
琉球国 今帰仁城

所在地:沖縄県国頭郡今帰仁村今泊
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★★★☆■
公園整備度:★★☆■■
琉球北山(ほくざん)の中心地として栄えた大規模な城(ぐすく)でござる。
沖縄の歴史区分においては12世紀までが先史時代とされ、
1187年の舜天(しゅんてん)王の即位以降を「グスク時代」と定義している。
(舜天は伝承上の人物とする見解もある)
グスク時代には王を名乗る人物が度々現れるものの、
琉球全土を統一する中央集権体制が成立したような状況ではなく、
実状としては各地の集落が城=グスクを形成し独立した生活を営んでいた。
各集落の長となる人物を按司(あじ)と呼び、近隣の按司同士が互いに協力し、
また争うような戦乱時代がグスク時代であり、その後期には
島尻大里(しまじりおおさと)城を中心とする南山(なんざん)地域、
浦添(うらそえ)城を拠点とする中山(ちゅうざん)地域、
そしてここ今帰仁(なきじん)城に勢力を張る北山地域に
沖縄本島の勢力圏を3分割した三山(さんざん)時代となった。
今帰仁城の創建時期などは明らかでないが、14世紀後半に北山王を名乗った
怕尼芝(はにし)が居城にして以来、現在の名護市および国頭郡を領土とした
北山地域の中心都市とされていたのでござる。
1400年代になると、尚氏が中山王に即位し本拠を首里城に移転。
圧倒的な軍事力を以って各地の群雄を下し、沖縄全土の統一に乗り出した。
一方、この時の北山王は怕尼芝の後を継いだ攀安知(はんあんち)で、
北山の勢力範囲は与論島や沖永良部島、徳之島にまで及び、
中山王尚氏に引けを取らない実力を誇っていた。
居城の今帰仁城は周囲を深い谷と川に囲まれた要害の地で、
唯一北側の平野部にだけ開けた作りであり、集落全体を城壁の内に取りこんだ
壮大な城郭となっていた。大手口となる平郎門(写真)には物見台や
火器を発砲する狭間が備えられており、これを破るのは容易ではなかったが
1416年、北山制圧を目指す中山王尚巴志(しょうはし)の軍勢が
決戦を挑み攀安知に攻勢をかけたのでござった。
首里城を進発した中山軍は味方になる按司の軍勢を吸収して
羽地寒天那湊(はねじのかんてなこう)に集結、3000もの兵力となり
今帰仁城の攻撃に取りかかった。しかし武勇に秀でた攀安知は巧みに防戦し
今帰仁城の堅城ぶりも相まってなかなか落城しなかったのでござった。
力攻めは無理と判断した尚巴志は謀略戦に移行。
今帰仁城内から内応する者を誘い出し、ようやく陥落させたのであった。
これによって北山王朝は滅亡、北山地域も尚氏の領土となり申した。
尚巴志は旧北山地域の支配官吏として北山監守の役職を新設、
尚氏の重臣であった護佐丸盛春(ごさまるせいしゅん)を任命した。
監守を拝命した護佐丸は今帰仁城に入城、後に中城(なかぐすく)城主に転任したが
今帰仁城は北部防衛と支配の中心として代々の北山監守に使われ続けたのでござった。
1609年、薩摩国(現在の鹿児島県)大名の島津氏が琉球に侵攻、
時の国王・尚寧(しょうねい)を捕虜にして征服した(首里城の頁を参照)。
この事件で今帰仁城は薩摩軍の攻撃を受けて炎上、破壊されてしまった。
廃城同然となった今帰仁城、以後は御嶽(うたき、琉球古来の信仰に基づく礼拝所)として
今帰仁集落をはじめとする周辺住民の精神的拠所となり申した。
沖縄の本土復帰の日である1972年(昭和47年)5月15日、国史跡に指定。
これに先立つ1959年に登郭道が整備され、1962年に正門である平郎門が復元されている。
1979年(昭和54年)12月18日、史跡として追加指定。さらには保存状態や復元作業、
それに今なお続く御嶽としての利用が評価され2000年(平成12年)12月、
他の琉球古城郭と併せて日本で11番目の世界遺産に登録されたのでござった。
城は今帰仁今泊集落から南へ入った山中に位置し、最高所を主郭(本丸)として
北側に大庭(うーみや)、御内原(うーちばる)、大隅(うーしみ)、平郎門と連なる。
主郭には御殿建築物などが在ったとされ、現在は礎石や基壇などが発掘整備されている。
大庭は祭事を行った場所と思われており、隣に繋がった御内原は
今帰仁城に仕えた女官の居住曲輪となっていたらしい。
大隅は兵士の教練場所や馬場として使われていた曲輪であり、
非常時の脱出口と見られる抜け穴が東側の志慶真(しじま)川の渓谷へ通じている。
この大隅から外部へ出入りする正門が平郎門で、上記の通り
見張台や銃眼となる狭間を設けた厳重な石門でござった。
琉球の城郭門は石造りのアーチ型である事が多いが、平郎門はそうした形式ではない。
アーチ型の門が作られるのは15世紀以降の建築なので、
今帰仁城の築城時期がそれ以前である事を証明する事例となっている。
平郎門の外にも外郭となる曲輪があったが、現在は駐車場となっており
石垣が散在しているものの、遺構は風化してしまっている。
なお、主郭の南側には志慶真門郭(しじまじょうかく)の曲輪があり
ここでは武家屋敷の跡、古くは先史時代の竪穴式住居跡などが見つかっている。
志慶真門郭から城外に出る門が裏門となり、
近世初期までこの裏門の外に志慶真村の集落が存在していた。
今帰仁城跡は壮大な石垣で囲まれており、優美な曲線を描きつつも
堅固で分厚く固められた姿は中国大陸の「万里の長城」を思わせる。
主郭跡からは周囲を一望することができ、今帰仁城の美しい石垣を眺める事や
遠く伊平屋島・伊是名島、山原(やんばる)の森をも見渡せる。
無料駐車場は広く用意されているので車の利用に不便はないが、
那覇からはやや遠いので見学をするには十分な時間を取ったほうが良い。
現存する遺構
石垣・郭群
城域内は国指定史跡
国連世界文化遺産登録
座喜味城
名護城・根謝銘城