琉球国 名護城

所在地:沖縄県名護市名護
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★■■■■
現存する遺構
堀・郭群等
琉球国 根謝銘城

所在地:沖縄県国頭郡大宜味村謝銘城
■■駐車場: なし■■
■■御手洗: なし■■
遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■
両城とも琉球北山(ほくざん)地域における主要な城(ぐすく)でござる。
沖縄史の黎明期ともいえるグスク時代、琉球各地の集落は城砦化して成長し
按司(あじ)と呼ばれる首長によって治められていた。
こうして発達した城=グスクは互いに争い、盟を結び、
グスク時代の後期には沖縄本島を3分割した勢力圏を形成するに至った。
島尻大里(しまじりおおさと)城を中心とする南山(なんざん)地域、
浦添(うらそえ)城を拠点とする中山(ちゅうざん)地域、
今帰仁(なきじん)城において勢力を張る北山地域でござる。
この時代を三山時代と呼び、南山・中山・北山にはそれぞれ王統が建ち
勢力圏内における按司たちを従わせていた。
1400年代初頭、中山の王となった尚氏は首里城に本拠を移し、
沖縄全土を統一する事業に取りかかり各地の按司を服従させていった。
一方、北山の王であった攀安知(はんあんち)は、沖縄本島北部のみならず
遠く与論島や沖永良部島、徳之島も征服し尚氏と並ぶ武勇を誇っていた。
1416年、雌雄を決すべく中山王・尚巴志(しょうはし)は北山攻略の決戦を挑む。
攀安知の居城・今帰仁城は、周囲を深い谷に囲まれた堅城として有名であり、
簡単に落とせるものではなかった。しかし攀安知は剛勇を自認するあまり
粗暴の振舞いが多く、配下となる按司の反感を買っていたのでござる。
尚巴志はこうした状況を見て北山制圧に利有りとしたのでござった。
首里城を進発した中山軍は味方となる周辺地域の軍勢を吸収し
羽地寒天那湊(はねじのかんてなこう)に集結、3000もの兵力を数えた。
この時、北山の有力拠点となる名護城・根謝銘(ねじゃめ)城の軍は
攀安知を見限り尚巴志の幕下に合流したのでござる。
今帰仁城の守りはやはり堅く、容易に落ちなかったものの
尚巴志の降誘に乗り城内から離反者が発生、遂に落城した。
攀安知を倒した事で北山地域は尚氏の支配となり、名護城・根謝銘城も
尚氏に任命された北山監守の指揮下に置かれたのでござった。
現在、両城は欝蒼とした森となってしまっている。名護城は史跡公園になっているが
それでも入口に駐車場が確保されている程度で、主郭部はほとんど手付かず。
写真の通り、一見しただけでは山の中の何もない広場でしかない。
ここに登るためには昼なお暗い細く急な階段を通らねばならず、
しかも駐車場の脇に案内看板が一枚立っているだけである。
城内に踏込めば標識となるものが全くないので思わず不安になってしまう。
根謝銘城の方は公園ですらなく、不気味なほど深い山林となっている。
(「山原(やんばる)の森」のド真ん中なので当たり前なのだが)
かろうじて城跡から撮った写真では遠くにリゾート地の奥間ビーチが望めたが
これ以外はめぼしい物が全くなく、ハブでも出てきたら大変なので早々に退散した。
城郭初心者では到底見ようとも思わない場所であろう。
なお、名護城は「なんぐしく」と読むとの事。沖縄では「城」を「ぐすく」と言うが
ここでは更に発音が変わり「ぐしく」となるらしい。「名護」「城」と繋げると
「なんぐしく」となるので、ただ聞いただけではいったい何の事だかさっぱり解らない…。
今帰仁城
豊見城城・具志川城