陸奥国 弘前城

弘前城天守の夜景

所在地:青森県弘前市下白銀町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★★★
公園整備度:★★★★★



北東北の雄・津軽家の居城。築城当初、弘前の地は鷹岡(或いは高岡)と呼ばれていたため鷹岡城、
高岡城とも呼ばれる。津軽家初代・右京大夫為信が計画した城だが(経緯は堀越城(下記)の項に)、
工事中の1607年(慶長12年)に亡くなったため2代藩主・越中守信牧(のぶひら、信枚とも)が事業を
引き継いで築城した。信牧は為信の3男。為信の長男と2男は早世しており、3男の信牧が継いでいる。
津軽家は藩祖・為信が謀略を駆使して独立大名の地位を勝ち取り、豊臣秀吉からその地位を保証され
徳川幕府成立後も信牧が家康の養女を娶るなど、卓越した外交戦術で津軽藩4万7000石を確保した。
鷹岡城は様々な騒動があった事から着工しても実質的な工事は進展せず、1609年(慶長14年)以降
ようやく捗って1611年(慶長16年)に完成。普請を早める為、堀越城や大浦城などの古材を多数転用し
現存する城門にも、そうした伝承が残る。津軽為信の軍師として知られる沼田祐光が選地を担当、
岩木川の河岸段丘を利用した城地は西側に断崖を抱える要害でありながら、北〜東〜南には平地が
広がり、平山城と平城の両面を兼ね備えた近世城郭に相応しい構造となってござる。
城の中心に長方形をした本丸、これは東西130m×南北200m程の大きさ。その西側に三角形をした
西ノ郭、北には北ノ郭、東から南を塞ぐように二ノ丸が配置されている。更にそれを大きく囲み
東〜南に三ノ丸が広がり、北辺は四ノ丸(これも三ノ丸に含めるとする説もある)が固めている。
城域全体から見ると東西およそ700m、南北は900mに達し、それを囲むように外郭線を構成する
掘割も整備。加えて、南から来襲するであろう敵(津軽地方より北には蝦夷地しかない)に備えて
禅林街と通称される「長勝寺構え」の防御線を構築している。長勝寺構えは多数の寺を集中配置した
寺町群であるが、寺は戦時に砦として使える機能を有している事から、この構えは前衛防御線として
使う事を想定しているのでござる。
城内の曲輪は全て水濠で区画され、鷹岡城が水に恵まれた城である事が分かる。特に西ノ郭を挟む
蓮池と西濠は、さながら湖のような広さである。また、高低差を調整するため三ノ丸を囲む外堀には
水戸違いが備えられ、優れた築城技術に基づいてこの城が作られた様子を見せてくれる。
城内各所には楼門形式の城門や重層櫓を配置、本丸南西隅には5重の天守も置かれていた。城の
広さと相まって、往時はさぞかし壮観な城郭であっただろう。東国の城ゆえ、大半は土塁で曲輪を
囲んでいるが、本丸だけは総石垣造りとなっている。4万7000石の大名には不相応な程に巨大で
頑強な城であるが、これが許されたのも津軽家が幕府との関係を良好に保っていた証だろう。
残念ながら5重天守は1627年(寛永4年)落雷によって焼失してしまう。天守は火薬庫になっていて
それに引火し爆発したとか、或いは天守に巨大な釣鐘を保管しており落雷時の衝撃でそれが床を
打ち抜いて落下し天守が崩壊したとも伝わる。翌1628年(寛永5年)には焼損・荒廃した本丸御殿を
再建工事する必要も生じた。津軽家は外に頑強な勢力維持を保っていた一方で、内には御家騒動も
絶えず付きまとっており、御殿改修を機に内憂払拭を祈願し城の名を「弘前」に改めた。これは城主
信牧が師と崇める徳川幕府の重鎮・南光坊天海(なんこうぼうてんかい)に相談し、天台密教で
破邪の法とされる文言を用いたもので、以後は城名・地名共に弘前と称するようになり申した。
1631年(寛永8年)1月14日に信牧が病没、3代藩主となったのは土佐守信義(のぶよし)であった。
信義の母は石田三成の娘、信牧の側室である。先に記した通り信牧には家康の養女が正室に入り
彼女が産んだ子も居たが、徳川政権下で石田三成の孫が大藩の主に収まるのは異例の事だ。
結果、津軽家は益々御家騒動が頻発。1649年(慶安2年)には城下で大火も起き寺町群が焼失。
これを契機とし、翌1650年(慶安3年)新たに「新寺構え」を成す新寺町も作られた。長勝寺構えと
新寺構えで弘前城の南には2重の防衛線が構築された事になる。後記する国史跡の指定範囲には
