鎖国への道

さて、ここまで江戸幕府の内政面を見てきたが
外交面においては試行錯誤が繰り返されてきた。
秀吉による朝鮮出兵でひずみの入った大陸との関係に加え
西洋諸国による東洋進出、貿易の進展と弊害、
それに何よりもキリスト教の問題など、課題は山積していた。
これに対処した幕府の方針とは。


オランダとイギリスの日本来訪 〜 家康時代の外交
またもや時間を巻き戻し、話は1600年まで遡る。関ヶ原合戦の半年ほど前、3月16日
豊後国佐志生(さしゅう・現在の大分県臼杵市佐志生、他諸説あり)の海岸に一隻の
オランダ船が漂着した。船の名はリーフデ号。従来、スペインやポルトガルの船は多数
日本に来航していたが、オランダの船が来日したのはこれが初めてであった。当時、
大坂城で豊臣政権の大老として政務を執っていた徳川家康は、新たな国からの船が
訪れた事で貿易拡大の可能性を感じ、すぐさま漂着した乗組員らを引見。斯くして、
航海士のヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタインや航海長でイギリス人の
ウィリアム=アダムスらが大坂に召し出された。当初、海賊と疑われた両名であったが
オランダから極東貿易の為に船を出した事、当初は5隻の船団であったがマゼラン海峡を
経て太平洋に入った後に散り散りになってしまった事、2年の航海により餓えや疫病
原住民の襲撃などで110人の船員が20余名にまで減ってしまった事などを語り、家康の
誤解を解いた。そして、1581年にスペインから独立した新興国・オランダは、旧教徒の
国であるポルトガルやスペインとは異なり、キリスト教の布教はせず純粋に貿易をする為
極東航路の開拓を行っていると説明。秀吉の禁教令に続き、キリスト教の勢力拡大を
恐れていた家康は、オランダの国是を大いに気に入り、彼らを手厚くもてなした。
ヤン=ヨーステンには耶楊子(やようす)の名を、ウィリアム=アダムスには三浦半島で
所領を与え、三浦按針(みうらあんじん)の日本名を授ける。按針とは水先案内人の
意味であり、文字通り“三浦半島に住む航海長”という名であった。以後、両名は家康の
外交顧問とされ、江戸幕府において外交交渉の案件処理や通訳として用いられる。
ちなみに、ヤン=ヨーステンが江戸で屋敷を構えた地が現在の八重洲(やえす)。つまり
耶楊子が転じて八重洲と呼ばれるようになったのである。また、アダムスは船大工の職歴が
あった事から、幕府の命で洋式船の建造にも携わり、250石取りの旗本にまでなっている。

糸割符制度の成立 〜 ポルトガル商船に対する幕府の手腕
江戸幕府が成立した頃、絹織物を作るための生糸はポルトガルからの輸入に頼っていた。
ところが独占的利益を図ろうとするポルトガルは、生糸の価格を吊り上げるばかりで
日本国内の商人は困窮していた。これに対し幕府は、家康の商業ブレーンであった京の
豪商・茶屋四郎次郎(ちゃやしろじろう)の発案である糸割符制度(いとわっぷせいど)を
1604年に導入して対抗した。つまり、今までは個々の商人がポルトガル商船と個別に
売買していたが、以後は幕府が生糸をポルトガルから一括して買い上げ、それを国内の
商人に配分するという仕組みに改めたのである。これにより立場は逆転、ポルトガル商人は
江戸幕府の指定した値で商いを行わざるを得なくなった。後にこの制度はオランダや
中国との貿易でも適用されるようになる。このように、成立当初の幕府は激化する貿易競争に
対して積極的な介入を行い、利益の向上や統制を行っていた。
1609年には平戸へ2隻のオランダ船が入港、家康のお墨付きを得て商館を構えた。
1613年にはイギリス船も平戸に来航したため、スペイン・ポルトガルは長崎を拠点とし、
オランダ・イギリスは平戸を根拠地とし、対日貿易は競争を盛んにしていく。
その一方、日本からの外交使節も何度か派遣された。1609年に上総国(現在の千葉県)へ
漂着したルソン前総督・ドン=ロドリゴを帰還させる名目で、1610年6月13日に浦賀から
京の商人・田中勝介(しょうすけ)をノビスパンに派遣、交易の可能性を探る。あまり
知られていないが、実はこれが日本人による初の太平洋横断であった。また、1613年には
家康の許可を得て伊達政宗が派遣した支倉常長(はせくらつねなが)がローマへ向けて
出航している。表向き、欧州との貿易開拓が目的とされつつ、政宗の真の目的は西洋列強と
密約を結び、天下の簒奪にあったと言われるが、果たして?ともあれ、江戸幕府はこの他にも
安南(あんなん、現在のベトナム)や暹羅(シャム、タイ王国)にも使節を往還させ交易の
充実を図っていた。反面、諸大名には五百石以上の大船を保有する事を禁じ、勝手な貿易で
幕府管理外の利潤を得る事を不可能とする統制策も採っている。


