肥後国 熊本城

所在地:熊本県熊本市本丸町 ほか
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★★★★■
公園整備度:★★★★★
肥後北部は菊池氏が守護を務める国で、この菊池氏は南北朝時代に
南朝側に与して活躍した古豪であった。旧来「隈本」と書いたこの地に
城を築いたのは菊池氏配下の国人出田秀信(いでたひでのぶ)でござる。
戦国時代になると菊池氏は次第に没落。隈本周辺は近隣の大名
龍造寺氏・大友氏・相良氏・島津氏らの戦場となっていたが
豊臣秀吉の九州平定後、佐々成政(さっさなりまさ)が入った。
しかし成政は国人一揆に遭い改易となったので、代わって加藤清正が入城。
築城の名人清正は「熊本」と名を改めて城の大改修に着手。
日本三名城のひとつに数えられる堅固な近世城郭に生まれ変わった。
1607年(慶長12年)に完成、標高50mの茶臼山台地を利用した平山城。
縄張りは東の山頂から西側へなだらかな傾斜を描いており、
この傾斜に曲輪を構成、さらに北・東・南は三方を川で囲まれた要害。
「清正流」といわれる石垣も特徴のひとつで、天にそびえる程の高い石垣は
土木構造上の強度だけでなく、「忍び返し」と呼ばれる防衛上の性能も完備。
石垣上部はほぼ垂直に切り立っていて、これを登りきるのはほぼ不可能である。
当代一流の石垣築造技術を誇る清正ならではのものでござろう。
熊本城は櫓の多さも第一級。大小の天守閣に加えて有名な宇土櫓や
裏五階櫓・数奇屋丸五階櫓・飯田丸五階櫓・竹之丸五階櫓といった
計5基の五階櫓を備えており、いわば「7つの天守を持つ城」なのである。
加藤清正・忠広親子の改易後、1632年(寛永9年)から細川氏が入城し明治維新まで統治。
維新後は陸軍熊本鎮台となり、第6軍管区(九州地方)の中枢となり存城。
熊本城が戦場となるのは図らずもこの時である。
1877年(明治10年)、西郷隆盛率いる不平士族の叛乱軍が蜂起。
世に言う「西南戦争」でござる。鹿児島を進発し北上する薩摩軍に対し、
熊本鎮台長官谷干城(たにかんじょう(「たてき」とも))少将は籠城で対抗。
砲撃目標となる天守閣や寄せ手の遮蔽物となる町屋を自焼して徹底抗戦の意気を示した。
結果50日余にも及ぶ攻防戦に耐え、叛乱軍を撃退したのでござる。
加藤清正は薩摩軍との戦闘を念頭に置き熊本城を築いたと言われるが
270年後、それは見事に成果を現したのでござる。
現在の天守閣は1960年(昭和35年)に再建されたもの。
重要文化財に指定されている現存建築物も多数あり、大都市熊本の象徴となっている。
別名は銀杏(ぎんなん)城。
現存する遺構
宇土櫓及び続二重櫓・四間櫓・五間櫓・七間櫓・十四間櫓
北十八間櫓・東十八間櫓・田子櫓・監物櫓(新堀櫓)・平櫓
源之進櫓・宇土櫓続多聞櫓・不開門・長塀《以上国指定重文》
堀・石垣・郭群等
城域内は国指定特別史跡
中村城
飫肥城