2006年8月 横浜三溪園写真館

旅行期間:2006年8月27日(日)

主な滞在地
8月27日(日):横浜三溪園
横浜三溪園内地図 (C)三溪園保勝会


夏の終わりに、ぶらぶらと散策できる所へ遊びに行こうと思い立ち
県内の手頃な場所を考えてみたら、
横浜三溪園(さんけいえん)に行き当たりました。
ってな訳で、車で1時間ほどのんびりと走り本牧へ…。

ここでちょっと三溪園のご紹介。
明治時代、生糸貿易(さすが横浜!)で巨財を成した実業家
原富太郎が、古美術収集を目的とし私邸敷地内に
全国各地の古建築物を移築したのが三溪園です。
ただ単に“成金趣味”で古い建物を持ってきたのではなく
敷地の山水や景観に配慮し、適切な場所に建物を配置し
しかもそれを当時から一般開放していたのが素晴らしいところ。
太平洋戦争の空襲で一部滅失したものもありますが、
残された多くの建物は今や国・県・市の重要文化財に指定され
見事な状態で維持管理されています。もちろん、園そのものも国の名勝。
まぁ、小難しい事は抜きにして簡単に言えば
巨大な「美しい日本庭園」って感じです(随分とザックりだなぁw)
あ、“三溪”ってのは本牧・三之谷の地(三溪園のある場所)から採った
富太郎の雅号で、原三溪の庭園=三溪園っていう事だそうで。
三溪(富太郎)の存命中は園内で美術家の育成・振興も行われてました。

さて、前置きはここまでにして三溪園めぐりに出発〜♪
大池
大池

正門を入るや、目の前に広がっているのがこの大池。
三溪園と言えばこのアングル、という気がしなくもない(笑)
対岸にある三重塔の、そのまた向こうまでが園内なんだけど
もともとは私邸にしてこの面積、どんだけ金持ってんだよ!と
ちょっとツッコんでみたくもなる (^ ^;

大池に沿って歩いて行くと、最初に辿り着くのは鶴翔閣(かくしょうかく)。
横浜市指定有形文化財 鶴翔閣
横浜市指定有形文化財 鶴翔閣

元々は原家の住宅だった建物で、現在は市の有形文化財。
広さ290坪、主に楽室棟・茶の間棟・客間棟から成る
雁行形式の邸宅で、その姿から例えて“鶴翔閣”と
名付けられているそうです。
催事場として一般開放していて、
この日は書道の展覧会が開かれてました。
上から読んでもかく・しょう・かく、下から読んでもかく・しょう・かく…。

先へ進むと、見えてきたのは格調高そうな薬医門…。
(門の形式とかに注目しちゃうのが城マニアの悲しい性www)
横浜市指定有形文化財 御門
横浜市指定有形文化財 御門

これまた市の有形文化財、元々は
京都東山の西方寺にあったもの。
1708年、宝永5年頃の建立だという事は
5代将軍、徳川綱吉最晩年の頃ですな。

その御門をくぐって突き当たりにあるのが
国重文 臨春閣 車寄
国重文 臨春閣 車寄

こちらは国の重文、臨春閣(りんしゅんかく)こと
旧紀州藩別邸・巌出御殿(いわでごてん)。
この写真は車寄の部分です。という事は、
往時は雅に駕籠が乗りつけたんでしょうねぇ。
国重文 臨春閣 内部
国重文 臨春閣 内部

巌出御殿、現在の和歌山県岩出市にあった
紀伊徳川家の御殿建築です。
内部は狩野派の障壁画で飾られ
いかにも武家の邸宅といった感じです。
国重文 臨春閣 全景
国重文 臨春閣 全景

徳川8代将軍、紀伊徳川家出身の徳川吉宗は
幼少の頃、この巌出御殿で養育された時期が
あったとか。将軍様が眺めた景色は
こんな感じだったんでしょうか…。

臨春閣の裏手にも池があり、それを渡るとあるのが
国重文 旧天瑞寺寿塔覆堂
国重文 旧天瑞寺寿塔覆堂

長い名前ですが、天瑞寺にあった寿塔の覆堂という事です(笑)
寿塔というのは、長寿を祈願して生存中から建てる墓の事。
太閤秀吉が1591年に母・大政所ことなかさんの長命を
祈願して作ったらしいッス。

だったら朝鮮出兵なんかしなきゃいいのに…(ボソッ)

