琉球国 浦添城

所在地:沖縄県浦添市仲間上原
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★★★■■
現存する遺構
土塁・郭群等
城域内は国指定史跡
琉球国 安慶名城

所在地:沖縄県うるま市字天願
(旧 沖縄県具志川市安慶名)
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: なし■■
遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★☆■■■
現存する遺構
堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡
琉球国 屋良城

所在地:沖縄県中頭郡嘉手納町屋良・嘉手納
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★☆■■■
現存する遺構
郭群等
琉球国 兼箇段城

所在地:沖縄県うるま市字兼箇段
(旧 沖縄県具志川市兼箇段)
■■駐車場: なし■■
■■御手洗: なし■■
遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■
琉球国 天願城

所在地:沖縄県うるま市字天願
(旧 沖縄県具志川市天願)
■■駐車場: なし■■
■■御手洗: なし■■
遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■
琉球国 喜屋武城

所在地:沖縄県うるま市字塩屋
(旧 沖縄県具志川市塩屋)
■■駐車場: なし■■
■■御手洗: なし■■
遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★■■■■
現存する遺構
土塁・郭群等
琉球国 長嶺城

所在地:沖縄県豊見城市長堂
(旧 沖縄県島尻郡豊見城村長堂)
■■駐車場: なし■■
■■御手洗: なし■■
遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■
現存する遺構
土塁
琉球国 伊計城

