武断政治の展開

家康が創り、秀忠が固めた江戸幕府。
さらに時代が進み、3代将軍・家光に受け継がれていくが
徳川家の内情というフィルターを通して見ると、
必ずしもそれは順風満帆ではなかった。
逆境を跳ね除けて将軍位を得た家光の治世とは。



★この時代の城郭 ――― 徳川期大坂城:高度な技術を用いた究極の城郭
1620年、徳川秀忠は大坂城の再築工事を命じた。これに基づき、西国諸大名が動員され
天下普請による巨大工事が開始される。秀忠による大坂城工事は空前の規模となった訳だが
それもそのはず、戦火で焼失した城を単に再建したのではなく、豊臣期大坂城の敷地を
完全に土で多い尽くし、その上に新たな縄張りの築城を行ったのだから。つまり、城山を
一から築き直した上での新規築城だったのである。
「大坂城は豊臣の城」という概念を払拭し、「大坂城も徳川の城」という事を見せつけるには
これが最も効果的な方法である事は言うまでも無い。滅亡した豊臣氏の城を“埋葬”し、
その上に新たな政権者である徳川氏の城で“蓋をした”のだ。もはや豊臣の時代が終わり
徳川の世が完成した事を世に示すのが、この工事の目的であった。況してや、その工事を
執り行ったのはかつて豊臣氏に従っていた外様大名ばかり。大坂の町の民にも、工事を
請け負った大名たちにも、新生大坂城の誕生は“豊臣時代の終焉”を意味していた。
ところが新たに築かれた大坂城の縄張りは、秀吉の大坂城の縄張りに酷似している。中心の
本丸の北側には山里曲輪、そこから北へ極楽橋が延びて二ノ丸へ接続。その二ノ丸は、本丸を
ぐるりと一周する形で円を描いており、本丸南端の桜門とも接続していた。二ノ丸の北西側が
京橋口、南東側が玉造口、そして南西に開いた出入口が大手口。さらに、本丸と二ノ丸を
隔てる堀は、南西側の一部が空堀で残りが水濠。これらは全て、豊臣期大坂城と同じだ。
何故かと言えば、旧城を全て埋め立てたとは言え、全部を一度に潰した訳ではない。元和から
始まったこの工事は、都合3期に分けてとり行われた為、その部分部分を改造していくという
手法がとられ、結果的に豊臣期の大坂城をなぞって縄張りされたのである。また、豊臣期と
同一の形状を採用したのは、やはり秀吉の縄張りが優れ、北辺を寝屋川で守り、南に
城下町を構える立地において一番適した構造だったという事でもあったのだろう。
玉造口上空から眺めた徳川期大坂城復元CG玉造口上空から眺めた徳川期大坂城復元CG [(C)3kids]
とは言え、技術的側面から見れば、徳川期大坂城の構造は豊臣期のものより格段に優れた
ものになっている。秀吉の時代、野面積みが主流だった技術ではそれほど高い石垣が組めず
最重要拠点である本丸でさえ、一二三(ひふみ)段の段階的高低差によって高さを稼いで
いた。また、本丸の敷地自体も、北半分と南半分の2段構成になっていて、もともとあった
地山の存在に依存した縄張りになっていた。ところが徳川期大坂城はこれらの弱点を一掃、
本丸外周はそそり立つような一段の高石垣で固められ、本丸内部も不要な高低差を作らずに
一体化された巨大曲輪と化している。ちなみに徳川期大坂城本丸の石垣は、比高30mを誇り
日本一高い石垣なのだ。秀吉の築城から約30年の歳月を経ていたため、普請技術は格段に
向上、しかも大々的な天下普請により諸大名が競って築城工事を行った事で、新生大坂城は
当時の築城技術の粋を集めたものになっていたのだ。曲輪を囲う堀も、豊臣時代より倍の
幅に拡張されていた。もはや渡る事など不可能な堀幅である。
こうした技術革新は普請だけでなく作事においても同様で、望楼型であった秀吉の天守を
凌駕した新鋭層塔型天守が上がり大坂の城下町を睥睨。無論これは、徳川系城郭の範に
忠実な漆喰塗りの“白い天守”で、下見板張りで“黒い天守”の豊臣期と対極を為している。
高さにおいても秀吉時代をはるかに上回っていて、それは即ち、徳川幕府の“権威の高さ”を
表していたのである。天守のみならず、本丸には(他城では天守級の)三重櫓が11基も林立。
しかもそれが、多聞櫓で連結されていたというのだからもう無敵の構造だ。況や、二ノ丸にも
多層櫓が軒を連ね、見るだけで寄せ手を圧倒する視覚的戦略効果を生み出している。
さらに付け加えるならば、新城は(豊臣期を踏襲した縄張りではあるものの)徳川系城郭らしく
“面の防御”を意識した構造になっていた。新しいこの縄張りには、築城の第一人者である
藤堂高虎が関わっていたというのだから納得の話。要するに、新生した徳川期大坂城は
屈強な秀吉時代の縄張りを活用しつつ、最新技術の大量投入でバージョンアップさせた
「究極の巨大要塞」だったのである。江戸幕府が大名間抗争を抑えた最後の楔、それこそが
この大坂城だったと言えよう。


