山城国 旧二条城

旧二条城跡 石碑と案内板

 所在地:京都府京都市上京区武衛陣町 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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始まりは「左兵衛督」邸■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「二条城」と言えば徳川幕府が京都洛中に築いた世界遺産の城(下記)として有名だが、それ以前にも時代毎の権力者が
二条の地に城館を築いていた。室町幕府13代将軍・足利義輝も「二条御所」を造営し、織田信長も15代将軍・足利義昭の
御所として二条城(旧二条城)を築城、豊臣秀吉も「二条第」と呼ばれる城を構えており、二条は天下人が城を構えるのが
通例となっていたが、これらの旧城は現在の二条城とは全く別のものである。この項で紹介するのは足利義昭の二条城、
徳川幕府の二条城と区別する為に「旧二条城」または「二条古城」と称される城でござる。■■■■■■■■■■■■■
さて“足利義昭の二条城”と説明したものの、その前段としてあるのは義輝の二条御所だ。つまり二条御所と旧二条城は
殆ど同じ位置に所在していた。そして更に遡れば、二条御所の故地には「武衛陣(ぶえいじん)」と呼ばれる斯波氏の館が
構えられていた。故に旧二条城の所在地は武衛陣町(を中心とした周辺町域)なのだ。話はここから始まる。■■■■■■
足利尊氏の将軍就任によって室町幕府が成立しその職制が定められるようになると、将軍を補佐する管領(かんれい)の
地位に就けるのは細川氏・畠山氏・斯波氏の3家に限られた。いずれも足利家の分流に当たる有力氏族であり、武衛陣を
築いたのは“三管領”の1家、斯波氏の当主だった斯波左兵衛督義将(よしまさ)だ。義将以降、斯波氏が代々継いだ官職
「左兵衛督」を唐名で「武衛(兵衛府の督)」と言う事からこの邸宅を武衛陣(武衛家の邸宅)と呼ぶようになったのだが、
この邸宅は勘解由小路に面していたので当時は義将を勘解由小路(かでのこうじ)殿と呼び、武衛陣も勘解由小路邸の
名で通っていたようである。義将は3代将軍・足利義満の側近にして4代将軍・義持の時代にも幕政を掌握する絶対的な
権力者で、室町幕府全盛期を築き上げた影の功績者であった。なお、通りの名である勘解由小路(現在の下立売通)は
古くは「かでのこうじ」と呼んでいたが、現在では「かげゆこうじ」と読むようになってござる。京都市上京区の町名にある
「勘解由小路町」も同様。平安時代の役所「勘解由使庁」の所在地であった事が通りの名の由来。■■■■■■■■■■■
武衛陣の詳細な構えは不明ながら「斯波家譜(義将の玄孫・左兵衛督義敏(よしとし)が記した家伝書)」に拠れば、館は
古き良き寝殿造りを踏襲し、蹴鞠場などを用意する風雅な屋敷だったと言う。しかし時代が応仁の乱を迎えると、邸内に
櫓を林立させ、堀を増やして敵襲に備えた。時の将軍邸までが焼け落ち、諸大名の邸宅も次々と失われていった中でも
武衛陣は堅固に守り、乱後まで持ち堪えた。しかし斯波氏の勢力そのものが没落、遂に武衛家12代当主・左兵衛督義寛
(よしひろ)は都落ちし、守護を務める尾張国(現在の愛知県西部)へと赴くのであった。斯くして武衛陣は廃絶する。■■
(応仁の乱で焼失したとする説もある)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

