讃岐国 高松城

所在地:香川県高松市玉藻町
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★★★☆■
公園整備度:★★★★☆
讃岐松平家12万石の居城。別名で玉藻(たまも)城と呼ばれるが、これは万葉集の歌人
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が讃岐国(現在の香川県)の枕詞に
「玉藻よし〜」と詠んだ事に由来するという。羽柴秀吉の四国平定によって
1587年(天正15年)8月、讃岐17万6000石を与えられた生駒親正(いこまちかまさ)は
播磨国(現在の兵庫県南部)赤穂から讃岐引田(ひけた)城へ移った。
しかし引田城は城地が狭く讃岐国の東端に偏位し不便なため、
仙石秀久が宇多津(うたづ)に築いた聖通寺山(しょうつうじやま)城へ居を変え
さらに翌1588年(天正16年)香東郡野原庄に新城を建築し本拠とした。
これが現在に残る高松城でござる。讃岐平野を睥睨する平城であるが、
城の北辺は直接瀬戸内海に面しており、外濠・中濠・内濠の全てに海水が引き込まれた
「海城(水城の一種)」であった。海城は攻城軍による封鎖包囲が難解な上
守城側にとっては海路を利用した物資補給・脱出路確保が容易であり
しかも水攻めや水断ちといった攻城手段が使えないという利点があった。
特に高松城は城内に直接軍船が出入りできる構造となっていて
水軍の運用も視野に入れた城郭でござった。その反面、波に洗われた砂浜に
城を構築するのは特殊な知識を要するものでもあった。
この難工事の縄張りを手がけたのは細川忠興、黒田官兵衛孝高(よしたか)、
小早川隆景、あるいは藤堂高虎とも言われはっきりしないが、
いずれも築城の名手と呼ばれた四名であり、高度な熟練技術により設計された事がうかがえる。
親正は尾張国(現在の愛知県西部)の出身、1526年(大永6年)生駒親重の子として生まれ
織田信長、次いで羽柴秀吉に仕えた。1590年(天正18年)の小田原征伐で軍功を挙げたが
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では西軍に加担したため責任を負い引退。
嫡子である一正は東軍についていたので1601年(慶長6年)5月に父の領土を相続した。
その一正の死によって1610年(慶長15年)3月に子の正俊が3代城主に就任。
正俊は伊勢国(現在の三重県)津32万石の藩主・藤堂高虎の娘を娶り嫡子・高俊をもうけたが
わずか36歳の若さで早世してしまう。1621年(元和7年)6月に高俊が4代目の城主になるが
11歳の幼少であったため、外祖父の高虎が後見人となったのでござった。
高虎は近江国(現在の滋賀県)出身。近江を治めた浅井長政に出仕したのを皮切りに
津田信澄(明智光秀の女婿)、羽柴秀長(秀吉の弟)、羽柴秀俊(秀吉正室・寧子の一族)、
豊臣秀吉に仕え、秀吉死後は天下の情勢を的確に読み徳川家康を主と仰いだ。
滅私忠節の献身的奉公は外様大名ながら譜代家臣以上に家康の信頼を勝ち取り
ついに家康腹心中の腹心として津32万石の大封を得たのでござる。
ところがこの偉大な外祖父・高虎を後見人としたにもかかわらず、
高俊は遊興に耽り藩政を省みなかった。政治は家臣に任せきりにして放蕩三昧の日々、
その家臣も武功派の生駒将監・帯刀父子と官僚派の前野助左衛門が対立し
治世もままならない混乱に陥ったのでござった。状態は悪化の一途を辿り、
ついに帯刀は「助左衛門派の不正に因り藩政が困窮している」と
幕府大老・土井利勝に訴えた。しかし藩政の停滞は高俊の不行状に起因する事は
誰が見ても明白であったため、幕府は讃岐17万石を召し上げ出羽国(現在の秋田県)
矢島1万石への転封という厳しい処分を下した。「生駒騒動」として名高いこの御家騒動で
1640年(寛永17年)に生駒氏は高松城を去り、1642年(寛永19年)2月に新たな領主として
常陸国(現在の茨城県)下館藩主であった松平頼重(よりしげ)が任じられた。
頼重は水戸藩初代藩主・徳川頼房(よりふさ)の長男で、家康の孫にあたる人物。
「水戸黄門」として有名な徳川光圀(みつくに)の兄でござる。
3男でありながら父・頼房の意向により光圀が水戸家を相続し
長男の頼重は残念ながら嫡子になれなかったのである。
が、水戸家を相続できなかったとはいえ頼重が徳川一門である事に変わりはなく
幕府から中国・四国地方監視の大任を期待されて高松城主に抜擢されたのでござった。
高松に入った頼重は生駒時代の城郭をさらに改良。天守の改築や北ノ丸の新設が行われた。
