土佐国 高知城

高知城現存天守

所在地:高知県高知市丸ノ内 ほか

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★★☆
公園整備度:★★★★☆



陽光ふり注ぐ南国・高知市の中心部に独立する丘陵
大高坂(おおたかさ、おおたかさかとも)山に築かれた近世平山城でござる。
もともとは南北朝時代に南朝方へ与した大高坂氏が砦を築いた山であったが
この城砦は1341年(興国2年・暦応4年)に北朝方の攻撃を受けて落城してしまう。
戦国時代になると、土佐国(現在の高知県)を統一した長宗我部(ちょうそかべ)氏が
土佐治世の中心とするべく大高坂山に注目、築城を計画したのでござる。
温暖で平坦な高知平野は領国経営の観点からすれば最適な用地であったが
その実、いくつもの河川が流入する地形は水害多発地帯であり、
結局は築城を断念、浦戸(うらど)城への移転を余儀なくされた経緯がござった。
1600年(慶長5年)、関ヶ原合戦の敗者となった長宗我部氏は土佐を追われ
翌1601年(慶長6年)に新領主として遠州掛川から入府した山内一豊は
浦戸城へ入ったものの、即座に浦戸城の廃城を決定し大高坂山の再築城を決意する。
浦戸城は近世城郭の必須条件である城下町を広げる余地に乏しい上、
何よりも前領主・長宗我部氏を支持する遺臣が数多く残っていたので
こうした風土を断ち切るために新たな城郭を築き、徳川幕府に認められた
新領主の権威を領民に知らしめる必要があったのでござった。
旧領主の本拠である浦戸城を棄て、彼らが築けなかった大高坂山に築城すれば
嫌が応にも山内氏の権力基盤は土佐全土に定着するという計算があったのだ。
とは言え、鏡川・江ノ口川など複数の河川が交錯する大高坂山周辺は
先に書いた通り河川氾濫に悩まされる泥湿地で、築城工事は一筋縄に行かない。
このため、一豊は尾張国(現在の愛知県西部)から百々安行(どどやすゆき)を
築城総奉行として招いた。安行はかつて織田氏に仕えた人物で、築城家として名高い。
安行の指導に基づき1601年9月から工事が開始され、武士・農民・町人を問わず
あらゆる者が総動員された。工事の監督として、一豊自身も1日おきに現場を視察したが
この時、同じ服装を身にした影武者を5人連れて(本人を入れて6人で)見廻ったという。
長宗我部遺臣の反抗は根強く、常に一豊暗殺の機会を狙っていたためらしい。
こうして、一豊の威信をかけた大工事で2年後の1603年(慶長8年)に本丸と二ノ丸が完成。
石垣の石材は浦戸城を破却して利用し、建物の瓦は大坂から海路直送して運び込み
早期完成に扱ぎつけたのである。これにより、一豊は浦戸城から新城へ移転。
長浜雪渓寺の僧・月峰の命名で、この城を河中山(こうちやま)城と名付けた。
なお、普請奉行・百々安行の功を称え、城下町の一角が越前町とされた。
安行の官職名が越前守である事に由来したものである。
さて、本丸と二ノ丸が完成した河中山城であるが、その後は洪水被害に悩まされ
工期は大幅に延びていた。結局、1605年(慶長10年)に一豊は没してしまい
築城事業は一豊の甥で2代藩主を襲職した忠義(ただよし)に引き継がれ申した。
それでも城はなかなか完成しない。「“河中山”という地名が悪い」との縁起を担ぎ
竹林寺の空鏡和尚が1610年(慶長15年)に「高智」と改称、
のちに「高知」と記されるようになる。
そうした曲折を経て、ようやく1611年(慶長16年)に三ノ丸が完成。
着工から実に10年もの歳月がかかって高知城の全容が整ったのである。
梯郭式となるのが常である平山城にあって、高知城は連郭式である点が特徴。
すなわち、本丸と二ノ丸はそれぞれ独立した曲輪として並立し、
戦時となれば両方の曲輪が単独に機能する事が可能なのだ。万が一、片方の曲輪が
攻め落とされても、もう片方の曲輪において戦闘を継続できる。
こうした築城方法は、戦国の気風冷め遣らぬ慶長期ならではの戦術に基づくもので
難工事にも関わらず一豊が大高坂山の立地にこだわった理由の一つでもある。
並立する本丸と二ノ丸は、東側を三ノ丸に、西側を梅ノ段曲輪によって囲われ
さらにその周囲は西ノ丸や杉ノ段曲輪が広がり、主城域は東西2.8km・南北1.3kmにも及ぶ。
土佐藩山内家24万石の本拠として恥じない堂々たる大城郭でござる。
しかも本丸には懐徳館と呼ばれる正殿、二ノ丸には藩主の居館となる屋敷、
三ノ丸にも儀式祭典用の大書院があり、高知城は3つもの御殿があった事になる。
加えて、大高坂山の頂点にあたる本丸には天守がそびえ、城下のいたる所から望めた。
これもまた、山内家の威風を知らしめる効果を狙ったものである。
3つの御殿と大規模な天守、実戦本位の縄張りとなれば、
領国経営の拠点としてこれに勝るものは無いであろう。
高知城で特筆すべき建築物は、本丸と二ノ丸を結ぶ詰門である。
本丸と二ノ丸を分断する空堀を仕切る門である詰門は、2階部分が渡廊下になっており