★この時代の城郭 ――― 築城名人列伝(4):小堀遠州
家康〜家光の頃に活躍した有名な築城家がもう1人。小堀遠州(こぼりえんしゅう)だ。
本名は小堀政一(まさかず)というが、1608年に従五位下遠江守に任じられた事から
遠州と呼ばれる事が多い。茶道や華道にも通暁した文化人で、彼が興した茶道の流派は
その名も遠州流とされているほどだ。そんな政一の実像は、優秀な内政官であると共に
芸術的才能と明晰な政治力から昇華される近世城郭築城家なのである。
関ヶ原合戦直後、政一は家康の御料代官として備中国松山城へ入った。ここで政一は、
それまで大がかりな山城となっていた松山城を再編、近世城郭として使いやすい規模に改め
政庁機能を山の麓に移しつつ、山上部は有事の戦闘拠点としてのみ有効となる状態に纏める。
その一方、城下町の要所要所に寺社を配置、これを防衛上の外郭砦群として活用できる
ものとした。実は備中松山城、以前は関ヶ原西軍の総帥・毛利氏の持ち城で、再度の戦が
勃発した場合には激戦地となる事が予想される場所だったため、城郭の改造は急務だった。
とは言え、家康の代官として入府したのだから、新政権の徳を表すため、戦闘に特化した
無骨な縄張りではいけない。これらを両立させる案として、山頂部の省力化・政庁の移転・
総構えとしての寺社運用という手法を編み出したのである。現在に至るも、備中松山城のある
岡山県高梁市は古き良き景観を守り続けており、政一の功績を目にする事ができる。
備中松山の統治を見事に成し遂げ、徳川将軍家の期待に応えた政一は、これ以後、徳川家の
城郭築造に深く関わるようになっていった。例を挙げれば、駿府城・名古屋城・再建伏見城
徳川大坂城などなど、有名城郭ばかり。そして、その集大成と呼べるのが二条城寛永度改修
工事であろう。中宮和子の入内にあわせ、将軍家の逗留・公家や諸大名の参集における
対面施設が必要となり(加えて、将来挙行すべき天皇行幸用の新御殿の築造を含め)
御殿の改修工事とそれに伴う庭園改変作業が行われたのだが、彼は見事にこれを成功させ
美しく調和する御殿と庭園の風景を作り上げたのである。さらに、その工事の途中の段階で
江戸へ召し出され、江戸城西ノ丸庭園も作れという命令が下される有様。まさに東奔西走、
政一は徳川家の作庭工事を一手に任される逸材であった。このように、政一の築城技術は
主に作庭を中心としたものであり、彼が作り上げた庭園は俗に“遠州流庭園”と評され
城郭のみならず、寺社などの庭園でも大いなる隆盛を誇るほどであった。
茶道の一時代を築いた古田織部(ふるたおりべ、千利休の直弟子から茶の湯の指南を
受けた政一は、言わば利休の孫弟子。侘び寂びの極意から導き出される一流の芸術観は
将軍をも唸らせる、最高の御殿建築と庭園美を完成させたのである。


