文治政治への転換

家康・秀忠・家光の3代で大勢の固まった江戸幕府。
キリスト教の禁教は鎖国で対処し、民衆の蜂起も
島原の乱が決着した事で、以後は鳴りを潜めた。
勿論、敵対する(危険性を含めて)大名は次々と取り潰され
江戸幕府による中央集権体制は完成の域に達した。
以後、平和な時代の舵取りはどうなっていくのか。


士農工商 〜 朱子学理論に基づいた身分制度
江戸時代、武士と民衆の身分秩序として士農工商(しのうこうしょう)制度が策定された。
社会の階級を上位から士(武士)・農(農民)・工(工業職人)・商(商人)と定め、特に支配
階級を武士、被支配階級を農工商民としたのである。統治者にして、戦時には命を懸けて
民衆を守り戦う(事を前提とする)武士が最上位階級、国の基となる農業生産を行う農民が
次位、生産的職工である工業者がその次に置かれ、金銭を動かして生業とする商人は、
“社会的に卑しい職業”として最下位にされた。これは朱子学理論に基づいて考えられた
身分制度で、家康の政策ブレーンであった朱子学者・林羅山(はやしらざん)こと林信勝
(のぶかつ)が中心となって考案された。羅山は1605年、二条城における朝鮮使節団と
家康の交渉において筆談通訳を務めた縁から徳川家に重用されるようになった儒学者だ。
その才覚は深遠たるもので、武家諸法度や禁中並公家諸法度といった法律の起草、
方広寺鐘銘事件における豊臣家追い込みなど様々な“頭脳戦”において大活躍しており、
それまで儒学の中では傍流であった朱子学の地位を一気に向上させ江戸幕府の思想統制
規範とせしめたほどだ。儒教的道徳観から社会における秩序構築として身分制度を定め、
しかもそれは武士を筆頭とし支配階級とするためのもの、これが士農工商制度であった。
以後、江戸期はこの制度に基づいて武士が社会を統治した。
とは言え、この制度には多分に“建前”的な所が多く、実際には農工商の間に縦の階級差は
ほとんど見受けられない。また、平和時における社会制度の成熟につれて“金が物を言う”
時代となっていき、最下層とされた商人が経済力を持って特権的地位を築く事になっていく。
財政難に陥った武士が、商人に頭を下げて金策をする状況が茶飯事となるのである。
さらに付け加えると、「士農工商」という4種の身分制度は概略的な考え方であり、実際には
もっと詳細な区分があった上、商人の下に被差別的最下級制度が置かれていた事を
忘れてはならない。穢多(えた)・非人(ひにん)と呼ばれるこれら被差別民に関しては
社会的考察・検証が十分必要なため解説を控えるが、こうした階級は武士から搾取される
農工商民の不満の矛先として設置されたという説があり、近世になり身分制度が撤廃された
後も、部落問題・同和問題など重大な影響を残し続けている。


★この時代の城郭 ――― 正保城絵図
1644年12月、徳川家光は諸大名に対して国単位の郷帳、つまり村落の内容を統計編集した
帳票の作成を命じた。これは石高をまとめるだけでなく、国の絵図や街道の帳簿なども
含まれた総合統計で、一般に年号から正保郷帳と呼ばれている。この中に、各地の城郭の
縄張図(一部には城の模型も)作成が課せられており、こうして作成された城絵図を
総称して正保城絵図(しょうほしろえず)と言う。
正保城絵図に記す対象とされたのは軍事施設。よって、本丸・二ノ丸・三ノ丸といった
曲輪の構成を表示する城の縄張図の上に、櫓や門、天守などの建築物が必ず書き込まれ
その城の防御構造がひと目でわかるようになっている。また、城下町の街路といった情報も
書き込まれ、“その城を攻めるならば”という有事の際の状況把握が可能。その一方、軍事
施設ではない御殿や庭園類は記載が省かれているのが特徴(書き込まれている物もある)。
軍事機密情報を幕府の命令で諸大名が提出した事は、幕府が統制力をより強化する狙いが
あったのは言うまでもないが、一方で諸大名が素直にそれに従ったのは、既に幕府の力が
全国に浸透し、反抗する術がなかった事も意味する。それどころか、提出された城絵図は
(出来の良し悪しは別として)ほとんどが正確に城の構造を記載しており、幕府を警戒し
虚偽情報の疑いを持たれぬよう腐心した大名の心情が表れているようだ。
(郷帳全体も含め)各藩がこれら資料を統計するのにはかなり時間がかかったようで、
当初、翌年までに提出とされた期限は大幅に延び、全てが出揃うまでには数年かかった。
こうして提出された正保城絵図は、江戸城の紅葉山文庫に保管され、明治維新後は
(維新の混乱で滅失したものを除き)政府が管理保管を行い、現在は国立公文書館・
内閣文庫に保管されている。