室町幕府の「首相官邸」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時は移って1565年(永禄8年)、室町幕府復興を目指す13代将軍・足利義輝は武衛陣址に自らの居館を築く。既に幕府の
権威は失墜し、将軍と言えど京都を安寧の地とする事は難しく、義輝は度々都を追われ、実権は管領・細川氏さらにその
被官である三好修理大夫長慶(みよしながよし)の手に移っていた。ところがこの前年に長慶が病死し、一時的に権力の
空白が生じたのである。実権を奪回すべく義輝は全国各地の戦国大名に通じて自身の権威を高める手を打ち、そうした
過程の中で新たな館を用意したのだろう。応仁の乱において将軍邸が焼け落ちたと記したが、室町幕府将軍は定まった
邸宅を維持し続けていた訳ではなく、時に応じて館を変え、また新たな邸宅を築く事が常であった。義輝もそうした経緯の
中で二条御所を構えようとした訳だ。現代風に言えば「新首相官邸完成」で心機一転の政権浮揚を喧伝したのだ。■■
だが、将軍が権力を独占する事を三好一党は許さなかった。長慶の死後、その権威を回復しようと目論んだ三好一族や
家臣らは、独走する将軍を快く思わず1565年の5月19日、義輝を排除すべく二条御所へ襲撃をかける。剣豪将軍として
知られる義輝は、幼少期から京都を追われ流浪する生活の中、自身を守るのは自身の力のみと悟り、当時名の知れた
剣聖から剣術を教わって免許皆伝の腕前であったが、それでも多勢に無勢で押し込まれ、遂に討ち取られてしまう。二条
御所は周囲を堀で囲って敵の襲来に備え、更にこの当時は門を増強している最中だったとも言うが、三好軍は義輝1人を
殺すために1万ともいう大軍で攻め寄せて将軍を闇討ちにしたのだった。これを永禄の変と言う。■■■■■■■■■■■
いくら下克上の乱世とは言え、将軍が殺される異常事態に世の中は騒然となった。そして義輝の弟・義昭は新たな将軍に
なって三好一族の手から権力を奪い返し、足利将軍家の復権を果たす事を目指した。三好勢が押さえる京都を脱出して、
諸国流浪の末に織田信長と手を組んだ義昭は、日の出の勢いの織田軍に助けられ京都へ戻り、念願の将軍職に就く。

足利義昭の二条城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
入京後、仮の御所を六条の日蓮宗大光山本国寺(現在は本圀寺と改称)とした義昭。しかし信長がいったん岐阜へ帰った
間隙を衝き1569年(永禄12年)1月5日に三好勢がこの寺を取り囲み、義昭を襲撃せんとした。すわ、永禄の変の再来かと
思われたが、この時には明智十兵衛光秀や細川兵部大輔藤孝(当時、両者は信長家臣ではなく幕臣)らの奮闘によって
三好勢は撃退され、義昭の命は長らえている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
事件の急報を聴いて京都へ取って返した信長は、本国寺では防備もままならぬとして義昭の為に新たな城を築くと即断。
義輝の二条御所跡地を中心に、更に拡大した敷地を確保して烏丸中御門第すなわち旧二条城が築城される事になった。
推定される城地は、西は現在の新町通り〜東は東洞院通り×北は出水通り〜南は養安町南端付近までの四辺形とされ
東西380m×南北350m弱の大きさ。洛中のド真ん中に築かれた城は言うまでも無く平城だが、築城当初は2重の堀で囲い
石垣を多用した堅固な構えだった。築城を急ピッチに行った信長は自ら陣頭指揮を執り、寺社の石仏や墓石などだろうと
お構いなしに石垣の石材に転用し「神仏を恐れぬ信長」の行いはここに始まったとも言える。■■■■■■■■■■■
建築作業を統括する大工奉行には、村井吉兵衛貞勝(さだかつ)と島田弥右衛門尉秀満(ひでみつ)が任じられた。2人は
織田家古参の家臣にして実務に長けた官僚でござる。緊急築城とも言える早急な作業を完遂すべく、彼等は本国寺から
建物の移築や用品の持ち出しを行う。一方で瓦には金箔瓦を使用し、将軍御所として相応しい豪華絢爛な城を築き上げ
天主(信長が築いた城なので、この字を充てる事とする)に相当する高層建築も建てられていたとする説もある。驚異的な
速さで行われた築城の結果、同年4月14日には義昭が入居した。この敷地は京都御所に隣接する位置にあり、新将軍が
京都を掌握し幕府権威を復興させるに相応しいだけの機能や構造を有していたと考えられよう。■■■■■■■■■■■
ところが信長と義昭の蜜月は長く続かず、次第に両者は対立する関係になっていく。遂に1573年(天正元年)3月、義昭が
二条新御所(義輝の二条御所に対して、義昭の二条城をこのように呼ぶ)において挙兵した。この折、義昭の命で城には
もう1重の堀が穿たれ、3重の堀にして防御力を高めたと言う。が、名目だけの将軍に対して天下の実権を握っていたのは
やはり信長。二条城は信長軍にあっさりと包囲され、見せしめに上京一帯は焼き払われ、幕臣であった筈の光秀や藤孝も
信長側に与し、この戦いは正親町天皇の勅命によって開城に至る。その後、3ヶ月ほど経った7月3日に義昭は再度信長に
戦いを挑み、宇治の槙島城(京都府宇治市)で再挙兵を行った。これに呼応し、二条城では義昭に従った三淵大和守藤英
(みつぶちふじひで、細川藤孝の異母兄)らが立て籠もるも、信長軍の勢いに圧された城内では脱落者が続出、最後まで
踏みとどまった藤英も7月10日には降伏し申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした戦いの結果、敗れた義昭は京都を追放されて室町幕府は滅亡。藤英はいったん信長に仕える事になるが、程なく
勘気を被り切腹。そして用済みとなった二条城は1576年(天正4年)頃に破却され、建物は解体の上その頃築城中だった
安土城(滋賀県近江八幡市)の転用材として使われたそうだ。堀は埋め立てられ、跡地は完全に更地となり町屋が建並ぶ
地域へと変貌していった。以来、城地は忘れられたものとなってしまったが、1975年(昭和50年)〜1978年(昭和53年)に
京都市営地下鉄烏丸線建設に関連して烏丸通りで発掘調査が行われ、旧二条城の堀や石垣が約400年ぶりに日の目を
見た。この時に出土した石垣の石材は移設され、京都御苑内や徳川家の二条城敷地内などに展示されてござる。■■
写真は上京区武衛陣町の一角、平安女学院大学の前に立てられている旧二条城跡を示す石碑。この他、平安女学院
中学校の入口には武衛陣(斯波氏邸)・二条御所(足利義輝邸)址の石碑も立てられている。それにしても、この一帯は
“兵衛府”に由来する武衛陣町とか、“勘解由使”跡地たる勘解由小路町とか、現代にも平安京の名残が生き残っている。



