津軽に誕生した近世城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
北東北の雄・津軽家の居城。築城当初、弘前の地は鷹岡(或いは高岡)と呼ばれていたため鷹岡城、
高岡城とも呼ばれる。津軽家初代・右京大夫為信が計画した城だが(経緯は堀越城(下記)の項に)、
工事中の1607年(慶長12年)12月5日に亡くなったため2代藩主・越中守信牧(のぶひら、信枚とも)が
事業を引き継いで築城した。信牧は為信の3男。為信の長男と2男は早世しており、3男の信牧が家督を
相続している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
津軽家は藩祖・為信が謀略を駆使して独立大名の地位を勝ち取り、豊臣秀吉からその地位を保証され
徳川幕府成立後も信牧が家康の養女を娶るなど、卓越した外交戦術で津軽藩4万7000石を確保した。
鷹岡城は様々な騒動があった事から着工しても実質的な工事は進展せず、1609年(慶長14年)以降
ようやく捗って1611年(慶長16年)に完成。普請を早める為、堀越城や大浦城などの古材を多数転用し
現存する城門にも、そうした移築伝承が残る。津軽為信の軍師として知られる沼田祐光が選地を担当、
岩木川の河岸段丘を利用した城地は西側に断崖を抱える要害でありながら、北〜東〜南には平地が
広がり、平山城と平城の両面を兼ね備えた近世城郭に相応しい構造となっている。■■■■■■■■
壮大な規模・構造を誇る縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の中心に長方形をした本丸、これは東西約130m×南北200m程の大きさ。その西側に三角形をした
西ノ郭、北には北ノ郭、東から南を塞ぐように二ノ丸が配置されている。更にそれを大きく囲み東〜南に
三ノ丸が広がり、北辺は四ノ丸(これも三ノ丸に含めるとする説もある)が固めている。■■■■■■■
城域全体の大きさ見ると東西およそ700m、南北は900mにも達し、それを囲むように外郭線を構成する
掘割も整備している。加えて、南から来襲するであろう敵(津軽地方より北には蝦夷地しかない)に備え
禅林街と通称される「長勝寺構え」の防御線を構築している。長勝寺構えは多数の寺院を集中配置した
寺町群であるが、寺は戦時に砦塞として使える機能を有している事から、この構えは前衛防御線として
使う事を想定しているのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城内の曲輪は全て水濠で区画され、鷹岡城が水に恵まれた城である事が分かる。特に、西ノ郭を挟む
蓮池と西濠は、さながら湖のような広さである。加えて、高低差を調整するため三ノ丸を囲む外堀には
水戸違いが備えられ、優れた築城技術に基づいてこの城が作られた様子を見せてくれる。■■■■■
城内各所には楼門形式の城門や重層櫓を配置し、本丸南西隅には5重の天守も置かれていた。城の
広さと相まって、往時はさぞかし壮観な城郭であった事だろう。東国の城ゆえに大半は土塁で曲輪を
囲んでいるが、本丸だけは総石垣造りとなっている。石高4万7000石の大名には不相応な程に巨大で
頑強な城であるが、これが許されたのも津軽家が幕府との関係を良好に保っていた証だろう。■■■
相次ぐ不運を打破する「弘前」改名■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
残念ながら5重天守は1627年(寛永4年)落雷によって焼失してしまう。天守は火薬庫になっていたので
それに引火し爆発したとか、或いは天守に巨大な釣鐘を保管しており落雷時の衝撃でそれが床を打ち
抜いて落下し、建物が崩壊したとも伝わる。翌1628年(寛永5年)には焼損・荒廃した本丸御殿を再建
工事する必要も生じた。津軽家は外に頑強な勢力維持を保っていた一方で、内には御家騒動も絶えず
付きまとっており、御殿改修を機に内憂払拭を祈願し城の名を「弘前」に改めた。これは城主の信牧が
師と崇める徳川幕府の重鎮・南光坊天海(なんこうぼうてんかい)に相談し、天台密教で「破邪の法」と
される文言を用いたもので、以後は城名・地名共に弘前と称するようになり申した。■■■■■■■■
1631年(寛永8年)1月14日に信牧が病没、3代藩主となったのは土佐守信義(のぶよし)であった。彼の
母は石田治部少輔三成の娘、信牧の側室である。先に記した通り信牧には家康の養女が正室に入り
彼女が産んだ子も居たが、徳川政権下で石田三成の孫が大藩の主に収まるのは異例の事だ。■■■
結果、津軽家は益々御家騒動が頻発。1649年(慶安2年)には城下で大火も起きて寺町群が焼失する。
これを契機とし、翌1650年(慶安3年)新たに「新寺構え」を成す新寺町も作られた。長勝寺構えと新寺
構えで弘前城の南には2重の防衛線が構築された事になる。後記する国史跡の指定範囲には長勝寺
構えと新寺構えも含まれ、ここまで含めて「弘前城」なのだと言える。■■■■■■■■■■■■■■
1655年(明暦元年)11月25日に信義が没し、4代藩主となった越中守信政の時代になると藩政は安定、
