土佐国 浦戸城

浦戸城跡石垣

所在地:高知県高知市浦戸

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



南国土佐の名士といえば坂本龍馬、坂本龍馬といえば桂浜を連想する人が多いが
その桂浜の裏にある高台が城跡である事を知る人は少ない。この城跡こそ、
ほんの数年の間ながら土佐国の中心として機能した浦戸(うらど)城跡である。
その歴史を遡れば、鎌倉時代末に当地の豪族が居館を築いていたと言われ、
南北朝時代にはこの城を巡る攻防戦が繰り広げられたようだが、
本格的な城郭として成立していくのはやはり戦国時代になってからでござろう。
応仁の乱後、土佐国(現在の高知県)は権力の空白地帯であった。土佐国守護は
管領(かんれい、足利将軍家を補佐し政務を統括する最高官僚)細川氏であったが
この細川氏は中央政権における権力闘争に明け暮れ、
実際に土佐国における治世を展開する事はなかった。
さらに、細川氏は京都の政争の過程で次第に力を失い、執事の三好氏が台頭。
阿波国(徳島県)を本拠とする三好氏も、京都進出を念頭としていたため、
土佐国は完全に守護支配体制から脱落していく。
こうした情勢の中では、国人(こくじん、在郷の有力武士)勢力が力をつけていき
その中でも特に有力な7家が「土佐の七大名」と呼ばれ、覇権を争うようになった。
長宗我部(ちょうそかべ)、香宗我部(こうそかべ)、本山、吉良、
大平、津野、安芸の7勢力でござる。この中で長宗我部氏は守護細川家に接近し
その庇護を受けて勢力を拡大していたが、1507年(永正4年)6月に
当時の管領・細川政元が暗殺された事により事態が急変。後ろ盾となっていた
細川氏の変事で長宗我部氏は劣勢に陥り、他勢力の標的となったのだ。
その結果、本山氏を旗頭に吉良氏・大平氏・山田氏らが連合軍を結成し
1509年(永正6年)に長宗我部兼序(かねつぐ)を敗死させたのでござった。
これによって長宗我部氏は断絶。兼序の子・千王丸はかろうじて脱出し
中村城に居を構えた土佐国司・一条房家(いちじょうふさいえ)に保護された。
こののち、本山氏は勢力を伸ばして領土を拡大。山深い本拠地の
本山城(高知県長岡郡本山町)から、土佐湾の海岸線にまで進出していった。
この時、土佐湾に突き出た桂浜の裏山に砦を築いた。これが浦戸城でござる。
浦戸城は海岸線の砂浜に忽然と隆起している岩山で、土佐湾から浦戸湾
さらに鏡川へと続く水上交通を監視するのにうってつけの要所と言えた。
一方、房家に養育された千王丸は成長し長宗我部国親(くにちか)と名乗り
一条氏の後援によって本拠地・岡豊(おこう)城(高知県南国市)を回復。
長宗我部の家を再興し、仇敵・本山氏との対決に向けて着々と力を蓄えていた。
国親に率いられた長宗我部軍の伸張は着実かつ迅速なもので、
長岡郡南部の諸豪族は次々と服属、香宗我部氏までもが傘下に入る。
岡豊城から西方へと領土を広げ、遂に桂浜から浦戸湾を挟んだ対岸
種崎にまで達しここへ城を築いた。本山氏による浦戸城の築城は、
長宗我部氏が種崎に城を築いた事を受け、その対抗手段として行われたもの。
浦戸築城は天文年間(1532年〜1555年)の事と言われ、
一説には1540年(天文9年)とも。浦戸湾を挟み、東に長宗我部氏の種崎城
西に本山氏の浦戸城が睨み合う緊張状態が続いたのでござった。
1560年(永禄3年)5月26日、長宗我部軍と本山軍は遂に戦闘を開始。
浦戸城からやや内陸に入った長浜表で両者がぶつかり、翌27日には本山氏当主
茂辰(しげたつ)も出陣した。しかし、国親の的確な采配によって本山軍は敗北し
浦戸城は長宗我部軍に奪われたのでござる。以後、浦戸城は長宗我部氏が領有。
長浜表の合戦から半月後の6月15日、国親は急病を発し死去するが
嫡子・元親(もとちか)はその跡を継いで勢力拡大に邁進、
1568年(永禄11年)に本山氏を滅ぼした。兼序敗死以来、実に60年ぶりの仇討であった。
その後も元親は快進撃を続け、土佐全土を平定。
さらに隣国の阿波国、讃岐国(香川県)、伊予国(愛媛県)も領有し
四国を掌握したが、ここで豊臣秀吉が四国征伐を決行。
四国平定を為した元親と言えど、中央政権たる秀吉の軍勢には敵わずに降伏し
その領土は土佐一国に減らされてしまった。1585年(天正13年)の事でござる。
結局、元親は従来の本拠であった岡豊城に拠る事となったが、
土佐支配の中心とするには険しい地形で、城下町の拡張などに乏しい条件であった。
1588年(天正16年)、元親は大高坂山(現在の高知城)への移転を計画するものの
