讃岐国 城山城

所在地:香川県坂出市西庄町・川津町・府中町
■■■■■■:丸亀市飯山町東坂元■■■■
(東坂元地域:旧 香川県綾歌郡飯山町東坂元)
■■駐車場: なし■■
■■御手洗: なし■■
遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■
岡山県の鬼ノ城(きのじょう)等と同様の古代山城がここ城山(きやま)城でござる。
讃岐平野を一望できる標高462m、その名も「城山」に築かれた城は
当然、戦国時代の城郭とは形態が違う。また、戦国期城郭が国内における群雄同士が争う
言わば「内戦」を主眼として作られたのに対し、古代山城は大陸からの侵攻軍を迎え撃つ
「対外戦争」の為に築城されており、自ずと目的や用途も異なるものでござる。
古代山城の起源を紐解くと、遥か4世紀の朝鮮半島にまで話が遡る。
当時の半島は3つの国と1つの地域に4分割されていた。
半島中西部(現在のソウル、テジョン、ジョンジュなど)を治めた
百済(くだら、ひゃくさいとも)、半島の北半分と満州方面を支配する高句麗(こうくり)、
半島南西部(テグ、キョンジュ、ウルサン周辺)にあった新羅(しらぎ、しんらとも)の3国と
南端部(クワンジュ、ヨス、ジンジュなど)を領土とした
加羅(から、任那(みまな)とも呼ぶ)でござる。
この中で高句麗(?〜668年)は最も古く、最も大きな地域を支配しており、
百済・新羅・加羅は南朝鮮を分割した「三韓時代」を経て成立した新興国家・地域であった。
百済(346年〜660年)は伝統的に日本の友好国であり、加羅(369年?〜562年)は
何と日本の直接支配地域であった。成立期の大和朝廷は朝鮮半島も領土としていたのである。
これら3国+1地域は互いに争い、和を結び、攻防を繰り返していたのでござった。
512年、任那のうち4県は百済に割譲され領土を縮小。これは当時の大和朝廷における
大連(おおむらじ、主に外交・軍事の総裁職)であった大伴金村(おおとものかねむら)が
百済から賄賂を受けて譲渡したと言われている。金村は責任を問われ540年に失脚したが、
この割譲で任那は著しく弱体化し、遂に562年隣国の新羅(356年〜935年)に滅ぼされてしまった。
なおも勢いに乗る新羅は百済や高句麗に出兵、660年に唐(当時の中国正統王朝)と組んで
百済を滅亡させてしまったのでござる。日本へは百済から多数の人材が亡命し支援を要請、
大和朝廷としても任那に続き百済まで失う事は看過できないものがあったため
661年に百済再興軍を編成して九州へ集結、翌662年に阿曇比羅夫(あずみのひらぶ)を
総大将とし朝鮮半島へ送り込んだのでござる。
が、663年に白村江(はくそんこう、はくすきのえとも)で唐・新羅連合軍に大敗。
百済の再興は成らず、逆に日本へ唐・新羅からの報復軍が攻め寄せる脅威が高まった。
恐慌を来たした大和朝廷は西日本各地に防衛体制を敷き有事に備えたのでござった。
664年に対馬・壱岐・筑紫へ防人(さきもり)と烽(とぶひ)を設置、
水城(みずき)を構築した。防人は局地防衛と監視のため駐留した兵士であり
烽はその名の通り烽火(のろし)台、水城(福岡県太宰府市)は侵攻軍を防ぐ大突堤である。
665年には長門城(山口県)・大野城・基肄城(共に福岡県)築城、
667年には都を飛鳥板蓋宮(奈良県高市郡明日香村)から内陸の大津宮(滋賀県大津市)へ遷都
高安城(奈良県)・屋島城(香川県)・対馬金田城(長崎県)を次々に建設した。
こうして作られていった城郭が古代山城でござる。
建設においては百済からの亡命知識人の土木・軍事技術を用いたと言われているが
築城のみならず学問・芸術・文化・宗教・農工商業など渡来人の影響は多岐に渡っている。
古代山城はその素性によって「朝鮮式山城」と「神籠石(こうごいし)式山城」に2分される。
朝鮮式山城とは、「日本書紀」をはじめとする各種の文献に記載のある城郭である。
上記の水城・長門城・大野城・基肄城・高安城・屋島城・金田城などは全てこれに該当し
築城の年代・経緯・位置などが比較的確認しやすいものでござる。
一方の神籠石式山城とは、文書等の記録には残っていない城郭群であり
築城の由来や位置などの特定が難しいものであった。このため、昭和初期までは
宗教遺跡とさえ考えられていた。城郭遺構であるはずの石組みなどが
あたかも環状列石や祭壇かのように捉えられてきたからでござる。
しかし戦後の発掘調査と考査により現代では古代山城であったと立証された。
ただし、文献に残らない遺跡であるため、相変わらず謎とされている部分は多く
特に築城時期や目的には諸説あり特定できない。朝鮮式山城と全く同時期の築城なのか
時代が前後するものなのか、時期がずれるとしたならばその構築目的は何なのか
未だに解明されていないのである。
こうした神籠石式山城は現在16箇所を数え、城山城もこの16城のひとつである。
古代山城は北九州から瀬戸内海一帯にかけて構築されており、
城山城も当然この分布の範囲に収まる。付近には屋島城(香川県高松市)があり
瀬戸内海の対岸には大廻小廻山城(岡山県岡山市)や鬼ノ城(岡山県総社市)がある。
城山城は西讃岐の押さえであり、瀬戸内海全般を警戒する役目があったと思われ
城跡からはこの全域が見渡せるような景観が広がる。
さて城山城の現況であるが、城山の中に設置されたゴルフコースの敷地内に
土塁と門跡の遺構が残っているのだが(見学には許可が必要らしい)
それ以外の城域は大半が自然の山林となっていて闇雲に入山する事はできない。
城山を通りぬける道路もあるにはあるが、地元の人すら使わないような寂しい道で
写真で掲載した案内の看板が一枚あるのがかろうじて城郭であった事を示している。
と、こんな有様の城山城であるが、何と1951年(昭和26年)6月9日に国の史跡に指定された。
だったらもう少し整備して欲しいものではあるが… (ーー;
ところで、白村江の戦い以降の朝鮮半島情勢であるが、
新羅と唐は再び共同して高句麗へ侵攻、668年に滅ぼしたのでござる。
加羅・百済・高句麗を屠った新羅、今度は朝鮮半島全域の支配を目指し
今まで同盟を組んでいた唐と対決するようになった。
度重なる出兵によって朝鮮半島の北半分は唐の領土となっていたため、
新羅はこれを駆逐しようと目論んだのである。唐と新羅の抗争は8年続き
676年、遂に新羅は朝鮮全土を統一したのであった。
高句麗攻略、唐との確執があり、結局日本への武力侵攻は行われず
大和朝廷が大慌てで急造した古代城郭は実戦を迎える事はなかった。
しかし戦乱を避けて日本へ渡来した朝鮮半島の優秀な人材によって
大和朝廷の権力基盤は確実なものとなったのでござる。
現存する遺構
土塁
城域内は国指定史跡
丸亀城
松山城・湯築城