琉球国 首里城

所在地:沖縄県那覇市首里当蔵町
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★★★★☆
公園整備度:★★★★★
言わずと知れた琉球王朝の王府、沖縄最大の規模を誇る巨大城郭でござる。
琉球王国繁栄の礎ともいえる海洋貿易の拠点である那覇港を望む丘の上にあり
地勢学や風水学も考慮した設計で沖縄の政治・経済・祭礼の中心であったが、
その創建時期は不明であり築城者が誰かもわかっていない神秘の城である。
おそらく察度(さっと)王統の頃(1350年〜1405年)に築かれたと言われるが
この王統の府は浦添(うらそえ)にあり、首里(しゅり)城は支城の一つに過ぎなかった。
1406年に察度王統を滅ぼした尚巴志(しょうはし)は父の尚思紹(しょうししょう)を
中山(ちゅうざん)王に据え、群雄割拠する琉球の統一事業に乗り出したのでござった。
当時の沖縄本島は、北山(ほくざん)・中山・南山(なんざん)の3勢力に分かれ
その中でも各地の按司(あじ、本土でいう地頭職)による独自の統治が行われていた。
察度王統は中山の王で、冊封(さっぽう、中国皇帝による琉球王の認証)を受けていたが
沖縄全土を統一する程の集権力は持っていなかったのである。
この状態を打破し、沖縄統一へと向かわしめた尚思紹・巴志父子に始まる新たな王統を
第一尚氏王統と呼び、この頃に浦添から首里へ本拠が移されたとされる。
1416年に巴志は北山を征服、1427年に首里城外苑を整備した。
人工池の龍潭(りゅうたん)造成などに代表されるこの整備工事は
冊封使の進言により行われたもので、尚氏が大陸と交流していた事が読み取れる。
龍潭は首里城外郭の美観を眺める庭園として造られたものだが、
防火用水としての役割も担っている。以後、数次に渡り首里城の拡張が行われた。
巴志は1429年に南山も下し三山を平定。沖縄の統一王朝「琉球王国」の成立でござる。
こうした経緯で首里城は琉球の王府として位置付けられる。
尚巴志の死後は尚忠(しょうちゅう)、尚思達(しょうしたつ)、尚金福(しょうきんぷく)と
王位は継承されたが、金福死後の1453年に王位を争い内乱が発生した。
金福の子・志魯(しろ)と金福の弟・布里(ふり)が交戦し、互いに戦死。
この大乱で首里城は焼け落ちてしまった。結局、金福の末弟である
尚泰久(しょうたいきゅう、巴志の末子)が王位を継ぎ、首里城を再建。
泰久は内間金丸(うちまかにまる)など有能な人材を登用し第一尚氏王統の最盛期を築いた。
琉球は南海の孤島で資源に乏しい国であったが、南洋の中継点となる立地を利用し
日本・中国・東南アジア諸国を結ぶ遠洋貿易拠点として繁栄したのでござる。
このような貿易政策に辣腕を発揮したのが金丸で、泰久の治世を良く支えた。
同時に金丸は優れた民政官でもあり、公平公正で才知に富んでいたため人望も厚かった。
ところが、泰久の死によって王位を継いだ尚徳(しょうとく)はこうした状況を嫌い
金丸ら優秀な臣下を遠ざけて自らの望む政策を推し進めたのでござる。
尚徳の専横は次第に臣民の不満を募らせ、第一尚氏王統の崩壊へと進んでいく。
1469年に尚徳が没すると群臣は一斉に蜂起、尚徳の王妃と子を暗殺し首里城を占拠した。
このクーデターで第一尚氏王統は滅亡、新たな王として人民に支持されたのは
他ならぬ金丸である。即位にあたって尚円(しょうえん)と改名した金丸から始まる新王統は
第二尚氏王統と呼ばれた。この第二尚氏王統時代も首里城が王府とされ、
年を経る毎に拡張が行われたのでござる。1509年に正殿石高欄が設置され、
1523年には端泉(ずいせん)門の前にある井戸・龍樋(りゅうひ)に
龍頭の蛇口が付けられた。この龍頭は現存しており、今も清水が流れ出ている。
1529年、待賢(たいけん)門を建築。後に守礼門と呼ばれ、2000円札の模様となる建物である。
1546年に継世(けいせい)門が築かれ、1579年待賢門に「守禮之邦」の額が掲げられた。
「琉球は礼節を重んじる国である」という意味の額が設置された事で、守礼門の名が定着する。
この頃日本本土は戦国時代が終わりを告げ、豊臣秀吉の天下統一が成った時期である。
薩摩国(現在の鹿児島県西部)大名であった島津義久は、秀吉による朝鮮出兵の賦役として
1591年に兵と兵糧の提供を琉球に要求してきた。当然、琉球側はこれを拒否したが
この事件が琉球王国の一大転機となってしまうのでござった。
徳川幕府成立後も薩摩領有を認められた島津氏は、琉球交易と製糖の利権を独占するために
1609年、3000の兵で琉球へと侵攻した。1591年の拒絶に対する報復が軍事侵攻の口実となり
この時の王・尚寧(しょうねい)らを薩摩へ拉致した。当時琉球は尚氏による安定した統治が続き
動員兵力を持たない平和主義を国策としたが故の悲劇である。
これ以後琉球は薩摩の属国となり、島津氏による圧政が続く事となってしまった。
このため、1620年代に首里城南風之御殿(ふぇーぬうどぅん)が建立される。
現在は南殿(なんでん、琉球読みで「はえのうどぅん」)と呼ばれている建物で、
薩摩の役人を接待するための日本風建築御殿である。