朱印船貿易と鎖国令 〜 日本人渡航の隆盛から制限へ
江戸時代といえば鎖国、日本人が海外へ出る事などあり得ない―――というのが一般的な
イメージであるが、上に記した通り、田中勝介や支倉常長の遣欧使節が出航しているし
それ以外にも、幕府の認めた大船を用いて東南アジア諸国へ日本の貿易船が度々渡洋し
大きな利益を上げている。そうした遠征日本人らは、渡洋先に居住し日本人町を形成する
事もあった。例えばルソン(フィリピン)のディラオ、コーチ(ベトナム)のツーランやフェフォと
いった町が有名だ。それら日本人の中でも最も出世した人物として知られているのが
シャムへ渡った山田長政だろう。アユタヤの日本人町で長を務めていた長政は、シャム王の
信頼を受けるまでに実力を蓄え貴族に取り立てられた。王の親衛隊を率いる立場となった彼は
日本人兵を指揮して王の期待に応え、各地で奮戦。リゴールという町の太守にまでなっている。
さて、このような日本人による東南アジア貿易は、朱印船という船によって行われていた。
朱印船とは、将軍の発給した朱印状を備えた船の事で、遡れば豊臣政権時代、秀吉が同様の
朱印状を発して海外貿易を認めた事例に辿り着く。よって、朱印船貿易は1592年、江戸幕府
設立以前を発祥とするのが一般的だ。時の権力者が認めた正規の貿易船である朱印船は、
平戸や長崎を出港する際、銅や硫黄といった鉱物、屏風・扇・蒔絵製品・日本刀など日本独特の
希少商品を積んで東南アジアで売り捌き、逆に現地から日本へは生糸・鮫皮・象牙・香木・薬品
香辛料・絹織物・ぶどう酒など、日本では簡単に入手・製造できない物を持ち帰ってきた。
しかし、海外文化との交流は否応なしにキリスト教との関連が取り沙汰されるもの。
家康の頃は、キリスト教を締め出す事ができれば貿易は大いに認めるとしていたが、年月を
経るにつれ、禁教の為には貿易の制限も止む無しという考え方に変化していく。幕府の
締め付けにより営業不振となったイギリスは、1623年に平戸商館を閉鎖し日本から撤退。
翌1624年にはイスパニア船の来航が禁止され国交断絶、海外からの貿易船が大幅に減少した。
そして家光治世の頃になった1631年、日本人による海外渡航の際には朱印状の他に
奉書(ほうしょ、老中による命令書)も必要となり、出港の制約が一段と厳しくなる。
これを奉書船制度と呼び、1633年には初の鎖国令(寛永十年鎖国令)が発せられた。
この鎖国令は、奉書船以外の海外渡航を禁止するというもの。また、海外に5年以上いた者は
帰国を認められなくなった。以後、鎖国令は毎年のように再発布され、翌1634年にも同じ内容で
発布、さらに1635年の鎖国令(寛永十二年鎖国令)では日本人の海外渡航を全面禁止とし
外国から帰国した日本人も死罪とする厳しい内容。同時に、外国船の入港は長崎だけに制限。
翌1636年、在日のポルトガル人子孫や混血児、貿易に関係しない同国人を海外追放、
それ以外のポルトガル人も長崎の出島に押し込められた。出島とは、長崎港内に造られた
扇形の人工島で、面積は131aの小さなもの。本土とは小橋でのみ結ばれていた閉鎖環境島。
貿易による金銭・物品の流入だけを認め、人物の往来や思想伝播を遮断するために築かれた。
キリスト教禁止を最優先のものとするため、もはや貿易は切り捨てる覚悟を決めた江戸幕府。
これにより、日本国民は海外への移動が不可能となり、西洋諸国との関係もほとんど
なくなったのである。ちなみに、シャムで一旗挙げた山田長政は、王室の政争に巻き込まれ
ほどなく暗殺されたという。貿易で身を立て、そして没落していった姿は、まさに日本の
海外渡航政策そのものを体現していたかのようである。