家光の誕生 〜 秀忠、ようやく嫡男に恵まれるが…
さて、時代を少し巻き戻して徳川家康が将軍職に就いた頃の話。家康の後継者は秀忠に
固まっていたが、その秀忠には長らく男子が生まれなかった。正しく言えば、手をつけた
女中に産ませた男子が居たものの生後まもなく亡くなってしまい、また、正室・小督を
大切にしていた(恐妻家?w)秀忠は側室を持とうともしなかったため、結果的には
なかなか嫡男に恵まれなかった。小督との間に生まれるのは女の子ばかり、いよいよ
徳川家の後継者問題は深刻となりつつあった1604年、その小督が待望の男子を産む。
喜んだ祖父・家康は自身の幼名を赤子に与え竹千代と名乗らせ、英邁の才ある少年
数名を小姓として付き従わせた。この中に、後年“知恵伊豆”と評される松平信綱がいた。
また、乳母としてお福を家康自ら引見して決定。このお福、実は明智光秀家老である
あの斎藤利三の娘であったが、才知を買われて乳母に取り立てられたのである。過去の
経歴に囚われず、優秀な人材を固めて竹千代の養育に取り組もうとした家康の熱意が
感じられよう。このお福こそ、後に大奥制度を確立した春日局その人である。
ところがこれに生母・小督は不服だったようだ。嫡男は乳母に育てられるのが武家の常識
武門の習いでは在ったが、ようやく誕生した我が子を取り上げられてはやるせない。
伊達政宗が生まれた折、その母・義姫が感じた事と同じ感情が小督にもあったようだ。
(大河ドラマで両者とも岩下志麻が演じたのは、それを狙った演出か?←これは余談)
いや、小督が織田家の縁者である点を鑑みれば、お福は憎き敵方の人間という事になり
その憤懣たるや、義姫のもの以上だったであろう。その上、1606年(異説あり)秀忠と
小督の間には次子・国千代(国松ともが誕生。こうなるとまさに政宗と義姫の間柄
よろしく、小督は嫡男であるはずの竹千代を遠ざけ、国千代を溺愛するようになる。
ようやく男子に恵まれた秀忠ではあったが、竹千代と国千代のどちらを後継者にするか
今度はそれが深刻な問題になってしまうのである。

