備後国 福山城

福山城 復元天守

 所在地:広島県福山市丸之内 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★★



戦国随一の傾奇者、福山に新城を築く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名は久松(ひさまつ)城。葦陽(いよう)城とも。「鉄覆山朱雀院(てつおうざんすざくいん)久松城」という仰々しい名称も。
福山市の中心部に築かれた平山城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代末期、安芸・備後(共に現在の広島県)は毛利氏の領土であったが、1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の責を問われ
その所領を失った。毛利氏の領国は中国地方9ヶ国112万石から周防・長門2ヶ国(現在の山口県)37万石へ減じる事になり
安芸・備後には毛利氏を押さえ込むべく猛将・福島左衛門大夫正則が入国したのだった。しかし正則は豊臣家へと忠誠を
示しており、これを危険視した徳川幕府は大坂の陣が終結した後、武家諸法度に違反したとして福島家を改易処分にした。
反徳川の中心となる豊臣氏が滅亡し幕藩体制が確立した事によって、もはや毛利氏に中国地方の旧領を奪還する意思は
消え、よって武辺の正則に芸備49万石の大封を与える事は幕府にとって不都合でしかなかったのである。■■■■■■■
福島正則の旧領のうち、安芸国広島城(広島県広島市中区)には浅野氏が42万石で入城し、備後国福山には大和国郡山
(現在の奈良県大和郡山市)から徳川譜代家臣である水野日向守勝成(みずのかつなり)が10万石の禄高を以って1619年
(元和5年)に入府した。水野家は徳川家康の生母・於大の方の実家であり、数ある譜代家臣の中でも特に重視された家格。
勝成は生粋の「傾奇者」と呼べる武将で、若い頃に父親の水野和泉守忠重(ただしげ)と対立して出奔し、羽柴筑前守秀吉・
仙石権兵衛秀久(せんごくひでひさ)・佐々内蔵助成政(さっさなりまさ)・小西摂津守行長(こにしゆきなが)・加藤主計頭清正・
黒田筑前守長政と次々と主を替えて仕官を繰り返し、1599年(慶長4年)ようやく父の許へ帰参。翌1600年、父の死去により
水野家を相続し、以後関ヶ原合戦や大坂の陣で目覚しい活躍をし徳川家康に重用された。勝成は家康の従兄弟にあたり、
こうした経緯で外様大名がひしめく中国地方の監視役として福山へと向かったのだった。福山は岡山藩(池田氏)と広島藩
(浅野氏)の間に割り込む位置。山陽道の要として古来から要衝とされてきた場所である。加えて、流浪時代の勝成はこの
地域を何度も行き来しており、三河譜代の臣ながら中国地方の地理に明るかった事も、彼が福山に配された理由の一つだ。
元々この近辺には海路を押さえる鞆(とも)城と陸路を押さえる神辺(かんなべ)城があったものの(共に福山市内)、勝成の
入府によりこれらは廃され、両城に代わる新城が計画された。無論、豊臣家滅亡後は武家諸法度の規定により新規築城は
固く禁じられていたが、幕府の命に拠る西国監視の要塞となれば話は別で、特例と言える“幕府公認”によって新城計画は
動き出す。若き頃は武闘と放蕩にまみれた勝成だが、既に齢50を過ぎた熟練の武将は“酸いも甘いも噛み分けた”名将へと
生まれ変わり、幕命を達成するに必要な城を欲したのである。1620年(元和6年)に常興寺山で築城を開始、完成は1622年
(元和8年)。これが福山城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

