築城者・小早川隆景の“背景”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR三原駅を北側から眺めると、まるで石垣に蓋をしたかの如く駅舎が城跡に“乗っかって”いる。これが三原城跡であるが、
こんなにも虐げられた環境にありながら、国史跡そして続日本百名城に数えられる程の名城なのだから凄い話でござる。■
築城したのは三原中納言こと小早川隆景。歴史好きの方には「毛利両川(もうりりょうせん)」の片翼として、そうでない方でも
豊臣政権五大老の1人として高等教育で習っている筈…なので名前くらいは御存知だろう。そうでなくてはイカン(苦笑)■■
隆景は安芸の謀将・毛利治部少輔元就の3男として産まれた。幼名は徳寿丸(とくじゅまる)。長兄・備中守隆元(たかもと)や
次兄・治部少輔元春(もとはる)と共に元就正室・妙玖(みょうきゅう)夫人から産まれており、元就の他の子(側室の子)とは
別格の待遇を受け重用された。元就が“三矢の訓”を授けたのも妙玖が産んだ3人に対してとされ、山陽の名族・小早川家に
養子として送り込まれ(元春は山陰の強豪・吉川(きっかわ)家へ入嗣)、毛利本家の後嗣たる隆元を吉川・小早川の両家で
支える事を期待された人物である。所謂“三矢の訓”の話は後世の創作だが、それに近い内容で元就が3子に教訓を与えて
おり、父・元就が元春や隆景に大きな任務(そして訓戒も)を課していた。然るに名将・隆景はその期待に十分すぎる応えを
出し、人生の総決算として築いたのが三原城だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小早川氏は“海の一族”である。出自は鎌倉武士たる相模国足下郡早川荘(現在の神奈川県小田原市近辺)の開拓領主・
土肥(とい)氏で、その地名から小早川を名乗るようになり、平家滅亡後の恩賞で安芸国豊田郡沼田(ぬた)荘や同国賀茂郡
竹原荘(合わせて広島県三原市〜竹原市周辺)に所領を得て彼の地に移住したもの。後に沼田小早川氏と竹原小早川氏に
分流。本家と言えるのは沼田小早川氏の方だが、竹原小早川氏も拮抗する勢力を持ち、隆景はこの竹原小早川家へと養子
入りしたものだった。その後、沼田小早川氏も当主の引退を余儀なくされ、隆景はその家督も継承。結果的に、分流していた
両小早川家は隆景によって合一され、瀬戸内海航路を牛耳る実力を手にする事となった訳だ。地図を見れば分かる事だが、
竹原〜三原という地域は安芸国の東端を守り、伊予国(四国)との狭い海峡を封鎖し得る“海の要衝”であるため、必然的に
海上交易を制する莫大な財力と軍事力を手にしたのである。ところが、隆景が入嗣した頃に小早川家が本拠としていたのは
木村城(広島県竹原市、竹原小早川時代)、次いで高山城(三原市内、沼田小早川継承後)といずれも山城で、経済基盤たる
海とはかなりの距離がある。どちらの城も川沿いで水運の恵みには関わるものの、「水軍」の制御には難がある立地だ。戦国
乱世真っただ中、しかも小豪族であった小早川家としては堅固な山城に依るのも致し方ない事だったかもしれないが、隆景が
「三本の矢」として毛利家中随一の実力者へと成長し、大軍勢を統括する立場となった頃には、もっと経済や軍勢を直接的に
支配できる“近世城郭”が必要となっていた。斯くして、新たに築かれた小早川家の拠点城郭が三原城なのである。■■■■
なお、小早川家の勢力範囲は概ね“安芸国”であるが、三原城の所在地は“備後国”である。現在の三原市街地、国道2号線
三原バイパスの梅観橋より西側が安芸国、東側が備後国という境界線に当たり、三原城は国境のギリギリ東側に築かれた為
備後国に所在した事になるものだ。港湾都市となる海の要衝である三原市街地が、当時は安芸と備後の境目と言う“僻地”で
あったと言うのは興味深い。その僻地が築城の後、今では山陽新幹線の停車駅になる程の中核都市に育っていく。■■■■
三原市街地の成り立ち■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では改めて、三原市中心部の地図を見てみたい。大きく捉えて北側に山、南は海、と言う地形なのだが、三原駅を中央として
東西に山陽本線・山陽新幹線の線路が走る。その線路と並走するように西から東へ西野川が流れ込み、ちょうど駅の南側で