一時的に財政は好転するも、一方で津軽家はこの頃から蝦夷地への出兵を幕府から命じられるように
なっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信政以後、土佐守信寿(のぶひさ)―出羽守信著(のぶあき)―越中守信寧(のぶやす)―土佐守信明
(のぶあきら)と継がれたが、信寧の頃である1766年(明和3年)7月8日に大地震が発生し弘前城各所が
破壊されてしまった。然るに信明の後、9代藩主となったのが出羽守寧親(やすちか)である。■■■■
待望の天守復活!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
寧親は弘前藩の支藩・黒石藩(青森県黒石市)主であった人物なのだが、信明が急死した為に宗家の
後嗣に入った。1792年(寛政4年)12月28日、西津軽地震が発生しまたもや弘前藩各所に甚大な被害を
生じさせたが、1796年(寛政8年)には藩校・稽古館を開校している。また、弘前藩は予てからの蝦夷地
警備の功績が幕府から評され、1805年(文化2年)5月15日に7万石へ高直し、更に1808年(文化5年)に
10万石へと改められた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして津軽家は準国持大名となり、大名としての格付けは大きく向上したのでござる。それに乗じて
1810年(文化7年)寧親は幕府に弘前城三重櫓の構築を申請し、認めさせた。これは1627年に焼失した
5重天守に代わる事実上の新天守だが、名目上は三重櫓としたものである。新築は憚られる為、本丸の
東南隅櫓を改造した三重櫓は重階一致の内部3階、銅瓦葺き白漆喰造りの美しい建物。二ノ丸に面した
東・南側にのみ切妻破風や出窓の石落としを設け、本丸内側の西・北側は一切の装飾をなくした独特な
意匠。文章の説明だけだと舞台の「カキワリ」のような安易さを感じるが、実物は感動的なほどに秀麗で
非常に安定感のある姿である。西・北面は装飾がない分、大きな連子窓が作られていて採光に配慮した
実用的な性能も兼ねている。この改造工事は翌1811年(文化8年)に完成。■■■■■■■■■■■■
弘前城は東北地方で有数の城郭として発展した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
寧親の後は出羽守信順(のぶゆき)―大隅守順承(ゆきつぐ)―越中守承昭(つぐあきら)と代を継承。
戊辰戦役に於いては早々に奥羽越列藩同盟を抜けて新政府に与した事から、戦後に1万石を加増され
廃藩置県を迎え申した。なお、江戸時代には幕府に憚り「御三階櫓」と呼ばれていた本丸東南隅櫓は、
明治維新後は「天守」と公称されていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明治維新で廃城処分とされるも、良好な保存状態を誇る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
弘前藩領は弘前県となり、後に合併で青森県となる。弘前城は役割を終えた一方で、1871年(明治4年)
東北鎮台分営となった。しかしこれも1873年(明治6年)廃止され、同年の廃城令で弘前城は廃城処分に
なっている。そのため本丸御殿や多くの役所建築が破却され申した。■■■■■■■■■■■■■■
1894年(明治27年)旧藩主・承昭は城跡を公園として一般開放する事を申請し、翌1895年(明治28年)に
弘前公園として開園している。以後、市の中心部にあって良好な保存が為された城址は、良く知られる
桜の名所へと変わっていった。御殿などは廃されたものの、(早い段階で新政府側へ与した為か)天守・
各所の櫓・城門建築は残されていた。それらの中で、北ノ郭にあった子ノ櫓と西ノ郭の未申櫓は1906年
(明治39年)に焼亡してしまうが、天守・二ノ丸丑寅櫓・二ノ丸辰巳櫓・二ノ丸未申櫓・二ノ丸南門・二ノ丸
東門・三ノ丸追手門・四ノ丸北門(亀甲門)の8棟が1937年(昭和12年)7月29日に旧国宝とされた。■■
これら旧国宝は太平洋戦争後の1950年(昭和25年)、文化財保護法の制定で改めて重要文化財となる。
加えて三ノ丸東門も1953年(昭和28年)11月14日に国の重要文化財に指定。石垣・土塁・堀などもほぼ
完全な状態で残っているため、城跡そのものも1952年(昭和27年)3月29日に国史跡となった。城内には
この他、二ノ丸東門の与力番所が残存。この番所は維新後に移築され弘前公園の管理人宿舎・作業員
詰所として使われていたが、1978年(昭和53年)から3年をかけた工事で元の場所に復旧されたもの。
江戸時代中期の建築と見られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、亀甲門と呼ばれる四ノ丸北門は元来、大光寺城(青森県平川市)から移築されたものと言われて
おり、実戦経験のない弘前城において唯一、門の建材に弾痕や矢穴が残っている。これは大光寺城
時代に付けられた傷跡だ。築城当初はこの北門が大手とされていたのだが、後に南側が大手(追手)と