事実上最後の「実戦和式城郭」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、福山駅のすぐ北側に復興天守をはじめとするいくつもの建物が並ぶ福山城公園が設置されている。この公園敷地が
当時の本丸に当たり、折れを多数伴った概ね長方形の敷地、東西ほぼ100m×南北150mほどの大きさを有するが、福山城
全域の敷地はもっと巨大なものである。高石垣で囲まれた本丸の西面には二ノ丸、南面〜東面を覆って三ノ丸があり、その
輪郭式主城域群の西〜南〜東側には広大な外郭が。この外郭は城下町となっていたが、それを全体的に囲い込む土塁が
築かれ、総構を有する城郭だった事が分かる。主城域内は細かく水濠で区画されて、更に現在は細い水路になってしまった
外堀川(城の北側、備後護国神社と福山八幡宮の間を流れる川)は、その源流部にある蓮池と同等の広さがあり城全体を
塞ぐ天然の外濠となっていた。加えて城の南側にも、大手門前まで水路が繋がり舟入が設けられていた。現在では海から
遡る運河が福山市立大学の所で止まっているが、往時は福山駅南口広場までそれが行き着いており、その水路は北から
東へ回り込む外堀川とも接続。福山市立大学から駅前まで通じる手城産業道路はその運河を埋め立てた名残である。当然
この運河が城南を守る水濠だった上、逆に城から外洋へ出撃(輸送・搬入にも)する場合に船で直接出入りが出来るように
なっていた訳だ。水野勝成が海城の鞆城・内陸の神辺城を集約する城としてこの城を築いたのはこうした地勢的利点を有す
立地だった点が大きい。陸戦と海戦、戦闘と統治(経済支配)の全てを兼ね備えた近世城郭の集大成、それが福山城だった。
天守のある本丸北端部が標高23.7m。大手前が舟入(つまり海と直結する海抜0m)なので、その高さが即ち比高差になるが
大半が本丸石垣で隔絶する高さで稼がれている為、二ノ丸や三ノ丸は城下とそれほど比高差が無い。その分、堀や川での
区画分けが重視される訳だが、それらを総合的に考慮した縄張りだったと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、武家諸法度で新規築城が禁じられた時代の中で、福山城以後にも赤穂城(兵庫県赤穂市)や松前城(北海道松前郡
松前町)など、ごく稀に新造が認められた城もある訳だが、江戸時代中期以降に築かれたこれらの城は「軍学理論」に基づく
縄張りなので、往々にして「机上の空論」と評されるような“実戦にそぐわない構造”が見られる。そのため、戦国時代の実戦
理論に立脚した構造を有する城としては福山城が最後のものと言えるだろう。特に、石垣構築においては福山城より後から
築かれたものは技術水準が低下していく。福山城は築城術のピークを過ぎる時期に誕生した城だったのでござる。■■■■
元和期に築かれた城であるので、本丸北端に最新鋭の層塔型天守を有した。逓減率が低い巨大な建物であり、外観5重・
内部6階の構造である。1階は半分地下に埋もれた形式となっていた。天守の南東側面には小天守と呼ばれた附櫓を備えた
複合式天守。この大型の建築物を支える為、天守の中心に2本の大柱が据えられていた。2本の通し柱で全体を支えるのは
姫路城(兵庫県姫路市)大天守と同様の構造である。窓枠には銅板を巻きつけ補強をし、壁面は総漆喰塗りの白壁。但し、
北面の壁だけは例外で、何と総鉄板貼りの真っ黒な外壁であった。福山城の縄張りは南側に啓開されていた半面、北側は
城外から本丸までの距離が比較的短かったため大砲による砲撃戦を考慮してこのような頑強な構造となっている。他にも、
天守は多数の千鳥破風や唐破風で装飾された堂々たる意匠。最上階には華頭窓も備え、優美さも醸し出していた。内部は
各階に天井板を張っており(天守建築は本来大型の物見・倉庫であり天井板などの装備は必要としない)しかも最上階には
「御調台」と呼ばれた上段の間を設け、高欄付の廻縁を具えて眺望効率を上げていた。建築用材には極上のヒバ材を使用。
白壁の優雅さ、そそり立つ外観、破風の装飾、天井板などで贅沢を極める共に一方では鉄板の外壁、銅で支えた窓枠など
実戦面も重視。まさに質実剛健と呼べる最高級の天守である。これまた、技巧を極めた時代の築城が成し得た結果だろう。
福山城は天守以外にも櫓の多い堅牢な城郭で、そのため他城からの移築物も少なくない。特に、同時期に廃された伏見城
(京都府京都市伏見区)や、福山築城にあたって廃城となった神辺城からの移築物が多く、伏見御殿・御湯殿・伏見櫓(以上
伏見城から)や神辺一番櫓・神辺二番櫓・神辺三番櫓(以上神辺城から)等が代表的なものである。これらを含め、福山城に
関する文献では3重櫓を7基、2重櫓を16基も備え、本丸と二ノ丸はほぼ全周を多聞櫓で囲っていたとされている。多聞櫓の
総延長は約570mにも及び、各曲輪は総石垣造りとなっていた。10万石の大名としては類稀な大規模城郭であり、福山城が
山陽道鎮撫の重要な使命を負っていた事がわかり申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