島原・天草の乱(1) 〜 松倉氏の島原入封
信長の頃は(興味本位もあってか)キリスト教の流入は積極的に行われ、西国の戦国大名の
中には自ら洗礼を受けて入信する者もいたが、秀吉の時代になると禁教とされ、江戸幕府も
それを踏襲し、キリシタン(キリスト教徒)への弾圧が行われるようになっていた。秀吉や幕府が
キリスト教を禁じた主な理由は、宗教的洗脳により日本が西洋諸国の支配下に置かれる危険を
回避するためであったり、団結した信徒がかつての一向一揆の如く集団的反乱を起こす事を
恐れたため、あるいは、日本古来の伝統習俗や価値観を破壊する西洋文明への反発などが
挙げられる。九州地方は(かつてキリシタン大名が勢力を広げていた事もあり)西洋諸国と
交流する機会が多く、当然ながらキリスト教徒も膨大な人数になっていたため、幕府は特に
弾圧の手を厳しくしていた。1622年には幕府の命で50人以上の信徒が長崎で処刑されている。
これを元和の大殉教と呼ぶ。
さて、そうした最中に島原地方の領主となっていたのが松倉勝家(まつくらかついえ)
松倉氏はもともと大和国(現在の奈良県)筒井氏の家宰であった。石田三成の臣、島左近を
紹介した折、松倉右近重信の名を挙げた事を思い出して頂きたい。筒井家が衰退する中、
島左近は三成に仕え関ヶ原西軍の中核を為したが、一方の松倉右近は東軍に与し、
「筒井家の右近左近」は袂を分かったのである。その結果、松倉氏は徳川体制の下で
1万石という小禄ながら大名に取り立てられた。そんな折、キリスト教と切っても切れない地
島原地方は、幕府が禁教令を出した後も相変わらずキリシタンが多く、為に統治者の有馬氏は
禁教を徹底できず匙を投げ国替えとなる事態に至った。幕府は誰が代わりに領主となるか
色々と物色し、目を付けたのが「右近左近」の勇名で鳴らした松倉家。当時、取り潰された
外様大名家の浪人が飽和状態にある中、幕府としては松倉家に現地のキリシタンを弾圧し
根絶させた後、こうした浪人を九州島原の地から外征させ、キリスト教の布教根拠地であった
フィリピンのマニラへ突撃して徹底した禁教を完成させようとしたとかしなかったとか。
禁教と浪人放逐の一石二鳥を狙い、時の松倉家当主・松倉重政(重信の子)を4万石に加増
転封で島原入りさせ、現地のキリシタン弾圧や外征準備を行わせたと言われている。1630年、
外征計画の途上にあった重政は急逝したが、そうした統治方針はそのまま嗣子である
養子の勝家に受け継がれ、より一層苛烈な圧政が行われるようになった。

島原・天草の乱(2) 〜 禁教と圧政に爆発した民衆蜂起
当然、そのためには立派な城や外征資金が必要となり、勝家は領民から搾れるだけの徴発を
行う。何かにつけ課税の口実とし、例えば子供が生まれれば頭銭(あたません)、死人が出れば
穴銭(あなせん)、家を建てれば戸口銭・窓銭・棚銭に囲炉裏銭…といった具合。居城となる
島原城は4万石の小大名のものとは思えぬ程に巨大な構えとしており、その普請事業にも領民が
大量動員され、しかも農繁期でもお構い無しに工事を続行。無論、年貢の収納は特に厳しく、
少しでも基準に足りない場合は即、投獄や処刑という凄惨な仕置きが当たり前になっていた。
そもそも、幕府の機嫌をとろうとした松倉氏は実高4万石の領地を10万石の収穫量があると
報告していたほど。幕府の期待もあり、キリスト教の弾圧も度を越えたものになっていた。
さて領民の怨嗟の声が満ち溢れていた島原地方だが、それとは対照的に声望を集める1人の
少年が天草にいた。本名益田時貞(ますだときさだ)、通称天草四郎(あまくさしろう)なる
その若者は、もともとは旧主・小西行長の家臣であった益田甚兵衛の子で、当然ながら
キリシタンの1人である。父の縁故で宣教師らと親しい間柄にあった事から、教義だけでなく
西洋文明に明るかったため、困窮する民に医術を施すなどして特に慕われていたのだ。
噂は噂を呼び(現代人には信じがたい話であるが)失明した少女の目に手をかざしただけで
見えるようになったとか、海の上を歩いて島へ渡ったとか、数々の伝説を生み出し、いつしか
“現世に舞い降りた神の子だ”と神格化され、領民の希望の星となっていった。天草を領する
寺沢堅高(てらさわかたたか)も、松倉勝家同様の苛烈な統治を行っており、民衆は
四郎の下に信頼と信仰で結ばれた固い結束を紡いでいたのである。
1637年10月25日(18日とも)、遂に島原で民衆の怒りが爆発した。苛烈な悪政に反旗を翻した
一揆軍は松倉家の代官・林兵左衛門を殺害、飽和する不平浪人らも糾合し島原城を
攻撃した。これに連動し天草でも蜂起が始まり、富岡城や本渡城(いずれも天草支配の支城)に
攻め寄せる。富岡城は城代・三宅藤兵衛重利が戦死、本丸陥落寸前にまで追い込まれている。
島原と天草で同時に始まったこの巨大一揆を島原・天草の乱(一般的には島原の乱)と呼ぶ。

