伊予国 大洲城

大洲城三ノ丸南隅櫓の夜景

所在地:愛媛県大洲市大洲

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★★☆■■



大洲(おおず)城の前身は、鎌倉時代末期の1331年(元弘元年)に
当時の伊予国(現在の愛媛県)守護、宇都宮豊房(うつのみやとよふさ)が築いた
地蔵嶽(じぞうたけ)城と言われる。また、源平合戦期に河野通信(こうのみちのぶ)が
居館を構えた比志(ひじ)城が始まりという説もあり、詳しい事はよく判らない。
いずれにせよ、戦国時代においては喜多郡(大洲周辺地域)を治めた
宇都宮氏の居城であったのだが、1568年(永禄11年)に攻め落とされ、
宇都宮氏の配下から下剋上した大野氏の城となったのでござる。
しかし、豊臣秀吉による四国平定が行われた結果、1585年(天正13年)には
伊予35万石の領主となった小早川隆景の支配下に組み込まれ、
隆景の養子・秀包(ひでかね)が地蔵嶽城に入城。
さらに2年後の1587年(天正15年)からは戸田勝隆が宇和郡・喜多郡16万石を得て
地蔵嶽城主に任じられた。が、勝隆は武勇に秀でる反面、政治には疎く
領国統治に失敗し、城下町は荒れてしまったと言う。
結局、勝隆は嗣子の無いまま1594年(文禄3年)に死去したため断絶し、
1595年(文禄4年)から藤堂高虎(とうどうたかとら)が勝隆の遺領を受け
宇和郡・喜多郡の新たな領主に任命されたのでござった。
この頃から城は大津(おおつ)城と呼ばれるようになったらしい。
高虎は当代一流の築城名人と呼ばれる人物で、大津城の改修を手がけると共に
荒れた城下の復興にも力を注いだ。築城の名手は、軍略のみならず政治の才にも優れ
現在に残る大洲の町並みは高虎の手腕によって整備されたと言って良い。
同時期に板島城(宇和島城)の築城工事も並行して行った高虎は
多忙ながら見事に宇和郡・喜多郡の統治を成功させたのでござる。
この間、秀吉の命により朝鮮へ出兵した高虎は大津から出陣し
かの地で捕えた捕虜1000名を連れて、大津へ帰還したという記録が残っている。
この捕虜の中に、高名な儒学者・姜(きょうこう)の姿もあったそうな。
さて、板島城は大規模な工事を行っていたため、大津城を主な居城に定めていた高虎は
関ヶ原合戦後、今治にも領地を得たので、そちらへ移動。
このため、大津城には高虎の養子・高吉(たかよし)が入城したのでござる。
その後、名将・高虎は徳川家康の信任が厚かったため豊臣家封じ込めの大役を任され
1608年(慶長13年)に伊勢国(現在の三重県)津へ国替えとなる。
よって、高吉が今治領を引き継ぐ形となり、大津城から今治城へ移った。
藤堂氏に代わって大津城主となったのが脇坂安治(わきさかやすはる)。
安治は1609年(慶長14年)、淡路国洲本から移封され申した。
この時、洲本城の天守を大津城に移築。これにちなんで洲本の「洲」の字を採り
大津を大洲に改名。以後、城の名は大洲城となり、地名も大洲となった。
脇坂氏による城の改修を経た後、1617年(元和3年)からは米子から移った
加藤貞泰(かとうさだやす)が大洲城主に任じられた。以後、明治維新まで
加藤氏13代が大洲の地を治めるようになったのでござった。
(大津→大洲の地名改称は加藤氏の治世下という説もある)
姜の渡来もあってか、加藤氏の治世における大洲の町は学問振興が盛んであった。
大洲に縁のある名士は多く、陽明学の祖・中江藤樹(なかえとうじゅ)や
国学者の矢野玄道(やのはるみち)、蘭学医・電信技術者の三瀬諸淵(みせもろぶち)
岩倉具視の顧問として明治憲法制定に功績のあった香渡晋(こうどすすむ)などがいる。
中でも有名な中江藤樹は大洲に私塾・至徳堂を開き、現在もその旧跡が残っており申す。
また、城郭史上欠かせない人物である武田成章(たけだしげあや)も大洲出身。
成章は西洋軍学を研究し、幕末に函館五稜郭などの稜堡式城郭を設計した人である。
さて、大洲城に話を戻そう。かつての地蔵嶽城が現在の大洲城となった訳だが、
近世城郭としての体裁が整えられたのは文禄〜慶長期にかけて、
