備中国 高越山城

高越山城址 切岸と二曲輪

 所在地:岡山県井原市神代町・東江原町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★☆■■■



幕府政所分枝・備中伊勢氏の拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高越城とも。井原市の東端部、末国川の谷合盆地を東に見下ろす標高172.3mの高越山に築かれた山城。末国川は南へと流れ下り、
備中を横断する大河・小田川にこの城山の南側で合流する。小田川に沿って旧山陽道が走り、また当然ながら当時の河川は物流の
大動脈でもあった為、この城は水陸両路の守りを固めるに相応しい拠点であった事だろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■
高越山は南北に細長い山容で、これに山頂から東へ小さな支尾根が飛び出している。山頂を削平したほぼ方形の主郭とし、東側の
支尾根に一段下がった二郭、北に三郭、南に四郭と五郭を置く。如何にも定型の山城と言った縄張だが、曲輪ごとに急峻な切岸を
造成し守りを固めており、城郭愛好家にとっては“分かり易い山城”である。堀切や井戸なども残り、何より主郭からの眺めは末国川
越しの山並みが美しく、また山麓盆地は長閑な農村風景で牧歌的。城が現役だった当時も同じような農村だったであろう事が容易に
想像出来て、建物こそ現代のものだが、それを茅葺屋根の古民家に置き換えれば…と考えるのが楽しい。しかも山間の盆地は気象
条件によって川霧が立ちこめ、雲海のように幻想的な光景(写真)を捕らえる事も可能だ。昨今、雲海に浮かぶ山城が“天空の城”と
して持て囃されるが、この高越山城も“隠れた”天空の城となる名城でござろう。現在、城内は公園として綺麗に手入れされ、直近まで
車で訪れる事ができる。当然、駐車場や御手洗も完備されており、他に比べても簡単に攻略できる“天空の城”と言えよう。ただ、その
駐車場まで登る道は狭く、また曲がり角が分かり難いので運転には注意が必要である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城の創始は鎌倉時代の末期、元寇(弘安の役)に際し鎌倉幕府軍の総大将として九州へ赴いた宇都宮下野守貞綱(さだつな)が
築いたとされる。井原市の説明では南北朝期でも戦いの場になったとか。確かに、備中ならば足利尊氏が都落ちし九州へ逃れ、また
帰洛する経路にあろう。だが、実際に使われた様子が確認されるのは室町時代になってから。高越山の西側に広がる平野は荏原荘
(えばらのしょう)と呼ばれ(現在の井原市東江原町・西江原町・神代町)これが幕府政所執事・伊勢氏の所領となったため高越山城も
伊勢氏の支配下に置かれる事となった。伊勢氏は元々桓武平氏の末裔で、源平合戦の当事者となった平家(平清盛系)と同族だが
維衡(これひら)系の後裔にあたる伊勢氏は清盛系とは一線を画し鎌倉時代にも存続、伊勢守を代々の官途とし伊勢国を地盤として
室町幕府にも重用されたのである。その中で伊勢伊勢守貞継(さだつぐ)の弟・肥前守盛経が備中荏原荘に所領を得た事から、以後
盛経の系統が備中伊勢氏として枝分れするようになった。備中伊勢氏は盛経より後、経久―盛久―盛綱―盛富(いずれも肥前守を
名乗る)と続く(代数・人名や系譜には諸説あり)。また、盛富は他の所領に転出したため彼の弟・掃部助盛景が継いだとの説も。■■