なるように改められた。ともあれ、現存する櫓3基と門5棟は概ね同じ形状・規模で作られており共通点が
多い。櫓門は全て脇戸付銅板葺楼門形式、櫓は3重3階で初重と2重目は4間四方の重箱構造になって
おり、その上に3重目が乗る。櫓の屋根は元来、栩葺であったが、現在は銅板葺になってござる。但し、
出窓の構造や屋根の妻など、細部は各櫓で若干の相違がみられる。■■■■■■■■■■■■■■
他にも残る、弘前城由来の品々■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて弘前城の遺物として他に特筆出来るものが御殿杉戸と城下地図、それに館神稲荷の神倚像だろう。
まず御殿杉戸であるが、恐らく本丸御殿内で用いられていた杉の板戸が取り外されて現存している。
これは1869年(明治2年)に作られた物と推定され、最後の城主・津軽承昭の婚礼に際し新調されたと
考えられている。杉の一枚戸は二面一式で、片面に唐子遊戯図、もう片面は花車図が描かれている。
次に地図であるが、弘前市の有形文化財に指定され、その名は津軽弘前城之絵図と呼ばれるもので
1645年(正保元年)頃に描かれたものと考えられている。この時期、幕府は全国の大名に城の縄張図を
提出するよう命じており、その控えとして弘前藩が作成した絵図のようだ。縦121cm×横199.6cm、現存
する弘前城下絵図としては最古のもので、幕藩体制下では常に弘前城内に収蔵されていた。現在は
杉戸と共に弘前市立博物館に保管されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして神倚像であるが、城の北ノ郭に城内鎮守となる館神稲荷が鎮座しており、その中に祀られていた
木造彩色像である。幅は13cm、高さは23.5cm、奥行きは10cmの小さな守護神なのだが、明治維新にて
館神稲荷が破却され取り外された折、この神像の奥から別の像が発見された。何とそれは豊臣秀吉の
木像で、江戸時代260年間秘蔵されていたのである。津軽家が独立大名と公認される際の大恩人である
秀吉は、弘前藩において守護神として祀られていた訳だ。秀吉像は残らないものの、神倚像はこれまた
弘前市立博物館に収蔵されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平成末期から進む天守曳家移設■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2006年(平成18年)4月6日制定された日本百名城の1つに数えられた弘前城。その目下の話題と言えば
本丸石垣の修繕工事とそれに伴う天守移動であろう。地震により本丸石垣は1896年(明治29年)に一度
崩落しているが、これは弘前出身の大工棟梁・堀江佐吉が指導し当時の陸軍によって補修されている。
だがそれから一世紀を過ぎ、2007年(平成19年)の調査で経年劣化のため再び崩落する危険性が確認
された。弘前市は検討を重ね、2012年(平成24年)に石垣の解体修理方針を決定。天守周辺の石垣を
一度全て取り外し再度組み立てる事になる為、2015年(平成27年)曳家で天守を移動させた。曳家とは、
建物を解体せず建った状態のままジャッキアップして移動させる事。この後、石材に番号を振って位置を
確認し、2017年(平成29年)から石垣が解体されている。現在は補修工事の真っ最中で、石材の積み
直しが進められている。なお、石垣の修復後には天守本体の耐震補強工事が行われるとの事。天守の
曳戻しは耐震補強も終わってからになる。天守が移動している間、特設の展望台が本丸内に用意され、
普段とは違った光景を眺める事ができるようになっている。また、天守内部の見学も可能だが、通常の
展示とは一部異なるとの話なので注意されたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
春は桜の名所として有名な弘前城。重文が立ち並ぶ秀麗な公園はとても贅沢!■■■■■■■■■
個人的感想ではあるが、市街地化された大都市の中にある城跡ながら、これほど完全な状態で敷地の
全域が残っている城は全国唯一と言っても良いだろう。草木で風化した山城は言うまでもないが、世界
遺産で有名な姫路城(兵庫県姫路市)や国宝城郭として名高い彦根城(滋賀県彦根市)でも、外曲輪や
中堀が都市化で潰されているので、弘前城ほど縄張りが完存する城は他に無い筈。同様に、姫路城や
彦根城には及ばないが天守に加え櫓3基と城門5棟が現存するというのも、全国屈指の残存建築数を
誇っている。現存12天守の一つでもあり、最北に聳える天守は、「カキワリ」と言えどもむしろその思い
切りの良さが清々しく、それでいて化粧面である南面や東面の姿は実に上品で、華麗な風合いを醸し
出す。まさに名城中の名城、我がHPで紹介している数多の城郭中で最も素晴らしい城址として一押しで
ござる !!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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