首里城の変遷は更に続く。1660年、火災により城は全焼。後に再建される。
1671年に正殿の屋根が板葺きから赤瓦葺きに改められ、1682年には正殿屋根上に
龍頭棟飾が設置された。これは中国からの技術が深く関わっており、
日本に支配されながら中国へ朝貢するという琉球王国の苦しい立場がうかがえる。
1709年、再び首里城は焼失。1715年頃には再建工事が完了したが
1729年に正殿を改修、1768年と1846年にも修築が行われてござる。
1853年、米国東インド艦隊のペリー提督率いる対日開国交渉団が琉球へ来航。
首里城を訪問し、翌1854年に琉米修好条約を締結した。
当時の米国は琉球王国を独立国として承認していたようである。
1866年には中国からの冊封使が琉球へ下向、琉球王国は日本・中国・欧米列強と
諸外国を相手にした目まぐるしい外交を強いられたのでござった。
日中両属や欧米の接近を排除し琉球支配権を確実なものとしたい日本の明治新政府は、
本土の廃藩置県に合わせて1872年(明治5年)に琉球藩を設置、
国王の尚泰(しょうたい)を藩王とした。これにより沖縄は日本の領土である事が宣言され
1879年(明治12年)には琉球処分を強行した。琉球処分とは、軍隊や警官隊を動員して
尚泰を首里城から追放、琉球藩に代わり明治政府による沖縄県設置となった事件である。
これで琉球王国は滅亡し、尚泰は東京へ移住させられた。
王の居なくなった首里城は、新たな主として陸軍熊本鎮台沖縄分遣隊が進駐。
以後は陸軍省の所管となったが、1891年(明治29年)に隊が撤収するまで
まともな補修・保全は行われず荒れていく一方でござった。
陸軍撤収後の首里城を取材した外国人によれば「城内の荒廃ぶりは極に達し」とされ、
屋根は穴があき床は腐り装飾品が盗まれる惨憺たる有様であったようである。
1904年(明治37年)沖縄師範学校が全焼したため、首里城を仮校舎とした。
これをきっかけに首里城の復興が計画され、1925年(大正14年)首里城正殿を旧国宝に指定し
1933年(昭和8年)に正殿の解体修理が竣工した。同年には歓会門・端泉門・白銀門・守礼門も
旧国宝に指定されている。ところが、こうして保全されつつあった城も
1945年(昭和20年)太平洋戦争の沖縄戦で全てが灰燼に帰してしまった。
城内の建造物は5月12日の米軍による攻撃で焼失したと言われるが、
あまりに壮絶な戦闘のため正確な記録が残っていない。
沖縄戦終結後、米軍の管理下に置かれた首里城跡には1950年琉球大学が建設された。
王国の府であった場所は学術の府となったわけだが、かつての王府を再建する希望もあり
米国統治時代の1958年に守礼門が復元された。沖縄の本土復帰に伴い
1972年(昭和47年)5月15日に国指定史跡となり、1974年(昭和49年)歓会門
1984年(昭和59年)久慶門が復元。さらに1986年(昭和61年)には首里城跡を
「国営沖縄記念公園首里城地区」として整備する事を内閣が閣議決定し
1989年(平成元年)からは正殿・北殿(ほくでん、琉球読みで「にしのうどぅん」)・南殿
番所(ばんどころ)等の復元工事が開始された。1992年(平成4年)11月3日、首里城公園が開園。
1999年(平成11年)1月28日には史跡の追指定を受け、
2000年(平成12年)12月に国連世界文化遺産登録、世界人類の宝となり申した。
現在も復元工事は継続中でござる。完全復元には100年の時間がかかるといわれる。
首里城は小高い丘に築かれた城で、正殿・北殿・南殿・奉神門で囲まれた内郭部と
それを取り巻く外郭部で構成されている。内郭・外郭共に壮大な石垣で囲われていて
本土の城郭とは異なる景観を醸し出している。琉球の城郭は石積技術に優れ、
本土に先だって古くから打込ハギ・切込ハギの工法が使われていたが、
その中でも琉球王国の中心となる首里城は最高技術を結集して造られていて
復元箇所もあるものの寸分の隙もない緻密な石垣が城壁となって城を一周している。
石垣は角のない曲線を描いて繋がり、日本風ではない中国風の城壁となっている。
復元された建造物は正殿・北殿・南殿・番所・奉神門・広福門・漏刻門・端泉門
右掖門・久慶門・歓会門・守礼門など多数。中でも正殿は琉球王国時代最大の建造物で
赤い御殿の姿は誰もが沖縄の代名詞として思い浮かべる有名な建物であろう(写真)。
一見、中国風の建築と思えるが、細部の意匠や中央にある唐破風などは
日本の影響を受けている。また、城の西側に広がる西のアザナ(西郭の事)からは
那覇市の全景と東シナ海の水平線を望む事ができ、隠れた穴場でござる。
周辺には円覚寺跡や弁財天堂、園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)、
玉陵(たまうどぅん)、首里金城町の石畳道など、見所も多数!
那覇を訪れた際は欠かさずに訪れて欲しい景勝地と言える。
なお、首里城は沖縄戦で壊滅したが、忠実な復元工事が為されているので
遺構保存度は★★★★☆(9点)の高得点を付けさせて頂いた。
城の東半分はまだこれから整備される予定なので、今後に期待したい。
現存する遺構
井戸跡・石垣・郭群
城域内は国指定史跡
国連世界文化遺産登録
飫肥城
中城城