始まりは「左兵衛督」邸■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「二条城」と言えば徳川幕府が京都洛中に築いた世界遺産の城(下記)として有名だが、それ以前にも時代毎の権力者が
二条の地に城館を築いていた。室町幕府13代将軍・足利義輝も「二条御所」を造営し、織田信長も15代将軍・足利義昭の
御所として二条城(旧二条城)を築城、豊臣秀吉も「二条第」と呼ばれる城を構えており、二条は天下人が城を構えるのが
通例となっていたが、これらの旧城は現在の二条城とは全く別のものである。この項で紹介するのは足利義昭の二条城、
徳川幕府の二条城と区別する為に「旧二条城」または「二条古城」と称される城でござる。■■■■■■■■■■■■■
さて“足利義昭の二条城”と説明したものの、その前段としてあるのは義輝の二条御所だ。つまり二条御所と旧二条城は
殆ど同じ位置に所在していた。そして更に遡れば、二条御所の故地には「武衛陣(ぶえいじん)」と呼ばれる斯波氏の館が
構えられていた。故に旧二条城の所在地は武衛陣町(を中心とした周辺町域)なのだ。話はここから始まる。■■■■■■
足利尊氏の将軍就任によって室町幕府が成立しその職制が定められるようになると、将軍を補佐する管領(かんれい)の
地位に就けるのは細川氏・畠山氏・斯波氏の3家に限られた。いずれも足利家の分流に当たる有力氏族であり、武衛陣を
築いたのは“三管領”の1家、斯波氏の当主だった斯波左兵衛督義将(よしまさ)だ。義将以降、斯波氏が代々継いだ官職
「左兵衛督」を唐名で「武衛(兵衛府の督)」と言う事からこの邸宅を武衛陣(武衛家の邸宅)と呼ぶようになったのだが、
この邸宅は勘解由小路に面していたので当時は義将を勘解由小路(かでのこうじ)殿と呼び、武衛陣も勘解由小路邸の
名で通っていたようである。義将は3代将軍・足利義満の側近にして4代将軍・義持の時代にも幕政を掌握する絶対的な
権力者で、室町幕府全盛期を築き上げた影の功績者であった。なお、通りの名である勘解由小路(現在の下立売通)は
古くは「かでのこうじ」と呼んでいたが、現在では「かげゆこうじ」と読むようになってござる。京都市上京区の町名にある
「勘解由小路町」も同様。平安時代の役所「勘解由使庁」の所在地であった事が通りの名の由来。■■■■■■■■■■■
武衛陣の詳細な構えは不明ながら「斯波家譜(義将の玄孫・左兵衛督義敏(よしとし)が記した家伝書)」に拠れば、館は
古き良き寝殿造りを踏襲し、蹴鞠場などを用意する風雅な屋敷だったと言う。しかし時代が応仁の乱を迎えると、邸内に
櫓を林立させ、堀を増やして敵襲に備えた。時の将軍邸までが焼け落ち、諸大名の邸宅も次々と失われていった中でも
武衛陣は堅固に守り、乱後まで持ち堪えた。しかし斯波氏の勢力そのものが没落、遂に武衛家12代当主・左兵衛督義寛
(よしひろ)は都落ちし、守護を務める尾張国(現在の愛知県西部)へと赴くのであった。斯くして武衛陣は廃絶する。■■
(応仁の乱で焼失したとする説もある)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町幕府の「首相官邸」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時は移って1565年(永禄8年)、室町幕府復興を目指す13代将軍・足利義輝は武衛陣址に自らの居館を築く。既に幕府の
権威は失墜し、将軍と言えど京都を安寧の地とする事は難しく、義輝は度々都を追われ、実権は管領・細川氏さらにその
被官である三好修理大夫長慶(みよしながよし)の手に移っていた。ところがこの前年に長慶が病死し、一時的に権力の
空白が生じたのである。実権を奪回すべく義輝は全国各地の戦国大名に通じて自身の権威を高める手を打ち、そうした
過程の中で新たな館を用意したのだろう。応仁の乱において将軍邸が焼け落ちたと記したが、室町幕府将軍は定まった
邸宅を維持し続けていた訳ではなく、時に応じて館を変え、また新たな邸宅を築く事が常であった。義輝もそうした経緯の
中で二条御所を構えようとした訳だ。現代風に言えば「新首相官邸完成」で心機一転の政権浮揚を喧伝したのだ。■■
だが、将軍が権力を独占する事を三好一党は許さなかった。長慶の死後、その権威を回復しようと目論んだ三好一族や
家臣らは、独走する将軍を快く思わず1565年の5月19日、義輝を排除すべく二条御所へ襲撃をかける。剣豪将軍として
知られる義輝は、幼少期から京都を追われ流浪する生活の中、自身を守るのは自身の力のみと悟り、当時名の知れた
剣聖から剣術を教わって免許皆伝の腕前であったが、それでも多勢に無勢で押し込まれ、遂に討ち取られてしまう。二条
御所は周囲を堀で囲って敵の襲来に備え、更にこの当時は門を増強している最中だったとも言うが、三好軍は義輝1人を
殺すために1万ともいう大軍で攻め寄せて将軍を闇討ちにしたのだった。これを永禄の変と言う。■■■■■■■■■■■