河口となっている。即ち、川の南側というのは駅より西側にだけ陸地があるような状況だが、これは大半が埋立・干拓地なので
当時はもっと大きく海が入り込み入り江を作っていた。冒頭に記した通り、駅が城の跡地であるため、三原城が築かれた所は
“三原湾”と呼べる内海の波打ち際、と言う事になる。恐らく、その頃は湾内にいくつかの小島が浮かぶ地形だったのだろう。
江戸時代中期に編纂された萩藩(言うまでもなく毛利家の藩である)の家譜集「閥閲録(ばつえつろく、萩藩閥閲録とも)」では
三原城の起源について、隆景の付家臣である八幡原孫八郎元直(やわたはらもとなお)が1553年(天文22年)「三原要害」の
在番を命じられたとあり、その頃には何かしらの施設が築かれていたと推測される。当時は三原湾内の小島に船を乗り付け、
軍船を束ねるような構造だったと見られる。三原要害は別の城を指すとの説もあるが、海上交易確保は小早川氏にとって生命
線なので、この島嶼部に軍船の係留場が何も無かったとは思えない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
隆景は1567年(永禄10年)から三原城の本格的整備を始めたが、その年には伊予への出兵も行っており、海上戦の重要性が
増した状況と合致している。当然それは毛利家(両川を含む)勢力拡大の時期とも一致し、中国地方の覇者となるのに小早川
水軍が縦横無尽に活躍したのは確実だ。毛利家が押しも押されぬ大勢力となった1580年代になると三原城の大拡張が図られ
1582年(天正10年)には隆景がこの城を本拠として移転してきた。奇しくもこの年は本能寺の変で信長が斃れ、秀吉が天下人の
後継者として動き出した年。隆景は織田政権、それに続く豊臣政権が近世統治体制を拡充するのを横目に見て、山深い城より
都市基盤を拡充できる平野部の城が必要と判断したのが良く分かる話である。この時に隆景は旧来の城から寺社なども三原へ
移転させており、言ってみれば「城下町ごと引っ越す」施策を行った。更には山陽道の付け替えも為され、三原は陸路と水路の
結節点として重要度を増してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで本能寺の変と言えば、毛利軍と対峙していた羽柴筑前守秀吉(当時)が都の急変を知るや即座に和議を結び、主君の
仇討ちに軍を返した事が有名だが、この時に秀吉の追撃を主張する者もいた毛利軍の中で、和議の貫徹を唱えたのが小早川
隆景であった。以来、秀吉が関白となり豊臣政権を確立する中で隆景は重鎮として迎え入れられる。小早川家は毛利両川での
一翼から中央政権の大老としての地位を得る事となり、遂に1586年(天正14年)毛利家臣ではなく独立大名として筑前・筑後・
肥前など37万石を与えられた。これに伴い1589年(天正17年)隆景は筑前国名島(なじま)城(福岡県福岡市東区)へ居を移し
1594年(文禄3年)には秀吉の甥である羽柴金吾秀俊を養子に貰い受けてもいる。小早川家に入った秀俊は、中納言秀秋と
名乗るようになる。後の関ヶ原合戦で勝敗の行方を左右した金吾中納言・小早川秀秋だ。■■■■■■■■■■■■■■■
秀俊は毛利宗家への養子入りが画策されていたのだが、豊臣家による毛利家乗っ取りを危惧した隆景は自分に実子が居らず
小早川家の家督を譲ると言う名目でそれを阻止したと言う。確かに実子のいない隆景であったが、しかし既に後継者として別の
養子を立てており(小早川筑後守秀包(ひでかね))秀俊を養子に受ける必要は無かったのだが、毛利家を守るため敢えて身を
捨てる選択を採った訳だ。亡父・元就の遺訓がここまで影響したと言えるが、これにより名島城は秀秋に譲り、自分は隠居して
再び三原城へ戻って来ている。以後、隆景は1597年(慶長2年)6月12日に亡くなるまで三原城を居城としたが、その間も城の
修築・改修を継続しており、隠居城として優雅に暮らしたという状況とは程遠い生活を送っていたようだ。再末期の改修工事で
かつての居城・新高山(にいたかやま)城(三原市内)の石垣から石材を抜いて三原城の石垣構築に充当し、城と軍港が一体と
なった“海軍要塞”を作り上げ、晩年でも毛利領国の防衛に意を砕いていた様子が良く分かる。写真にある「天主台」と呼ばれた
