讃岐国 丸亀城

丸亀城大手門から天守を望む

所在地:香川県丸亀市大手町・一番丁

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★★
公園整備度:★★★★☆



別名で亀山城、蓬莱(ほうらい)城などの名称がある平山城でござる。
元々は聖通寺(しょうつうじ)城主の奈良氏が南北朝時代に築いた小さな砦跡。
戦国時代末期、土佐国(現在の高知県)から侵攻した長宗我部(ちょうそかべ)元親により
奈良氏は滅亡。その後、羽柴秀吉の四国平定で讃岐国(現在の香川県)17万6000石は
生駒親正(いこまちかまさ)の領する地となった。1587年(天正15年)8月讃岐に入国し
翌1588年(天正16年)本拠を海城の高松城に定めた親正は、西讃岐の押さえとして
1597年(慶長2年)支城となる丸亀城の建築に着手したのでござった。
城の敷地として選ばれたのは標高66mの亀山。亀が伏せているような形をしているので
この名がついたと言われる。讃岐平野西部に単立する小山で、全周を見渡す眺望を持つ要害。
親正は嫡子・一正を丸亀城主に任じ、5年の歳月をかけて工事を行ったが
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦で西軍に加担した責任を取り隠居、東軍方であった
一正が1602年(慶長7年)家督を継ぎ高松城へ移る事になった。このため丸亀城は
佐藤掃部(かもん)が城代となる。しかし、大坂の陣終結によって太平の世となり
1615年(元和元年)「一国一城令」が発布され丸亀城は廃城となったのでござった。
1640年(寛永17年)生駒氏は御家騒動により讃岐を除封され出羽国(現在の秋田県)
由利郡矢島1万石へ飛ばされた。一時丸亀領は伊予国(現在の愛媛県)大洲城主
加藤氏に預けられたが、1641年(寛永18年)新領主として山崎家治が任じられた。
家治は肥前国(現在の佐賀県・長崎県近辺)天草郡富岡城からの転封でござる。
西讃岐5万3000石を得た山崎氏は(東讃岐は松平頼重が拝領し高松に入城)幕府から
下賜銀300貫を受け1643年(寛永20年)廃城となっていた丸亀城の再築工事に着手。
工事に専念するために当年の参勤交代も猶予されたのでござる。
大坂城や松山城、広島城といった名城の修築を手がけた家治は当代一流の築城名人であり
丸亀藩の本拠とすべく新築同様の大工事を亀山で行ったのでござった。
亀山を取り巻く平地に堀を掘削し、瀬戸内海まで通じるようになっていた。
これにより丸亀城内には船が出入りできたのである。このように水利を重視した
丸亀城の堀は堅固なもので、特に内濠は亀山を完全に一周する完璧さ。
この内濠で守られた内側平野部(内郭、山下(さんげ)曲輪の事)に藩主御殿を建設、
内濠と外堀の間(外郭)は藩士武家屋敷を配列し、しかも亀山全体を3段の石垣で固めた。
麓から頂上までの石垣総高は何と60mにも及ぶ。
結果、亀山は「石垣だけで出来た山」となり、その光景は圧巻の一言に尽きる。
しかも1640年代と遅い時代の築城だけあって、石垣は野面積み・打込ハギ・切込ハギと
様々な工法が用いられており、さながら「石垣資料館」と言えるほどでござる。
1648年(慶安元年)3月、山崎家治死去。嫡子俊家が丸亀藩を相続するが
わずか3年後の1651年10月に俊家も没す。翌1652年(慶安5年)5月に幕府の許しを得て
その子・治頼(はるより)が後を継いだが、何とこの時3歳の幼児であり
しかも5年と経たない1657年(明暦3年)3月、8歳で没してしまったのでござる。
当然世継ぎはなく山崎家は断絶、再び伊予大洲加藤氏が丸亀を預かり在番となった。
この間も丸亀城の建築工事は続けられた。山全体を要塞化する大工事は1〜2年で終わる筈もなく
1656年(明暦2年)の大火で建造物が焼失した事も工期を長引かせていた。
1658年(万治元年)2月、京極高和(きょうごくたかかず)が播磨国(現在の兵庫県南部)
龍野から丸亀の新領主として入封。知行高は6万67石でござる。
1660年(万治3年)ようやく丸亀城天守が完成。高さ14.7mで3重3階、現存天守としては
最も小さい天守でござる。西面を除く三方の初重壁面には腰羽目板で黒く装飾し
白い壁面と美しい対比を見せている。石落としや狭間を備えた実戦性能も重視しながら