移築された遺構
石垣石材(京都御苑内・徳川家二条城敷地内・京都文化博物館・洛西竹林公園内)








山城国 二条城

国宝 二条城二ノ丸御殿

 所在地:京都府京都市中京区二条堀川西入二条城町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★★
★★★★★



徳川幕府の権威を示す■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
京都市街中心部にある徳川幕府の儀式典礼・宿館用城郭。性格としては居館(御殿)に近いもので、朝廷では「二条亭」と
呼んでいた。上記の足利家二条城とは全く別のもので、この項では現存する徳川氏による二条城について記し申す。■■
関ヶ原合戦後の1601年(慶長6年)5月に徳川家康が築城を指示、京都所司代(徳川幕府における京都総監・西国監督職)
板倉伊賀守勝重が造営総奉行として任じられ、作事の大工棟梁は中井大和守正清が担当。1602年(慶長7年)5月から
天守や御殿の造営に着手、1603年(慶長8年)3月頃には一応の完成を見る。これに先立つ2月12日、家康は征夷大将軍
補任の宣旨を伏見城(京都府京都市伏見区)で受けており、3月12日に二条城へ入って同月25日に京都御所へ拝賀の
礼を行った。これが二条城の創始であり、27日には二条城に重臣や公家を招いて祝賀の儀を開催している。以後、歴代
徳川将軍の上洛時宿館として維持される。1605年(慶長10年)徳川秀忠の2代将軍就任、1623年(元和9年)家光の3代
将軍就任も同様の儀式が執り行われた。但し、創建当時の二条城は現在の二ノ丸部分だけで構成された単郭の平城で
現在の規模から見るとほぼ半分の大きさでしかなかった。当時の天守は敷地の北西隅に建てられてござった。■■■■■
1611年(慶長16年)には家康と豊臣秀頼の対面の儀がこの城で執り行われた。秀頼が大坂城(大阪府大阪市中央区)を
出たのは後にも先にもこの1回限りである。かつての天下人・秀吉の遺児である秀頼は徳川家にとって邪魔者でしかなく
家康は彼を“屈服させる為”二条城へ呼び出した訳である。しかし偉丈夫となっていた秀頼の姿を見て、それでは足りぬと
直感した家康は、豊臣家を抹殺すべく動き出す。二条城は豊臣家滅亡の契機となり、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣
1615年(元和元年)の大坂夏の陣では徳川幕府軍本営として出撃基地となった。一方で大坂方は二条城に火を放ち、
その混乱に乗じて家康を暗殺しようとする陰謀を講じたとも伝わる。この伝承は真実か否か分からないが、その噂から
当代一流の茶人であった古田織部正重然(ふるたしげなり)は謀叛の嫌疑をかけられ切腹に追い込まれている。ともあれ
実際に二条城が燃え上がる事はなく、豊臣家も滅亡に至り申した。落城した大坂城を包む紅蓮の炎は、洛中の夜を赤く
照らしたと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

