗する術がなかった事も意味する。それどころか、提出された城絵図は
(出来の良し悪しは別として)ほとんどが正確に城の構造を記載しており、幕府を警戒し
虚偽情報の疑いを持たれぬよう腐心した大名の心情が表れているようだ。
(郷帳全体も含め)各藩がこれら資料を統計するのにはかなり時間がかかったようで、
当初、翌年までに提出とされた期限は大幅に延び、全てが出揃うまでには数年かかった。
こうして提出された正保城絵図は、江戸城の紅葉山文庫に保管され、明治維新後は
(維新の混乱で滅失したものを除き)政府が管理保管を行い、現在は国立公文書館・
内閣文庫に保管されている。
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