島原・天草の乱(3) 〜 幕府軍と一揆軍、壮絶な死闘
天草軍もこの後に島原へ転進、島原軍と合流し島原城攻略に加わったが、さすがに大規模な
この城は容易に落とせず、九州諸藩からの討伐軍来攻を恐れて一時撤退、当時廃城となっていた
原城(はらじょう)跡へ立て籠もった。四郎を筆頭とする一揆軍首脳はここでの抗戦を決し、
城跡を改修して幕府方の来襲に備えた。
九州で大乱勃発の報は11月に幕府へ伝わり、9日に書院番頭・板倉重昌(いたくらしげまさ)
上使として派遣される。重昌の父・板倉勝重(かつしげ)は初代京都所司代を務め、朝廷の
統制や豊臣家潰しに大功のあった人物であり、故に板倉家は幕府内で重きを為す名家であった。
武家諸法度の中に「隣国で変事ありとて、幕府の命なくして行動を禁ず」とあったため、九州
諸藩は勝手に動く事ができずにいたが、これによりようやく討伐の態勢が整ったのである。
この間、既に富岡城代が討たれるなど甚大な被害を出していたため、討伐軍は血気盛ん。
島原に到着した重昌は攻城のセオリーに基づいて持久戦を為そうとしたが、このため配下の
統制が上手く取れず、持久戦どころか勝手な攻撃が始まる始末。戦場においては名家の箔など
飾り物に過ぎず(言い換えれば、板倉家は武功ではなく文官の家柄なのである)幕府方は
なし崩し的に戦闘を行い、結果を出せないジレンマに陥っていく。
富岡城代敗死の報も伝えられた幕府は、いよいよ看過できない重大な反乱であると認識し
死を恐れぬキリスト教徒の戦いぶりに梃入れの必要性を感じた。11月27日、重昌の援軍として
松平信綱も江戸を発つ。家光の小姓として立身した信綱は、類稀なる才知を持った俊才であり
官職である伊豆守から“知恵伊豆”、即ち“知恵が出ずる”と評されるほどの切れ者。この頃
その才覚を以って筆頭老中にまで出世していた。
さて幕府としては援軍として信綱を派遣したのだが、現地で指揮に当たっていた重昌は
筆頭老中の出陣に狼狽。一向に成果の上がらぬ事を咎められると感じたか、面目躍如とばかり
1638年1月1日、正月早々に原城への総攻撃を命じた。自らも先頭きって攻めかかったのだが
これが裏目に出て、何と城方からの銃撃を頭に受けて戦死してしまった。当然、攻撃は失敗。
功を焦って戦死した板倉内膳正重昌は、雑兵に討ち取られた事で酷評されるようになり、巷では
上使とて なに島原に 板倉や 武道の心 さらに内膳