慶安の御触書 〜 江戸幕府の農民統制
この時期、江戸幕府は農民に対する命令を次々と発している。遡ると1616年、煙草栽培の禁と
人身売買の禁止。農業耕作民の不安定化を阻止する措置だ。1619年には五人組制度を制定。
五人組とは、村落の農民を5人ごとに組織統制し、相互監視させるもの。5人のうち誰か1人でも
隠田(おんでん、幕府に届けず密かに耕作し収穫を独占する田畑)などの違反行為を行うと
5人全員が処罰される連座制度である。1628年には百姓の衣類を木綿製に限定し絹などの
贅沢品を使用できないようにして統制。1642年、百姓は米の常食が禁じられた上、翌1643年
田畑永代売買禁止令(たはた(でんぱたとも)えいたい(えいだいとも)ばいばいきんしれい)が
発せられる。読んで字の如く、耕作地は永久的に売買してはならず、農業耕作を固定化させ
士農工商の身分制度を確保するのが目的。と同時に、田に綿花を植える事や田畑に菜種を
栽培する事も禁じ、転作による農業荒廃を防いだ。そして1649年、有名な慶安の御触書
(けいあんのおふれがき)が発せられた。これは32条から成る勧農条例で、それまでの農政
法令も含め農民の生活規範や農業生産に関わる細目を厳しく定めた内容になっている。
武家には武家諸法度、朝廷には禁中並公家諸法度、そして農民にはこの触書を発したのだ。
これが江戸時代250年における農業施策の基本となったのは言うまでもない。ただ、近年の再考で
慶安の御触書は幕府の法令ではなく一部の藩で発せられたものだったとか、後年に編集された
幕府の史書で触書が発せられた事にされたなど、「1649年に幕府が発した」という点に疑問が
呈されている。いずれにせよ、江戸後期においては「慶安の御触書が存在した」ようになっており
それに基づき、農政が行われていた事は間違いないようである。
ちなみにこの時期、農業における技術革命も起きていた。それまでほとんど手作業であった
脱穀や精米において、千歯こきや唐箕(とうみ)といった機械が開発され、革新的な能率
向上が期待できるようになった。これらの道具は実際に昭和初期まで使われていたのだから
いかに素晴らしい道具であったかが想像できよう。しかし、当時はまだ高価な器具だったため
全ての農民が使えた訳ではなく、庄屋など一部の富裕農民が限定的に使っていたに過ぎない。
また、街道沿いの農民には「助郷(すけごう)」と呼ばれる労役義務も課せられていた。
これは大名行列通過などの際、隣宿まで荷物の運搬などの手伝いをしなくてはならない賦役。
大名行列は春先の農繁期に行われる事が多く、農民の負担はかなりのものであった。
農民は過酷な統制の下、苦しい生活を続けていたのである。