いくら下克上の乱世とは言え、将軍が殺される異常事態に世の中は騒然となった。そして義輝の弟・義昭は新たな将軍に
なって三好一族の手から権力を奪い返し、足利将軍家の復権を果たす事を目指した。三好勢が押さえる京都を脱出して、
諸国流浪の末に織田信長と手を組んだ義昭は、日の出の勢いの織田軍に助けられ京都へ戻り、念願の将軍職に就く。
足利義昭の二条城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
入京後、仮の御所を六条の日蓮宗大光山本国寺(現在は本圀寺と改称)とした義昭。しかし信長がいったん岐阜へ帰った
間隙を衝き1569年(永禄12年)1月5日に三好勢がこの寺を取り囲み、義昭を襲撃せんとした。すわ、永禄の変の再来かと
思われたが、この時には明智十兵衛光秀や細川兵部大輔藤孝(当時、両者は信長家臣ではなく幕臣)らの奮闘によって
三好勢は撃退され、義昭の命は長らえている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
事件の急報を聴いて京都へ取って返した信長は、本国寺では防備もままならぬとして義昭の為に新たな城を築くと即断。
義輝の二条御所跡地を中心に、更に拡大した敷地を確保して烏丸中御門第すなわち旧二条城が築城される事になった。
推定される城地は、西は現在の新町通り~東は東洞院通り×北は出水通り~南は養安町南端付近までの四辺形とされ
東西380m×南北350m弱の大きさ。洛中のド真ん中に築かれた城は言うまでも無く平城だが、築城当初は2重の堀で囲い
石垣を多用した堅固な構えだった。築城を急ピッチに行った信長は自ら陣頭指揮を執り、寺社の石仏や墓石などだろうと
お構いなしに石垣の石材に転用し「神仏を恐れぬ信長」の行いはここに始まったとも言える。■■■■■■■■■■■
建築作業を統括する大工奉行には、村井吉兵衛貞勝(さだかつ)と島田弥右衛門尉秀満(ひでみつ)が任じられた。2人は
織田家古参の家臣にして実務に長けた官僚でござる。緊急築城とも言える早急な作業を完遂すべく、彼等は本国寺から
建物の移築や用品の持ち出しを行う。一方で瓦には金箔瓦を使用し、将軍御所として相応しい豪華絢爛な城を築き上げ
天主(信長が築いた城なので、この字を充てる事とする)に相当する高層建築も建てられていたとする説もある。驚異的な
速さで行われた築城の結果、同年4月14日には義昭が入居した。この敷地は京都御所に隣接する位置にあり、新将軍が
京都を掌握し幕府権威を復興させるに相応しいだけの機能や構造を有していたと考えられよう。■■■■■■■■■■■
ところが信長と義昭の蜜月は長く続かず、次第に両者は対立する関係になっていく。遂に1573年(天正元年)3月、義昭が
二条新御所(義輝の二条御所に対して、義昭の二条城をこのように呼ぶ)において挙兵した。この折、義昭の命で城には
もう1重の堀が穿たれ、3重の堀にして防御力を高めたと言う。が、名目だけの将軍に対して天下の実権を握っていたのは
やはり信長。二条城は信長軍にあっさりと包囲され、見せしめに上京一帯は焼き払われ、幕臣であった筈の光秀や藤孝も
信長側に与し、この戦いは正親町天皇の勅命によって開城に至る。その後、3ヶ月ほど経った7月3日に義昭は再度信長に
戦いを挑み、宇治の槙島城(京都府宇治市)で再挙兵を行った。これに呼応し、二条城では義昭に従った三淵大和守藤英
(みつぶちふじひで、細川藤孝の異母兄)らが立て籠もるも、信長軍の勢いに圧された城内では脱落者が続出、最後まで
踏みとどまった藤英も7月10日には降伏し申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした戦いの結果、敗れた義昭は京都を追放されて室町幕府は滅亡。藤英はいったん信長に仕える事になるが、程なく
勘気を被り切腹。そして用済みとなった二条城は1576年(天正4年)頃に破却され、建物は解体の上その頃築城中だった
安土城(滋賀県近江八幡市)の転用材として使われたそうだ。堀は埋め立てられ、跡地は完全に更地となり町屋が建並ぶ
地域へと変貌していった。以来、城地は忘れられたものとなってしまったが、1975年(昭和50年)~1978年(昭和53年)に
京都市営地下鉄烏丸線建設に関連して烏丸通りで発掘調査が行われ、旧二条城の堀や石垣が約400年ぶりに日の目を
見た。この時に出土した石垣の石材は移設され、京都御苑内や徳川家の二条城敷地内などに展示されてござる。■■
写真は上京区武衛陣町の一角、平安女学院大学の前に立てられている旧二条城跡を示す石碑。この他、平安女学院
中学校の入口には武衛陣(斯波氏邸)・二条御所(足利義輝邸)址の石碑も立てられている。それにしても、この一帯は
“兵衛府”に由来する武衛陣町とか、“勘解由使”跡地たる勘解由小路町とか、現代にも平安京の名残が生き残っている。
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