「最初の」伏見城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊臣秀吉が自らの権威を誇るべく京都洛南に築いた城として有名な伏見城。しかしその歴史は指月(しづき)の地に構えた
指月伏見城と、その後に築き直された木幡山(こばたやま)伏見城の2期に分かれる。一般的に「伏見城」と認識されるのは
木幡山伏見城の事を指し、後段で記載するとして、まずは指月伏見城について説明し申す。■■■■■■■■■■■■■
1590年(天正18年)に天下統一し日本国内の平定を成した秀吉であったが、彼の嫡男であった鶴松は翌1591年(天正19年)
8月5日に病没してしまった為、その年の12月28日に甥の秀次が関白に就任し豊臣家の後継者となり申した。京都における
豊臣家の政庁だった聚楽第(じゅらくだい、じゅらくていとも。京都府京都市上京区)が秀次に譲られた事で、秀吉は改めて
隠居館を築く運びになった。こうして選ばれたのが指月の地で、当初は館作りの居館が構えられる予定とされたようだ。■■
1592年(文禄元年)8月17日に場所が選定され、9月3日から工事が開始される。とは言え、この頃から朝鮮出兵が始まって
“天下の主”である秀吉に相応しい城…特に大陸側との外交交渉に用いられる事が意識され、豪壮雄大な城郭へと変化。
平安時代から「月見の名所」であった指月は、その当時眼下に雄大な巨椋池(おぐらいけ、木津川中流にあった湖)を眺め
大坂湾へと繋がる河川交通の要衝でもあったが、その巨椋池を城の堀として取り込む一方、池の中に巨大な築堤を構えて
物資の集約や陸上交通との結節点にも拡大利用した。巨椋池から本丸直近まで直結するように削り込まれた城の水濠は
舟入として使われ、瀬戸内海交通から川を遡って指月の城まで直接船で乗り入れる事を想定したものだった。言うまでも
なく、これは軍事輸送のみならず朝鮮や明の外交使節を招き入れ、秀吉の権勢を見せつける目的があっただろう。■■■
この頃になると秀吉に新たな実子・拾丸(後の豊臣秀頼)が産まれ、後継者の座を外された秀次は切腹。聚楽第は秀次の
権勢を払拭する為に廃絶され、いよいよ指月伏見城が豊臣政権の新たな中枢として意識されるようになった。築城工事は
聚楽第の古材を転用するなどして拡張されていき、それに先立って淀古城(伏見区内)の天守や櫓も移築され、城内には
無数の櫓が林立する堅固な構えになったと言われてござる。秀吉は既に1593年(文禄2年)頃には指月伏見城へと入居し
1595年(文禄4年)頃に一応の完成を見ていた。ただし、城下町の造営や諸大名の屋敷地造営は引き続き行われている。
一夜にして幻に消える■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが1596年(文禄5年)閏7月12日の深夜、近畿地方を中心として大地震が発生する。近年の科学的な検証によると、
この地震は有馬―高槻構造線を震源断層とした直下型地震で、その断層ズレで起きた地震波の突き当たる地点が丁度
伏見の地であったと考えられている。この結果、指月伏見城は大破し、城内の建築物は悉く倒壊する被害を受けている。
火災こそ発生しなかったが、城内では600人を超える女中や人足が建物の崩壊で圧死したと言われる。かろうじて秀吉は
一命を取り留めた。同月18日には明の使節に対して馬揃え(軍事パレード)を行う予定であったが、この被災で中止され
地震の災厄を払底すべく、同年10月27日に慶長へと改元されている。よって、この大地震は慶長伏見地震と呼ばれる。■
慶長伏見地震の後、伏見城は木幡山へと場所を改めて再建される事になった。故に、指月の伏見城は僅か4年の短命で
廃城となり申す。これ以後、城跡は町屋や耕作地へと変貌して、いつしか指月伏見城の存在そのものが忘れられるように
なっていった。宅地造成された現在では、殆ど何処にも城跡の痕跡は見受けられない。指月の城はこの辺りであった…と
伝承だけは残されていたが、確証を得られるようなものは何も存在していなかった。1908年(明治41年)からは指月城跡
付近を中心に陸軍の京都師団工兵第16大隊が駐屯しており、これまた指月の城から人々を“遠ざける”結果に繋がった。
太平洋戦争後は軍用地から解放され、今では集合住宅が多数建っている用地となってござる。■■■■■■■■■■■
“幻の指月城”を求める発掘調査も、すっかり住宅地となった現代ではなかなか行う事ができず、1999年(平成12年)JR
桃山駅の南側で小さな一角を掘り起こし、2009年(平成22年)伏見簡易裁判所の北側にある狭小な区画を調べるのみで
あった。だが2015年(平成27年)マンション建設に先立って4月〜7月の3ヶ月間、比較的大きな敷地を発掘する。有限会社
京都平安文化財が行ったこの調査で、遂に石垣遺構と埋没していた数々の金箔瓦が検出され、いよいよ指月伏見城の
確証となる物が出たと大騒ぎになり申した。6月20日には現地説明会も開催され、相当な賑わいになったそうだ。ただし、
この遺構は埋没保存される事となり、今は出土した石材のいくつかがマンション敷地の傍らに移設展示されているのみ。
また、京都市の文化財保護課ではこの石垣を指月伏見城のものではなく、後に木幡山伏見城の大名屋敷群造成により
構築されたものではないかと懐疑的な見方をしてござる。さりとて、指月の地で具体的な物証が出たのは大きな前進で、
京都市文化財保護課が翌年に行った公務員桃山東合同宿舎敷地内での発掘でも同様の金箔瓦が出てきている。今後、
指月伏見城を特定する調査研究が進む事を期待するばかりだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
写真は2015年の8月に撮影した、現地説明会会場だった場所。既にほぼ埋め戻されている。遺構らしき物は見えず残念!
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