池越しに臨春閣を見る
池越しに臨春閣を見る

うむ、風情があって良いのぉ…。
亭樹
亭樹

臨春閣と旧天瑞寺寿塔覆堂を繋ぐ橋、亭樹です。

臨春閣の奥、坂を登ると月華殿が見えてきます。
国重文 月華殿
国重文 月華殿

こちらは徳川家康ゆかりの邸、月華殿。
京都宇治にあった三室戸寺金蔵院から
移築されたものですが、元々は
徳川期伏見城にあった建物です。
横浜で伏見城の遺構が拝めるとは… (T-T)感涙
月華殿内部(1)
月華殿内部(2)
金毛窟つくばい
金毛窟つくばい

月華殿は隣の茶室・金毛窟と繋がってます。
こちらはそのつくばい、手水鉢ですね。
渋い、渋すぎる…。

内苑の一番奥にあるのがこちら、天授院。
国重文 天授院
国重文 天授院

鎌倉、心平寺の地蔵堂を
原邸の持仏堂としたのが天授院。
元来の創建は1651年、鎌倉の寺という事で
禅宗様の建築様式。これまた渋い!
園内疎水
園内疎水

天授院の脇からは水が流れ出て
疎水となって山をくだります。
ここが横浜の街中だなんて、信じられない…。

その川に沿って歩く遊歩道には、こんな建物が
国重文 聴秋閣
国重文 聴秋閣

茶道・宗可流の開祖、江戸時代初期の茶人武将である
佐久間将監(しょうげん)こと佐久間実勝(さねかつ)が
徳川家光の命で二条城に建てたもの。
当時は三笠閣と呼ばれ、後に春日局へと下賜され
数度の移築を繰り返し三溪園へやって来ました。
それにしても聴秋閣という名前、風流の極みですね!
↑何となく、西本願寺飛雲閣(国宝の三重楼閣)に似ている気がするのは拙者だけでせうか?

散策路、聴秋閣の傍からは眺望が開けます。
園内一望
園内一望

こんな感じ♪ (^-^)b

蓮華院
蓮華院

竹林にある茶室で、壁の格子に
宇治平等院の古材を使っているとか。
蓮華院の前を通り抜け、今度は外苑へ。
やって来たのは旧矢箆原(やのはら)家住宅です。
国重文 旧矢箆原家住宅(1)国重文 旧矢箆原家住宅(2)
国重文 旧矢箆原家住宅

今や世界遺産として有名な白川郷、
かつての岩瀬集落にあった茅葺民家。
岩瀬集落はダム建設により移転を余儀なくされ
滅失を惜しむ声により、三溪園へ移築されました。
合掌造りの屋根は一番の特徴ですが
切妻の部分には何と火灯窓が!
農家とは言え、格式の高さが窺えます。
重文ですが、中では囲炉裏に火が入れられ
現役の建物として維持されているのも凄い。

旧矢箆原家住宅の隣にあるのが、鎌倉・東慶寺にあった仏殿。
国重文 旧東慶寺仏殿
国重文 旧東慶寺仏殿

天授院同様、鎌倉の古寺にあっただけあり
これまた禅宗様の建築様式。
木々の中で静かに佇む姿は
それだけで絵になります。
国重文 旧矢箆原家住宅(3)
国重文 旧矢箆原家住宅

うしろを振り向けば、旧矢箆原家住宅。
さすが白川郷の合掌造り、
茅葺屋根は巨大です!
この建ち姿、重厚感、滲み出る歴史の凄み、
すっかり江戸時代にタイムスリップした感じ。

晩夏の蒸し暑い日、ぐるり一周してくると
すっかりバテバテに(苦笑)
茶屋で冷たいものを頂き、一休みした後
出口へ向かって歩きはじめると現れたのが燈明寺の本堂です。
国重文 旧燈明寺本堂
国重文 旧燈明寺本堂

大池の畔にある三重塔と同じく、
京都府木津川市にあった燈明寺から移されたもの。
昭和23年の台風で被害を受けた本堂を
解体保存していたが、昭和62年から5年をかけて
三溪園へ移築したとの事。
この建物もイベントスペースとして使えるらしく
この日も何やら色々な展示が出てました。
拙者、ゲージュツの世界にはトンと疎くて
あの展示がどういうものだったのかは全然分かりませんでしたが (^ ^;;;
三溪園全景
三溪園全景

正門へ帰りつく道すがら撮影。
蒸し暑い日でしたが、水辺の庭園は
気分だけでも?涼しくなるような??
………そうであったと思いたい(爆)



◆◇◆ 灯籠の 山に滴る 古き屋に 色を添えるは ハマの夕凪 ◆◇◆




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