水害によって城下町建築がはかどらなかったため、これを断念。
代替地として浦戸城を選び、ここを土佐国の中心と定めたのでござる。
1591年(天正19年)に元親が浦戸に入城し、大掛かりな改修工事を行い
長宗我部氏の家臣も浦戸城下に参集した。長宗我部氏の家臣団は
「一領具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれる半農半士階級の武士を統率しており
地域への土着性が強い民兵によって構成されていた。
この軍制は後に大きな悲劇を呼ぶ。
さて、元親によって改修された浦戸城は、中世城郭と近世城郭の中間的存在であった。
浦戸湾に西から東へ向かって突き出した桂浜の半島にある城山は標高約50m。
北・東・南の三方は海に囲まれ、西側のみが陸続きとなっている立地は
水城としての防御性能が高い反面、城下町を発展させるにはやや不向きと言える。
近世城郭は領国経営を第一とするので、浦戸城は戦闘性能に偏っているのだ。
しかし、近世城郭としての象徴たる天守を備える城でもあった。
太平洋を望む台地東南隅に天守を構え、そこを本丸として西に下っていく
梯郭式の平山城。天守の下に広がる砂浜が、月の名所・桂浜なのである。
浦戸城に移転して8年後の1599年(慶長4年)に元親は没し、長宗我部の家督は
元親の4男・盛親(もりちか)が継承した。ところが翌1600年(慶長5年)
関ヶ原合戦で盛親は西軍に加担し敗者となった。土佐に帰国した盛親、
恭順の構えを見せれば良い所であるが何と御家騒動を引き起こしてしまう。
これにより徳川家康は多いに激怒、長宗我部家を取り潰し土佐国を没収してしまった。
行く当てを失った盛親は京都に隠棲、のちに大坂夏の陣で敗死するのでござる。
長宗我部氏に代わり土佐領有を認められたのが山内一豊(やまうちかずとよ)。
遠州掛川からの移封である。1601年(慶長6年)に土佐へ入国した一豊であったが
この時、長宗我部氏の遺臣らが激しい抵抗を見せた。
彼等は長宗我部家による支配体制の継続を求め
盛親に土佐半国、せめて2郡を残して欲しいと決起したのでござる。
一領具足の農兵は、土着する土地が無くては生活が成り立たず、
徳川幕府によって新領主とされた山内家の支配を拒絶、大規模な一揆を起こし
浦戸城を占拠して立て籠もったのだ。この騒動を浦戸一揆と言う。
50余日の攻防戦の末、一豊は一揆勢を排除して浦戸城を奪還、入城。
不満分子である長宗我部遺臣や一領具足の農兵に対して厳しい弾圧を行った。
彼等は武士身分を剥奪され、帯刀こそ許されたものの
山内家直臣との大きな身分格差を付けられる。
山内家臣は上士(じょうし)、長宗我部遺臣は郷士(ごうし)と呼ばれ
政治に参画するのはもちろん上士のみ、郷士は被差別階級のような扱いをされた。
他藩にもこうした身分格差はあったが、土佐藩のそれは非常に厳しいもので
浦戸一揆の禍根がいかに大きなものであったかが伺え申そう。郷士は山内家2代藩主
忠義(ただよし)の時代に家老となった野中兼山(のなかけんざん)の計らいにより
武士身分を回復したものの、その扱いは何ら変わる事なく幕末まで虐げられた。
明治維新の立役者である坂本龍馬や中岡慎太郎、吉村寅太郎らはいずれも郷士出身で、
身分制排除が倒幕運動の原動力となったようだ。
話が逸れたので、浦戸城について続け申そう。
浦戸一揆により土佐支配の難しさを悟った一豊は、長宗我部氏支配の象徴とも言える
浦戸城の廃棄を決意。かつて元親が築城に失敗した大高坂山へ新城を築き
山内家による新たな土佐支配体制を知らしめようと計画した。浦戸城の石材などを流用し
新城の普請工事を突貫で挙行、領民を総動員してこれに当たらせたのでござる。
そして大高坂山に築いた河中山(こうちやま)城へ1603年(慶長8年)に移転し
この時点で浦戸城を廃城とした。浦戸を中心とした土佐支配はここに幕を閉じたのである。
現在の浦戸城跡には国民宿舎桂浜荘が建ち、城郭の名残を留めるものは少ない。
ごくわずかに石垣や竪堀が残され、井戸跡と天守台が確認できるようになっているのみ。
しかし発掘調査で瓦や鯱鉾などが検出され、確かにここが慶長期の城郭であった事が
証明されている。また、1994年(平成6年)3月1日に高知市指定史跡となった。
城跡から少し離れた場所には、浦戸一揆で弾圧された長宗我部遺臣273人を供養する
一領具足六地蔵も建立されている。龍馬の銅像で有名な桂浜を訪れる観光客は数多いが、
悲劇の歴史で犠牲になった人々と、彼等が拠所にした城跡の存在にも
注目してもらいたいものでござる…。