家光、3代将軍に 〜 神君家康の裁定は天下泰平の道筋
長幼の序に従えば、竹千代が家督を継ぐ。されど、両親の意向にそぐわなければ廃嫡され
次子の国千代が家を継ぐ事もあり得る話。特に戦国乱世の熱気冷めやらぬ慶長年間ならば
その者の資質によって家の興亡は大きく左右されて当然だ。この点、竹千代は不利な点が
なくもなかった。両親の愛情に恵まれない少年は、やや卑屈な性格に育ち、時に粗暴な
素振りや、女装して遊興に耽る行いが見られたからだ。お福の教育により、決して才知で
劣るような事はなかったのだが、情緒的な問題は大きかった。幕府内では次第に竹千代派と
国千代派の綱引きが始まっていく。
しかし、この問題に決着をつけたのはやはり家康であった。将軍家の家督は長子である
竹千代が継ぎ、弟の国千代はその臣下に抑えられる立場であると決定したのだ。勉学に
明晰ならば家督を継ぐのに何ら問題は無く、たとえ何か不都合があろうとも、それは
家臣たちが補佐すれば良いだけの事なのだ。いわんや、家臣たちが家督相続を背景に
派閥の対立を起こすなどもっての外である。仮に才覚の多寡で跡継ぎを決めるとなると
何を以って優劣を決めるかは難しく、客観的な評価など決めようがない。であるから、
そうした尺度で家督を決するのではなく、単純明快に長子を以って嫡男とすれば、何ら
家督騒動の火種になるものはなくなるのだ。戦国争乱の時代は終わり、以後は徳川家が
天下の安寧を固める時代となるのだから、家の継承も規範に従い行うべし、と命じたのだ。
これ以降、徳川将軍の相続は「長子をして継がせる」という事が決せられた。よって、
徳川将軍家における家督問題は、鎌倉幕府や室町幕府に比べ格段に少ないものとなる。
その結果、幕府内は竹千代の相続で意思統一が図られた。
無論、この決定に喜んだのは竹千代である。よって、竹千代は祖父・家康を大いに敬愛し
自らの行いを改め、将軍継承者に相応しい人物たらんと律した。一方、面白くないのは
小督と国千代であった。これまでとは逆に、家督を継ぐ事が決して無いと運命づけられた
国千代のほうが粗暴な性格となり、小督も意気消沈。
元服した竹千代は家光と名乗り、国千代は徳川忠長(ただなが)と改名。徳川一門として
忠長には甲府、続いて駿府の領地が与えられ“駿河大納言”と呼ばれるようにはなったが
兄・家光は晴れて天下の将軍に。尊敬する祖父・家康のために、日光の霊廟を贅を尽くした
豪華なものに改装させる一方、小督の死後には驕暴な忠長の排除に乗り出し駿府城を没収、
遂には自害に追い込んだ。とは言え、これは家光の単なる我侭ではない。東照宮の工事は
天下普請の城作りと同様、徳川幕府の威光を形に表す狙いがあり、忠長の粛清については
血を分けた弟といえども、将軍に反抗する者は容赦しないという意思を示して江戸幕府の
支配体制を固める目的があった。家康・秀忠に続き、家光も武断政治を推進したのである。
なお、忠長失脚以後駿府城は幕府直轄のものとなり、幕末まで城代が置かれた。

肥後加藤家の改易 〜 武断政治、ますます強まる
駿河大納言忠長が謹慎処分を受けたのは1631年、その翌年に領地が没収されている。
常に擁護者であった母・小督は既に亡く、荒れた行状を憂いた父・秀忠も、忠長の改易は
認めざるを得なかった。そして秀忠が没して名実共に家光の世となった1632年5月、家光は
“御代始めの法度”と称し、熊本藩主・加藤忠広(清正の嫡男)を改易、肥後52万石を
召し上げた。以後、熊本には小倉から移された細川家が入り明治まで継承されている。
加藤家が取り潰されたのには諸説あり、明確な理由は解かっていない。一説によれば、
家光の腹心であった井伊直孝が謀った事だとも言われている。直孝が外様大名に対し
「私を信頼して油断している家光に対し、皆で共同して謀反を起こそう」という旨の偽書状を
送りつけその反応を見たところ、他の大名が武家諸法度に従い届け出たのに対して
忠広だけが何ら動きが無かった(=謀議を黙認した)と言うのである。また、加藤家中では
家臣の統制が取れておらず騒動が絶えなかったとか、忠広が忠長と懇意であったため
駿河大納言事件に連座させられたとか、いくつかの理由が指摘されている。とにかく、
父・清正が豊臣家股肱の臣であった“徳川の敵”を排除する事が目的だったのだろう。
家光は将軍職の承継に際し「自分は生まれながらに将軍である」と言い放ったという。
つまり、家光は徳川の世が確定してから生まれた存在であるから、家康や秀忠のように
「天下を勝ち登った」のではなく「はじめから天下を手にしていた」事になり、要するに
諸大名は全て家光の意向にひれ伏さねばならない、という宣言であった。加藤家を
潰したのも、全ては将軍の意のままに天下が動くという事実を再確認させる意味があった。

