天守の変遷(1)


城といえばやはり天守、大空に高くそびえる
巨大な櫓を思い浮かべる人も多いだろう。
一般に「天守」と呼ばれるものは
その城で最も大きな櫓を指すが
規模や構造で特に明確な規定があるわけではない。
要するに「天守」と呼べば天守であり
そうでなければ天守ではないだけのことである。
なお、「天守閣」の単語が使われるようになったのは
明治以降のことであるが、現在では
「天守」「天守閣」は同義の単語として使用されている。
城郭の象徴ともいえる天守について解説する。

天守の成立
城郭が防衛施設である以上、攻め寄せる
敵の軍勢を把握するのは必須の事項である。
山城では見通しの利く断崖を物見台としたり、
平城ではできるだけ高い井楼(せいろう)を組み上げて
少しでも広い展望を確保していた。
建築技術の向上に伴い、大型で強固な櫓を作ることが可能となると
城には物見のための大櫓を設置するようになった。
これが天守の源流である。
遠くへの眺望が望める大櫓は、逆にいえば
遠くから城を目立たせるものともなるので
次第に城の威光を示す象徴ともなっていった。
これを体系化し、武家政権の権威としたのが
織田信長の安土城であった。
安土城には従来の大櫓を更に進化させ、
格段に巨大で豪華な装飾を施した「天主」が築かれたのである。
従来の大櫓が三重程度の質素な物見櫓であったのに対し、
安土城天主は五重七階(六階とも)と想像されており、
外観は金銀朱色の塗装が施され、
内部も狩野派の屏風絵で飾られた賢覧豪華なものであった。
信長の威勢をそのまま示したこの大櫓に「天主」と命名したのは
当時日本に伝来したキリスト教の「天主堂」から採ったとも
信長が「天下の主」であることを表したとも言われている。
安土城は本能寺の変で焼失してしまうが
この安土城天主以後、各地の城郭には
「天守」と名づけられた大櫓が作られていく。
安土城天主は消えても、その技術と思想は
武家政権の常道として受け継がれたのである。

天守構造の発達
初期の天守(大櫓)は、基台となる櫓の上に
物見のための小櫓(望楼)を乗せる形で成立した。
安定感を得るため、下櫓に比べて上櫓はかなり小ぶりなものであり
概ね屋根の棟が上下で異なる向きとなっている事が多い。
こうした構造の天守を「望楼型(前期望楼型)天守」という。
★主な前期望楼型天守…丸岡城(福井県)・犬山城(愛知県)・安土城(滋賀県)など
前期望楼型天守



前期望楼型天守

建築技術の向上により、天守建築にも変化が現れる。
天守そのものが大型化し、上層の望楼と下層の基台との格差
(これを「逓減率」という)は少ないものとなってくる。
屋根の棟向きも上下同一となる傾向にあり
破風などの装飾を多く使い豪壮さを際立たせた意匠となった。
この時期の天守を「後期望楼型天守」という。
★主な後期望楼型天守…豊臣期大坂城(大阪府)・姫路城(兵庫県)・熊本城(熊本県)など
後期望楼型天守



後期望楼型天守

関ヶ原合戦後、対豊臣氏包囲網を取る徳川幕府は
革新技術を採り入れた城郭を全国各地に築いた。
天守は櫓の組み合わせである望楼型ではなく、
当初から大型の塔として設計されたものを採用。
秀吉の大坂城天守を凌駕する超巨大天守で
豊臣恩顧の大名を圧倒していった。
この形式の天守を「層塔型天守」という。
★主な層塔型天守…元和・寛永期江戸城(東京都)・名古屋城(愛知県)・徳川期大坂城(大阪府)など
層塔型天守


層塔型天守

前期望楼型天守


前期望楼型天守の例:犬山城(愛知県)
後期望楼型天守


後期望楼型天守の例:熊本城(熊本県)
層塔型天守


層塔型天守の例:名古屋城(愛知県)

特殊な天守建築として、南蛮造天守というものがある。
年代的分類ではないが、建築様式の一種としてここに掲載した。
高松城天守などが好例で、下層より上層の床面積が大きく
上層の壁面が外に張り出す「頭でっかち」な建物である。
現存する古建造物はないが、復元建築として
岩国城天守、小倉城天守がある。
★南蛮造天守…岩国城(山口県)・高松城(香川県)・小倉城(福岡県)
南蛮造天守

南蛮造天守
南蛮造天守



南蛮造天守の例:
高松城(香川県)古写真



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