天守の変遷(2)


城郭に燦然と輝く巨大な天守閣。
その建築には緻密な工法が必要であり
莫大な費用と労力がかかるのである。
天守とは、ただの物見櫓ではなく
城主の権威の象徴でもあったのだ。
技術力、財力、労力、権威…
即ち、武家の政治力を示す存在が天守なのである。

土木技術と建築技術
史上初の層塔型天守は丹波亀山城天守とされる。
築城の天才といわれた藤堂高虎が設計し、
1610年(慶長15年)の建立。
これ以後の徳川幕府及び親藩・譜代大名の城郭には
層塔型天守が次々と採用されていった。
この時期に層塔型天守が開発されたのには様々な理由がある。
単純に考えれば、櫓と櫓を組み合わせる望楼型の工法は複雑であり
単一の櫓である層塔型のほうが簡易な工法のはずだが
層塔型より望楼型が先行して成立したのは
天守の土台となる「天守台」の完成度の違いによる。
すなわち、野面積みの石垣では地盤が緩いために
大型で重量のある櫓を安定させることができない。
また、建物の平面と同等の正確な四方形を作り出すことは
甚だ困難な状態であった。
(安土城天主台や岡山城天守台は四方形ではなく不等辺多角形である)
それゆえ野面積みの天守台では
緩衝性を持たせるための下層櫓の上に
望楼部である上層櫓を乗せる望楼型天守が作られたのである。
土木技術が向上し、打込ハギや切込ハギの石垣が開発されるにつれ
天守台も強固で正確な四方形が作れるようになり
ここで初めて層塔型天守を築くことが可能となった。
また、関ヶ原合戦を境に豊臣氏から徳川氏へと政権が移行。
徳川幕府は豊臣氏の威勢を払拭するべく
新たな形式の城郭を作る必要に迫られていた。
大坂城をはじめとする豊臣系大名の城郭は
黒板張りの剛健なもので、後期望楼型の大型天守を備えていた。
天下人秀吉の威光を見せつける城だったのだ。
これに対抗し、徳川幕府は新たな中央政権であることを示すべく
新型の層塔型天守を開発して豊臣氏を圧迫した。
層塔型天守は白漆喰塗りで優美な印象を与えると共に
強固な耐久性・防火性を兼ね備えていた。
江戸城・名古屋城の天守は本瓦に代わり銅瓦を屋根に葺き
建物重量の軽減を図っている。
こうした新技術の導入によって、秀吉の大坂城よりも
はるかに巨大な天守を建築することができるようになり
これらの新型天守を全国の主要な城郭へ建てることで
豊臣系大名の勢力を削いでいったのである。
江戸城天守は遠く房総半島からも望め
名古屋城天守は「尾張名古屋は城でもつ」と謳われて
徳川幕府の権威を全国に知らしめたのであった。

江戸時代の再建天守
城といえば天守閣、と思う人も多いだろうが
天守を備えた城は数えるほどしかない。
室町時代末期〜江戸時代初期のいわゆる「戦国時代」には
日本全国に大小あわせて約3000の城郭があったとされるが
その大半は戦時の陣城として作られたものである。
こうした城には物見の井楼があるくらいで
天守と呼べるものは存在しない。
群雄割拠の時代から大勢力への統合が行われて
大大名の本拠となる城郭にのみ天守が作られたのだ。
大坂の陣が終結し、豊臣氏が滅亡した「元和偃武(げんなえんぶ)」で
徳川幕府が治める幕藩体制が確立。
この時発布された「一国一城令」で、全国の城は約170に整理され
その中でも天守を持つ城郭は幕府の直轄地・親藩・譜代大名と
ごく少数の外様大名の居城に限られてしまった。
伊達氏の仙台城・島津氏の鹿児島城などは
大大名であるにも関わらず幕府に遠慮して天守を建てなかった。
天守の新造・改築も厳しく制限され
それを行う場合には幕府の許可を得る事が必要であった。
しかし、もともと数少ない天守は江戸時代250年の間に
落雷・火災・風水害や地震などで更に減少していく。
岩国城や肥前名護屋城は一国一城令で城そのものを破却。
建築中だった伊賀上野城天守は暴風雨で倒壊、
そのまま建築を断念した。
天守が火災・落雷で滅失した江戸城や二条城などは
幕府の直轄城であったが財源の都合で再建される事はなく、
丹波篠山城は縄張り自体が堅固なため
天守の創建は幕府により差止めとなった。
しかし、幕府の厳しい統制のなかでも
滅失した天守の再建を果たした城がいくつかある。
弘前城は創建当初五層の天守が建てられていたが
1627年(寛永4年)落雷のために焼失した。
しばらくは天守のないままであったが、
1810年(文化7年)にようやく幕府の許可を得て再建。
ただし、従来あった三重櫓を改造したもので
外側に面した南面・東面には破風を設けて豪華にしてあるが
内側になる北面・西面は一切の装飾がない簡素なものとした。
幕府の警戒を恐れて大規模な天守の構築を控えたのであった。
和歌山城天守も当初五層であったが、焼失後の再建は
弘前城同様に三層へと縮小。御三家であっても
幕府の威光には逆らえなかったのである。
高知城天守は1727年(享保12年)の大火で焼失。
四国の雄藩として特に再建が許されたが
新鋭の層塔型天守ではなく、古式の望楼型天守で復旧した。
1753年(宝暦3年)のことである。
また、天守の建築を諦めて三重櫓の築造に留めた例も数多い。
奥羽の要衝である小峰城や御三家の水戸城などは
こうした天守代用の三重櫓で作られた城郭である。
上記の通り、江戸時代における天守の構築は
幕府の影響力によって大きく左右され、
古式なものや縮小版として作られたものが多い。
1703年(元禄16年)に地震で大破、
1706年(宝永3年)再建の小田原城天守は
旧天守を上回る新天守再建が許可されたが、これは極めて稀な例であった。
小田原城は関東の入口であり、江戸を防御する要であったため
特別に大型の層塔型天守の再建が許されたのである。
弘前城天守北西面
簡素な意匠の弘前城(青森県)現存天守北西面
南東面は「大天守」弘前城の頁を参照




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