土佐国 中村城

中村城跡石垣と模擬天守

所在地:高知県四万十市中村・丸の内
(旧 高知県中村市中村・丸の内)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★■■■■



高知県幡多総合庁舎の裏手にそびえる為松山が中村城跡の為松公園でござる。
「日本最後の清流」と評される四万十川が麓に流れる為松山は
“土佐の小京都”中村の町を見守ってきた古城の雰囲気が漂う静かな公園。
が、一口に「中村城跡」と言ってもその経歴や構成はなかなか複雑なもの。
実は、年代によりこの山の各所にいくつかの城が築かれており
こうした諸城が総括されて中村城となっているのでござる。
つまり、為松城・東ノ城・今城といった城群が為松山の各所に散在しており
戦国時代に京都から中村へ下向し領主となった一条氏の統治によって
中村城としての体裁が整ったものなのだ。
この中で最も古いと思われるのが為松城。城主とされる為松氏は
中村の地に根付く有力国人であり、為松城の本丸は約800uの広さがあった。
為松城は8つの曲輪(この地方では曲輪を「段(あるいは壇)」と呼ぶ)に分かれ
現在もその段や土塁などの遺構がわずかながら残されている。
為松氏の支配が続いていた中村の地に転機が訪れたのは応仁の乱後。
戦乱で荒廃した京都を逃れて、また、所領であった幡多郡を統治する為に
前関白・一条教房(いちじょうのりふさ)が一族共々下向してきたのだ。
1468年(応仁2年)の事といわれる。以来5代に渡って中村に居住し土佐国司を務め
土佐一条氏の家を興した。一条氏の邸宅は旧中村市内の小森山(現在の四万十市本町)
愛宕神社のあった場所に構えられ、中村御所と尊称され申した。
京都から高貴な公家が下向してきた事により、中村の町は京都を模して整備され
土佐国幡多地方(高知県南西部)の商業都市として大きな発展を遂げていく。
この過程で為松山に中村城が構築されていくのである。為松氏は一条氏に服属、
為松山は一条氏が戦争時に籠城するための城となり今城や東ノ城が成立。
特に、東ノ城は一条氏一門の西小路氏が拠点とし2区画、約200uの敷地が用意された。
これらの諸城郭を連立式に統合し、複合城郭たる中村城が整備・発展したと思われる。
一条氏は房家(ふさいえ)の代に最も勢力を拡大し、繁栄する。この時代、
土佐国人衆は互いに覇を競い戦乱が続いており、その中でも有力者であった
長宗我部兼序(ちょうそかべかねつぐ)は他の国人勢力から集中攻撃を受け
戦死する事件が発生。房家は兼序の子・千王丸を引き取り養育し
御家再興の援助まで行っている。房家統治時の一条氏が
如何に豊かであったかが伺えよう。成長した千王丸は長宗我部国親(くにちか)となり
長宗我部氏の本拠であった岡豊(おこう)城(高知県南国市)を回復。
この後、破竹の勢いで土佐制圧の軍を進め、国親の死後は
嫡子・元親(もとちか)がその遺志を継いで勢力を拡大していく。
一方、房家が没した後は一条氏の勢力が衰退していく。高貴な公家の家柄と言えど
戦国の世に在っては実力無くして生き延びる事はできず、
土佐国司という職も有名無実なものとなっていたのだ。
次第に周辺豪族は一条氏を軽視するようになり、房家の孫である
房基(ふさもと)は、家臣のこうした風潮によって精神を病み、自害。
房基の子で土佐一条氏5代目にあたる兼定(かねさだ)に至っては、
実力も無いのに公家の血筋である事を驕り、放蕩な生活を送るようになっており
これを諌めた重臣・土居宗珊(どいそうさん)を手打ちにしてしまう始末。
忠臣の諫言に逆上する主君とあっては、もはや手のうちようのない無能ぶりであり
他の家臣達は次々と一条氏を見限って離反していった。