幕府の強化と共に拡張■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大坂の陣終結後、元和偃武(げんなえんぶ、徳川幕府による戦乱終結宣言)として禁中並公家諸法度を発布したのも
この城での事である。家康死後、2代将軍秀忠の娘・東福門院和子(かずこ)姫が第108代後水尾天皇の中宮として入内、
これに合わせて1619年(元和5年)に二条城拡張工事が為された。徳川将軍家と天皇家の婚姻は当時最大の政治儀式で
それを演出するために二条城の拡幅が必要とされたのでござる。和子の入内は翌1620年(元和6年)6月18日。この折に
濁音を嫌う宮中の慣例に従って名を和子(まさこ)と改めている。二条城の改修案は築城の神様と称される藤堂和泉守
高虎が考案したが、彼は詳細な図面と簡略な図面の2案を秀忠に提示、秀忠がそれを選択し“将軍自らによる改修”と
流布させた。高虎一流の政治献策でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
更に3代・家光の時代、1626年(寛永3年)後水尾天皇の二条城行幸を仰いだが、それに先立ち1624年(寛永元年)から
行幸御殿の造営をはじめとする大改修工事が行なわれた。城の現状はこの時成立。城域は西へと広がり、新たに本丸が
誕生。従前の曲輪は二ノ丸となり、旧天守は撤去され本丸南西隅に新天守が揚げられたが、これは同時期に廃城された
伏見城の天守が移築されたと伝わる。一方、旧天守は淀城(京都府京都市伏見区)へと移された。この改修工事では
作事奉行に小堀遠江守政一(こぼりまさかず)等が任じられる。小堀遠州の通称で有名な政一は茶人・建築家のほか
作庭家として名声を得ており、彼の作る庭は“遠州流”と呼ばれ当時の武家政権に於いて必須の舞台装置になっていた。
二条城の庭園も彼の手によって劇的な改変が行われ、表から見た時の“武家流”の顔と裏から眺めた“公家風”の姿を
両立させる秀逸なものでござった。改修工事は1626年まで及ぶ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後水尾帝の二条城行幸は1626年9月6日から5日間に渡った。天皇が御所を出るのは非常に異例の事であり、徳川幕府の
権威はここに極まったと言える。行幸中、天守に天皇が登り洛中の景観を楽しみ、行幸最終日にも天皇の望みによって
再び登閣(予定外)したと云う。近代に及ぶまでは、天皇が城の天守へ上がったのはこれが唯一の事例であった。また
天皇を迎えるに際して櫓門形式の城門(東大手門など)は全て上部の櫓を撤去した。通過する天皇を足下に眺めるのは
不敬に当たるとされた為だが、行幸終了後に櫓門は元に戻された。城内に建てられた行幸御殿も、役割を終えた後には
解体撤去されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