また、三ノ丸に藩主居館となる披雲閣(ひうんかく)が建設されたため
旧来桜ノ馬場南側にあった大手門を廃し、馬場東側に旭門を作り大手口とした。
頼重治世は32年の長きに渡ったが、讃岐松平2代藩主として後を継いだのは
光圀の子・頼常(よりつね)であった。御三家である水戸藩主となった光圀は
長幼の序に反して家督を継いだ事を悔い、兄・頼重の2男である綱条(つなえだ)を
水戸家の後嗣として養子に迎え、代わりに自らの長男・頼常を頼重の養子に出して
讃岐高松藩の後継ぎとしたのでござった。兄の名誉を回復する事を願った光圀苦心の策であり
頼重の血統に水戸本家を返上しようとした光圀の清廉潔白さが感じられ申す。
これを契機として水戸家と讃岐高松家では代替わりの度に養子交換が行われるようになった。
頼常は頼重に引き続き高松城拡張工事を継続。現在に残る月見櫓・艮(うしとら)櫓や
新曲輪などが造営された。讃岐松平家は頼重・頼常以後、3代頼豊、4代頼桓(よりたけ)、
5代頼恭(よりたか)、6代頼眞(よりざね)、7代頼起(よりおき)、8代頼儀(よりのり)、
9代頼恕(よりひろ)、10代頼胤(よりたね)、11代頼聰(よりとし)の228年に渡り
高松を治めて明治維新を迎えた。この間、讃岐松平家代々に伝わる祖法として
茶道の武者小路千家との関わりがあった。武者小路千家の始祖・千宗守(せんのそうしゅ)は
高松藩祖・松平頼重の茶頭として任用され、以来両家は強く結びつくようになったのである。
千利休が作らせた楽焼茶碗「木守(きまもり)」は讃岐松平家が所有していたので
歴代の武者小路千家当主が宗主を襲名する披露茶会に必ず使用され申した。
現在においてもこの伝統は受け継がれ、武者小路千家から松平家に拝借の使者が立てられ
襲名披露茶会が行われるのでござる。また、讃岐松平家にはもう一つ伝統がある。
藩祖・頼重は高松入府に際し「讃岐国は海辺の国なれば水練は武道の一班たるべし」と
藩士の今泉八郎左衛門に命じ、高松城の濠を使い藩士の水泳指導を行わせたのでござった。
頼重自身も1642年6月に内濠で水泳を行い、以来高松藩では水練が奨励されたのでござる。
高松藩の泳法は水戸藩の水術である「水府流」を基とした「高松御当所流」と呼ばれ
後に「水任(すいにん)流」を正式名称とした。現在は水任流保存会が結成され
毎年6月第1日曜に頼重の追悼遊泳祭を行い日本古式泳法の伝承に努めている。
なお、水任流は1979年(昭和54年)に高松市無形文化財の第1号に指定された。
さて明治維新後の高松城であるが、1869年(明治2年)の版籍奉還により廃城とされた。
兵部省所管となり一時大阪鎮台分営が置かれたが、1874年(明治7年)鎮台分営は丸亀へ移る。
その後は暫く空城であったが、1890年(明治23年)城跡の一部が旧藩主松平家に払い下げられ
さらに1945年(昭和20年)財団法人松平公益会へ継承、1954年(昭和29年)
高松市へ譲渡された。市は城跡を公園として整備し、翌1955年(昭和30年)5月5日に
高松市立玉藻公園として一般開放されたのでござった。
1955年3月2日に国の史跡に指定、1984年(昭和59年)5月7日に追加指定となっている。
明治初期に大半の建物は破却され、残されていた旧国宝指定の桜御門も
昭和20年の高松空襲により焼失。門の礎石や石垣には火災の痕跡が残ってござる。
現存する建造物は、北ノ丸隅櫓であり城の北辺に位置する
月見櫓とそれに連なる渡櫓・水手御門(写真右)がある。
これらは1676年(延宝4年)頃に完成した櫓群で、瀬戸内海に面した高松城北辺を守っている。
月見櫓は3重3階、総塗籠造りの大型櫓。美しい白壁に黒塗の長押(なげし)で線を引き
特徴的な姿を醸し出している。初層は千鳥破風、二層目に唐破風を設けており
均整の取れた優美な外観でござる。現在、高松城の北側は埋めたてられ高松港になっているが
明治30年代までは月見櫓の真下まで海水が満ちていた。月見櫓は海上を往来する船舶の
監視を行い、参勤交代で江戸から帰国する藩主の船を出迎えるための櫓であったのだ。
「月見」櫓とは即ち「着見」櫓を意味したのである。薬医門形式の水手御門は
月見櫓と同じく海に面しており、船舶から城へと出入りするための門でござった。
移築遺構としては東ノ丸(新曲輪)北東隅櫓であった艮櫓がある。「艮櫓」は「丑寅櫓」の事で、
北東隅櫓の十二支を用いた一般的名称でござる。この櫓は月見櫓と同時期に作られた
3重3階、本瓦葺の大型櫓で、非常に大きく張り出した石落としが特徴。