参勤交代制度の制定 〜 武家諸法度の改定
家光が将軍となった折、武家諸法度は改輔されている。1635年に発せられた寛永令で、
その中に参勤交代制度が制定されている。参勤交代とは、大名の妻子は必ず江戸に置き、
大名は国元と江戸を1年交代で行き来するという制度。要するに、大名の妻子を人質として
江戸で預かり、大名は治世を行うために国元へ帰るも必ずまた江戸に戻り将軍の威光に
従わねばならないという状況に置かれたのである。これもまた、中央集権体制を強化する
幕府の政略であると同時に、大名が領国と江戸を往復する費用を支出する事で経済力を
封じる狙いがあった。江戸を往復する大名の一行は大名行列と呼ばれ、その家格・石高に
応じて一定の人数を用意する必要があったのだ。即ち、大名間抗争が終わった平和な
時代ではあったものの、本質的に軍人である武家の慣習として、大名行列はその大名の
行軍動員であった事に他ならない。幕府から領地を封じられた大名にとって、大名行列を
仕立てて参勤交代に服するのは“必要な軍役”たる義務だったのである。
このため、各大名はこぞって豪勢な行列を用意して行軍した。貧粗な行列では、その大名の
沽券に関わるからだ。しかしそれは、幕府の狙い通り大名の財政を圧迫する一因となった。
一方で幕府は、大名が持ち込む武器の量に警戒もする。江戸で争乱など起きぬようにだ。
また、江戸に留め置く妻子が逃亡したりせぬよう、出入りが厳重に監視されるようになる。
街道には関所が置かれ、特に江戸へ持ち込まれる大名行列の鉄砲と、江戸から地方へ出る
旅の女が念入りに調べられるようになる。これを「入り鉄砲と出女(いりでっぽうとでおんな)」と
言う。室町時代までの関所が通行料を徴収する関門だったのに対し、江戸時代の関所は主に
大名統制の為に置かれたものだったのである。

江戸幕府の組織 〜 家光の頃、幕府の骨格が固まる
成立当初は徳川家の家内組織としての性格が強かった江戸幕府であるが、秀忠の時代を経て
家光による治世の頃、中央集権組織たる国家運営体制へと整えられた。以下、その職制を。

1.大老
定員1名(成立当初は複数名の場合があった)、幕府の最高職。江戸期を通じて延べ10人のみ。
常置ではなく、時宜に応じて適任者が任じられた臨時職。

2.老中
常置、定員5〜6名。政務を統括する重要職。以下、高家までの役職は老中の隷下に置かれた。

2-1.大目付
4〜5名、大名の監察を任とする。初代は剣豪として知られた柳生但馬守宗矩(むねのり)

2-2.大番頭(おおばんがしら)
12組が組織された江戸城ならびに江戸市中警備の役職。

2-3.留守居(るすい)
4〜6名、旗本の最高職。大奥の取締、将軍出行時の留守警備、関所の女手形などを司る。

2-4.勘定奉行
4名。天領の租税徴収、天領と関八州旗本領における訴訟、幕府財政の運営。

2-5.勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)
4名、勘定奉行所の監察・監査。

2-6.(江戸)町奉行
2名。北町奉行と南町奉行が月番交代し、江戸市中の行政・司法を司る。
現代風に言えば東京都知事兼東京地方裁判所長。

2-7.作事奉行
2〜3名、建築工事の一切を取仕切る。

2-8.普請奉行
2名。石垣・堀などの工事、土木建築の基礎工事担当。

2-9.道中奉行
五街道の伝馬(てんま、早馬を使った情報伝達方法の事)・飛脚・旅宿・道路など
道中に関する一切の事務を担当。街道の整備は軍事行動に直結する問題であるため
武家政権たる江戸幕府は専任の職制を定め、厳重に管理した。五街道とは、江戸と
主要都市を連絡する最重要幹線道路として幕府が規定した5つの街道(及び附属道)で
東海道(京都方面)・甲州道中(甲府往還)・中山道(碓氷峠・木曽福島経由の京都経路)
日光道中(日光方面)・奥州道中(東北方面)の事である。