現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








土佐国 浦戸砲台場

土佐藩浦戸砲台場跡

所在地:高知県高知市浦戸

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



浦戸城跡の脇、桂浜の海岸線を窺いつつ山の斜面に身を隠すような位置にあるのが
幕末、土佐藩が用いた浦戸砲台場の跡でござる。砲台場(台場)というのは、
江戸時代後期〜末期にかけて日本近海へ出没するようになった外国船を
排除するため、海岸線に大砲を設置した砲撃要塞の事である。
もともとこの場所には、万治年間(1658年〜1660年)に建てられた
灯明台、つまり灯台が置かれており、夜間に舟が出入りする際の目印に
なっていたのでござる。一方、これに先立つ1638年(寛永15年)土佐藩内4ヶ所に
外国船来航を監視する為の遠見番所が設置されており、1716年(正徳6年)の
記録によれば、そうした遠見番所のうち一つに浦戸の地が数えられていた。
つまり、浦戸は高知城下へ通じる水上交通の中継点であると同時に
太平洋を望む対外的な戦略拠点でもあったと言えるのでござる。
九州から四国にかけての海岸線には、異国船が時折接近していたため
幕府の鎖国令指示に従い、遠見番所による監視を行っていたのだろう。
もっとも、この頃の外国船監視はそれほど緊迫したものではなかった。
貿易船が航路を外れて迷い込み、日本に近づく程度のものであり
幕府の定めた鎖国の禁令に基づき、それを追い返せば良いだけの事だったからだ。
しかし19世紀に入るや日本近海の状況は劇的に変動する。北方からロシア船、
さらに太平洋を越えたアメリカからも船舶が出没するようになり、
しかもそれらは、従来の交易船だけではなく、大砲を装備した軍艦も
多く見受けられ、日本が対外窓口として定めた長崎の地のみならず
全国の海に接近してくるようになったのだ。「海国兵談」を著した
林子平ら、西欧列強の脅威に気付いた日本人も少なくなかったが
長年の鎖国により世界事情に疎くなっていた幕府は、あまり効果的な対応を
取る事ができずにいた。それでも、わずかながらでも沿岸防備を進めていき
土佐藩は1808年(文化5年)ここ浦戸などの要地に大砲を配備。
さらに開国後の1863年(文久3年)には本格的な台場として整備したのでござる。
写真中央部に見える石垣は、こうして築かれた砲台場の遺構だ。
結局、土佐藩が外国船と砲撃戦を行う事はなかったため、
今や風化した史跡となったものの、幕末の日本において、
西洋海軍への対応に苦慮した状況を物語る貴重な歴史遺産と言えよう。
風光明媚な桂浜というと、すっかり観光地としてのどかな情緒を醸し出しているが
その実、歴史的には一触即発の軍事拠点になっていた事が見え隠れするのでござる。




現存する遺構

石垣・土塁




高知城  中村城