香川県県民ホール建設に伴い、当時の所有者であった旧国鉄から1965年(昭和40年)
高松市が譲り受け、約2年かけて桜ノ馬場南東端にあった太鼓櫓跡地に移築した。
移築に際し、寸法を合わせるために従来とは90度向きを変えて設置された。
月見櫓・渡櫓・水手御門・艮櫓の全てが1947年(昭和22年)2月26日に文化財指定、
戦後の文化財保護法で1950年(昭和25年)8月29日に国の重要文化財として再指定されてござる。
ちなみに、県民ホールは地表面を空洞にした状態で建設されているので
(支柱のみで吹き抜けの高床構造)艮櫓の石垣遺構は保存されている。
高松城は先に書いた通り海に面した水際城。典型的平城でござる。
本丸は四方を濠に囲まれた孤島とし(現在は西面が埋めたてられ地続き)
北側に位置する二ノ丸と橋で連結している。この橋は当初欄干橋であったが、
江戸時代中期には屋根の付いた廊下橋に改められた。鞘橋(さやばし)の名称がある。
二ノ丸もやはり四方を濠と海に囲まれ(本丸同様に西側は埋め立てられた)、
東側に出入口を設けて三ノ丸と繋がっているが、この連絡口の足下は水門となっており
城北に広がる瀬戸内海の水を城内の濠に引き込んでいる。高松築港によって
一時海と濠は隔絶されたが、現在は水路を設けて海水を取り入れられるようになった。
水門は再び潮位調節の役割を担い、濠には海水魚が泳ぎ住処としており申す。
近世城郭としては異例の小ささである本丸・二ノ丸に比べ、
三ノ丸は比較的大きな面積を有している。江戸時代は藩主御殿の披雲閣があり、
1872年(明治5年)老朽化によって取り壊されてしまったが、
1917年(大正6年)規模を半分にして再建された。再建披雲閣は現在高松市の所有となり
公会堂として市民に開放されている。大正の再建に合わせて内苑御庭も再現。
1916年(大正5年)造営の枯山水庭園には当時の裕仁皇太子夫妻(昭和天皇夫妻)が
植えた松や江戸時代の庭園を模した三尊石などがある。三ノ丸の北東に拡張されたのが
北ノ丸である。北ノ丸の西北端(三ノ丸の北東端と重なる張出部)にあるのが
上記の月見櫓・渡櫓・水手御門でござる。北ノ丸からさらに南東へ広がるのが新曲輪、
つまり三ノ丸の真東に位置する曲輪で、この北東隅櫓であったのが艮櫓となる。
新曲輪はその大半が現在香川県県民ホールの敷地となっている。
さて三ノ丸へ話を戻す。披雲閣の南側が桜御門跡でござる。上記の通り
太平洋戦争の空襲で建物は失われてしまったが、残された石垣でその壮大さは想像できる。
食違虎口になっていない門で、門内側に一文字石垣を作り防衛策としている。
近世城郭の門としては特異な構造といえるだろう。
桜御門の南に開かれた曲輪が桜ノ馬場でござる。その名の通り馬の教練を行った場所で
往時は現在の倍近い広さがあった。桜の名所として有名で、春は花見客で賑わう。
馬場の南東端にあった太鼓櫓の跡地に新曲輪から移築された艮櫓が建てられている。
そのすぐ脇が旭門すなわち大手口となっており、
玉藻公園の入園者を出迎えるように艮櫓がそびえているのである。
最後に高松城の天守について記載しておく。
高松城天守は生駒時代3重4階として建てられ、松平頼重により3重4階+地下1階に改築された。
本丸東隅に築かれた天守台に乗る白壁の天守は海上から見ても映える威容を誇っており
「讃州讃岐の高松様の城が見えます波の上」と謳われた。他城の天守とは違う独特の外観で、
初重〜2重は逓減するものの、2重〜3重は上部の方が大きい。いわば「頭でっかち」な天守は
「南蛮造り」と呼ばれる工法で、高松城の他に岩国城(山口県岩国市)や
小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に類例を見ることができ申す。
なお、初重も天守台の石垣からはみ出る大きさであった。
(類例に萩城天守(山口県萩市)や熊本城大天守(熊本県熊本市)など)
老朽化の為に1884年(明治17年)解体されてしまい、それ以前に撮影された古写真が
1枚だけ残されている。高松市は史跡公園として天守再建を模索しているが
史料となるものがその写真のみなので実現の目途は立っていない。
1902年(明治35年)天守台に歴代藩主を祭る玉藻廟が建てられた(写真左)。
現在は御神体を移して祭っているので、残された建物は「旧玉藻廟」と呼ばれている。
現存する遺構
月見櫓・続櫓・水手御門《以上国指定重文》
堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡
移築された遺構として
艮櫓《国指定重文》
撫養城
丸亀城