長勝寺構えと新寺構えも含まれ、ここまで含めて「弘前城」なのだと言える。1655年(明暦元年)
11月25日に信義が没し4代藩主となった越中守信政の時代になると藩政は安定、一時的に財政は
好転するも、一方で津軽家はこの頃から蝦夷地への出兵を幕府から命じられるようになっている。
信政以後、土佐守信寿(のぶひさ)―出羽守信著(のぶあき)―越中守信寧(のぶやす)―土佐守
信明(のぶあきら)と継がれたが、信寧の頃である1766年(明和3年)7月8日に大地震が発生し
弘前城各所が破壊されている。
然るに信明の後、9代藩主となったのが出羽守寧親(やすちか)である。寧親は弘前藩の支藩
黒石藩(青森県黒石市)主であった人物だが、信明が急死した為に宗家の後嗣に入った。1792年
(寛政4年)12月28日、西津軽地震が発生しまたもや弘前藩各所に甚大な被害を生じさせたが、
1796年(寛政8年)には藩校・稽古館を開校している。また、弘前藩はかねてからの蝦夷地警備
功績が幕府から評され1805年(文化2年)5月15日に7万石へ高直し、更に1808年(文化5年)に
10万石へと改められた。斯くして津軽家は準国持大名となり、大名としての格付けは大きく
向上したのでござる。それに乗じて1810年(文化7年)寧親は幕府に弘前城三重櫓の構築を
申請、認めさせた。これは1627年に焼失した5重天守に代わる事実上の新天守だが、名目上は
三重櫓としたものである。新築は憚られる為、本丸東南隅櫓を改造した三重櫓は重階一致の
内部3階、銅瓦葺き白漆喰造りの美しい建物。二ノ丸に面した東・南側にのみ切妻破風や
出窓の石落としを設け、本丸内側の西・北側は一切の装飾をなくした独特な意匠。文章の
説明だけだと舞台の「カキワリ」のような安易さを感じるが、実物は感動的なほどに秀麗で
非常に安定感のある姿である。西・北面は装飾がない分、大きな連子窓が作られていて
採光に配慮した実用的な性能も兼ねている。この改造工事は翌1811年(文化8年)に完成。
弘前城は東北でも有数の城郭として発展した。
寧親の後は出羽守信順(のぶゆき)―大隅守順承(ゆきつぐ)―越中守承昭(つぐあきら)と
代を継承。戊辰戦役に於いては早々に奥羽越列藩同盟を抜けて新政府に与した事から
戦後に1万石を加増されて廃藩置県を迎え申した。なお、江戸時代には幕府に憚り御三階櫓と
呼ばれていた本丸東南隅櫓は、明治維新後は天守と公称されていく。
弘前藩領は弘前県となり、後に合併で青森県となる。弘前城は役割を終えた一方、1871年
(明治4年)東北鎮台分営となった。しかしこれも1873年(明治6年)廃止され、同年の廃城令で
弘前城は廃城処分になっている。そのため本丸御殿や多くの役所建築が破却され申した。
1894年(明治27年)旧藩主・承昭は城跡を公園として一般開放する事を申請、翌1895年
(明治28年)弘前公園として開園してござる。以後、弘前市の中心部にあって良好な保存が
為された城址は、良く知られる桜の名所へと変わっていった。御殿などは廃されたものの、
(早い段階で新政府側へ与した為か)天守・各所櫓・城門建築は残されていた。この中で
北ノ郭にあった子ノ櫓と西ノ郭の未申櫓は1906年(明治39年)に焼亡してしまうが、天守
二ノ丸丑寅櫓・二ノ丸辰巳櫓・二ノ丸未申櫓・二ノ丸南門・二ノ丸東門・三ノ丸追手門
四ノ丸北門(亀甲門)の8棟が1937年(昭和12年)7月29日に旧国宝とされた。これら旧国宝は
太平洋戦争後の1950年(昭和25年)文化財保護法の制定により改めて重要文化財となる。
加えて三ノ丸東門も1953年(昭和28年)11月14日に国の重要文化財に指定。石垣・土塁
堀などもほぼ完全な状態で残っているため、城跡そのものも1952年(昭和27年)3月29日に
国史跡となった。城内にはこの他、二ノ丸東門の与力番所が残存。この番所は維新後に
移築され弘前公園の管理人宿舎・作業員詰所として使われていたが、1978年(昭和53年)から
3年をかけた工事で元の場所に復旧されたもの。江戸時代中期の建築と見られてござる。
なお、亀甲門と呼ばれる四ノ丸北門は元来、大光寺城(青森県平川市)から移築されたものと
言われており、実戦経験のない弘前城において唯一、門の建材に弾痕や矢穴が残っている。