そして幕府の終焉へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秀忠没後の1634年(寛永11年)7月、家光は総勢30万7000もの兵を引き連れ上洛、当城を宿館とする。代替りした将軍の
権威を全国に、特に朝廷へと見せつける為の示威行動であったが、それを最後に幕末まで徳川将軍の上洛は行われなく
なった。以降、大番頭4人・番衆50人体制の二条在番制となる。城主はあくまで徳川将軍であるが、実際には入城しない為
こうした管理体制が取られるようになったのである。この体制は1625年(寛永2年)に開始され、当初は二条城代の職も
定められていたが、1699年(元禄12年)に城代が廃され在番の定番2人(各与力10名)・同心20人のみで管理されていく。
1750年(寛延3年)8月に5重の天守は落雷で焼失。続いて1788年(天明8年)1月30日、市中大火が類焼し本丸御殿や櫓類が
焼失してしまった。この後しばらく本丸内は荒廃したまま放置されていたが、1862年(文久2年)将軍上洛が決定したため
本丸に仮御殿が建てられる。時は幕末、異国の圧力に屈し幕府の権威は落ち、朝廷からは攘夷実行を催促され、窮した
14代将軍・徳川家茂が天皇との協議を行うべく1863年(文久3年)3月、家光以来229年ぶりに上洛し二条城に入ったのだ。
朝廷との折衝を行った後、江戸に戻った家茂は1865年(慶応元年)再度上洛。二条城に入るが、程なく第2次長州征伐の
指揮を執る為に大坂城へ移った。ところが家茂は大坂城で病に伏して死去。将軍空位の異常事態に、一橋慶喜が徳川
宗家の家督を継承、15代将軍となり1866年(慶応2年)12月5日に二条城で将軍拝命の宣旨を受け申した。翌1867年
(慶応3年)9月になって慶喜が二条城を本拠とした(それまでは小浜藩邸に寓居していた)が、10月15日に大政奉還、
12月には辞官納地が朝廷から命じられ、慶喜は京を退去する事になっていく。こうした流れの果てに1868年(明治元年)
1月3日から鳥羽・伏見の戦いが開戦、旧幕府は朝敵とされてしまい、同月5日に二条城は朝廷に接収されたのである。
それに伴い二条城内に太政官代(現在の内閣に相当)が設置された。太政官代は閏4月に移転したが、その後も朝廷が
二条城を管理、1870年(明治3年)からは留守官(天皇の東京下向によって京都を預かる役所)の管轄下に入り、1871年
(明治4年)3月13日に京都府へ移管、6月26日から二ノ丸御殿が京都府庁舎になっている。1873年(明治6年)1月14日に
発布された廃城令では存城の扱いとされ、この年の2月から陸軍省の管轄となった(京都府庁はそのまま継続)が1884年
(明治17年)7月28日に宮内省の所管へと移り「二条離宮」と改称された。二ノ丸御殿に設置されていた京都府役所も
新庁舎が完成し翌1885年(明治18年)6月に移転、1885年(明治18年)〜1892年(明治25年)まで二ノ丸御殿は修理を
受けている。一方で破損の激しい本丸仮御殿は1881年(明治14年)撤去されている。空地となっていた本丸に1893年
(明治26年)京都御苑の旧桂宮邸を移築、翌年工事完了。これが現在の本丸御殿である。■■■■■■■■■■■■
1915年(大正4年)11月に大正天皇即位の礼が京都御所で行われたが、その饗宴場として二条離宮が用いられた為に
二ノ丸南端部に南門が増設された。1939年(昭和14年)7月27日に宮内省が離宮指定を解除、同年10月25日に元離宮を
京都市に下賜。翌1940年(昭和15年)2月11日から恩賜元離宮二条城として一般公開が行われるようになり申した。
太平洋戦争後、1950年(昭和25年)には二ノ丸北部が進駐軍のテニスコートに替えられたが、1965年(昭和40年)に
清流園庭園として復旧されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

徳川二条城の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ではここで縄張を解説。二条城の敷地は濠幅を含めて東西527m×南北(北大手門〜南門)405mという大きさ。城内は
大きく見て東西に分かれており、東側が二ノ丸、西側が内堀に囲まれた本丸という敷地だが、上記の通り本丸は後から
増設した部分である。城の外周に於いて、東側の旧部と西側の新部を接続する部分にだけ僅かな屈曲があるものの、
それ以外には横矢を掛けるような折れは全く無く、直線だけで成形されている。本丸敷地は東西143m×南北147mと云う
ほぼ正方形(枡形と天守台の突出部を除く)になっているが、これまた直線だけで縁取られ横矢掛かりは無い。二条城が
京都市内にあって「戦意を前面に出す」事を憚った証であろう。城のすぐ南には神泉苑(しんせんえん)という真言宗の
寺院があるが、その庭園には湧水の大きな池があり、この地が水利に恵まれた場所である事が分かる。もともと、二条城の
敷地は平安京の大内裏、神泉苑はその庭園となっていた立地で、洛中における“一等地”だった訳だ。湧水が豊富な城地は
生活用水や庭園配水、もちろん軍事的にも有用なものでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
創建時の本丸御殿は二ノ丸御殿に匹敵する規模と格式を備え、内部は狩野派の絵師が描いた障壁画で固められていた。
幕末再建の仮御殿が荒廃し撤去された後、現在に残る旧桂宮邸が移築されて本丸御殿として扱われているが、この
桂宮邸は京都御苑今出川御門内にあった御殿で、皇女和宮が公武合体運動で14代将軍・家茂に嫁ぐ前の約1年8ヶ月間
住んでいた建物。1854年(嘉永7年)内裏が炎上した時にも延焼を免れ、孝明天皇(和宮の兄)の仮皇居にされた由緒も
持つ。和宮は家茂が早世した事で亡き別れとなってしまったが、天皇兄妹所縁の建物が二条城で生き残ったと云うのが
“真の公武合体”が為された証なのでは?玄関・御書院・御常御殿・台所及び雁之間で成る本丸御殿は1944年(昭和19年)
9月5日に指定された国の重要文化財。2023年(令和5年)現在、耐震補強工事が行われており一般公開はされていないが、
二条城管理事務所は工事終了後の再公開を企画してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸の建造物でもう一つ現存するのが櫓門。二ノ丸との連絡通路に跨る門で、現状では単立の櫓門でしかないが、本来は
内濠を渡る橋そのものが廊下橋(建物が川や池を越える形式の通路、二条城のそれは2階建て)となっており、その二階
廊下橋と二ノ丸側の出入口となる溜櫓が一体化していた壮大な門建築でござった。これは天皇の行幸時、城内に入った帝が
屋外へ出る事なく本丸御殿内まで進めるよう配慮した為で、二ノ丸御殿の玄関式台から建物へ上がった天皇は本丸御殿まで
全て建物内を通って辿り着けた訳である。この廊下橋と溜櫓は1930年(昭和5年)まで現存していた。斯くして本丸櫓門は
切り離された姿になってしまったのだが、実は廊下橋と溜櫓の古材は今も宮内庁の管理事務所で保管されており再建が
可能である。いずれ古式の様態に復旧する日が来ると信じたい。ともあれ、残る櫓門は1939年10月28日指定の国重文だ。

