伊予国 今治城

今治城再建天守

所在地:愛媛県今治市通町 ほか

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★★★■■



別名吹揚(ふきあげ)城、美須賀(みすか)城。
今治(当時は今張と表記)の町は目前に瀬戸内海最大の難所・来島海峡を望む
海上交通の最重要拠点であった。瀬戸内水軍の動きや
海峡を挟む対岸の安芸国(現在の広島県)の情勢を警戒し
それらに即応する事が求められていたのでござる。
しかし、戦国時代に今治の町を統治した国府(こくぶ、国分とも)城は海峡から遠く
瀬戸内海における軍事行動をとるにはやや不適切と言えた。
このため、関ヶ原合戦の功績で今治領を得た藤堂高虎(とうどうたかとら)は
国府城の廃城を決断し、海峡に近い海岸線に新城の建築を計画した。
高虎が今治領を得て20万石の大名になったのが1600年(慶長5年)、
新城の建築を開始したのが1602年(慶長7年)6月11日の事でござる。
こうして造られたのが今治城。20万石を有する大大名の居城として計画されたのだ。
国府城は山城で、近世城郭の必須条件といえる城下町の形成には不向きであった。
よって、今治城は城下町を広く作れる平野部に築かれる。
しかも、瀬戸内の水軍を統制する必要性から、城の濠は海に直結し
城内に軍船を繋留できるような縄張りに設計された。
今治城は単なる平城ではなく、海城として構想されたのである。
水軍の将としても一流であった高虎ならではの発想であろう。
そのため、城は海岸線の砂浜に、海と一体になるよう築かれたのでござる。
吹揚城、美須賀城という別名は砂浜に築かれた事に由来するのだ。
されど、軟弱な地盤の砂浜に城を築くのは簡単な事ではない。
そもそも、今治城の予定地であった蒼社(そうじゃ)川の河口デルタは
周囲を遮るものが無い平坦過ぎる場所であり、防衛施設たる城郭を構えるには
不向きな立地であったのだ。しかし、そこは築城の達人・高虎である。
この地形を逆に利用し、周囲の平面より極めて高い石垣を備えた城郭を築き上げ
あたかも城が海に浮かんでいるかのように見せつける戦略的効果を演出した。
脆弱な地盤の上に高石垣を安定させるため、二ノ丸以内の石垣周囲には
かなり大掛かりな犬走りを用意してこれを補った。
もろい砂地の城郭は、強固な海上要塞として完成したのである。
もちろん当初の予定通り、濠には舟溜まりが用意され、
水軍基地としての運用も可能となっており申す。
然るに、内濠・中濠・外濠から成る三重の濠は海と繋がっており、
その幅もかなり広い。特に、内濠の幅は60mにも及んでいる。
現在、今治城の外郭は埋めたてられ外海と断絶してしまったが、
今なお濠の水は海水が引き入れられており、潮の満ち引きで水位が変化する。
こうして築かれた今治城は1604年(慶長9年)9月に一応の完成を見ており、
この時期に高虎はそれまでの居城であった宇和島城から今治城に移っている。
しかし、全ての工事が完了した訳ではなく、その後も継続して残りの作業が行われた。
工事の全工程が終了したのは高虎が移封する直前の1608年(慶長13年)である。
さて、今治城は瀬戸内海(特に芸予諸島周辺)の制海権を確保するための
海城として築かれた城だが、外郭線には河川も利用している。
城の南に位置するのが蒼社川、北側には金星川が位置しており、
海・川の両方から水利を得て築かれた港湾城郭と言える。無論、こうした河川は
城下の町割にも役立っており、現在の今治市街地を構成する都市基盤は
高虎の築城プランと城下町整備によって成立したのでござる。
その今治の町の中心となる今治城は、威風を示すため5層5階の巨大天守が築かれ、
各曲輪の周囲は多数の2重櫓や多聞櫓で隙間なく取り囲み、堅城ぶりを見せつけた。
城門は9ヶ所、櫓は20基以上もあったと言われ、二ノ丸に藩主の御殿が、
中濠以内に上級武士団の屋敷、外濠以内に侍屋敷が整然と並んだ。
輪郭式城郭の中心にそびえた天守は、史上初めて築かれた層塔型天守。
高虎の築いた天守は千鳥破風や切妻破風の一切無い簡素なものであったが
5層目に高欄を巡らせ、最上階の屋根にだけ軒唐破風が飾られている。
こうした外見は、天守を高く際立たせて見せるようになっており
高虎の築城技術がいかに優れていたかを物語っている。
この新鋭天守は爆発的に流行し、これ以後の徳川幕府城郭などで多数採用された。
丁度この時期、豊臣氏の威勢を封じ込めようとする徳川幕府は全国の主要都市を押さえ