これは大光寺城時代に付けられた傷跡だ。築城当初はこの北門が大手とされていたが、後に
南側が大手(追手)となるように改められた。ともあれ、現存する櫓3基と門5棟は概ね同じ形状
規模で作られており共通点が多い。櫓門は全て脇戸付銅板葺楼門形式、櫓は3重3階で
初重と2重目は4間四方の重箱櫓構造になっておりその上に3重目が乗る。櫓の屋根は元来、
栩葺であったが、現在は銅板葺になってござる。但し、出窓の構造や屋根の妻など、細部は
各櫓で若干の相違がみられる。
さて弘前城の遺物として他に特筆出来るものが御殿杉戸と城下地図、それに館神稲荷の
神倚像でござろう。まず御殿杉戸であるが、恐らく本丸御殿内で用いられていた杉の板戸が
取り外されて現存している。これは1869年(明治2年)に作られたものと推定され、最後の
城主・津軽承昭の婚礼に際して新調されたと考えられている。杉の一枚戸は二面一式で
片面には唐子遊戯図、もう片面には花車図が描かれている。次に地図でござるが、弘前市の
有形文化財に指定され、その名は津軽弘前城之絵図と呼ばれるもので1645年(正保元年)頃に
描かれたものと考えられている。この時期、幕府は全国の大名に城の縄張図を提出するよう
命じており、その控えとして弘前藩が作成した絵図のようだ。縦121cm×横199.6cm、現存する
弘前城下絵図としては最古のもので、幕藩体制下では常に弘前城内に収蔵されていた。
現在は杉戸と共に弘前市立博物館に保管されている。そして神倚像であるが、城の北ノ郭に
城内鎮守となる館神稲荷が鎮座しており、その中に祀られていた木造彩色像である。
幅は13cm、高さは23.5cm、奥行きは10cmの小さな守護神なのだが、明治維新により
館神稲荷が破却されて取り外された際、この神像の奥から別の木像が発見された。何と
それは豊臣秀吉の像で、江戸時代260年間秘蔵されていたのである。津軽家が独立大名と
公認される際の大恩人である秀吉は、弘前藩において守護神として祀られていた訳だ。
秀吉像は残らないものの、神倚像はこれまた弘前市立博物館に収蔵されてござる。
2006年(平成18年)4月6日に制定された日本100名城の1つに数えられた弘前城。その
目下の話題と言えば本丸石垣の修繕工事とそれに伴う天守移動であろう。地震により
本丸石垣は1896年(明治29年)に一度崩落しているが、これは弘前出身の大工棟梁
堀江佐吉が指導し当時の陸軍によって補修されている。しかしそれから一世紀を過ぎ
2007年(平成19年)の調査で経年劣化のため再び崩落する危険性が確認された。弘前市は
検討を重ね2012年(平成24年)に石垣の解体修理方針を決定。天守周辺の石垣を一度全て
取り外し再度組み立てる事になる為、2015年(平成27年)曳家で天守を移動させた。
曳家とは、建物を解体せず建った状態のままジャッキアップして移動させる事。この後、
石材に番号を振って位置を確認し2017年(平成29年)から石垣が解体されている。現在は
補修工事の真っ最中で、石材の積み直しが2019年(平成31年)から開始予定、天守の
曳戻しが2021年以降になると見られてござる。天守が移動している間、特設の展望台が
本丸内に用意され、普段とは違った光景を眺める事ができるようになっている。また
天守内部の見学も可能だが、通常展示とは一部異なるとの話なので注意されたい。
春は桜の名所として有名な弘前城。重文が立ち並ぶ秀麗な公園はとても贅沢!
個人的感想ではあるが、市街地化された大都市の中にある城跡ながらこれほど完全な状態で
敷地全域が残っている城は全国唯一と言っても良いだろう。草木で風化した山城は言わずもがな、
世界遺産で有名な姫路城(兵庫県姫路市)や国宝城郭として名高い彦根城(滋賀県彦根市)でも
外曲輪や中堀が都市化で潰されているので、弘前城ほど縄張が完存する城は他に無い筈だ。
同様に、姫路城や彦根城には及ばないが天守に加え櫓3基と城門5棟が現存するというのも、
全国屈指の残存建築数を誇っている。現存12天守城郭の一つでもあり、最北に聳える天守は
「カキワリ」と言えどむしろその思い切りの良さが清々しく、それでいて化粧面である南面や
東面の姿は実に上品で華麗な風合いを醸し出す。まさに名城中の名城、我がHPで紹介している
数多の城郭中で最も素晴らしい城址として一押しでござる !!