朝鮮通信使と対中国情勢 〜 秀吉以来、正式の朝鮮国交回復
秀吉が為した朝鮮出兵以来、しばしの間日本と朝鮮の国交は断絶していた。しかし幕府は
(当然の事ながら)朝鮮との国交回復を模索し水面下で調整を図る。対馬の宗氏が努力した
甲斐もあり、家康存命の頃の1607年に朝鮮から修好のための使節が来日。これを契機と
したのが朝鮮通信使(つうしんし、信頼を通じる使節)で、日本と朝鮮の正式な国交が
回復した事になる。通信使は江戸時代を亘って合計12回来日し、主に将軍の代替わりの時
それを奉祝する目的で派遣されている。また、1609年には己酉(きゆう)約条が結ばれ
これらの国交成果に基づき、対馬宗氏は年間20隻の貿易船を朝鮮との間に往復させる事が
取り決められた。なお、琉球王国との間にも薩摩島津氏を通じて同様の使節が往還するように
なり、日本の将軍が代替わりする時の慶賀使と、琉球国王が代替わりする際の謝恩使が
全部合計して15回往復している。ただし、朝鮮とは異なり琉球は従属的関係とされており
薩摩島津氏は琉球に対する高圧的支配を行っていた事に注意したい。中国皇帝から冊封を
受けていた琉球は、島津氏による搾取的な統制と貿易により日本との流通を行っており
結果として、琉球王国は中国と日本の中継貿易点となっていたのだった。
さてその中国に関してだが、明帝国の支配力は次第に弱体化していた。1616年、北方で
後金(こうきん)が成立しており、これが徐々に明の領土を侵食していたのだ。ヌルハチ
建国した後金は満州族の国で、1636年に国号を清(しん)に変更し、より一層中国本土
支配への態勢を整えた。その一方、明国内でも李自成らによる反乱が発生、1644年に
北京が占領され、明が滅んでいる。結局、清の軍勢が李自成も破り中国全土を支配した。
李氏朝鮮も1636年から清への朝貢を行っており、江戸幕府もこの情勢を見て清を正統な
中国王朝として認識するようになる。江戸幕府と清帝国の間に国家間の正式国交は
なかったが、長崎奉行の監督下において日清間の民間貿易が営まれ、鎖国体制下における
日本の重要な対外交易となっていく。
なお、明の遺臣らは台湾を占拠。その中で有力な政商であった鄭成功(ていせいこう)
1649年、江戸幕府に対し明朝復活の援軍を要請したが、幕府はこれを拒否。もはや明の
復活は望むべくもなく、無用な出兵で秀吉の二の舞を踏み、清朝との対立を引き起こすような
事態は避けるのが賢明であったからだ。結局、1683年に台湾も清の領土に併合された。

慶安の変 〜 不満浪人対策の急務
武断政治で諸大名の取り潰しが激化、主を失った武士が不満浪人となり世に溢れ、社会
問題化する中の1651年4月、徳川家光が没し11歳の嫡男・家綱が4代将軍に就任した。
将軍代替の過渡期に起きた大事件が慶安の変、通称由井正雪(ゆいしょうせつ)の乱だ。
由井正雪は名の売れた軍学者で、門下に多数の浪人を抱えて張孔堂なる私塾を開いていた。
塾生の浪人達は厳しい幕府の統制によって大名への再仕官もままならず、困窮する生活を
送るばかり。この状況を打開せんと欲した正雪は、幼い将軍で政務を執る事が難しい今こそ
幕府に一撃を与えて世を正そうと目論んだ。但し、正雪は自身が天下を盗る野望を抱いた
野心家であったという評価もあるため、必ずしも正義の行動だったかは甚だ疑問である。
ともあれ、彼は以下のような計画を立てる。大風の日、江戸城に忍び込んで火薬庫に放火
急遽登城した老中らを待ち伏せし鉄砲で討ち取り城を占拠する。それと同時に、駿府城も
押さえ、城内の金銀を確保すると共に、京や大坂でも同様の争乱を起こし、天下を
転覆しようというものだ。江戸城攻略部隊を指揮するのは正雪門下筆頭にして槍の名手
丸橋忠弥(まるはしちゅうや)とし、正雪自身は駿府城占拠を担当。決起の日は1651年
7月29日と定め、浪人一党は各地へ散らばりその日を待った。
ところが実行直前になり密告者が反乱を幕府に通報したため、浪人たちは捕らえられ、
正雪も駿府で役人に取り囲まれて自害、反乱は未遂に終わった。
しかし、この事件を機に幕府は浪人対策を急務として武家諸法度の改正を行った。その結果
末期養子の禁を緩めるなど、大名が改易される確率を少なくしできるだけ浪人が発生せぬよう
配慮していった。ここに武断政治から文治政治への転換が行われ、以後、江戸時代は比較的
平穏な世を送っていく事になる。なお、この翌年である1652年にも承応の変なる蜂起計画が
持ち上がったが、これも未遂に終わっている。加えて言うと、1663年の武家諸法度(寛文令)で
殉死の禁止も付け加えられた。殉死とは、主君が没した折に家臣が後追い自殺をする事。
戦国時代から、殉死は主君への忠義の証として行われていたが、幕府はこれを禁じ、後世に
老臣の技量を伝達し将来への発展性を繋いだのである。戦国からの慣習が消えた事で、
名実共に天下泰平、文治の世が訪れたと言えよう。