唐破風・千鳥破風での華麗な意匠も凝らしており、小さい分だけかえって豪壮さを際立たせる。
高和は1662年(寛文2年)9月に京都で亡くなり、同年12月嫡子高豊(たかとよ)が
丸亀藩を相続した。名君として名高い高豊の治世は33年、1694年(元禄7年)5月まで及び
在職9年目の1670年(寛文10年)従来南側とされてきた丸亀城内郭の大手門を北へ変更
現在に残る大手一ノ門・二ノ門を建築する工事を行った。同時期に藩邸も造営。
高豊の後は3代高或(たかもち)、4代高矩(たかのり)、5代高中(たかなか)と続く。
この高中統治時の1778年(安永7年)ようやく普請が完了、丸亀城の全容が整ったのである。
実に135年に渡る遠大な築城工事でござった。途中の1736年(元文元年)には
濠の浚渫(しゅんせつ)まで行っている。6代高朗(たかあきら)、7代朗徹(あきゆき)と
相続されて明治維新を迎えた丸亀城は1869年(明治2年)2度に渡る火災を起こし
藩主御殿や知藩事役場、三ノ丸戌亥櫓を失った。1871年(明治4年)廃城となり、
1874年(明治7年)には高松城から移ってきた陸軍大阪鎮台分営が入渠、
第5軍管区第12歩兵連隊司令部として組織された。
城内の建造物は市中入札により払下げられ、1876年(明治9年)以降順次解体の運命を辿った。
1919年(大正8年)丸亀市が陸軍省から山上部を借り上げ亀山公園として一般開放、
加えて1926年(大正15年)には国有地の一部が市へ払い下げられたのでござる。
1943年(昭和18年)6月9日、破却の難を逃れ残されていた天守は国宝に指定される。
1948年(昭和23年)惜しくも外堀が埋めたてられてしまったものの
1950年(昭和25年)天守は解体修理して保全を図り、翌1951年(昭和26年)
文化財保護法により国の重要文化財として再指定を受け申した。
さらに1953年(昭和28年)3月31日城域は国史跡に指定、1957年(昭和32年)6月18日には
大手一ノ門(櫓門)・二ノ門(高麗門)も国重要文化財になったのでござった。
これを受け1963年(昭和38年)大手門が解体修理され、
1968年(昭和43年)御殿御門・番所・長屋・土塀も解体修復、
1984年(昭和59年)内濠東部の浚渫、1991年(平成3年)からは石垣各所の解体修理、
1993年〜1994年にかけて本丸・二ノ丸の地盤再整備と
次から次への史跡保全工事が実行されてきた。これには発掘調査も含められ申した。
史跡景観整備の一貫として城内にあった排水池や市民プールも
1992年〜1993年に相次いで撤去している。
こうして守られてきた丸亀城は典型的平山城。天守のある山頂部を本丸とし
一段下がった東側が二ノ丸、本丸・二ノ丸全体を囲う形で三ノ丸となっている。
三ノ丸南面に沿って帯曲輪が巡り、ここに搦手口が設置されている。
搦手口は裏口を意味するが、上記の通り築城当初は大手口(表口)となっていたので
つづら折りや高石垣で厳重に守られており、見所のひとつである。
城内には井戸跡も残り、各曲輪に備えられたいくつもの隅櫓跡石垣が往時の姿を偲ばせる。
特に三ノ丸月見櫓(南東隅櫓)跡からは「讃岐富士」として有名な飯野山(標高422m)を
正面に捉える絶景が臨めてオススメ。もちろん、北側へ向かえば丸亀市街を一望し
遠く瀬戸内海も見渡す事ができる。山上から見る市街地はまるで模型のようにも思える。
本丸には天守(写真上端)、そして山下曲輪には明治の火災や破却を免れた
藩主御殿玄関先御門・番所・長屋といった建物や大手門建造物群が残されている。
御殿御門は大規模な薬医門。この形式で現存する物としては最大級の大きさであろう。
大手二ノ門(写真左隅)は高麗門で内郭正門、これをくぐると枡形虎口で右に折れ曲がり
大手一ノ門(写真右側の櫓門)へと向かう事になる。一ノ門は時報用として太鼓が置かれ
丸亀の町に時刻を知らせていたので太鼓門の別名がある。
どれを取っても第一級の遺構であり、何より山全体が石垣となっている姿には圧倒される。
四国の玄関口・瀬戸大橋からも近く、香川を訪れる際には是非見て頂きたい城でござる。




現存する遺構

天守・大手一ノ門・大手二ノ門《以上国指定重文》
藩主御殿表門・番所・御駕籠部屋・長屋・土塀《以上県指定文化財》
井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡




高松城  城山城