石垣はこの時期のもので、石材を奥行きに長く積む通常の積み方とは異なり表面に現れる側に長さを求める「アブリ積み」とか
「鏡積み」と称す独特な技法を用いている。この方法では石垣の強度が弱まってしまうが、裾野を広く延ばして安定性を確保し
地元では優美な曲線の石垣を郷土の誇りとしているようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
隆景死後の三原城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
隆景が没して三原は毛利直轄領となるが、程なく関ヶ原合戦で西軍に付いた毛利家は所領の大半を没収されてしまい、1600年
(慶長5年)から安芸・備後2国49万8000石は福島左衛門大夫正則の領国となった。正則は広島城(広島県広島市中区)を居城と
した為、三原城には彼の養子・刑部少輔正之(まさゆき)が入った。福島氏の統治期にも城の拡張は続き、一説では海に面した
10基の二重櫓はこの時に整備されたとか。また、1615年(元和元年)一国一城令(大名の居城以外の城は原則廃する法令)で
廃城にした鞆城(広島県福山市)から櫓を移設したとの話も残る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし正之は父・正則から廃嫡され1607年(慶長12年)幽閉処分を受け翌1608年(慶長13年)に悶死。正則もまた、武家諸法度
違反の廉で1619年(元和5年)6月に改易された。芸備2国は紀伊国和歌山(和歌山県和歌山市)から転封されてきた浅野但馬守
長晟(ながあきら)が42万6000石を以って領する事となる。よって、三原城は広島藩浅野家の支城として維持されていき、浅野家
筆頭家老である浅野平左衛門忠吉(ただよし)が城代となった。忠吉は紀伊時代の浅野家でも新宮城(和歌山県新宮市)を預け
られていて、江戸時代に陪臣(大名の家臣)でありながら城持ちという地位を維持した。以降、この三原浅野家が代々に渡って
三原城の管理に当り、作之丞忠長(ただなが)―右近太夫忠真(ただまさ)―長五郎忠義(ただよし)―甲斐守忠綏(ただやす)―
万助忠晨(ただあき)―定之助忠正(ただまさ)―甲斐守忠愛(ただよし)―遠江守忠順(ただより)―甲斐守忠敬(ただひろ)―
仲之丞忠(ただし)が継承して明治維新を迎えた。この間、1659年(万治2年)濠の浚渫、1663年(寛文3年)に本丸御殿を建替え、
1680年(延宝8年)の修繕工事、1707年(宝永4年)大地震の影響による石垣の積み直し、1823年(文政6年)二ノ丸に城主別邸
御殿の建立、1828年(文政11年)北隅櫓石垣の修復といった工事が行われてきた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大島・小島と言う2つの島を繋ぐところから始まったとされる“三原要害”は、完成期の三原城となるや東西1.1km×南北700mにも
及ぶ大城郭へと作り変えられていた。三原駅の辺りが中心となる本丸、その東面をぐるりと取り囲む形で二ノ丸が広がり、更に
その東側〜北側には広大な三ノ丸が繋がる梯郭式の縄張りを基本とする。他方、二ノ丸南端部から連結する形で西にも城域は
延び、中門を経て馬出、その先に西曲輪群が用意されていた。二ノ丸の南東端と三ノ丸本体の更に南側に突端部が突き出し、
その中は海と直結する舟入となっていて、大軍船が三原城に直接乗り入れられる構造はまさしく海城としての面目躍如。三原の
浮城と称されるのも、さながら海に浮かぶ石垣が島のように見えたからだが、元々が島だったのだから当然と言えば当然か(笑)
海に接した城の南面には多数の櫓が並び、さぞかし壮観な浮城であった事でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸の北端部は写真の天主台である。長辺(南北)が70m×短辺(東西)でも50mを越える巨大さで、将軍家の城である江戸城
(東京都千代田区)大天守の50m四方よりも大きく、大御所・徳川家康の隠居城であった駿府城(静岡県静岡市葵区)天守台の
80m×60mに匹敵する規模を持つが、実際にそこに天守が建てられた訳では無く、隅部に3基の二重櫓を置き、それを多聞櫓で