明暦の大火(1) 〜 未曾有の災害大火、江戸を焼き尽くす
江戸の町は火事が多かった。木造建築が軒を連ねる都市であるから、ひとたび火が点けば
瞬く間に火災となるのは至極当然であり(当時の人口比率が極端に男性過多だった事と併せて)
「火事と喧嘩は江戸の華」とまで言われていたほどである。1657年に起きた明暦の大火は
その中でも最大の被害を出した大火災である。出火の原因は定かでないが、一説に拠れば
寺での葬儀の際、火中にくべた振袖が折からの強風に舞って火災を引き起こしたとされる
事から“振袖火事”とも呼ばれるこの大火は、1月16日に燃え出してから江戸の町を総舐めにし
3日3晩の間消えなかったという。現代の科学的考察によれば、火災旋風も巻き起こす壮絶な
大火災だったと想像され、江戸の町の大半を焼き尽くし、死者は3万人〜10万人とされる。
もはや単なる火事とは言えず、災害級の被害を出した都市火災であり、世界三大火災の一つに
数えられるほどのもの。無論(空襲・震災被害を除いて)日本史上最大の火災である。

★この時代の城郭 ――― 江戸城(5):保科正之と災害復興
明暦の大火は江戸城も襲い、西ノ丸を除いて全滅。家光による史上最大の天守も焼け落ちた。
漆喰で外壁を固めた天守建築は、それなりに耐火性のある建物ではあったのだが、火災旋風で
天守全体が炎の竜巻に飲み込まれ窓が破損、内部構造物に引火し焼損に至ったと言われる。
焼け残った西ノ丸で幕閣は連日の会議を重ね、江戸の町と江戸城の復旧について話し合った。
ここで天守の再建についても議題とされたが、それに待ったをかけた人物が居た。会津藩主
保科正之である。さて、この正之なる人物はいったい何者であろうか―――。
正之が生まれたのは1611年。母は江戸城大奥に詰めていた女中・お静の方。父はと言えば、
何と2代将軍・徳川秀忠である。秀忠と言えば、家光と忠長という男子2人を正室・小督との間に
儲けていたが、その他に男子が居たとは…?
要するに、秀忠が小督の目を盗んでお静に生ませた男の子、それが正之なのだ。しかし、
嫉妬深い小督がそれに気付いた場合、その子の命さえ危うい。このため秀忠は、人知れず
お静と赤子を宿下がりにし、各地を転々とした後、保科正光の保護下で養育させた。
保科氏はもともと甲斐武田家の遺臣。武田家の滅亡に伴って家康に従い、その当時は信濃国
高遠を領有していた。正光の養子として育てられた正之は、これが故に保科姓を名乗り、
将軍の子でありながら江戸ではなく高遠で成長したのである。秀忠の“家庭の事情”は、
家光と忠長の家督争いのみならず、実はこうした所にまで及んでいた。
3代将軍になった家光は、正之の存在を聞きつけるや即座に江戸へ召し出した。忠長ばかり
可愛がり、父母の情に薄かった家光は、同様に父から遠ざけられ不遇の少年時代を過ごした
正之に大いなる親近感を抱き、以後、この異母弟を事の外重用するようになる。聡明な正之も
兄である将軍の期待に応えるべく才知を磨き、遂には会津23万石の大大名に抜擢された。
家光は臨終に際しても正之を頼り、家綱の後見として幕政運営を恃んだのであった。
実は末期養子の緩和や殉死の禁止といった政策は、全てこの正之が打ち出したものである。
また、享保の改革時に幕府が採用した目安箱制度は、既に会津藩で正之が実践していた。
江戸城天守台
江戸城天守台(東京都千代田区)

