阿波国 徳島城

所在地:徳島県徳島市徳島町・城内
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★★★■■
室町時代において、阿波国(現在の徳島県)は管領(将軍を補佐し政務を統括する最重要職)の
細川氏が領国としていた。戦国時代に入り細川氏は次第に勢力を弱め、
その家宰であった三好氏が主家に代わり阿波国・讃岐国(香川県)など四国の大半と
和泉国・河内国(現在の大阪府)といった畿内の要所を治めるに至ったのでござった。
が、三好氏も中央政界の権力闘争で弱体化し、畿内を尾張国(愛知県西部)から伸張した織田信長、
四国を土佐国(高知県)を本拠とする長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に侵食されていく。
結果、本能寺の変で横死した信長に代わった天下人・羽柴秀吉と元親の対立の構図が出来上がり
1583年(天正11年)〜1585年(天正13年)にかけて数回の交戦に及び申した。
1585年8月、時勢を的確に悟った元親は秀吉に降伏。長宗我部氏の領国は土佐一国に封じられ
阿波国には秀吉の腹心である蜂須賀(はちすか)氏が18万石で入国した。当初、蜂須賀家政は
一宮城に入ったが、新城をここ徳島城と決定し1585年末から工事に取りかかった。
もともとこの場所は三好氏の家臣が守った渭津(いのつ)城(渭山城とも)の名残であり
徳島平野を流れる大河・吉野川を大外濠とし、それにいくつもの小河川が網目状に繋がり
ちょうど城の敷地を孤島の状態にしていた天然の要害でござった。
渭津城は1385年(元中2年・至徳2年)の築城といわれるので、実に200年ぶりの再築工事は
秀吉の意向もあって近隣の長宗我部氏や小早川氏などを手伝普請に動員して
翌1386年(天正14年)には完成を見る突貫工事であった。
関ヶ原合戦後も蜂須賀氏は徳島を安堵され、大坂の陣の戦功により淡路国を加増され
その石高は25万7900石にも及んだ。蜂須賀氏は家政以来15代を経て明治維新を迎える。
維新後、城は破却されほとんどの建物は取り壊されたが、城の大手口にあたる
鷺の門だけは破壊を逃れ残された。しかしこれも太平洋戦争の空襲で焼失してしまう。
かなり大型の薬医門で、徳島藩の風格を物語る立派な門であったため
市民の熱望によって1989年(平成元年)9月15日に復元竣工。
城の縄張りは吉野川支流の寺島川と助任(すけとう)川に挟まれた小山を利用する平山城。
山頂に本丸を置き、西の尾根に西二ノ丸・西三ノ丸・西ノ丸と下る。
これらの曲輪は食違いの虎口で連結され、強固な防衛力を発揮するようになっていた。
しかし城の大手として開けているのはむしろ東・南側であり、本丸のすぐ東下に東二ノ丸を構え
その山下に空いている敷地に藩主の御殿と庭園が作られ、入口となる南端を太鼓櫓・月見櫓の
2つの大櫓で堅めて防備していた。さらに太鼓櫓の虎口を守るのが鷺の門であり
月見櫓と並んで建つ姿は徳島城の表玄関を重厚なものたらしめていたのでござる。
ちなみに、徳島城の天守は本丸ではなく東二ノ丸に設置されており、
徳島平野と紀伊水道を望むようになっていた。この事からも、徳島城の戦略構想が
西側ではなく東側・南側を主体として考慮されていたと覗える。
現在、城跡に現存する建造物はないが、各曲輪の石垣や濠は良好な状態で残されている。
城の東面に連なる多聞櫓跡の石垣は遠大な長さに及び、かなり壮観。
2006年(平成18年)1月26日には国の史跡に指定された。
なお、かつての御殿跡地は徳島公園として整備され、特に表御殿庭園は
1941年(昭和16年)12月13日に指定された国の名勝でござる。
現存する遺構
堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡
表御殿庭園は国指定名勝
福山城
白地城