繋いだ“天守曲輪”とも呼ぶべき構造だったそうだ。但し、鞆城からの移築櫓がここに置かれ、それは三重櫓だったと考える説も
あるので、そうならば天守に相応しい建造物があった事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城域全体では城門が14、隅櫓が32もあったそうで敵に対する備えは万全だったと思えるが、更に城の北側(市街地のすぐ北)に
位置する桜山(標高175m)も詰めの城として用意したと言われており、単なる近世城郭としての海城ではなく、戦国期の遺風を
残した実戦城郭としての構えも崩していなかった。この桜山城を三原城の出丸か、別の城と考えるかは意見の分かれる処だが
さすがは名将・小早川隆景、硬軟両面に長けた築城を目論んだという点には異論の余地が無うござろう。■■■■■■■■■
明治維新後の三原城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代が終わり、近代化を急ぐ明治新政府は海軍鎮守府(西海鎮守府)建設用地として三原城跡地に目を付けた。そのため
仮設の建築物が建つところまで進展したが、沼田川(西野川の南側に流れる大河)からの体積土砂により三原湾が埋まるとの
危険性が指摘され、この件は立ち消えになる。結果、瀬戸内海における海軍鎮守府は同じ広島県内の呉へと移る事になるが、
港湾都市としての重要さが近代兵制にまで及んでいた証左となる話であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、軍用地としての利用は見送られた三原城跡だが、今度は近代化のもう一つの柱と言える鉄道敷設用地として着目されて
1894年(明治27年)6月10日、山陽鉄道(当時)三原駅が本丸上に開業した。軍用地の解除以後、城内の諸建築はもちろんの事
樹木までもが破却・転売された他、石垣の石材も港湾施設工事に転用され、かつての城地は分断・整地されていく。それに加え
城跡の南側を通る形で国道2号線(旧道、現在の国道185号線)が整備され、海から途絶する形態になってしまい、海城としての
よすがは残さなくなってしまった。このように近代化の波に飲み込まれた三原城であったが、それでも「小早川氏が山から海へ」
進出していった歴史を示す重要な史跡として、1957年(昭和32年)12月11日に国の史跡に指定された。この史跡指定は上記した
来歴に登場する高山城・新高山城と共に「小早川氏城跡 妻高山城跡 高山城跡 三原城跡」の名称で、3城を組み合わせた形で
行われている(妻高山城が高山城、高山城が新高山城を指す)。古態を大きく損ねた三原城が国史跡となるにあたり、文部省は
「山陽鉄道が敷設せられて早く本丸の一部その他を破壊し、また海岸の埋立て、市街地の発展等によって、今日はその全貌を
地上に求めることは困難である。併しながら極めて緩かな曲線を画く本丸の石垣は殆んど独自とも称し得べく、築城の沿革上
著名なものとして逸することのできないものである。また一部濠の石垣、本丸外郭の一部が辛うじて遺存してやや旧観を偲ばし
めるものがある。」と説明し、断片的に残る石垣の存在やその形状に価値を見い出していた。ところが高度経済成長期を経て
1975年(昭和50年)3月10日、山陽新幹線が岡山〜博多の延伸を果たすと、新幹線用のホームが三原駅に増設され、本丸北側
4分の1程の敷地が削り取られてしまう。そのため、この部分は1980年(昭和55年)7月12日に史跡指定が解除された。■■■■
しかしながら、一方では三原城に関する調査・保護も進められるようになり、1998年(平成10年)12月8日と2007年(平成19年)7月
26日に国史跡指定範囲が追加された。また、1998年の改定で史跡名称も「小早川氏城跡 高山城跡 新高山城跡 三原城跡」と
現状に即した形に変更されてもいる。21世紀になると史跡整備が本格化、失われた石垣の復興や残存設備の再活用が進んで
2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城の1つに数えられる事となり申した。■■■■■■■
続百名城に相応しい?遺構の数々■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「駅に潰された城」の印象が強い三原城であるが、実際に訪れてみると残っている遺構は見事で、なるほどこれは立派な城だと