現在に残るこの天守台は、振袖火事の後に
石垣だけ組み直されたものなので、
寛永度天守が載っていた頃の物とは違うが
実に壮大な迫力を醸し出している。
寛永度天守が載っていた天守台は、
これよりも更に大きかった事が推定されており
とてつもない規模だったようだ。
江戸城復興計画において天守の再建も考えられたが、正之はこれを否定。既に天下泰平の
時代となっており、戦時における物見の塔たる天守は、その目的として使われる可能性が
ない。政治目的として天守を揚げるにしても、4代将軍の治世ともなれば権力基盤は磐石、
いまさら他の大名が謀反を起こすような事はなく、徳川幕府の威光は全国に行き渡っており
天守で求心力を得るような必要もなくなっている。となれば、政治的にも軍事的にももはや
江戸城に天守を建てる意義はなく、そこに資金を注ぎ込むよりも、火事で焼け出された
江戸の民衆を支援する事を最優先とすべきであると主張したのである。正之の意見は
理に適っており、天守の再建は見送られた。このため、現在に至るまで江戸城には天守が
建てられていない。城郭愛好家としては何とも寂しい限りだが、類稀なる民政家・正之が
城の復旧よりも民の危難を重視し、全力を注いだ事は大いに賞賛したいものである。
これほどの大人物でありながら、然程の知名度が無いのは実に惜しい話であろう。
なお、天守を失った江戸城はこれ以後、三重櫓の富士見櫓を天守の代用としたというのが
一般的な説である。しかし、研究家の中には「他の櫓を天守の代用と位置づける必要性」を
疑問視する向きもあるため、一部にはこれに反対する説も挙げられている。もっとも、
こればかりは当時の人物に考え方を訊かねば答えは出ないであろうから、ことさら騒がず
“富士見櫓が天守代用”という通説を覚えておけば良いのだろう。主観を交えて言えば、
「八方正面の櫓」と謳われる富士見櫓は確かに壮麗で美しく、(天守ほどではないものの)
注目を集める存在だったのではなかろうか。
江戸城富士見櫓江戸城富士見櫓(東京都千代田区)
余談だが、正之を養育した正光には先に迎え入れた長養子・正貞がいたのだが、将軍から
養子として貰い受けた正之を大事として正貞を廃嫡し保科家の家督を継がせている。
このため、家光に引見され秀忠の子と認知された後の正之は、将軍の実子なので徳川
もしくは松平の姓を名乗る資格があったにも関わらず、養父の恩を忘れぬよう、生涯
保科姓を名乗ったという。結局、正之から始まる会津藩主家は2代後になってようやく
松平姓に復姓。これが会津松平家である。
兄・家光に大いなる忠誠を誓った正之は、子々孫々に伝える家訓として何があろうと徳川
宗家を支えるのが会津藩主の務めとした。このため、戊辰戦争(後記)では将軍家が
降伏・恭順した後も、会津藩は徹底抗戦し徳川の為に尽くしたのである。




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