★この時代の城郭 ――― 築城名人列伝(4):小堀遠州
家康〜家光の頃に活躍した有名な築城家がもう1人。小堀遠州(こぼりえんしゅう)だ。
本名は小堀政一(まさかず)というが、1608年に従五位下遠江守に任じられた事から
遠州と呼ばれる事が多い。茶道や華道にも通暁した文化人で、彼が興した茶道の流派は
その名も遠州流とされているほどだ。そんな政一の実像は、優秀な内政官であると共に
芸術的才能と明晰な政治力から昇華される近世城郭築城家なのである。
関ヶ原合戦直後、政一は家康の御料代官として備中国松山城へ入った。ここで政一は、
それまで大がかりな山城となっていた松山城を再編、近世城郭として使いやすい規模に改め
政庁機能を山の麓に移しつつ、山上部は有事の戦闘拠点としてのみ有効となる状態に纏める。
その一方、城下町の要所要所に寺社を配置、これを防衛上の外郭砦群として活用できる
ものとした。実は備中松山城、以前は関ヶ原西軍の総帥・毛利氏の持ち城で、再度の戦が
勃発した場合には激戦地となる事が予想される場所だったため、城郭の改造は急務だった。
とは言え、家康の代官として入府したのだから、新政権の徳を表すため、戦闘に特化した
無骨な縄張りではいけない。これらを両立させる案として、山頂部の省力化・政庁の移転・
総構えとしての寺社運用という手法を編み出したのである。現在に至るも、備中松山城のある
岡山県高梁市は古き良き景観を守り続けており、政一の功績を目にする事ができる。
備中松山の統治を見事に成し遂げ、徳川将軍家の期待に応えた政一は、これ以後、徳川家の
城郭築造に深く関わるようになっていった。例を挙げれば、駿府城・名古屋城・再建伏見城
徳川大坂城などなど、有名城郭ばかり。そして、その集大成と呼べるのが二条城寛永度改修
工事であろう。中宮和子の入内にあわせ、将軍家の逗留・公家や諸大名の参集における
対面施設が必要となり(加えて、将来挙行すべき天皇行幸用の新御殿の築造を含め)
御殿の改修工事とそれに伴う庭園改変作業が行われたのだが、彼は見事にこれを成功させ
美しく調和する御殿と庭園の風景を作り上げたのである。さらに、その工事の途中の段階で
江戸へ召し出され、江戸城西ノ丸庭園も作れという命令が下される有様。まさに東奔西走、
政一は徳川家の作庭工事を一手に任される逸材であった。このように、政一の築城技術は
主に作庭を中心としたものであり、彼が作り上げた庭園は俗に“遠州流庭園”と評され
城郭のみならず、寺社などの庭園でも大いなる隆盛を誇るほどであった。
茶道の一時代を築いた古田織部(ふるたおりべ、千利休の直弟子)から茶の湯の指南を
受けた政一は、言わば利休の孫弟子。侘び寂びの極意から導き出される一流の芸術観は
将軍をも唸らせる、最高の御殿建築と庭園美を完成させたのである。
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