水野氏の城から阿部氏の城へ、そして幕末動乱と戦災焼失…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
水野家は勝成―美作守勝俊―日向守勝貞―美作守勝種―勝岑(かつみね)の5代に渡り福山城主を務めたが、嗣子がなく
1698年(元禄11年)に断絶。1700年(元禄13年)に出羽国山形(山形県山形市)から松平(奥平)左近衛少将忠雅が入ったが、
1710年(宝永7年)伊勢国桑名(三重県桑名市)へ移封となった為、今度は下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)より阿部備中守
正邦(あべまさくに)が10万石を得て入府。彼は翌1711年(正徳元年)3月28日に福山へ入り、以後は阿部氏が明治維新まで
城主を務めた。阿部氏も徳川譜代の名門であり、伊勢守正福(まさよし)―伊予守正右(まさすけ)―伊勢守正倫(まさとも)―
備中守正精(まさきよ)―伊予守正寧(まさやす)―伊勢守正弘―伊予守正教(まさのり)―主計頭正方(まさかた)―正桓
(まさたけ)と続き1896年(明治2年)の版籍奉還を迎えた。なお、7代の正弘は1853年(嘉永6年)〜1854年(安政元年)ペリー
来航時に幕府筆頭老中で、日米和親条約(神奈川条約)の締結を行った訳だが、これに代表される如く福山城は江戸幕府の
橋頭保としてあり続けたため、戊辰戦争では討伐の危機に瀕する。福山藩は表立って新政府に敵対した訳では無かったが、
薩長は徳川譜代家臣の城である福山城を攻略すべく兵を進め、1868年(明治元年)1月9日未明に戦闘が始まった。長州藩
兵は福山城の西にある本庄村の圓照寺山(福山市北本庄)に布陣し砲撃を行う。この時、天守に弾が命中し西側壁面に穴を
開けたが大きな被害には至らずに済んだ。他方、福山藩側は当初戦闘を念頭に置いておらず(藩主・正方が病死直後の為)
不意の攻撃に藩士は大混乱に陥ったが、程なく統率を取り戻し城の北側に伏兵を置き、進軍してきた長州藩兵を返り討ちに
した。この日の攻撃はこれで終わり、緊急に行われた藩首脳と長州側との交渉で和議が成立。辛くも福山城は守られたが、
徳川を滅ぼすつもりの薩長軍が継戦に拘ったなら、会津若松城(福島県会津若松市)の如き大攻防戦が行われた可能性も
あっただろう。なお、この日の戦闘では長州側に3名の死者が出た一方、福山城天守に開いた穴は塞がれる事無くそのまま
福山空襲で失われるまで残された。ちなみに、この戦いに先立つ1865年(慶応元年)福山藩は第2次長州征伐へ従軍するが
(譜代大名としては避けられぬ義務だったのであろうが、これが元で長州藩から敵視される事になった)その準備中に二ノ丸
南側の櫛形櫓で火薬が爆発、鉄砲櫓・鎗櫓・番所が類焼している。これらの櫓も再建される事はござらなかった。■■■■■
廃藩置県で福山藩は福山県となり、程なく深津県、更に小田県と変遷、岡山県に統合された事もあったが最終的に広島県へ
含まれる事となった。城は譜代大名の居城という事もあり1873年(明治6年)1月14日発布の「廃城令」に基づき廃城となった。
堀は順次埋めたてられ、二ノ丸南端部は山陽鉄道福山駅(現在のJR福山駅)が占拠する。鉄道関係による埋め立ては更に
進み、城の東側には両備軽便鉄道が、南西には鞆鉄道が開通し、昭和に入る頃には城の北西部を除いてほぼ全ての堀が
消滅。両備軽便鉄道は後に国有化され、城の西を回る路線に付け替えられて福塩線となるが、鞆鉄道は1954年(昭和29年)
3月1日に廃止されてバス輸送に振り替えられている。城に話を戻すと、廃城で城内建築物も数多く解体されてしまったのだが
幸運にも天守・伏見御殿・御湯殿など、本丸内の建築物はいくつか残された。ただ、1875年(明治8年)に福山公園となった
城跡の行方は定まらず、残された建築物の維持費用が捻出できない事から広島県と福山町(現在の福山市)との間を渡り
歩いたのだった。最終的に1896年(明治29年)に福山町が管理する事となり、翌1897年(明治30年)天守・伏見櫓・筋鉄門・
御湯殿の修理が実施されている。このため天守は1931年(昭和6年)1月19日、旧国宝に指定され保全が図られたが、半面、
市街地化はより一層進み、残されていた西側の堀も1937年(昭和12年)には全滅。それに追い打ちをかけたのが太平洋戦争
終盤の1945年(昭和20年)8月8日、福山空襲により国宝天守が惜しくも焼失。御湯殿なども同様に失われた。■■■■■■