1573年(天正元年)、兼定は家臣団の弾劾を受けて隠居させられ、
兼定の子・内政(ただまさ)が家督を継ぐ事となる。
しかし、内政の家督相続は名目的なものに過ぎず、内政の後見人となった
長宗我部元親が実権を握り、幡多郡を掌握するようになったのでござる。
ここに一条氏は事実上の滅亡を迎え、中村城も長宗我部氏の統括下に置かれた。
ところが、話はこれで終わらない。中村を追われた兼定は妻の実家である
豊後国(大分県)大友氏を頼って落ち延び、1575年(天正3年)に兵力を整え
中村城の奪還を試みたのである。これを受けた長宗我部軍は中村城下の
四万十川東岸に集結、一条軍はその対岸に陣を構え河原に乱杭を設置し
長宗我部軍を罠に掛けようと工作した。しかし、百戦錬磨の元親は
難なくこの罠を見抜き、逆に一条軍の意表を突いて
四万十川上流から渡河し攻撃を開始する。結局この戦いは一条軍の大敗に終わり
200名以上の兵を失う結果となったのでござる。中村城奪還に失敗した兼定は
伊予国(愛媛県)南部へ逃亡する嵌めになり、同地で隠棲するしかなくなった。
バカ殿はどこまで行ってもバカでしかない、という例であろう。
数年後、元親の放った刺客に襲われた兼定は重傷を負い
その傷が癒えぬまま1585年(天正13年)に没したのであった。
さて長宗我部氏のその後であるが、幡多郡を手にした事で元親の土佐統一が成り、
さらに四国全土の平定を望んだが、豊臣秀吉の四国征伐によって夢破れ、
所領は土佐一国に抑えられてしまう。しかも、元親の死後に家督を相続した
元親の4男・盛親(もりちか)は関ヶ原の合戦で西軍に加担、
敗戦の責任を負わされ完全に領土を失ってしまうのでござる。
長宗我部氏に代わって土佐国に封を得たのが山内一豊(やまうちかずとよ)。
一豊本人は高知城へ入り、中村城にはその弟・康豊(やすとよ)が入城し
中村の町を治める事になった。中村の地を与えられた康豊の石高は2万石。
康豊の死後はその2男・政豊(まさとよ)が所領を継ぐ。
政豊による統治時代の1613年(慶長18年)、中村城の改修工事が行われ
現在に残る石垣(写真左)などが築かれた。それまでの中村城は中世山城であったが
この工事によって近世城郭としての体裁が整うようになったのでござる。
ところが、1615年(元和元年)に徳川幕府から一国一城令が発布され
各藩の領内において大名の居城以外に城を設置する事が禁じられた。
これを受けて中村城は廃城、破却されてしまったのである。
以後、中村には山内藩幡多郡奉行所が置かれ、ここが政治の中心となった。
廃城となった中村城跡は山林に埋もれ姿を消したが、1965年(昭和40年)に
上記の石垣遺構が発見され、再び衆目を浴びるようになったのでござる。
斯くして翌1966年(昭和41年)3月8日に当時の中村市から史跡指定を受け、
1983年(昭和58年)には発掘調査も行われた。その結果、
建築物敷地の痕跡や新たな石垣が確認されている。
現在、為松城の跡地に天守を模した幡多郡郷土資料館(写真右)が建てられ
城跡としての存在感を醸し出している。とは言え、もともと中村城に天守は無いので
城郭愛好家の目からすると「如何にもニセモノという天守を造りました」的な模擬天守は
不満を通り越して滑稽という感じであるのだが… (^^;
(↑中村の方、悪気はありませんので悪しからず)
模擬天守があろうとなかろうと、一条氏によって造営された“小京都”の町並みや
悠久の昔から美しい川面を輝かせる四万十川の流れは
それだけで十分中村の町を魅力的な観光地にしているのでござる。




現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




浦戸城・浦戸砲台場  熊本城