阿波国 撫養城

撫養城跡模擬天守

所在地:徳島県鳴門市撫養町林崎

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★☆■■■



「むやじょう」と読む。別名で岡崎城、林崎城とも。
鳴門市岡崎地区撫養町の妙見山を城域とする山城でござる。
正確な築城年代は不明だが、小笠原氏によって守られていたらしい。
足利将軍家とも所縁があり、当時の管領・細川高国に追放された10代将軍
足利義稙(あしかがよしたね)や、織田信長に京を追われた14代将軍
足利義栄(あしかがよしひで)がここ岡崎へ落ち延び、同地で没している。
戦国時代には四宮氏が城主となっていたが、1582年(天正10年)に
土佐国(現在の高知県)から侵攻した長宗我部(ちょうそかべ)氏が攻め落とし
長宗我部元親の城代として真下飛弾守が任ぜられる。
しかし、羽柴秀吉による四国征伐で長宗我部氏は土佐一国に封じられ
阿波国(徳島県)は秀吉の重臣である蜂須賀(はちすか)氏が拝領。
1585年(天正13年)蜂須賀家政は一宮城、次いで徳島城に入城し
同年に阿波国内の要所9箇所を「阿波九城」として整備、
支城網を形成したのでござった。目前に淡路島を望み、
鳴門海峡や紀伊水道を監視できる撫養城は当然この九城のひとつとされ、
家政の異母弟である益田内膳正忠が城番となり城兵300を以って守らせた。
益田氏の統治は3代に渡ったが、大坂の陣終結による元和偃武が成ると
徳川幕府の「一国一城令」が出され、1638年(寛永15年)他の阿波九城と共に
撫養城は廃城とされ破却されたのでござった。
1830年(天保元年)旧城主四宮氏の子孫と撫養町林崎郷の近藤利兵衛が共同し
城跡の削平地に妙見神社を建立。この神社は平安時代末期に中国から伝えられた
北辰(北極星)信仰の社であり、天御中主神(あまのおなかぬしのかみ)を祭る。
現在も妙見神社は城跡に鎮座し、社殿の背後には撫養城の石垣遺構が残っている。
また、1965年(昭和40年)には3重天守を模した建物(写真)が建てられた。
(ちなみに、旧来の撫養城に天守はない)
これは地元鳴門市出身の人類考古学者・鳥居龍蔵の業績を記念した博物館。
徳島城跡にあった城山貝塚の発見など、氏の功績は多岐に渡っている。
この博物館があるため、駐車場などの施設は完備されており登城はかなり楽でござる。
静かな山頂から望む眺望は広く、徳島平野を一望できる。




現存する遺構

石垣・土塁・郭群
城域内は市指定史跡




川島城  高松城