国宝・二ノ丸御殿■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二ノ丸に関してまず取り上げねばならぬのが御殿建築であろう。雁行(折り重ねる配置で建物を繋げた建築様式)で連なる
殿舎群は、南東(入口)から北西(奥向)へ向かって車寄・遠侍・式台・大広間・蘇鉄之間・黒書院・白書院の順番で並び、
その全てが1939年10月28日に旧国宝と指定され、戦後の文化財保護法施行で1952年(昭和27年)3月29日からは国宝
(住居建築の種別)となっている。城郭建築としての国宝は天守5件(姫路城・松本城・彦根城・犬山城・松江城)が有名だが
二条城二ノ丸御殿は唯一無二の国宝御殿なのである。そもそも天守の現存例は12箇所あるが、御殿建築が移築されずに
現存する正規城郭は僅かに4箇所(他は高知城本丸御殿・川越城本丸御殿・掛川城二ノ丸御殿)しかなく、天守以上の希少
物件なのだ。その中でも二条城は規模・格式共に桁違いの最上級品だ。さすが、古都京都ならではの城郭と言えよう。徳川
家康の将軍拝命、徳川慶喜の大政奉還発表はいずれもこの二ノ丸御殿で行われ、貴重な歴史の転換点となった現場でも
ある。部屋数は33、使われている畳は約800、敷地面積3300uという二ノ丸御殿の内部には3000面以上の障壁画が残されて
いるが、現在その原本は遺構保存の為に展示収蔵館の中へ移され(よって現在の御殿内にある画は模写品)、修理保全
作業が行われている。この中でも特に貴重な954面が1982年(昭和57年)6月5日、建物とは別に絵画としての国重文に。
小堀遠州作庭の二ノ丸庭園も一級品であり、1939年11月30日に国の名勝に指定、1953年(昭和28年)3月31日に特別名勝と
されており、とにかく二条城の二ノ丸は極上の史跡なのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その二ノ丸の正面玄関となるのが唐門。城門らしからぬ公家風建築と思わせる白木造りの四脚門は、大きな唐破風を
あしらった切妻造檜皮葺の屋根が特徴で、これが故に唐門という名が付けられている。至る所に金装飾や色鮮やかな彫刻が
掲げられ、贅沢の極みと言えよう。こちらは1939年10月28日に国の重要文化財に指定。二ノ丸にはこの他に御殿台所
御清所(おきよどころ)の建築や、敷地を囲む築地塀も現存。唐門に加えて築地塀が取り囲む様子は、やはり通常の城郭とは
異なる“高貴な気風”を醸し出し「二条亭」と尊称された理由も頷ける。これらの建築遺構も1939年10月28日指定の国重文だ。
この他、城内に残る国の重要文化財は城外に開いた東大手門・北大手門・西門の3門、城内の仕切りである鳴子門・桃山門
北中仕切門・南中仕切門の4門、二ノ丸土蔵・西北土蔵・西南土蔵の米蔵3戸前、東南隅櫓・西南隅櫓の櫓2基と東南隅櫓に
繋がった土塀。これらは全て1939年10月28日に国の重文指定を受けている。総計すると国宝6棟(二ノ丸御殿構成物)・重要
文化財22棟と言う事になるが、他に文化財の指定を受けていない東大手門番所も残されてござる。この番所に二条在番衆が
詰めていた。番所の正面は10間(19.6m)×奥行3間(6.06m)の細長い建物で、東大手門を入ってすぐの所にある。■■■
重文建築全ての詳細を記す事は出来ないが、主なものを解説。まず東大手門と北大手門は櫓門形式の門で、共に本瓦葺
入母屋造り、いわゆる“徳川定型の門建築”様式。棟には鯱が上がる。しかし虎口は平虎口で、江戸城(東京都千代田区)の
ような半解放枡形虎口とはなっていない。この点が洛中の城郭として「重武装に見せない」よう、御殿としての要素を重視した
結果でござろう。一方で西門は小型の枡形を石垣で構築。門そのものも埋門形式になっていて、非常時の防御を担う性格が
見て取れるが、西門から城外へ渡る橋が無いのも興味深い構造と言える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
土蔵3戸前は、現存する城内米蔵としては大変に稀有な例。物置としての多聞櫓や土蔵は全国に散見されるが、米蔵だった
事が確実な物が残るのは二条城くらいのものであろう。南北の中仕切門と鳴子門は高麗門だが、桃山門は長屋門形式。
南都の寺院建築にありそうな風合いである。そして東南隅櫓と西南隅櫓は共に2重2階、これまた“徳川定型”と呼べる
白漆喰総塗籠の美麗な櫓で、東南隅櫓は南面2階に千鳥破風、西南隅櫓は東西の2階に唐破風を飾る。外堀に面した
側には石落としを備えるが、これは幕末期の改修時に増設されたものという伝承がある。確かに、石落としの奥行が薄く
実戦向きとは言えない規模なので、幕末の京都で“幕府権威の高揚(つまり「お飾り」)”の為に作られたのだとしても
あり得ぬ話ではないのかも?本丸4隅(うち南西側は天守)と敷地全周の4隅、つまり7棟だけしか櫓が建てられなかった
二条城は、敷地面積の割には櫓の数が少なく、これも洛中で武骨な重装備を極力避けた意識があっての事だろうが、
幕末動乱の頃になると、逆に少しでも武威を見せつける必要に駆られた筈だ。■■■■■■■■■■■■■■■■

