阿波国 白地城

白地城跡

所在地:徳島県三好郡池田町白地

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



徳島県三好郡池田町にある城郭。「はくちじょう」と読み申す。
池田町は徳島県の最西部に位置し、四国の中心とも言える場所にあり
徳島―愛媛を結ぶ街道(伊予街道)と高知―香川を結ぶ街道が集約する陸上交通の
要所でござった。現在も国道192号線(徳島県徳島市〜愛媛県四国中央市川之江)と
国道32号線(香川県高松市〜高知県高知市)がここ池田町白地で交わっている。
池田町の起こりは古く、約4000年前の住居跡が発見されており
弥生時代には稲作が行われていたようである。鎌倉時代になると阿波(現在の徳島県)守護には
有力武将の佐々木経高、次いで小笠原長清が任じられ、この地に確固たる勢力を築いた。
白地城は1335年(建武2年)に田井庄(池田を中心とした四国中央部)の庄司であった
近藤京帝が築城。阿波最西端であるこの地を「大西郷(最も西の場所)」と改め
自らも近藤から大西に改姓し、土着の武士となった。室町幕府が成立すると
阿波守護には管領(将軍を補佐して政務を統括する最重要職)細川氏が任じられ
三好と改姓した小笠原氏や大西氏はその支配下に組みこまれたのでござる。
三好氏は細川氏の家宰となり権力を増大化させ、戦国時代に細川氏が没落すると
主家を圧倒して実質的な阿波の支配者となった。大西氏は三好氏と連携し、
阿波西部の支配権を勝ち取る。大西氏の支配地域は最大で2万石にもなった。
ところが、三好氏は一時中央政界を牛耳り天下を覗うものの
梟雄・松永久秀や畿内国人衆の統制に悩まされ次第に衰退していった。
この時勢に至り、1575年(天正3年)土佐(現在の高知県)から破竹の勢いで進撃する
長宗我部(ちょうそかべ)氏が阿波侵攻に着手。細川・三好家の弱体化を狙い
満を持しての出陣であった。長宗我部軍はまず阿波南端の海部郡を制圧、
返す刀でここ大西郷へ押し寄せた。しかし白地城主・大西覚養(かくよう)は堅く守り
落城は困難とみた長宗我部元親は覚養の弟・上野介を人質にとって兵を引き和睦した。
のち覚養は元親に離反。長宗我部軍は上野介に進撃の先導をさせて再び白地城を攻略、
覚養も今度は防戦できず讃岐(現在の香川県)麻城へと退却したのでござった。
1577年(天正5年)の事である。戦わずして白地城に入った元親は四国統一の根拠地として
城郭の改修工事を行う。長宗我部氏はこれを契機に阿波全土を手中に収め
さらに讃岐へと兵を進めたが、讃岐を領した十河(そごう)氏は羽柴秀吉に救援を要請、
これを承諾した秀吉の大軍が四国へと派兵される事態になる。数年に渡る抗争を経て
元親は秀吉に降伏。既に秀吉は天下の覇権を握っており、状況を的確に判断した結果であった。
長宗我部氏の領国は土佐一国に減じられ、阿波には秀吉の腹心である
蜂須賀(はちすか)氏が入国した。このときに白地城は廃城とされたのでござった。
現在の白地城跡には阿波池田簡易保険保養センターが建てられ、当時の遺構は何も残らぬが
この「かんぽの宿」建設工事にあたって発掘調査が行われ、
曲輪の削平地・堀跡・武者走りなどの遺構が確認された。
「かんぽの宿」の玄関前に「白地大西城址」の案内板がある事だけが城跡の証明だが
客室の窓からは眼下に池田大橋(国道32号線と192号線の合流点)を望めるので
大西氏や長宗我部元親さながらに城主気分を味わう事ができ申す。




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