現存する遺構

天守・丑寅櫓・辰巳櫓・未申櫓・追手門・南内門・北門(亀甲門)
東門・東内門《以上国指定重文》・堀・石垣・土塁等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
二ノ丸東門与力番所・本丸御殿部材(杉戸)







陸奥国 大浦城

大浦城址碑

所在地:青森県弘前市五代早稲田・賀田大浦・賀田
(旧 青森県中津軽郡岩木町五代早稲田・賀田大浦・賀田)

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



弘前築城以前の津軽家本拠。津軽藩祖・津軽為信はここを拠点に津軽地方を統一した。
元来、ここ賀田(よした)には西根城(古館)という城があったと伝わるが、1502年(文亀2年)
大浦光信が大改修を施して城塞化する。
大浦氏は南部氏支流・久慈氏を発祥(つまり南部一門)とする一族で、南部氏が所領を拡大するに
際し1491年(延徳3年)光信が種里城(青森県西津軽郡鯵ヶ沢町)に入府、津軽地方の抑えとなった。
名将の光信は順調に南津軽を制圧、この過程において大浦城を築いて有力支城の一つとされた。
彼は子の大浦盛信を大浦城主として入れ、1526年(大永6年)に光信が種里城で没した後は
盛信の居城であるこの城が大浦氏の本拠となったのでござる。以後、大浦氏は津軽氏と改姓し
下記の堀越城へ拠点を移すまで、この城を根拠地として津軽の平定に心を砕くようになるのである。
盛信は大浦城下町を隆盛させ、さらに領内で検地を行うなど積極的な振興策を採って財政と
軍事の基盤を固めた。それを危険視した主家・南部家の23代当主・右馬允安信は1533年
(天文2年)大浦城へと攻め寄せるのである。ところがこれを盛信は撃退し、両者の間には
和議が結ばれた。されど、同族しかも主君が配下を嫉んで攻撃してきた事に大浦氏側は大いに
不信感を募らせたようだ。元々、盛信の父・光信もそれ以前の大浦氏が主家と対立を続け虐げ
られてきた中、南部氏が懐柔策として種里の所領を与えたという経緯があったらしい。領地を
保証したかと思えば掌を返して攻め立てる南部氏の所業は、大浦氏にとって憤懣やる方ない
ものだった。斯くして数々の遺恨がある上、大浦城が疑念の目を向けられて主家から攻められた
事に、その後の“独立劇”の発端があった訳である。
盛信の跡は政信が大浦氏の家督を継ぐ。この政信は盛信の実子という説もある一方、盛信の
姉の子という記録も残る。だとすれば父親は誰かという話になるが、京都から戦乱を避けて
津軽へ落ち延びて来た公家…しかも前関白の近衛尚通(ひさみち)だと言うのである。光信の
長女・阿久が尚通の御手付きになって産まれた政信は、即ち近衛家(藤原家)の血を引く者と
いう事になり、これが後々の津軽(大浦)家に大きな影響を与えるのでござる。真偽の程は
分からないが(と言うか、かなり偽系譜であろう)南部(甲斐源氏)一門であった久慈大浦氏は
これ以後は藤原氏を称するようになっていく。
しかし政信には(藤原摂関家の生まれ故か?)“名門意識”を鼻にかける悪癖があったとも
言われる。1541年(天文10年)6月、三味線河原の戦いと言われる和徳(わっとく)城(弘前市内)を
攻めた戦いにおいて政信軍は城主・小山内満春を討ち取ったが、満春の子・永春が逆襲に転じ
政信は戦死してしまう。だが大浦軍は帰城するまで主君が討ち取られた事に気付かなかったとか。
総大将が誰にも顧みられないという所に、彼の人望の無さが垣間見えよう。ともあれ、小山内氏は
南部氏に属する部将であるから、大浦氏と南部氏が継続して交戦状態にあった事が分かるだろう。
当主が野に埋もれる如き惨めな戦死を遂げた事も、大浦氏の恨みを募らせる要素となった。