“北条早雲”こと伊勢新九郎出生の城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1453年(享徳2年)伊勢新左衛門行長が高越山城主になったと言うが、この行長という人物は備前守盛定の事である。肥前守盛綱の
4男と言い、盛富・盛景の弟という事になる。地方領主の末子…ならば部屋住みの身分、元来は兄の配下として一兵卒に近い扱いを
受けて当然なのだが、盛定は才覚ある人物だったのか京の伊勢宗家(伊勢伊勢守家)伊勢守貞親の妹を妻に与えられ、伊勢守家を
補佐し幕政に参加するようになった。故に、盛綱は荏原荘を分割相続させ備中伊勢氏嫡流の盛富(盛景)に西荏原を、都に進出した
盛定へ財源基盤として東荏原を与えたようだ。それにより、東荏原を掌握する高越山城が盛定の城になった訳である。そして近年の
研究により、この盛定の娘が駿河今川家の当主・今川上総介義忠に嫁ぎ彼の嫡男である龍王丸(後の治部大輔氏親(うじちか))を
産んだ北川殿だと判明。という事は、彼女の弟とされる新九郎盛時、後の北条早雲も盛定の息子と云う訳だ。従前、無頼の素浪人が
国を乗っ取って関東の一大帝国を築いたと伝承されてきた北条早雲だが、こうした研究の結果、早雲つまり新九郎が生まれたのは
現在ではこの荏原荘おそらく高越山城での事だったと考えられるようになった。新九郎は父・盛定に続いて幕府に関わり、その地位と
姉が入嫁した今川家の地縁・血縁を利用し伊豆や相模で身を興したのだろう。ただ、その為に備前守家は荏原荘を去る事になったと
推測され、自然と高越山城は西荏原の肥前守家に戻されたようだ。そして備中伊勢氏の所領は、戦国乱世が激化すると中国地方の
覇者・毛利氏の支配下に置かれるようになる。盛富の後、系図では左衛門尉盛種―肥前守盛正、記録では伊勢豊後守(実名不詳)・
新左衛門貞春・兵庫助貞勝・盛頼・隆資・盛平・隆秀・盛勝と言う名前が出るも、毛利家の戦いに動員された彼らは山陰の太守である
尼子(あまご)氏との戦いで衰亡し、1566年(永禄9年)には貞春の子とされる又五郎が月山富田(がっさんとだ)城(島根県安来市)の
戦いで討死したそうだ。その結果、高越山城は伊勢氏のものではなくなり、1581年(天正9年)からは毛利氏の重臣・宍戸安芸守隆家
(ししどたかいえ)の持城とされた。隆家は配下の木村平内や神田六兵衛をこの城に入れて守らせたそうだが、1600年(慶長5年)9月
15日の関ヶ原合戦で西軍に与した毛利氏が備中の領土を没収された事により高越山城は主を失い、そのまま廃城になり申した。■■
城址は1975年(昭和50年)井原市の史跡に指定されたが、上記の如く“北条早雲誕生の城”としての認知度が上がった事で地元では
盛んに売り込みを行うようになってきた。高越城址顕彰会は毎年「北条早雲まつり」を開催し、近隣を走る井原鉄道井原線の最寄駅は
「早雲の里荏原駅」の名前が付けられ、高越山城の周辺には伊勢新九郎ゆかりの寺社が。早雲が晩年に領土を広げた伊豆・相模の
観光協会とも連携し、スタンプラリーを開催した事もあった。小田原城(神奈川県小田原市)や韮山城(静岡県伊豆の国市)などを廻る
このスタンプラリーでは、東国各地のチェックポイントでは1点を獲得できたが、高越山城では2点が貰えるようになっていた。更には、
漫画家・ゆうきまさみ先生の作品「新九郎、奔る!」でも高越山城や荏原荘の情景が存分に描かれており、新たなる“地域おこし”の
起爆剤になる事だろう。後北条家を題材にした大河ドラマ誘致も盛んに行われているので、もしそれが実現するなら ――― と言う事も
大いに期待したいものでござる!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








備中国 亀迫城

亀迫城跡 帯曲輪群

 所在地:岡山県井原市西江原町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★■■■



綺麗に整えられた公園の真価は?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記の如く、荏原荘では戦国の戦いが激化するにつれ伊勢氏は衰退していった。備中松山城(岡山県高梁市)主であった庄(荘)氏が
1533年(天文2年)荏原に進出するが、しかし庄備中守為資(ためすけ)・備中守高資(たかすけ)父子は三村紀伊守家親(いえちか)に
松山城を奪われ、三村軍は荏原への攻勢を強める。それに抗しきれなくなった為資は、家親の長子・四郎元祐(もとすけ)を養子として
家督を譲る。室町期を通じ、幕府管領(将軍を補佐し政務を統括する役職)・細川家の被官として備中に根付いていた庄氏だが、この
縁組によって三村氏の一門衆と云った立場に変わり、その三村氏が毛利氏との抗争の中で滅ぶと、式部少輔元資(元祐から改名)の
後釜に毛利四郎元清が入る事になった。なお、応仁の乱の頃、まさに伊勢新九郎(北条早雲)と同時代の庄氏当主にも元資と言う名の
人物がいるが、それは駿河守(伊豆守とも)元資なので三村元祐とは異なる別人でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話を毛利の侵攻に戻すと、この元清は中国地方の覇者・毛利陸奥守元就の4男。元就は隆元・元春・隆景の優秀な兄弟を息子に持った
事で有名だが、他にも多くの子が居り元清は4番目の男子だった。当初、三村氏と毛利氏は同盟関係にあったが備前の新興勢力である
宇喜多氏への対応で手切れとなり、毛利は三村を滅ぼす。そうした過程の中で元清が備中平定の担当者として庄氏を吸収。更に、備中
国内の地名を採って穂田(穂井田)姓を名乗るようになる。斯くして穂井田治部大輔元清となった彼が西荏原を領し、1570年(元亀元年)
この亀迫(かめざこ)城を築いた。宍戸隆家が高越山城に入ったのも、元清の備中攻略に連動する人事なのであろう。亀迫城は長大な
逆茂木(さかもぎ、木の根や枝を敵方へ突き出すように並べた障害物)列を小田川の対岸まで並べ強化したと云うが、元清自身は備中
平定の中で各地を転戦し、後に猿掛城(岡山県小田郡矢掛町)を攻略しそちらへと移った為、亀迫城はその支城という位置付けになり
この城も宍戸隆家が城主に任じられたとされている。さりとて1600年、関ヶ原敗戦にて備中の領土を失ったのは先述の通り。これにより
亀迫城は放棄され、廃城になったと見られている。たった30年の短命な城でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
井原市立西荏原小学校の北に甲山と云う山があり、その山に繋がって更に北側にある小山が亀迫城址。城山全体が公園化されており、
駐車場や御手洗も完備されているので来訪は簡単。何より、綺麗に手入れされた公園なので山頂まで登るのも楽である。甲山は標高
121mもある大山だが、亀迫城の城山は標高69.3mと、本当に小さな山なので比高差25mしかない。この山の山頂を啓開し主郭とし、その
南側に小さな二郭を置き、それらの更に下を斜面の高さ毎に数段の帯曲輪状に造成した縄張りだ。これがそのまま公園化された事で…
すっかり“段々畑”のような外観になっているのだが(写真)果たして旧状はどの程度残されているのか?いや、個人的には本当に綺麗で
素晴らしいとは思うのだが (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