所在地:沖縄県うるま市与那城伊計
(旧 沖縄県中頭郡与那城町伊計)
■■駐車場: なし■■
■■御手洗: なし■■
遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■
沖縄の歴史において、集落の発生は「グスク」と呼ばれる城郭の形成を促したが、
これは本土の城郭のような「領主の居館・戦時の拠点」としての性格とは異なる。
つまり城=グスクとは、人々の居住地域であり、信仰の対象となる礼拝所を内包し、
祭事を執り行う舞台でもあり、そして時には他の城との抗争における
戦闘要塞となる総合的な空間であったのでござる。
こうした城は按司(あじ)と呼ばれる族長によって統治され、有史以来
按司同士の争いと盟約が繰り返されて興亡を続けてきた。
中世初期の沖縄では、周辺の按司を束ねる王が君臨し支配地域を領有するようになり
やがて沖縄本島を3勢力の王が分割する「三山(さんざん)時代」となった。
北山(ほくざん)王は現在の名護市・国頭郡を統治し、
南山(なんざん)王は同様に糸満市・豊見城市・島尻郡を領有、
その間にある那覇市・石川市・中頭郡などの地域は中山(ちゅうざん)王が治めた。
この三山は互いに覇を競い、1400年代中期に統一され「琉球王国」が成立した。
当頁で紹介している各城はいずれも中山地域に含まれる諸城郭でござる。
筆頭に挙げた浦添(うらそえ)城は、古来より中山王を称した王統が領した城。
中国などの史書に残る中山王は、1187年即位の舜天(しゅんてん)王統、
1260年以来の英祖(えいそ)王統、1350年からの察度(さっと)王統とされている。
(舜天・英祖は伝承上の人物とする見方もある)
元々浦添按司であった舜天は覇権を勝ち取り王に即位、浦添城が王城となった。
舜天の後を継いだのは舜馬順熙(しゅんばじゅんき、1238年即位)
義本(ぎほん、1249年即位)であり、舜天王統は3代73年間続いたが
その末期は天災などで世が乱れ、争乱が多発した。
このため、伊祖(いそ)按司で恵祖世主(えそよぬし)の子である英祖(えいそ)が
秀でた武勇で争いを平定、舜天王統を打ち倒して新たな王となった。
英祖は浦添城を改修すると共に城下を整備。城に併設されている浦添ようどれは
この時作られたもので、英祖王統の墓陵でござる。
英祖王統は大成(たいせい、1300年即位)・英慈(えいじ、1309年即位)
玉城(たまぐすく、1314年即位)・西威(せいい、1337年即位)の5代90年。
この王統の頃から琉球は北山・中山・南山の三山に分割されたのでござった。
英祖王統を倒したのが察度。察度は実在が証明されている中山王で、
中国から冊封(さっぽう、中国皇帝による琉球王の認証)を受けており
こうした中国との朝貢貿易により莫大な富を得た。
以来、琉球は日本・中国・東南アジアを繋ぐ遠洋貿易の中継拠点として
繁栄するようになったのでござる。察度は貿易利益で浦添城を大改修し現在の規模にした。
しかし冊度の子・武寧(ぶねい、1396年即位)には天運がなく
1405年に尚巴志(しょうはし)の攻撃を受け打ち倒された。浦添城は落城。
この尚巴志は後に琉球三山を統べ、琉球統一王朝の第一尚氏王統を建てた人物でござる。
第一尚氏王統は浦添から首里へ王府を移し、これ以後の琉球王城は首里城となった。
荒廃していた浦添城が復活するのは1500年代後半。第一尚氏王統に代わり
第二尚氏王統が世を治めた時代、3代王・尚真(しょうしん)の長男である
尚維衡(しょういこう)は廃嫡され首里城を退去、その子孫は浦添城に入城した。
6代王・尚永(しょうえい)が没すると、浦添城主であった
尚寧(しょうねい)が王になり首里城へと移った。
しかし尚寧は生まれ育った浦添を忘れず、首里と浦添を結ぶ街道を整備、
没した後は首里の玉陵(たまうどぅん、第二尚氏王統の墓所)ではなく
浦添ようどれに葬られたのでござった。
ただし浦添城自体は1609年の薩摩軍侵攻で破壊され、廃城となってしまった。
(1609年の薩摩軍侵攻については首里城の頁を参照されたい)
現在の浦添城跡は公園として整備されている。曲輪などは比較的原型を留めており
駐車場や遊歩道も設置。併設されている浦添ようどれは、
太平洋戦争末期の沖縄戦で破壊されてしまったが、
1989(平成元年)8月11日に国の史跡となり復元工事が行われた。
次に掲げた安慶名(あげな)城は、小さな山をそのまま城砦としているうるま市内の城郭。
この山は市内のほぼ中央に位置する岩山で、絶壁に近い急角度でそびえ立ち
麓には樹木が生い茂っている天然の要害でござる。
山の斜面を自然の城壁とし階段を巧みに配置、切通しにした岩を城門に使い(写真)
山頂部は小さいながら平面となって曲輪を形成している。現在もこうした遺構は
残されており、古城郭の雰囲気を味わえるが、訪れる人は少ないようである。
場所は有名な安慶名闘牛場のすぐ隣なので、迷う事はないだろう。
沖縄本土復帰の1972(昭和47年)5月15日に国の史跡となり
駐車場も用意されているので、交通に不便ではないと思われる。
勝連城主として有名な阿摩和利(あまわり)が築いたと言われる屋良(やら)城も
同様に公園整備された城郭跡でござるが、安慶名城ほどに原型は残っていない。
米空軍基地で有名な嘉手納町にあり、場所は嘉手納高校の西側。
住宅街のはずれに位置する公園なので、やや分かりにくいかもしれない。
公園として駐車場や綺麗な緑地が整えられているが、
米軍基地建設工事により城郭遺構はだいぶ切り崩されてしまっている。
写真で見上げている頂上部がかつての主郭跡と言われている。
一方、埋没してしまい現在何も残っていない城跡も多数ある。
兼箇段城・天願城・喜屋武(きゃん)城・長嶺城・伊計城はこういった城郭でござる。
写真のように標柱が立つくらいで、遺構と呼べるものはほとんどない。
兼箇段城は人里離れた山の中、天願城は米軍施設キャンプコートニーの敷地内なので
整備されていない。標柱には「埋没文化財」と記されており、今後もこのままであろう。
喜屋武城は土塁や曲輪が残り広大な敷地を有するものの、ほとんど自然の山に風化している。
ただし、広大な駐車場が確保されており、これから公園として整備されるようである。
発掘調査と将来の公園整備事業に期待したい城郭でござろう。
長嶺城は藪の中にある城郭跡。周囲が大規模な住宅開発されつつある地域の中で
まるでそこだけが取り残されたように野草で覆い尽くされてしまっている。
もちろん駐車場や見学設備などは全くなく、近づく人すらいない
荒れ果てた城跡になってしまっているが、国場川のほとりにある小高い丘の頂きが城跡で
那覇市・豊見城市・南風原町の3市町境界を睨む重要地点であったと思われる。
当然、この境界線は中山と南山を分ける軍事最前線であったのでござる。
最後に紹介している伊計城は、与勝半島の先に浮かぶ伊計島を守る城郭で
伊計大橋を渡り島に入った地点、伊計漁港の対岸に望む小山がそれである。
伊計島には縄文時代の遺跡である仲原(なかばる)遺跡があり
古くから人間の定住が行われていた事が確認されている。
(仲原遺跡は国指定史跡)金武(きん)湾の出口を塞ぐ位置にあるこの島に
城が築かれたのも歴史の必然と言えよう。
離れ島とはいえ、伊計島へは道路が通じているので沖縄本島から車で乗り入れられる。
ただし現在の城跡は写真のように単なる岩山でしかないので、
立ち入ることはできない。むしろ仲原遺跡や海中道路の風景を楽しんだ方が良いかも…。
豊見城城・具志川城
弘前城・大浦城・堀越城