政信の跡を継いだ嫡子・為則は生来病弱で(体が不自由であったとも)、政務は家臣に任せる
事が多かったらしい。そして娘の婿に甥(弟・守信の子と言う)の為信(為信出自には諸説あり)を
迎え、跡を継がせる事になる。ただし、為則実子の男子も居たのだが次々と落命したという説もあり
これは大浦の家督を固守せんとした為信が暗殺していったと考える向きもある。いずれにせよ、この
大浦為信が光信から数えて5代目の大浦氏当主となった事で、津軽の歴史は大きく動き始めるのだ。
1567年(永禄10年)当主となった為信は、積年に及ぶ南部家への恨みを晴らすべく暗躍を開始。
丁度この頃、南部宗家では家督争いを繰り広げて地方支配まで目が行き届かない状況になっており
為信はその間隙を衝き1571年(元亀2年)堀越城(下記)に兵を集め挙兵、南部支配脱却へと
踏み出したのでござる。
御家騒動で満足に出兵できない南部家に対し、極めて効率的に戦いを繰り広げた為信であるが
軍事のみならず外交でも卓越した才能を発揮。姓を大浦から津軽に改め、正式な「津軽太守」と
印象付けたと共に、天下人・豊臣秀吉に接近し津軽支配の公認を取り付ける。この時、藤原摂関家の
血筋である事を最大限に利用し、朝廷工作にも存分の根回しをして秀吉に“名家の立ち振る舞い”故の
南部家に対する「正当な独立戦争」として惣無事令違反の疑いを晴らしたのだった。結果、豊臣政権下
津軽家はその所領安堵を認められた訳だが、こうした一連の大浦氏〜津軽氏統治の本拠地となって
いたのがここ大浦城だったのでござる。しかし近世大名として相応しい新城を求めて1594年(文禄3年)
堀越城へと拠点は移り、更に鷹岡(弘前)城築城の際に廃城となり、建材は鷹岡城の部材に転用され
持ち去られたのであった。こうして、およそ100年に及ぶ大浦城の歴史は終えられ申した。ただ、
廃城になったとは言え或る程度の土塁や堀が残存し、また弘前城の詰城として火薬庫が使用され
続けたとも伝わる。有事の際には「隠し城」として機能するよう謀っていたのかもしれない。
近世大名・津軽氏にとって“発祥の城”大浦城は特別な存在だったようだ。しかし明治維新後は
完全に無用なものとなり、城地は宅地化・農地化され切り崩されてしまった。現状では遺構らしき
物は全く残っていない。推測される縄張図に拠れば、背後(北側)には旧後長根川(岩木川支流)が
西から東へと流れ、一帯が沼沢地になっていた“後ろ堅固の城”という立地で、北辺中心に本丸を置き
その南〜東を覆うように二ノ丸が広がる。他方、本丸の西には西ノ丸があり、その南は西ノ郭が前衛と
なっている。そして二ノ丸と西ノ郭の間(城の最南端部)は南郭が塞ぐ。二ノ丸と南郭の間に大手口が
開かれている縄張だ。本丸〜二ノ丸間の出入口は出枡形虎口、二ノ丸の搦手口は食い違い虎口、
大手門は丸馬出かのような形状。大浦城は平城であるがこのように各所が厳重な守りで固められ
非常に進歩的な構造を取り入れている。この縄張りを現在の地形に当てはめてみると、本丸は
津軽中学校の校舎敷地、二ノ丸はその校庭、大手口は鯵ケ沢街道(青森県道3号線)の津軽中学校
入口交差点に該当する。この交差点は変形五差路になっており、交差角も直交でない点が往時の
大手口として複雑な構造だった様子を物語る。だが、ここが城跡であった事を示すのは中学校の
校門前にある「大浦城址」の石碑(写真)と交差点脇にある大手門跡の案内板のみ。
弘前市西茂森(禅林街)にある曹洞宗太平山長勝寺の庫裡は大浦城の台所建築、同じく新寺町の
浄土真宗大谷派遍照山法源寺の山門が大浦城の移築城門だと言われるが、果たして…?
この長勝寺庫裡は1993年(平成5年)8月17日指定の国重要文化財。
城の別名として賀田城、或いは八幡城とも。