[意味] 名家を鼻にかけた板倉が島原に来たが、武道の心得などさらさら無いようだ。
  重昌の官職名・内膳正と、「無いぜ」と吐き捨てる言葉をかけた歌。
という狂歌で馬鹿にされる始末であった。知恵伊豆と比べられるのはさぞ不運であっただろう。
ともあれ、戦死した重昌と入れ替わるように信綱が島原に到着。九州諸大名監察の任も兼ねた
筆頭老中の参陣に、現場は一気に緊迫。信綱指揮の下、勝手な攻撃は厳禁とされ原城は兵糧
攻めで包囲された。この時、幕府の要請によりオランダ船からの原城砲撃も行われたが、
国内の戦闘に外国の助力を借りるのは問題があるとされ、これは早々に中止されている。
さて、信綱は城内が飢えで困窮するのを待ちつつ、矢文を度々送り込んで降伏も促している。
曰く、城を明け渡して帰農すれば今年の年貢を免除し来年も減免すると。これに対し一揆軍は
キリスト教の宗門を認めてもらえねば不可、と返信。信綱は、それならば無理にキリスト教へ
改宗させられた者は助ける、というやり取りを重ねた。しかし、こうした交渉もいたずらに
時間を重ねるだけで決定打には至らなかった。結局、2月下旬にようやく城内の兵糧が尽き、
これを見越して幕府方は総攻撃に討って出る。その結果、城内の民衆はことごとく撫で斬りされ
四郎をはじめとする一揆軍は全滅。その数は2万7000とも、3万7000とも言われた。

★この時代の城郭 ――― 破城(城割)
破城(はじょう)、あるいは城割(しろわり)と呼ばれる行為は、城を破却する事。
一国一城令が発せられた折、諸大名は自らの居城以外の城を破却し、とりあえずは
破城が行われてはいたが、その当時の破城行為は儀礼的なものに過ぎず、結果的に
島原の乱で原城が復活したように、完全な破却とはなっていなかった。このため
幕府は乱後に破城の徹底を命令。特に九州地方では再破却が念入りに行われ
数々の城郭が再使用できぬように破壊された。
そもそも破城行為は、多分に儀礼的意味を含んでいたという。戦国時代、まだ
小規模な小競り合い程度の戦乱が行われていた頃であるが、敵に襲われた村の
領主が、自らの城を焼き捨て降伏の意を表す事があった。これを自焼自落と言う。
焼いた城は大概が非日常的な“詰めの城”で、降伏するのだから必要の無い施設で
自焼自落したとして問題ない場合が多く、また、当時は再建するのも容易であった。
場合によっては、自焼自落のために全く防御力のない城を構える事さえあったらしい。
つまり、城の存続よりも、恭順して敵対しない事を宣言するほうが重要だった訳だ。
元和の一国一城令の際もこれと同じ感覚で破城が行われ、城を全壊させたのではなく
例えば建物だけ壊すとか、石垣の一部を崩すだけで「破却した」とした例が多い。
特に石垣は隅部を崩す事で“城を守護する霊力が抜ける”という精神的作用を
表したと考えられており、これを以って“その城は用済みとなった”と理解していた。
ところがこうした儀礼的破城では、実用面で城の効力が消えた訳ではなかったため
幕府は慌てて再破城の命令を下したのだ。
しかし、島原の乱以降、大規模な戦乱が起こる事は無く幕府の用心は杞憂に終わった。
何とも皮肉な話である。

乱後、苛烈な圧政で未曾有の大乱を引き起こした罪で島原城主・松倉勝家は改易の後
斬首に処せられた。大名が切腹ではなく斬罪になるのは異例の重罰である。寺沢堅高も
同様に所領没収となった。その一方で、キリシタン禁教もより一層強化され、幕府は
1640年寺社奉行配下に宗門改役(しゅうもんあらためやく)を設置、日本人すべてが
どこかの寺の檀家に入る事が義務付けられその管理を行うようになった。このため、
キリスト教を信じる者は表面上で棄教せざるを得なくなり、密かに信仰を続ける
“隠れキリシタン”として潜伏していった。
キリシタン灯篭
キリシタン灯篭

表立って信仰を示せない隠れキリシタンらは
十字架やマリア像などを一見しただけでは
わからない他の物の中に潜ませ、
それに礼拝したと言う。
写真にあるのはキリシタン灯篭の例で、
正面から見た灯篭のシルエットが
十字架に見立てられるようになっている。
島原の乱終結の翌年、1639年ついに幕府はポルトガル船の来航を禁止、国交断絶。
平戸のオランダ商館は1641年に長崎出島へ移され、そこでのみ貿易を続ける事が
許された。また、商館長の日本在留期間は1年以内とされる。これにて日本の鎖国は
完成を迎え、幕末の開国に至るまでは中国・朝鮮・琉球と出島のオランダ商館のみが
日本の対外窓口となったのである。




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