伊予国 川之江城

所在地:愛媛県四国中央市川之江町鷲尾山
(旧 愛媛県川之江市川之江町鷲尾山)
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★★☆■■
伊予国(現在の愛媛県)東端に位置する川之江は、古くから交通の要衝であった。
讃岐国(現在の香川県)・阿波国(現在の徳島県)との国境にあり、
土佐国(現在の高知県)とも山一つ離れただけの距離にあったため
この4国へ通じる街道が全て川之江周辺で集合していたのでござる。
現在も四国中央市川之江地域内には川之江JCT・川之江東JCTがあり
徳島・高松・松山・高知の4自動車道が接続している。
まさに四国交通の中心点と言う事ができ申そう。
また、川之江は海辺に接した天然の良港でもあったため
陸路だけでなく海路でも重要な地点とされてきた町でござった。
こうした経緯で古くは大和朝廷時代、律令体制による駅制の整備で
川之江には太政官道の大岡駅が設置され、経済・文化の一大拠点となった。
987年(永延元年)全国行脚の僧・恵心は川之江に立ち寄り、海辺に孤立する小山の
鷲尾山に寺坊を開いた。この寺は「鷲尾山恵心院仏法寺」と名付けられた。
仏法寺の建立された鷲尾山は、南に金生川が流れ、北・西は燧灘(ひうちなだ)に面した
天然の要害とも呼べる場所であった。山の東側の麓には讃岐へ続く街道が走り
これを監視すると共に川之江の町を治める絶好の山であった事に着目され
1337年(延元2年・建武4年)3月土肥義昌が寺院を取りこんだ城砦を築いたのでござる。
義昌は伊予領主であった河野通政(こうのみちまさ)の配下武将で、川之江への築城も
東伊予を押さえ讃岐・阿波・土佐から防衛する目的で通政が指示したものであったという。
寺の跡地に築かれた故に「仏殿(ぶつでん)城」と名付けられたこの城は
5年後の1342年(興国3年・康永元年)5月、通政の予測通り阿波・讃岐から進んできた
細川頼春(ほそかわよりはる)率いる7000の軍勢に攻撃された。
義昌は出城の畠山城主・由良吉里と共に防戦したが敗れ城を落ち延びた。
以後各地を転々とした義昌は、最終的に武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)
矢口の渡し(多摩川河口に近い多摩川大橋付近)で戦死したのでござった。
一方、頼春は仏殿城を落とし入城したものの長居はせずに退去、河野氏が城を奪還した。
細川氏と河野氏の抗争はまだ続く。1364年(正平19年・貞治3年)9月、頼春の子・頼之が
川之江へ押し寄せ領有。しかし2代将軍・足利義詮(よしあきら)の死去にあたり
頼之は3代将軍・義満(よしみつ)の補佐役を執り行うため上洛してしまった。
頼之不在となった仏殿城はやはり河野氏が奪い返したのでござる。
1379年(天授5年・康暦元年)11月、またも頼之は川之江へ来攻し仏殿城を奪った。
四国の要衝を押さえる戦いは止む事を知らなかったのでござった。
全国的な戦国乱世が終わりを迎えようとした1500年代後半になって
ようやく川之江の戦乱も収束へと向かうようになる。
細川氏から再び河野氏の領有となり仏殿城主を任じられた妻鳥友春(めとりともはる)は、
細川氏に代わって阿波国主となっていた三好長治の攻撃を1572年(元亀3年)9月に受けるが
かろうじて防衛に成功し三好軍を撃退した。しかし、この時すでに四国の覇権は
土佐から伸張した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が握っており
疲弊した友春は長宗我部氏への服属を申し出た。旧主である河野通宣(みちのぶ)は
友春の裏切りに激怒、1575年(天正3年)11月に配下の川上但馬守安勝を差し向けた。
この攻撃で友春は討死、そのまま安勝が仏殿城主となったのでござる。
こうした混乱を長宗我部氏が見逃すはずもなく、1584年(天正12年)遂に仏殿城は元親の手に落ち、
籠城の城兵はことごとく戦死した。長宗我部氏は阿波を奪い、河野氏を服属させ、
四国全域を手中に収めるかと思われたが、ちょうどこの頃に羽柴秀吉が四国征伐を決行。
仏殿城は秀吉軍の先鋒で名将として名高い小早川隆景の軍勢に包囲された。
隆景はあの毛利元就の3男で、父譲りの智謀を駆使すると共に水軍の指揮にも長けていた。
この知勇兼備の武将は、歴戦の名城である仏殿城を力攻めするのは愚と見抜く。
一方、元親は時勢を冷静に判断。天下の主となった秀吉には抗えず、降伏を申し出たため
長宗我部氏は土佐一国のみを安堵されたが、元親の降伏まで仏殿城は籠城を続けたのである。
開城後の仏殿城は小早川隆景、福島正則といった秀吉の腹心が交代で城主に任じられ
松山城主・加藤嘉明(かとうよしあき)が川之江を領有した時期に廃城となったのでござった。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦を経て天下の主は徳川氏へと移る。
1603年(慶長8年)に江戸幕府が開かれ、1615年(元和元年)大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると
天下泰平の世となり新たな城郭の建築は禁止され、大名の居城以外の城は破却せよという
「一国一城令」が発布された。このような時代の中、1636年(寛永13年)5月
一柳直家(ひとつやなぎなおいえ)が川之江2万8600石を拝領した。
川之江藩主となった直家は、仏殿城のあった鷲尾山に新城を構築すべく準備に取りかかった。
これが川之江城でござる。しかし1642年(寛永19年)直家が病没、領地は幕府に没収され
わずか6年で川之江藩は消滅してしまった。当然、川之江城の築城も沙汰止みとなり
そのまま廃城となったのでござった。その後、川之江は周辺大名の預かりとなったり
幕府直轄領となったりの経歴を繰り返し明治維新を迎えた。
1677年(延宝5年)に川之江代官所が設置されたものの、直家死後に城が築かれる事はなく
城跡もそのまま放置され自然の山となっていたが、1984年(昭和59年)に当時の川之江市が
市制30周年記念事業として再建工事に着手、1986年(昭和61年)に模擬天守が完成し
櫓門・本丸隅櫓・涼櫓も建てられた。本来の川之江城にあった遺構ではないものの
建築にあたっては日本城郭建築の専門家である東京工業大学名誉教授・藤岡通夫博士に
指導を仰いだ。城址公園は1988年(昭和63年)3月31日に工事完了し一般開放されている。
城山の麓に大駐車場があり、山上の涼櫓下に小駐車場があるため楽に登城できるが
小駐車場へ続く山中の車道は幅が狭いため運転に注意が必要でござる。
写真は1986年6月30日に完成した模擬天守閣。
天守台の下と本丸南側の腰曲輪に仏殿城時代の石垣がわずかに残っている。
現存する遺構
堀・石垣・土塁・郭群
今治城
高知城