伊予国 宇和島城

所在地:愛媛県宇和島市丸之内
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★★★☆■
公園整備度:★★★☆■
愛媛県南部、高知県とも接し豊後水道を押さえる要となる町・宇和島。
陸海の両方で重要な戦略拠点となるこの町を治めるために築かれたのが宇和島城でござる。
宇和島の市街地に独立する大型の丘陵を利用しており、その構えは堅固なもの。
現在は宇和島港が埋めたてられ、海岸線から離れた状態になってしまっているが
築城当初は城の敷地が半分海に迫り出した縄張りになっており、
水城の要素を併せ持つ平山城として難攻不落ぶりを誇っていたのでござった。
戦国時代、宇和島城の位置には板島丸串(いたじままるぐし)城があった。
この城は元亀年間(1570年〜1573年)の頃には既に存在したと言われ、
同地の豪族・西園寺宣久(さいおんじのぶひさ)の居城であった。
1575年(天正3年)には宣久から家藤監物(いえふじけんもつ)に城主が入れ替わり
さらに1585年(天正13年)、豊臣秀吉による四国平定が行われると、
この地方は小早川隆景の領する処になり、城代として持田右京が入府したと言われる。
続いて1587年(天正15年)には南伊予を戸田勝隆が領有するようになり、
板島丸串城には戸田信家が入る。その後、1595年(文禄4年)に
藤堂高虎(とうどうたかとら)が板島を拝領して入城、
7万石の領主として翌1596年(慶長元年)から近世城郭への修築工事を開始した。
この時、城名は板島城と改められる。高虎は当代切っての築城名人と呼ばれる人物で、
後に全国各地の要所を押さえる徳川幕府直轄の城郭を築城する事でも名高い。
秀吉による朝鮮出兵が重なり工期は長くなってしまったが、
さすがに高虎の築城術は見事なもので、天然の地形を巧みに利用した縄張り。
現在の宇和島城はほぼこの時に成立したと言える。
山頂の本丸は進入口を北側1ヶ所に限定し、その下段を取り巻くように
二ノ丸、長門丸、藤兵衛丸、代右衛門丸といった曲輪が山の中腹を開平して設置されている。
城山全体を囲う外郭平地は半分海に面し、一見四角形に見えるものの
実は五角形という構造で、攻め手に錯覚させる造り。
もちろん、外郭と城外を隔てる水濠に引かれているのは海水で、
海山の利便を縦横に駆使した城郭と言えよう。この外郭内に作られた小曲輪が三ノ丸。
山頂の本丸は狭隘で御殿が建てられないため
当初から三ノ丸が城主の居住空間として設計され、三ノ丸御殿が置かれたのでござった。
よって、当城で本丸御殿に相当する建築物は築城当初から存在しない。
また、海に囲まれた山を利用した城であるが故、特に重視されたのが飲料水の確保。
山の中腹に井戸を掘り、ここを厳重に警戒する為、井戸丸という曲輪が用意されている。
山頂にある本丸の中でも最頂部に建てられたのが天守。高虎の築いた天守は
下見板張り3重3階の望楼型天守。小柄で旧式のものであったが
石垣や土塁を用いず、隆起した岩盤の上に直接建てるという特殊なものであった。
この経験を元に、「基台が堅牢かつ精緻なものならば、超大型建築も可能」という
天守建築の新案を見い出した高虎はこれ以後、新型天守と呼べる
層塔型天守を実用化したのでござった。
天守の完成は1601年(慶長6年)頃と言われ、城の全工事が終了するのは1604年(慶長9年)。
しかし、関ヶ原合戦の功績で20万石に加増された高虎は今治に本拠を移したため
板島城が高虎の居城とされた期間は極めて短い。さらに1608年(慶長13年)、
高虎は国替えとなって伊勢国へと移動、板島城には富田信高(とみたのぶたか)が入城。
その信高も1613年(慶長18年)に移封になり、一時幕府領とされ
1614年(慶長19年)から伊達秀宗(だてひでむね)が宇和郡10万石の領主として
城主に任命された。秀宗の入城は翌1615年(元和元年)の事。
ちなみにこの秀宗、かの有名な独眼竜・伊達政宗の長男でござる。
側室の産んだ子であったため、本家仙台藩を継ぐ事は無かったが
大坂の陣における伊達家の戦功を高く評価され、秀宗に宇和郡が与えられたのだ。
秀宗の入府以後、板島は宇和島と改められ、幕末まで宇和島伊達藩が治めるようになる。
秀宗の子・宇和島伊達氏2代藩主宗利(むねとし)の時代になると、
高虎の築いた宇和島城は半世紀を越え、各所に痛みが激しくなってきた。
このため宗利は幕府に許可を得て、城の改修工事に着手。
この工事は石垣の組み直しなど大規模なもので、
1664年(寛文4年)から8年の時間を費やしている。
特筆すべきは天守の再建。1662年に幕府へ提出された届書によれば、
「天守は破損が激しく土台も崩れ危険なので、一度解体した上で再建」とされたのだが
この届出を拡大解釈し、何と宗利は全く新しい天守を新造してしまったのだ。
大きさが3重3階、初重平面6間四方の正方形という点だけが同じくされたが
剥き出しの岩盤であった天守台は石垣組みに改められ、
総白漆喰塗り層塔型天守に変更となり、外観も構造も旧天守とは全く違う物になった。
これが現存する宇和島城天守でござる。太平の世に建て直された新天守は
本丸内に独立し他の城郭構造物と連携されておらず、
矢狭間・鉄砲狭間・石落しなどの防御設備が一つもないため、
戦闘を全く考慮されていないものと言われる。反面、精緻に組まれた建築は
破風を多用し、白壁が映える上品で美しい天守としてその姿を表している。
再建天守の完成は1666年(寛文6年)。1860年(万延元年)に玄関式台が増築された。
伊達氏の支配は9代に及び明治維新を迎えた。この中で、8代藩主・宗城(むねなり)は
幕末の四賢君に数えられる英明の藩主であり、盛んに西欧文化を吸収し
激動の幕末を渡り抜いた人物として有名でござろう。そんな経過もあってか、
宇和島城は廃藩置県後も存城の扱いをされ明治新政府の管理下に置かれ申した。
1890年(明治23年)、城は旧藩主・伊達家に払い下げられたが
老朽化された建築物は順次解体されてしまった。しかし、残された建築物を
文化財として保全する運動が高まり、昭和初期には天守・追手門(大手門)と
搦手口にあたる上立門(あがりたちもん)が残された。いずれも寛文修築時の建築。
この中で追手門は1945年(昭和20年)の空襲で焼失してしまったが、
残る2棟は現在においても健在で、城山の中で静かにたたずんでいる。
天守は1934年(昭和9年)1月30日、国の重要文化財(当時は旧国宝)に指定され
城跡そのものも1937年(昭和12年)12月21日に国指定史跡となっており申す。
また、上立門は宇和島市指定文化財。石垣・土塁や曲輪跡は良好な状態で残されており
山頂の本丸を目指して散策すればちょっとしたハイキング気分で楽しめるだろう。
天守はとにかく美麗。そこから望む宇和島の町と豊後水道の眺めも心地よい。
城山公園の入口には伊達家重臣の桑折(こおり)家にあった長屋門が設置され
登城気分を盛り上げてくれるのも良い。また、明治の法律学者である
穂積陳重(ほづみちんちょう)・八束(やつか)兄弟を輩出した
穂積家の長屋門も城内に移築されている。
別名は鶴島城(つるしまじょう)。
現存する遺構
天守閣《国指定重文》・上立門《市指定文化財》
井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡
松山城・湯築城
大洲城