福山城内に残る諸建築■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦後、1950年(昭和25年)文化財保護法の施行に伴い戦災を免れた伏見櫓と筋鉄御門の2棟が国の重要文化財になった。
(伏見櫓・筋鉄御門の両者とも1933年(昭和8年)1月23日に旧国宝指定、それを重要文化財とした)■■■■■■■■■■
そのため、筋鉄御門は1952年(昭和27年)から、伏見櫓は1953年(昭和28年)から解体修理を受け共に1954年(昭和29年)、
その修理が完了。本丸・二ノ丸跡は城址公園として整備され1964年(昭和39年)3月27日に国史跡に指定。また、三ノ丸では
西御門の櫓台跡が1972年(昭和47年)3月30日に、北御門外桝石塁跡が1973年(昭和48年)3月31日、本丸北西側の小丸山
(長州藩兵撃退地)が同年の5月24日にそれぞれ福山市の史跡に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
福山市制50周年記念で、1966年(昭和41年)に天守・御湯殿・月見櫓の3棟が再建された。これらについては後記するとして
まずは現存する3つの建築物を御紹介。伏見櫓は大型の3重櫓で、基台となる2重櫓の上に3重目が載る望楼型形式。本瓦
葺き屋根で安定感のある外観、1重目・2重目が同大である(重箱櫓)のに対し3重目が非常に小さいのが特徴。この為、見る
角度によって表情が異なる。元々は徳川期京都伏見城の松ノ丸東櫓で、伏見城の廃城に伴い福山へ下賜され移築された。
これは解体修理時に2階の梁からその来歴を記した刻銘が発見されており、確実な伏見城遺構と判断できる。「伏見櫓」の
名はその経歴から呼ばれる“通称”であり、福山城としての名称は「内拾番三階御櫓」と云うものだ。桁行8間×梁間3間、高さ
13.32m、内部は床板敷き・小屋梁天井となっていて、城外に睨みを利かせるべく西・南・東に多くの窓を開いている。■■■■
続いて筋鉄御門は、伏見櫓に近接する大型の櫓門である。伏見櫓同様に伏見城から移されたと伝わり、本瓦葺き、入母屋
屋根が特徴の建物。重量感があるものの、長押や垂木まで塗り込めた白漆喰の壁で軽快さも感じられる。下層の各柱には
根巻き金具を付け四隅に筋金具を打ち、鏡柱の見付けと見込みに大小の乳金具を打ち付けている。門扉は内開き2枚建て、
12条の筋鉄を鋲打ち。本丸の南西隅を守る門で、門前の枡形は伏見櫓と挟み撃ちする強固な構造になっている。■■■■
鐘櫓は本丸内にある時報用の鐘を供え付けたやや小型の2重櫓。1979年(昭和54年)10月26日指定、福山市重要文化財。
廃城以後、様々な改変があり旧態をかなり損じたものではあるが(故に、増築された渡櫓部分は文化財指定範囲外)1956年
(昭和31年)まで時鐘として使われていた。2階建の入母屋造、桁行4.26m×梁間4.209mの規模。2階の窓下には庇がある為
3重櫓に見えなくもない。時鐘として使われなくなって以後(それまでは鐘突きの管理者が居た)荒廃していったが、1979年に
大修理が行われた。但し、この時の修理でそれまで柿葺き(檜皮葺きとも)だったものが耐火性の問題から銅板葺きに改め
られている。篤志により1985年(昭和60年)から太陽光発電を利用して自動的に鐘を鳴らすような仕掛けが取り入れられ、
2階の窓庇には発電用のソーラーパネル(!)が取り付けられたが、2005年(平成17年)に装置が故障し、2007年(平成19年)
復旧工事が行われて電源は外部から供給されるようになり、太陽光発電装置は撤去される事となった。櫓とソーラーパネル、
なんとも滑稽な組み合わせながら…かなりいい味を出していて面白かったのだが (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■
それはさておき、城址内にはもう1つ市指定文化財がある。城下の武家屋敷遺構を城内に移築し保存した旧内藤邸長屋門で
1975年(昭和50年)2月18日の文化財指定。入母屋造桟瓦葺の平屋建てで、移築時の調査で「弘化三年」(1846年)の墨書が
発見された。この門の建築年代と見て間違いないだろう。桁行17.73m×梁間2.955mと長細い建物である。内藤家は阿部氏が
藩主として福山へ転封された時に付き従って来た家臣だそうな。長屋門形式の門建築は主に武士の邸宅に使われ、彦根城
(滋賀県彦根市)下の西郷邸や赤穂城(兵庫県赤穂市)下の大石邸などに現存遺構がある。この内藤邸長屋門も福山城下の
内藤家に構えられていた長屋門だった。保存状態はかなり良く、武家屋敷の雰囲気を味わうにはうってつけであろう。■■■
移設された福山城の遺物としては、旧伏見御殿の襖絵と杉戸絵がある。伏見御殿は本丸内にあった、伏見城から移築された
御殿建築で、その中に組み込まれていた板襖と杉戸が明治廃城時に払い下げられた。板襖は狩野派による障壁画が描かれ
板面縦172.5cm×横99cm、1967年(昭和42年)1月31日に市指定重要文化財に。杉戸は表裏に山村風景図と竹図が描かれ、
縦160.5cm×横109.0cm、1970年(昭和45年)10月1日に同じく市指定重要文化財とされ申した。■■■■■■■■■■■■

