伊予国 松山城

松山城天守閣群

所在地:愛媛県松山市丸之内 ほか

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★★
公園整備度:★★★★☆



松山市中心部にそびえる標高132mの山、勝山(かつやま)に築かれた近世平山城でござる。
戦国時代、伊予国(現在の愛媛県)は水軍の扱いに長けた河野(こうの)氏が治めていたが
豊臣秀吉による全国統一後の1595年(文禄4年)に、
加藤嘉明(かとうよしあき、よしあきらとも)が伊予松前(まさき、正木とも)6万石を拝領し
新たな伊予国主としての統治が始まった。嘉明は“賤ヶ岳七本槍”の1人に数えられる豪傑で、
淡路水軍の統率や小田原城攻略の海上封鎖などに活躍した人物である。
瀬戸内海の水軍と関わりが深い伊予国を治めるのに適した人材だったと言える。
文禄の役(秀吉による第1次朝鮮出兵)でも軍功を挙げて10万石に加増、
関ヶ原合戦でも東軍に属した事により20万石にまで領地を増やした。
一挙に大大名へ躍進した嘉明は、その大封に相応しい新城の建設に着手し
1602年(慶長7年)から勝山に築城工事を開始するのでござった。
勝山は平野部に独立した丘陵で、近世城郭の立地条件としては最適な場所である。
また、南北朝期にも砦が築かれた経緯があり、天然の要害と呼べるその急峻な地形は
20万石の領地を守るための堅城を構える事が容易に予想できた。
しかし、問題がひとつあった。勝山の南麓を流れる石手川は氾濫を繰り返すため
城下町を拓くべき場所は湿地となってしまっていたのだ。
そこで築城に先立ち、河川改修工事を開始。湯山川の流路を南へ迂回させ
伊予川へと合流させた。この工事により城下の干拓が為され、洪水の防止にも役立った。
城の普請奉行に任命され、改修工事を立案した足立半右衛門重信の功績を称え、
これ以来、伊予川は重信川と呼ばれるようになったのでござる。
さて、城下町用地を確保した事でいよいよ築城工事が開始となる。
1602年正月から始まった工事は難問の連続で、急峻な勝山の山上に石垣を築き、
櫓などの建築物を建てる事は容易ならぬものだった。しかし、嘉明の人柄もあってか
築城の人夫は苦労をものともせず働き、その中には女性の姿もあったと言う。
一方、嘉明も領民を労わり陣頭で指揮を取り、嘉明夫人・御万の方は
自ら握り飯を炊き出して人夫に手渡したという話が残っている。
翌1603年(慶長8年)10月、嘉明は松前から勝山の新城へ移った。
この時、勝山を松山に改称、建築中の新城は松山城と名付けられたのでござる。
勝山には日向国(現在の宮崎県)から移植された松が
美しい林を作っていた為にこの名が付けられたとされる。
築城工事はまだ続く。1605年(慶長10年)に本丸が完成、1607年(慶長12年)には
三ノ丸が竣工し、仮屋敷住まいであった嘉明はようやく正式の御殿に入る。
しかし、それでも城の全域が完成した訳ではなかった。
そんな最中の1627年(寛永4年)、嘉明は松山城完成を目前にして
会津若松40万石へ加増転封となってしまった。加増なのだから昇進という事になるが
精魂込めて築いた城の姿を見ずして去らねばならないのは複雑な心境だったろう。
嘉明に代わって松山城主となったのが蒲生忠知(がもうただとも、ただちかとも)。
織田信長に「天下の才あり」と評され、豊臣秀吉に恐れられたと言われる名将、
蒲生氏郷(がもううじさと)の孫にあたる人物でござる。
忠知は蒲生家に縁深い近江国日野4万石と松山の領地、併せて24万石の領主に任じられ
嘉明以来続いていた松山築城の工事を完成させた。
この当時、松山城の大天守は現在よりも大きな5層天守で、
その他本丸内の建造物も含めて白壁塗込の美しさを誇っていた。
ところが忠知の在城はわずか7年余りの短さで、1634年(寛永11年)に
参勤交代の途中、京都で没してしまった。享年30歳。
急死した若き城主に嗣子は無く、蒲生家は断絶。
松山城は一時大洲城主加藤泰興(かとうやすおき)らの預りとなり、その後に