現存する遺構

堀・土塁

移築された遺構として
長勝寺庫裡(伝大浦城台所)《国指定重文》
法源寺山門(伝大浦城棟門)







陸奥国 堀越城

堀越城址 熊野宮

所在地:青森県弘前市堀越柏田・堀越川合

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★★■■■



1336年(延元元年・建武3年)津軽平賀(ひらか)郡岩楯の地頭・曽我太郎貞光(光高?)の築城と伝わる。
貞光は鎌倉幕府崩壊時に南朝方として働いたが、後に論功行賞で不満を抱き北朝方に転じたと言う。
その後の動向は不明であるが、陸奥北部は南朝勢南部氏の勢力下に入った事から、この城も南部軍の
手に落ちたと考えるのが妥当でござろう。
次に堀越城の記録が文献上に現れるのは、江戸時代の1731年(享保16年)津軽藩が編纂した藩史
「津軽一統志」1571年の項。津軽藩祖・為信は津軽地方統一の為にこの城で挙兵、近隣の
石川城(弘前市内)にあった石川高信を攻め滅ぼしたとされる。津軽為信、この頃は大浦為信と
名乗っていたが、大浦氏は南部氏傍流の被官として津軽地方に派遣されていた勢力。という事は、
堀越城が大浦氏の持ち城となっていたという経緯からして津軽曽我氏が南部氏に滅ぼされたと
暗示していよう。為信の実父・守信は堀越城を預かっていたとも言われており、南部支配の尖兵たる
大浦氏はそれなりの時代にこの城を手にしていたのだろう。然るに為信は、歴代大浦氏当主が
宗家の南部家から嗜虐を受け続けていた事に奮起し、独立を図るのである。石川高信は南部氏の
重鎮として津軽地方を統括する地位にあった人物であり、それを打倒しようとした為信の決起から
津軽氏の独立戦争が始まった訳だが、対する南部氏側も津軽氏の反乱を不当なものとして許さず、
独自の解釈で歴史を紡いだ為、高信は戦死せず石川城を落ち延びて生き続けたと言う記録もある。
ともあれ、堀越城は為信の勢力拡大において重要な拠点となっていく。防備の増強はもとより、
1578年(天正6年)には城内鎮守となる堂を創建。これに於いて、為信は京都から妙覚院日建を
迎えて開基としている。
為信は津軽に独立国を築き、天下人となった豊臣秀吉からも公認を受けた事で晴れて津軽3万石の
領有が確定。この他、豊臣家蔵入地1万5000石も預けられた。秀吉が天下統一した後の1594年
それまでの居城であった大浦城(上記)からこの城に本拠を移したとされ申す。
秀吉没後も天下の趨勢を読むに長けた為信は、関ヶ原合戦に際して東軍・徳川家康に加勢する為
手兵2000を率いて大垣城(岐阜県大垣市)攻めへと出陣する。しかし兵力不足を懸念し、国元に居た
家臣へ追加の兵を要請。これにより松野久七・尾崎喜蔵・板垣将兼・多田玄蕃の4将が800人を
出征させる事になったのだが、尾崎・板垣・多田の3名は西軍・石田三成が優位と見てそちらに
加担せんと画策する。そして3将は500の兵で堀越城を占拠し城番の土岐新助・田村六左衛門
浪岡主馬らを殺害するに至り主君への叛旗を翻した。斯くして堀越城は彼らに乗っ取られて
しまうのでござるが、入れ替わるように西軍大敗の報がもたらされ反乱の将は狼狽。すかさず
為信の腹心・金小三郎信則(こんのぶのり)が総攻撃をかけ、堀越城内で尾崎・板垣は戦死し
多田は自分の居城へ戻った所で火薬の爆発を起こし爆死したと言う(諸説あり)。
とりあえずこの反乱は平定され、東軍に与した為信は徳川家康から4万7000石に加増の上で
所領を安堵された。堀越城は為信の長男・左馬頭信建(のぶたけ)が入り、為信は信建の子