復興建築と令和の大改修■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さてここからは再建建築と城址整備について。天守と同時期に再建された御湯殿は、城主の風呂と物見を兼ねた施設だが
江戸時代の風呂は“湯船”ではなく”蒸し風呂”の事を指した。物見は上段・中段・下段の3つに分かれ、風呂上がりの城主が
涼みながら城下を眺めたと言われている。この建物も伏見城からの移築と伝わり、来歴・用途共に貴重な存在だったのだが
惜しくも福山空襲で焼失。再建された建物は木造平屋建て、7間×4間半の規模、旧態と同じく石垣上に張り出す“懸造り”で
現在は貸会場として使われている。続いては月見櫓。本丸の南東隅にあった2重2階、5間×3間の規模を有す櫓で、これまた
伏見城からの移築説がある。月見櫓の雅称だが、用途としては“着見櫓”つまり藩士の登城を見届けたり、敵の接近を監視
するものだったと云う。更に言えば、福山城としての正式名称は「内一番二重御櫓」であった。南東を守る重要な高層櫓だが
2階外周に高欄を巡らせている風雅な外観から“月見”の字が充てられるようになったのだろう。明治初期に取り壊され、その
場所には「葦陽館」と称す別の建物が建てられていたが(戦災焼失)戦後に月見櫓が復興されたと言う経緯がある。■■■■
再建の櫓はもう1つ。1973年(昭和48年)9月に竣工した鏡櫓こと内二番二重御櫓で、月見櫓の北にある2重2階の櫓。平面は
6間×4間の細長い敷地となっていて、現在は文書館として使われているが、旧櫓の再現度はあまり高くないそうだ。■■■■
そしていよいよ天守の話。1965年(昭和40年)10月着工、1966年10月に完成。翌11月竣工し、市立福山城博物館として公開
された建物で、建物平面は9間×8間、高さ27.9mである。鉄筋コンクリートで再建された天守は白亜の美しさで往時の威容を
取り戻したが、北面の鉄板貼りは再現されず、また窓枠や高欄形状も旧態と異なって、史実に忠実な復元とは言えなかった。
それでもこの“復興天守”は以後の福山城における象徴的な建物として、長らく福山の空に聳える事となるのである。■■■■
一方、21世紀になると市街地の再整備、特に福山駅前広場整備工事に伴い旧城地内での発掘調査が活発に行われるように
なった。2007年(平成19年)に行われた第1次調査は大手門跡地東側が対象となり、縄張図と符合する如く外堀石垣や柱穴を
検出。翌年もほぼ同じ位置で第2次調査が進められ、舟入遺構や櫓台、水門への石段等が出土する。2009年(平成21年)の
第3次調査では大手門橋があった地点に場所を移し、ここでも橋台の痕跡を確認。橋の時代変遷も明らかになった。この他、
同年中に第4次調査が、また駅北口では2005年(平成17年)にマンション建築に先立つ発掘も行われており、それぞれ見事な
石垣が検出された。これだけの成果に、石垣の保存や展示活用を求め駅前広場整備計画の見直し論が巻き起こったのだが
残念ながら福山市側は当初の計画通りに工事を強行し、石垣の遺構が残される事は無かった。■■■■■■■■■■■■
史跡整備に大きな汚点を残した形となり、一時期の福山城は“残念な城”の最右翼に立たされたものであったが、その汚名を
返上したのが天守の改修計画であろう。建築から50年以上を経た天守に耐震強化を施すと共に、福山築城400年の祭典に
合わせて大改修を行う事となったのだ。これにより大天守と附櫓は2020年(令和2年)末から足場に覆われ、大規模な改造が