即ち、戸田氏〜脇坂氏の統治時期にあたると言われるものの、
正確な史料が残っていないので、詳細は不明である。天守が移築された事もあり
恐らくは脇坂氏による改修が主なものであろうというのが通説となっている。
加藤氏の時代になると、天下泰平の世になったため
徳川幕府による大名統制が厳しく、城の修築はほとんど認められなかったからだ。
こうした経緯で整備された大洲城は、町の中心部を流れる肱川(ひじかわ)を
天然の濠とした城。大洲の町は元々この肱川の水運を行う港湾都市として発展した。
城にとっても町にとっても、まさに生命線と呼べるのが肱川であった。
肱川を背にした大洲城の縄張りは、「地蔵嶽城」の名の由来となった
地蔵ヶ岳という小山を利用した平山城でござる。山頂の本丸は石垣で固められ
周囲を櫓と多聞櫓で囲う堅固なもの。特に、本丸入口になる本丸御門は
渡櫓門形式の門である上、門の内部で石垣が屈曲する構造になっており
通称「暗がり門」と呼ばる特異なものであった。本丸侵入を目指す敵兵は
内部で暗い密室となるこの門の通過時に閉塞し、石垣に激突する仕組みだ。
現存するものでは姫路城にの門が同様の構造でござる。
こうして守られる本丸には洲本城から移された4層4階の巨大な天守がそびえた。
天守の南には高欄(こうらん)櫓、東には台所櫓が連結しており、
複連結式天守群を構成している。高欄櫓は、その名の通り展望高欄を備えた櫓。
戦時にも平時にも、城下を眺望するのにうってつけの櫓でござる。一方、台所櫓は
炊事用とおぼしき土間が確保されており、籠城戦の時に炊き出しなどを
行う事を想定していたようだ。とはいえ、これらの櫓は1857年(安政4年)の大地震で
被害を受けており、台所櫓は1859年(安政6年)に、高欄櫓は1860年(万延元年)に
修理・再建されたものである。幕末再建の櫓はもはや実戦に遠い存在で、
形式的に石落しなどが付いているものの、その寸法や構造は
戦闘に向かないものとなっており、装飾としての価値しかない。
さて、本丸から肱川と反対側に下った山麓が二ノ丸。
二ノ丸は周囲を濠で囲まれ、南西方向へさらに三ノ丸が広がっている。
二ノ丸は肱川と接する隅位置に苧綿(おわた)櫓、
三ノ丸には南東の屈曲位置に南隅櫓という二階櫓がそれぞれあった。
明治維新後に城は廃城となり、建造物は順次破却。豪壮な天守も1888年(明治21年)に
解体されてしまったが、上記した高欄櫓・台所櫓・苧綿櫓・三ノ丸南隅櫓の4棟は
現在にまで残っている。これらは1957年(昭和32年)6月18日に国指定重要文化財とされ
その後に解体修理などの補修を受けた。かつての大洲城を偲ぶ、貴重な歴史財産である。
高欄櫓と台所櫓は山上の本丸、苧綿櫓は大洲郵便局の裏手、肱川の河原にあり
三ノ丸南隅櫓は大洲高校の運動場脇に立っているので、それらを目当てに探すのが良い。
大洲城の旧建築物は他に二ノ丸の下台所蔵も残っている。
2004年(平成16年)、大洲市は市制施行50周年を迎えた。これを記念して
2年前の2002年(平成14年)から大洲城天守再建工事が開始され申した。
(天守再建の検討審議は10年前の1994年(平成6年)から委員会を発足させている)
2002年2月5日に起工式が執り行われ、翌2003年(平成15年)4月4日に上棟式を迎え
2004年7月末を以って工事が完了、9月1日から一般公開となっている。
こうして、本丸内で分断されていた高欄櫓と台所櫓が天守の再建により再び連結され
複連結式天守群が復活。天守再建工事は史実に基づいた伝統的木造建築で行われており、
完成した天守は4重4階、高さ19.15m。全国の木造再建天守の中で
最大のものとなった。また、複連結式天守の形態を残す城郭はなく、
そういった意味でも貴重な再建工事と言える。
歴史に忠実な、価値ある再建天守に賞賛を贈りたいものである。




現存する遺構

台所櫓・高欄櫓・苧綿櫓・三ノ丸南隅櫓《以上国指定重文》
下台所蔵・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡




宇和島城  今治城