戦略的観点から城郭を築き続けていたのである。斯くして、築城の天才・高虎は
各地の築城に参加する事となり、1606年(慶長11年)には江戸城縄張りの功を認められ
2万石が加増された。徳川家康の信任を篤くした高虎は外様ながら
幕府の戦略ブレーンとして重用されるようになり、1608年には
豊臣氏が本拠とする大坂から程近い、伊勢国(現在の三重県)津に移封となった。
大和山地を挟み、高虎が津から大坂に睨みを効かせる配置となったのでござる。
高虎が居を移した事により、今治城主は高虎の養子・高吉(たかよし)が務める事になる。
また、高虎が今治城を去る際、天守を解体。移封先の津城に移築する予定とされ
その用材は大坂で保管されるようになった。この時、徳川幕府は豊臣氏を威圧するため
丹波亀山城(京都府亀岡市)の新築を決定したため、
高虎は今治城天守の旧用材を提供する事を申し出た。
高虎の忠節に歓喜した家康はこの申し出を受け入れ、今治城天守は
1610年(慶長15年)に丹波亀山城の天守として再建されたのでござった。
こうして移築された丹波亀山城の天守は明治維新まで存続し、
その姿を写した古写真が数枚残っている。
一方、天守の無くなった今治城には、その代用として天守台跡に
本丸北隅櫓が建てられた。今治城の他の櫓は破風の無い質素なものばかりだったが
この北隅櫓にだけは装飾の千鳥破風が取り付けられ、異彩を放った。
但し、この移築説には異論が多く、今治城天守は計画のみに終わり建てられず
当初から丹波亀山城天守として築かれたという説もある。
(今治城天守建築に関する史料は何も残っていないため)
ともあれ、高虎が丹波亀山城天守建築を幕府に申し出たのは事実である。
さて、高吉による今治統治は25年以上続いたが、1635年(寛永12年)に
伊賀国名張(三重県名張市)へ国替えとなった。新たな今治城主には
松山城主・松平定行(まつだいらさだゆき)の弟である松平定房(さだふさ)が
3万石の領主として就任。定房は伊勢国長島(三重県桑名市長島町)からの転封である。
定行・定房兄弟は徳川家康の甥にあたる血縁で、久松松平氏として
徳川親藩の重責を負っていた。四国西部の要地である松山・今治を固める事で、
瀬戸内海一帯や四国の外様大名を威圧し
幕府の権力基盤を磐石なものにする責務を担っていたのでござる。
以後、今治城は久松松平家が10代に渡り統治した。
この間、1665年(寛文5年)には1万石が加増され4万石になり、
1676年(延宝4年)には関東にあった領地5000石を分知し3万5000石となり
さらに1698年(元禄11年)、その5000石が伊予国宇摩郡と替地になる経緯があった。
幕末の混乱を経た後、1868年(慶応4年)2月4日に松平氏は旧来の久松氏に復姓。
この年の9月8日には明治と改元され、江戸幕府の統治は終わり申した。
幕藩体制を支えた今治城の役割は消え廃城となり、翌1869年(明治2年)10月から
建造物は次々と解体されていった。城内の樹木まで伐採され
高虎が精魂込めて築いた天下一の海上要塞は跡形も無く消え去ってしまった。
1872年(明治5年)、本丸跡は吹揚神社とされ社殿が造営されたが、城の外郭部は
市街化の波に飲み込まれ消滅。これ以降、内濠以内だけが吹揚公園として残された。
忘れられた今治城の旧跡に脚光が浴びせられたのは1980年(昭和55年)の事。
今治市制60周年記念事業として、武具櫓と幻の今治城天守が再建されたのである。
天守再建の資料には、今治城旧態と丹波亀山城天守の古写真が用いられた。
が、写真に残る天守の姿とは異なり、再建天守にはいくつもの破風が追加されてしまった。
従って、この天守は古建造物の忠実な再現とは言い難い。
(層塔型天守の祖であるはずが、望楼型天守にも見える形となってしまっている)
これは非常に残念な事である。
それはさておき、再建天守は歴史資料館として一般公開されている。
今治城址復元整備はその後も継続され、1985年(昭和60年)には御金櫓が、
1990年(平成2年)に山里櫓(写真手前)が再建された。こちらは古写真に同じ姿での再建。
平城の内郭を残した城址公園は駐車場も用意され、登城はかなり楽なものとなっている。
石垣や濠は旧態のままなので、高虎築城の時代に思いを馳せて散策する事をオススメする。




現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡




大洲城  川之江城