天守の変遷■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして城郭らしさを最も体現した建造物が天守であろう。二条城の天守は、先に記した通り築城当初(慶長期)の天守と、
改修後の寛永期に作り直された天守がある。まず慶長期天守について詳細を。築城当初(単郭)の敷地で北西隅、現状の
縄張では城域の中央北部に当たる位置に築かれた慶長期二条城天守は大和郡山城(奈良県大和郡山市)の天守を移築
したものだったと伝わる望楼型5重天守。記録に拠れば小天守や渡廊下が付属し、天守曲輪を構成していたと考えられる。
大和郡山城は豊臣秀吉の弟である大和大納言豊臣秀長が築いた城で、その天守を二条城へ持ってきたと言うのは、
新たに成立した徳川幕府が豊臣政権枢要の城ですら自由に動かせると見せつけ、天下の趨勢が大きく変化した事を
示した“政治的背景”がござる。大和郡山城では下見板張の意匠だったこの天守は、恐らく二条城でもそのままの外見で
建てられていたと思われるが、寛永期天守の構築に伴って淀城へと再移築された事で白漆喰塗籠に改められた。淀城
天守の構造は図面に残されている為、慶長期二条城天守の様相も概ね推測できる。それに拠れば1層・2層で成る
基台部の上に3層〜5層の上層部を載せた後期望楼型だった。淀城では当初、伏見城から天守を移築する予定だったが
それが二条城へ回される事になった為、二条城の旧天守が移築されたと言う。その伏見城天守を移築したと言うのが
寛永期二条城天守。こちらは付櫓が附随する層塔型5重5階の天守として二条城に建てられ、白漆喰総塗籠の外観を
有していた。京の町を見下ろす雄大な天守はさぞかし見事なものであったろうが、惜しくも落雷で焼失してしまう。敷地
平面は東西9間×南北10間、北側の付櫓は東西8間半×南北2間半の規模で、この付櫓が天守の入口になっていた。
伏見城時代は望楼型天守だったものを、二条城移築時に層塔型に改変したと推測されてござる。幕府の大工頭を務めた
中井家に指図が伝わり、その南面には1層目に唐破風、2層目に比翼千鳥破風、3層目に千鳥破風が置かれ、変化に
富んだ美麗な姿をしていた。江戸城(慶長/元和期)・名古屋城・大坂城など幕府直営の天守工事を経た後に築かれた
寛永期二条城天守は、徳川系天守の集大成となる均整の取れた趣きを持ち、白漆喰の壁面と相まって清楚な立ち姿を
京の町に知らしめていたのであろう。これまた、武骨な下見板張天守と違って徳川幕府の品格を朝廷に見せる格好の
宣伝材料になった事が想像できよう。現代でも京都市街は高層建築が制限されているが、況や平屋建てしかなかった
当時に於いては、洛中の中心部に聳える高層建築は東寺五重塔と二条城天守だけだった訳で、壮観な構えだった筈だ。
明治期の古写真に、二条城内に建てられた火の見櫓が写っているが、天守より小さなものであるにも関わらずかなり
目立つ存在になっている。天守があった当時ならば、それは尚の事であっただろう。■■■■■■■■■■■■■■■