1635年(寛永12年)伊勢国桑名から松平定行(まつだいらさだゆき)が
15万石を有して入府した。定行は徳川家康の甥にあたり、
この家系は久松松平氏と呼ばれる徳川血縁者でござる。
久松松平氏を堅城たる松山城主に任じる事で、
四国における徳川幕府の基盤を固める狙いがあった。
松山城に入った定行は、松山城の改造に着手する。
1639年(寛永16年)、嘉明以来5層の威容を誇っていた天守を3層4階に改築する工事を開始。
櫓も増築し、1642年(寛永19年)に一応の完成を見た。この工事で増築された櫓は
何と27基にものぼる。5層の天守をわざわざ3層に縮小したのは、
維持費が莫大な額になっていたからだとも、天守に傾きが生じていたからだとも、
幕府に対する恭順の意思を表明するためだとも言われ、判然としない。
ともあれ、5層天守用の大きな基台に小さな3層天守を載せる事となったため
松山城大天守の容姿はひどく潰れたものになってしまった。
しかし、華美な5層天守から実用本位の3層天守になった事で、
松山城の防御性能は向上したと言われる。無駄な大型天守よりも
実戦に即応した剛健天守に生まれ変わったのでござる。
ところが、この天守は1784年(天明4年)に落雷で焼失してしまう。
本丸の主要部は焼け落ち、松山城の機能は喪失してしまった。
以後、累代の松山城主は再建工事を試みるものの、事故の発生や財政難で
思うように成す事が出来なかった。ようやく本格的な再建工事にこぎつけたのは
落雷から60年以上経過した1848年(嘉永元年)、12代藩主・松平定穀(さだよし)の頃。
翌1849年(嘉永2年)4月に天守曲輪の基礎工事が完了し、1850年(嘉永3年)4月に
上棟式を行い、再建工事が終わったのは1854年(安政元年)となった。
完成した下見板張りの天守は、定行の3層天守を復したものと言われる。
これが現在に残る松山城大天守でござる。よって、現存天守の中では最も新しい。
幕末に再建された松山城は、結局戦火にさらされる事なく明治維新を迎えた。
明治維新により親藩城郭たる松山城は土佐藩兵の占領を受けるが、
幸運にも破却の運命を逃れたのでござる。ところが1933年(昭和8年)7月、
謎の失火により小天守・南櫓・北櫓などの本丸建築物が焼失してしまう。
この火災は放火説が有力視されているが、現在に至るまで確認が取れていない。
残された松山城建築物を保全するため、1935年(昭和10年)5月13日に
残存する建築物は国宝(旧国宝)に指定される。しかし、太平洋戦争の空襲で
太鼓門・太鼓櫓・巽櫓などが焼失してしまった。度重なる火災の不運を経て、
戦後には松山城再整備工事が進められた。現在においては、大天守ほか
江戸時代からの残存建築物21棟は重要文化財に指定され、
焼失した小天守・太鼓櫓なども再建されている。1952年(昭和27年)3月29日には
城跡全体が国史跡としての指定も受けた。このため、松山城は道後温泉と並び
松山切っての観光名所となっており、旧態をほぼ完全に再現した城内は
城郭愛好家ならずとも必ず訪れるのが当然と言えよう。
急峻な勝山を登るのは大変だが、ロープウェーがあるので難なくこなせる。
城はかなり大規模な平山城。本丸は元々2〜3の丘になっていた場所だが
これを削平して大きな一つの曲輪に仕上げたとされる。その本丸を囲うように
いくつかの腰曲輪を連結させ、城の防御度を上げている。さらに天守曲輪は
本丸よりも一段高く構成され、ここに林立する天守群は
姫路城と同様の連立式天守となっており、鉄壁の防御を誇る。
もし自分が城攻めの兵士だったとしたら、ここには入りたくないと思うだろう。
そもそも、本丸へ登郭する前の筒井門近辺からして激戦が予想される。
ダミーとして置かれた戸無門を通過した所で、大きな筒井門が立ちはだかり
ここで攻防している間、裏側に隠された隠門(かくしもん)から
城兵が挟み撃ちの攻撃を繰り出すようになっているからだ。
巧妙なトラップは松山城随一の要所として有名なので、必見でござろう。