感心させられる。特に、駅舎から飛び出るように鎮座する天主台石垣の大きさは群を抜いており圧巻だ。この天主台の上には
駅の自由通路を通って出られる。自由通路なので駅構内への入場券切符は不要だが、駅が解放されている時間内に限られる
(06:00〜22:00)ので注意されたい。逆に言えば、“駅近物件”ならぬ“足元物件”なのだが鉄道利用での来訪時には必ず改札の
外へ出なければ見学できない(列車の通りすがりで立ち寄る、というのはダメ)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸中門跡・東西の舟入跡・二ノ丸鍛冶曲輪跡・和久原川河岸と言った各所に石垣が残存するのだが、これを見つけに行くのも
宝探しをしているようで楽しい。分断された城と言うのを逆手に取るのも面白い話であるし、残された遺構はどれも見事なもので
続百名城に数えられるのも納得できる。また、移築門もいくつかあり、市内西町にある浄土真宗高隆山順勝寺の山門は城内の
作事奉行所門を1877年(明治10年)に移設したもので、切妻造り本瓦葺きの薬医門。桁行6m×梁行2.37m×軒高3.2mの規模で
1979年(昭和54年)4月21日に三原市の重要文化財に指定されている。続いて三原市の沖に浮かぶ佐木(さぎ)島の中、真言宗
宝篋山安楽寺の山門も三原城内にあった御成御門を移したと伝わり、桁行5.7m×梁間1.8m×軒高3.7m、切妻造り本瓦葺きの
四脚門。順勝寺山門と同日に三原市重文となっている。さらに糸碕神社の神門も桁行5.75m×軒高3.67mで、三間一戸切妻造り
本瓦葺の四脚門、元は三原城内にあった町奉行役宅(生駒家)の門だったそうだが、この生駒家邸は町奉行所と隣接していた。
糸碕神社神門も他の2門と同日、市重文に指定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
奉行所の門と言うならばもう一つ。新幹線の備後トンネル西面出入口北側にある浄土宗日照山極楽寺、三原だるまの寺として
知られる古刹だが、その山門は三原町奉行所の門だったとかで、一間一戸の棟門。切妻造り本瓦葺、桁行3.14m×梁行2.07m、
蟇股には唐獅子・牡丹と鳳凰の彫刻があり、他の移築門より一足早く1970年(昭和45年)10月25日に三原市重文となっている。
それもその筈、この門は町奉行所の門と言う前後にも歴史を重ねており、元々は新高山城の門として作られ、三原の城下町が
開発されるにつれ町奉行所へ移された。その奉行所は明治維新で尋常小学校・亦楽舎(えきらくしゃ)となり、学舎の正門となる。
極楽寺へと再移築されたのは1878年(明治11年)の事だ。なお、亦楽舎は現在の三原市立三原小学校へと繋がっている。■■
変わった移設物としては、城内で時報に使われていた銅鐘が三原小学校の西にある日蓮宗無量山妙正寺で保管・使用されて
いる。1576年(天正4年)鋳造との事で、三原要害から三原城へと進化する途上の時代に作られた。小早川家の陣鐘だったと
伝わり、高さ110cm、口径64cmと云う大きさ。1962年(昭和37年)5月28日、三原市の重文に指定。その鐘を吊るしていたと言う
鐘撞堂も妙正寺近くに残り、1979年4月21日に市の重文となっている。更に残る遺物が本丸大広間の建築部材。杉戸が1枚と
小組格天井部材が6点で、杉戸は竹林に虎の絵が描かれた一枚板、190cm×140cm。格天井の小組は42.6p×44.8pだ。本丸
大広間は1880年(明治13年)から三原小学校の教室として使用されていたために長らく同小学校で保管されていたものだが、
現在は三原市歴史民俗資料館に収蔵されており申す。これらは2018年(平成30年)12月20日、三原市の重要文化財になった。
玉壺城との別名もある三原城。移築門が多数ある浮城と言うと琵琶湖畔にあった膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)を連想するが
しかしあちらは百名城でも続百名城でもないから三原城の方が上?いや、比べた所で詮無い事なのだが(爆)■■■■■■■
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