文化財の宝庫■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二条城から移築された(と伝わる)建造物もいくつか残る。神奈川県横浜市中区にある庭園「三渓園(さんけいえん)」には
聴秋閣(ちょうしゅうかく、三笠閣とも)と呼ばれる茶亭が。これは二条城の庭園内にあった楼閣建築で、数度の移築を
経た後に現状となっている。二条城時代には茶亭ではなく景観を望む楼閣だったようで、改変を受けて現在の形に
なったものだが国の重要文化財(1931年(昭和6年)12月14日指定)となっている。一方、京都市内東山区にある豊国
神社の唐門は、もともと二条城の唐門だったものが金地院(南禅寺塔頭)に下賜され、更に明治時代となって金地院から
豊国神社へと再移築したもの。二条城の前には伏見城にあったとも。前後に唐破風を備えた入母屋造、檜皮葺の四脚門。
こちらは1897年(明治30年)12月28日に旧国宝、戦後の文化財保護法施行に伴い1953年(昭和28年)3月31日から国宝と
なっている。加えて、伝承に拠れば東京都世田谷区にある世田谷山観音寺の阿弥陀堂が二条城本丸からの移築物との
話であるが、詳細は不明だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて現代の二条城は国の史跡となっている。1939年11月30日「旧二条離宮(二条城)」の名で史跡指定され、徳川の
城であると同時に皇室所縁の史跡としてその意義を評している。2013年(平成25年)8月の唐門修理完了時、現在
掲げられている皇室の菊紋の下から徳川家の葵紋が検出されたと発表され、2018年(平成30年)9月にも台風被害で
二ノ丸御殿の装飾が剥落した時にも同様の発見があった訳で、まさしく二条城が徳川と皇室の両方に支えられていた
歴史を物語っている。更には1994年(平成6年)12月、世界文化遺産に登録。2006年(平成18年)4月6日には財団法人
日本城郭協会から日本百名城の一つに選定され申した。築城から4世紀を経て、京都市では城内各所の修繕工事に
取り組んでいる真っ最中で、その工事が完了した東・北の両大手門などは築城当時の姿を思わせる鮮烈な輝きを
取り戻している。日本だけではなく世界でも屈指の歴史遺産である二条城は、100万人都市のド真ん中にありながら
400年変わらず維持された努力の賜物なのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

二ノ丸御殿建造物群6棟《以上国宝》
二ノ丸東南隅櫓及び多聞塀・二ノ丸西南隅櫓・本丸櫓門及び袖塀
二ノ丸北大手門及び多聞塀・二ノ丸東大手門及び多聞塀
二ノ丸唐門・二ノ丸北中仕切門・二ノ丸南中仕切門
二ノ丸北鳴子門・二ノ丸桃山門・本丸御殿建造物群(旧桂宮御殿を移築)
西門及び多聞塀・土蔵米蔵3戸前 ほか合計22棟《以上国指定重文》
堀・石垣・郭群
城域内は国指定史跡
国連世界文化遺産登録
二ノ丸庭園は特別名勝

移築された遺構として
豊国神社唐門(旧二条城唐門)《国宝》
三渓園聴秋閣(旧二条城庭園楼閣)《国指定重文》
世田谷山観音寺阿弥陀堂(伝旧二条城望楼)




朽木谷・清水山城館群  (指月・木幡山)伏見城