始まった。同時に、月見櫓や鏡櫓、御湯殿の復興建築物も改修が行われている。約2年の工事を経て、それまで赤く目立つ
色だった天守最上階と月見櫓の高欄は黒い落ち着いた色に戻され、天守の窓も旧天守の形状に近づけるよう直された。窓に
関して言えば、それまで南面・北面の2つずつ付けられていた花頭窓も1つずつに減らされ、旧態と同じ配置にした点も大きい。
何より復興天守では再現されていなかった北面の鉄板貼りも行われて、北側だけが黒いと言う独特の容姿が復活し、城郭
愛好家の溜飲を下げるに十分な修復工事となった。折しもこの復元工事中に、それまで完全に失われていたと思われていた
旧天守の鉄板が数枚、空襲で焼けただれた状態ながら発見され、改修で使用される鉄板貼りの部材がほぼ旧態と同じ形状を
している確証が取れたという報道も行われた。斯くして2022年(令和4年)8月28日、新装成った天守がリニューアルオープン。
それまで、白一色の壁に赤い高欄と両目玉のような花頭窓という“何とくユルい”膨張感を漂わせる外見だった天守が、窓枠や
高欄が黒く固められ、花頭窓は眼光鋭い「モノアイ」となり(笑)、北面の鉄板貼りもシックに復活した“引き締まった”天守へと
生まれ変わったのである。駅前広場で容赦なく石垣を潰し(埋設保存と言えば体が良いものの…)、諸所から大顰蹙を買ったが
(地域住民の利便性も大事なのだろうが、あの遺構を破壊するのは相当に問題があったかと…もっと良い方法が無かったか?)
今や“歴史コンテンツは大きな観光資源になる”とようやく福山市が気付いたのか、天守修理は納得のいくものとなった。細かい
話としては、福山城の古天守には日本で唯一と言われる「六角形をした鉄砲狭間」があったものの、昭和再建天守にはそれが
省かれ穴の塞がれた状態であったものが、今次の整備工事ではそれが再現された(つまりわざわざ壁に穴を開けた)そうで、
この改装工事の“本気度”が窺えるだろう。今後は伏見櫓や筋鉄御門の国宝化を目標に城址整備を進めて行くとの話なので、
これからの推移に期待したいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
登城の交通手段は、市中心部という事もあり車でも鉄道でも便利。福山城公園一帯には、ふくやま美術館やふくやま文学館と
言った文教施設があり、そこに付属して駐車場も完備されているので車を停める場所に困る事はないだろう。鉄道ならば、当然
JR福山駅が最寄駅。というより、駅そのものが城内。福山駅の北口を出れば伏見櫓が出迎えてくれる。更には、JR福山駅の
山陽新幹線ホームからは眼前に福山城公園が開け、伏見櫓・筋鉄御門・御湯殿・月見櫓・鏡櫓・天守が一同に望める絶景だ。
駅から最も近くに見える天守、と言うならば福山城の右に出るものは無いだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
写真は往時を懐かしみ、改装前の天守の姿を御紹介。新装開店時(2022年8月)にも行ったので、新しい写真もあるのですがw



現存する遺構

伏見櫓・筋鉄御門《以上国指定重文》・鐘櫓《市指定文化財》
堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡
周辺各所に市指定史跡

移築された遺構として
本丸御殿(伏見御殿)板襖絵・杉戸絵《以上市指定文化財》






井原市内諸城郭  徳島城