熊千代を預かって黒石城(青森県黒石市)へ退く事になる。しかし1602年(慶長7年)熊千代は
誤って顔に火傷を負う大怪我をしてしまう。怒った信建は為信に熊千代引き取りを申し伝えるが
交渉は上手く行かず、怒りの矛先は使者に立った天童一族に向けられた。これに抵抗する天童方は
信建打倒を目指して堀越城に突撃、本丸まで攻め寄せ信建は這う這うの体で城を落ち延びたので
ある。結局この騒動は天童一門の処刑で幕を閉じたが、堀越城が2度までも反乱で占拠された為
城の脆弱さが露呈した事になり、津軽氏は新たな居城を構築し直す必要に迫られたのでござる。
1603年(慶長8年)幕府から新城築城の許可を得た為信は鷹岡城(弘前城)の築城を決定。着工後
信建も為信も相次いで没し正式に津軽家2代藩主を継いだ信枚の頃にようやく完成、1611年に
居を移し堀越城はその支城という扱いに変わった。そして1615年(元和元年)幕府が一国一城令を
発布、不要となった堀越城は廃城され申した。城内の諸建築は破却され、鎮守の堂は鷹岡城下に
移転。この寺は現在、弘前市内の新寺町に日蓮宗妙法山本行寺として残っている。
城地は国道7号線弘前バイパスが前川を渡る橋(鷹匠橋)の北西側。主郭(本丸)跡には現在、
熊野宮の社が鎮座しているが、敷地周囲には綺麗な土塁が巡りその周囲は堀で取り囲まれている。
かつての縄張りはその外周を二ノ郭、更に三ノ郭や外構(そとがまえ)と言った曲輪が取り囲む
輪郭式の構造であった。現状では外周部にも僅かに断片的な土塁や堀の痕跡が残っている。
国道のバイパス敷設に伴う1975年(昭和50年)〜1977年(昭和52年)と、前川氾濫後の災害復旧
工事関連で1978年(昭和53年)に発掘調査が行われ、曲輪を囲う堀や城内各所の竪穴式建物跡と
その柱穴が確認されている。出土品には美濃焼や瀬戸などの陶磁器、へらや箸などの生活用具、
煙管といった金属製品などがある。また、三ノ丸は3度にわたる拡張が重ねられた状況が判明。
平成になると1989年(平成元年)3月に堀越城跡を史跡保全する為の保存管理計画が策定され、
弘前市は敷地の公有化を推進。1998年(平成10年)〜2013年(平成25年)の長期にわたって発掘
調査が行われている。2005年(平成17年)主郭跡から礎石建物跡が検出された他、城内各所で
掘立柱建物・木橋跡を確認。さらには二ノ丸で鍛冶炉がいくつも出てきた事で、城内で鉄や銅を
製品化する工房があった様子を垣間見た。出土品は国産陶器の壺・甕・擂鉢・皿、中国産磁器の
皿・碗、鉄釘・鉄砲玉・石臼・砥石・鍬・鋤などの作業具、箸・俎板・桶・樽・下駄・椀と言った
日常品。さすが、一時期とは言え大名の居城として使用されていた城郭であろう。
現状、バイパスが貫通している他はそれほど荒らされた様子もなく、良好な史跡と見受けられる。
このため1985年(昭和60年)11月15日、弘前城に追加する形で国の史跡に指定されてござる。
指定名称は「津軽氏城跡 堀越城跡 弘前城跡」である。但し2002年(平成14年)12月19日、
種里城(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町)も同様の追加を受けており、これにより史跡名称は
「津軽氏城跡  種里城跡  堀越城跡  弘前城跡」と変更され申した。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は国指定史跡





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