この廊下が本丸と二ノ丸を結ぶ橋になっている。つまり、1階が門、2階が橋という
特異な建築物なのである。さらに、2階の廊下には侍の間・中老の間・家老の間といった
部屋が隣接して設けられており、本丸進入に際して厳しい警護が為されていた事を物語る。
廊下橋の出口部分、即ち本丸の入口は廊下門で閉じられており
さらに鉄壁の防御体制で固められていた事が容易に想像できる。
高知城はどこまでも実戦重視の堅城だったのでござる。
さて、時代が移ると藩主は忠義から3代忠豊(ただとよ)、4代豊昌(とよまさ)へと継がれた。
豊昌には子が無かった為、忠義の甥・一俊の子である豊房(とよふさ)が5代目となり
豊房の弟・豊隆(とよたか)が6代目、その子・豊常(とよつね)が7代目となる。
豊常にも子が無かったので、8代藩主は一門の豊敷(とよのぶ)が襲職した。
この豊敷の治世であった1727年(享保12年)、城下町からの火災が高知の町全域に広がり
高知城も追手門(大手門)を残して全焼してしまった。一豊以来の壮大な建築物は
天守も御殿もことごとく滅失してしまったのである。
幕府から再建の許可を得て、1729年(享保14年)から深尾帯刀(ふかおたてわき)を
普請奉行に任じ復興工事に着手するも、新築時と同じく難工事となり
本丸が落成したのは1749年(寛延2年)、三ノ丸など全城域が復元したのは1753年(宝暦3年)。
何と25年もの歳月をかけての復元工事となったのでござる。
現在に残る天守はこの復元工事によって建てられたもので、
1747年(延享4年)8月に着工、同年12月26日の棟上。
江戸時代中期の再建天守であるが、築城当初の姿を忠実に再現したものとして評価が高い。
一説には、幕府の警戒を恐れ敢えて古式の天守で復興したとも言われる。
一豊築城時の姿を蘇らせた望楼型天守は白漆喰塗込の美しいもので、
3層6階(重要文化財指定は4層6階とされている)、接地面からの高さ18.5m。
最上階の外廻には高欄を巡らせており、その高欄には擬宝珠(ぎぼし)が取り付けられた。
擬宝珠とは、寺社建築や橋の欄干に見られる玉ねぎ型の宝珠装飾で、
神仏を尊ぶ意味合いから大変に高貴なものとされていた。このため、一豊が天守を建てる際
幕府から擬宝珠設置の許可を得てようやく実現したほどの経緯があり
延享の再建においてもこれを忠実に復元したのでござった。
(なお、1846年(弘化3年)に天守は修築工事を受けている)
高知城の再建後、1759年(宝暦9年)には藩校の教授館も設立され、
豊敷の治世は一定の成果を挙げ申した。豊敷の死後は豊擁(とよちか)、豊策(とよかず)、
豊興(とよおき)、豊資(とよすけ)、豊熙(とよてる)、豊惇(とよあつ)と藩主襲職。
そして幕末の混乱期、15代藩主となったのがかの有名な山内豊信(とよしげ)、
容堂(ようどう)の名で知られる人物である。安政の大獄で隠居謹慎を申し付けられたが
藩の実権を握り続けた容堂は、藩内の騒動に流されつつも
坂本龍馬の建白を受けて大政奉還を実現。戊辰戦争においても
土佐藩は新政府軍の主力を担い、会津若松攻撃の軍功を挙げた。
こういった成果により、廃藩置県後も高知城は破却の不運を免れた。
城自体は1871年(明治4年)に廃城の扱いとなって公園化され
三ノ丸や二ノ丸の建築物は惜しくも解体されたが、本丸は天守・御殿・櫓など
全ての建築物が完全な状態で残されている。加えて、追手門も現存。
特に本丸御殿が現存する例は珍しく、高知城以外には川越城(埼玉県)と
名古屋城(愛知県)、それに丹波篠山城(兵庫県)のみであったが
川越城は一部分だけが残っているに過ぎず、丹波篠山城は1944年(昭和19年)に
火災で滅失、名古屋城も1945年(昭和20年)に空襲で消失してしまったので、
現在にまで完存するのは高知城だけと言える。
天守など15棟の建築物は1934年(昭和9年)1月30日、旧国宝に指定され
太平洋戦争後の文化財保護法によって1950年(昭和25年)国の重要文化財に格付された。
城跡は1959年(昭和34年)6月28日に国指定史跡となっている。
1987年(昭和62年)〜1990年(平成2年)にかけて天守・追手門矢狭間塀の修理が行われ
現在に至っている。別名に鷹城という雅号のある勇姿は、見る者すべてを圧倒。
追手門前から望む天守など、有名な写真撮影の名所が多く
城郭愛好家ならずとも高知随一の観光地として知らぬ者はいないだろう。




現存する遺構

天守閣・天守東南矢狭間塀・天守西北矢狭間塀
本丸御殿(懐徳館)・納戸蔵・東多聞櫓・西多聞櫓
詰門・廊下門・黒鉄門・追手門(大手門)
黒鉄門西北矢狭間塀・黒鉄門東南矢狭間塀
追手門西南矢狭間塀・追手門東北矢狭間塀《以上国指定重文》
井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡




川之江城  浦戸城・浦戸砲台場