2-10.遠国奉行(おんごくぶぎょう)
京都・大坂・駿府の町奉行と、幕府直轄の要地である長崎・佐渡・伊勢山田・日光・奈良
堺などの諸奉行を指す。

2-11.関東郡代
関東の天領における支配。

2-12.側衆(そばしゅう)
5〜8名。江戸城中に宿直し、夜間の政務を老中に代わって処理する。

2-13.高家(こうけ)
儀式典礼、勅使公家衆らの応接を司る。武田・畠山・吉良・今川など、
幕藩体制成立以前より名家とされた家系から26家が世襲とされた。

3.若年寄
老中の補佐、旗本・御家人・江戸城中の支配。
以下、新番頭までの役職は若年寄の隷下に置かれた。

3-1.目付
10名程度。旗本・御家人の監察。

3-2.書院番頭(しょいんばんがしら)
3-3.小姓組番頭(こしょうぐみばんがしら)
江戸城の警備、将軍出行時の護衛。

3-4.新番頭(しんばんがしら)
書院番・小姓組番の補助。

4.側用人
1名。常時将軍の側近として伺候し、将軍の命令を老中に伝達する。

5.奏者番(そうじゃばん)
大名・旗本が将軍に謁見する際の取次、進物等の監査。

6.寺社奉行
4名。全国の寺社・寺社領の管理や宗教統制。

7.京都所司代(きょうとしょしだい)
1名。京都市中の護衛、朝廷の監察、西国大名の監視、京都諸役人の統括。

8.大坂城代
1名。大坂城の守護、西国大名の監視、大坂諸役人の統括。

将軍直轄の役職とされた大老〜大坂城代は譜代大名の中から選ばれる事が通例であり
老中・若年寄の下に置かれた諸職は旗本の中から任命されていた。なお、勘定奉行
江戸町奉行・寺社奉行の3職を特に三奉行と呼んだ。

★この時代の城郭 ――― 江戸城(4):史上最高の天守、家光の寛永度天守
秀忠から政務を引き継いだ家光。彼もまた、家康から秀忠へ代替わりした時と同様に
“新将軍の権威”を知らしめるべく江戸城の改修を行った。一時は忠長に跡を継がせ
自分を廃嫡しようとする危険性を含ませていた父・秀忠に対し、少なからず鬱屈した
思いを抱いていた家光にしてみれば、亡父の築いた天守は即刻破却し、それを上回る
新天守を揚げて自らの威勢を喧伝しようという考えがあったに違いない。
寛永年間に行われたこの工事により、江戸城は名実共に日本の政治の中心となる設備を
整えた。そして、計画通り元和度を超える大型天守も完成。家光による江戸城3代目の
天守は寛永度天守と呼ばれ、天守台石垣上に載った建物部分の高さが44.8mにも達し
日本一高い天守建築であった。44.8mと数字だけ言われてもよくわからないだろうが
現在、江戸城北ノ丸に建てられている日本武道館が総高42mなので、それよりも3mほど
高い。アメリカ、ニューヨークにある自由の女神像が46m、ほぼ同じくらいの高さだ。
実際にはこれに天守台石垣と鯱の高さが加わるので、さらに高い事になる。木造建築で
これだけの高さというのは、事実上の建築限界に達していると言えよう。江戸城天守の
復元が不可能だと言われるのは、皇居近隣という立地条件だけでなく、これほどの
高層建築を成立させる木造建築技術が現代では廃れてしまっている事による。また、
復元に必要な資材となる巨木が調達できないという点も挙げられよう。天守を作るには
それなりに太く長い木材が必要となるが、そんな大木は現在ほとんど残っておらず、
残っていたとしても、そうした名木は往々にして天然記念物に指定されているため
伐採が許可されないからだ。
こうした事情から鑑みると、家光の築いた寛永度天守は相当に贅沢な建物だったと言える。
日本全国から選りすぐりの木材をかき集め、中井家指導による巧みな強度計算により
成し遂げられた最上級の天守なのだ。その外壁には銅板が張られた事もあり、
高さだけでなく、立ち姿までもが人々の目を惹いた江戸城寛永度天守。この天守もまた、
将軍の権威を体現する「政治的天守」であったに違いない。
江戸城寛永度天守復元CG江戸城寛永度天守復元CG [(C)3kids]





前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る