現存する遺構

大天守・一ノ門・一ノ門南櫓・一ノ門東塀・二ノ門・二ノ門南櫓・二ノ門東塀
三ノ門・三ノ門南櫓・三ノ門東塀・筋鉄門・仕切門・仕切門内塀・野原櫓・乾櫓
紫竹門・紫竹門東塀・紫竹門西塀・隠門・隠門続櫓・戸無門《以上国指定重文》
井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








伊予国 湯築城

湯築城址

所在地:愛媛県松山市道後公園

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★★★☆



鎌倉時代から戦国時代まで伊予国を統治した河野(こうの)氏の城館跡でござる。
河野氏は、元々は伊予国風早郡河野郷(現在の愛媛県北条市)を本拠とした一族で
源平合戦において河野通信(こうのみちのぶ)が源氏方に与して功績を挙げ
これがきっかけとなり鎌倉幕府の御家人になった。幕府から伊予国の統治を認められ、
1221年の承久の乱では一時衰退するものの、1281年の元寇(弘安の役)で
河野通有(みちあり)が水軍を率いて活躍、伊予国主としての地位を固めた。
また、時宗を興した一遍上人は河野一族の出自と言われ申す。
時は移り、南北朝動乱期になると河野氏も戦乱に翻弄されるようになる。
時世に対応するため、河野通盛(みちもり)は河野郷から道後にある湯築(ゆづき)岡へと
本拠を移転、本格的な城郭へと整備していった。これが湯築城でござる。
1000年以上の歴史を誇り、日本最古の温泉と呼ばれる道後温泉を目前にしたこの岡は
太古の昔は伊佐爾岡(いさにがおか)とも呼ばれ、松山平野における当時の中心であり
河野氏が戦国大名へと転身して統治を行うのに適した場所だったと言える。
通盛による築城の正確な年代はわかっていないが、以後約250年に渡り
伊予国において政治・軍事・文化の中枢となっていく。
室町幕府が成立すると、この城を根拠地として河野氏は伊予守護職を代々世襲した。
しかし、近隣の阿波国(徳島県)などを治める細川氏は幕府管領(将軍補佐の最重要職)で
勢力拡大を狙って度々伊予国への侵攻を行った。また、応仁の乱を経た後は
豊後国(大分県)の大友氏、周防国(山口県)の大内氏など、海を挟んだ対岸の勢力までもが
伊予国への侵略を狙うようになる。河野氏は陸に海に防衛の軍を率いて出陣し
血みどろの戦国乱世を戦わねばならず、湯築城は混迷の度を深めていった。
こうなると、河野家中は一族内で内紛を起こすようになり、
家臣団も統率を乱し独立の風潮が高まった。そこへ追い討ちをかけたのが
土佐国(高知県)を統一し、四国全土の掌握を目指す長宗我部(ちょうそかべ)氏の台頭。
土佐国、阿波国を手にし、讃岐国(香川県)にまで侵攻の手を伸ばした
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の軍勢は、伊予国にも迫っていた。
この時の河野氏当主、河野通宣(みちのぶ)はこれを撃退すべく
幾度と無く合戦を繰り返したが、次第に劣勢となっていき
次の代、河野通直(みちなお)が当主となった時に降伏を余儀なくされた。
しかも河野氏が長宗我部氏に臣従した直後、今度は全国統一を目指す
羽柴秀吉の軍が大挙して四国へ来襲、湯築城も攻撃・落城の憂き目を見る。
この結果、1585年(天正13年)河野通直は湯築城を退去し安芸国(広島県)へ流される。
ここに湯築城を中心とした河野氏の伊予支配は終止符が打たれたのでござった。
秀吉家臣の福島正則が新たな湯築城主として入城するが、
正則は同年のうちに越智郡の国分(こくぶ)城へ移転してしまう。
そのまま湯築城は廃城とされ、以後、荒れ放題の野山へと落ちぶれていく。
さらに時代は下り、明治維新を過ぎた後に「お竹薮」と呼ばれていた湯築城跡を
愛媛県が公園として整備した。時に1888年(明治21年)の事である。
道後温泉を訪れる観光客が散策する公園に生まれ変わった湯築城は道後公園に名を変え、
さらに100年後の1988年(昭和62年)から史跡復元の為に発掘調査が開始された。
この調査は数次に渡って継続され、かつての道路跡、排水施設、家臣団居住地域、
城内庭園、堀・土塁の構造などが次々と明らかになっていった。
戦国時代の城館遺構を良く留めた城跡の保存状態は高い評価を受け、
2002年(平成14年)9月20日、国指定史跡となり申した。
東西約300m、南北約350mの道後公園全域が湯築城跡であり、
中央の丘陵を主郭とした城内には堀・土塁・庭園や武家屋敷などが再現されている。
また、“湯釜薬師”と呼ばれる愛媛県指定文化財の石造湯釜が設置され、
この湯釜には一遍上人が筆を取った「南無阿弥陀仏」の文言が記されており貴重。
それほど険しい山城というわけではないので、初心者でも散策する事ができよう。
庭園は夜間ライトアップも行われ、幻想的で美しい姿を楽しめる。
主郭となっている中央丘陵の展望台からは松山市街が一望でき、
松山城の天守も臨むことができ申す。道後温泉の傍らにひっそりとたたずむ公園だが、
国史跡に指定され、松山の新たな観光名所になる事が期待されている。




現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群
城域内は国指定史跡




城山城  宇和島城