備中国 西江原陣屋(森和泉守館)

西江原陣屋(森和泉守館)跡 菅原神社

 所在地:岡山県井原市西江原町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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津山藩・森家の絶家騒動■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
荏原荘の「荏原」は近世になると「江原」の字を充てるようになったらしく(現在の町名表記は「西江原町」「東江原町」である)江戸時代の
陣屋であるこの陣屋は「西江原」陣屋と表記するが、「西荏原」としているものも多い。ここでは表記に関わらず、森家によって使われた
「森和泉守館」としての陣屋について説明したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここに陣屋を築いて「西江原藩」を創設したのは森長継(ながつぐ)である。彼は元々、津山藩(岡山県津山市)の2代目藩主であり、その
家系(森家)は織田信長の近習にして本能寺の変で付き従った事で有名な森蘭丸こと乱法師成利(なりとし)の遺族。織田家臣の中核を
成していた森家は、数々の戦い(本能寺の変も含む)で勇戦するも当主が次々と討死、成利の末弟である左近衛権中将忠政だけが生き
残り、関ヶ原合戦で東軍に与した事から江戸幕府に大封を与えられ津山18万6500石を得るに至った。長継は忠政の外孫に当たり、嗣子
無き忠政の養子となって津山藩を継いだ。その後、家督を3男・伯耆守長武(ながたけ)へと譲り、更に津山藩主は4代目の美作守長成
(ながなり)へ続くが、この長成は子の無いまま没してしまい、一転して森家は断絶の危機に見舞われた。故に、他家に養子入りしていた
関式部衆利(あきとし、長継の12男)が森家に復帰し家督を継ぐ事になったものの、肝心の衆利が発狂したとされてしまい、結局津山藩
18万石は没収されてしまったのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、信長覇業の功労者にして関ヶ原で徳川に味方した経歴を考慮し、幕府は森家の存続は許した。この時、隠居の身であった長継が
まだ存命であった為、特別の計らいとして彼に2万石を与え森家の家督を再継承させたのである。それにより与えられたのが西江原で、
1697年(元禄10年)の事であった。こうして設置されたのが西江原陣屋だが、長継も既に高齢で翌1698年(元禄11年)7月11日に89歳で
没した。堂々巡りとなった森家の家督は長継の8男・長直(ながなお)が相続。彼の官職が和泉守だったので、この陣屋は森和泉守館と
呼ばれるようになる。長直は西江原で新田開発を積極的に行ったと言い、1706年(宝永3年)1月28日に播磨国赤穂(兵庫県赤穂市)へと
転封されていく。これにて陣屋は廃されたが、その跡地は「館跡」との地名で呼ばれる事となった。ちなみに、発狂した衆利はこの西江原
陣屋で幽閉され、赤穂転封に先立つ事半年前の1705年(宝永2年)10月3日に亡くなっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
「館跡」と言われる敷地は5町歩余り、現在の私立興譲館高等学校のグラウンド〜興譲館記念体育館の場所とほぼ重なる。元々そこに
住んでいた住人は移住させられ山陽道沿いに新たな町を作った。これが「新町」と言われる地区の成立で、現在では西江原町内の国道
486号線に「東新町」「西新町」の信号名としてその名残を見せている。一方、陣屋敷地内には北側に地蔵堂を置き、そこから西の方へ
南向きの藩主居館を建て、他にも様々な建物や藩士邸を並べたとされ申す。だが現状では何も遺構らしきものは残っておらず、岡山県道
166号線と同291号線の交差点脇(興譲館記念体育館の向かい)にある稲荷神社(写真)の片隅に陣屋の案内板があるのみだ。この稲荷
神社は陣屋の鬼門封じとして作られたそうなので、ある意味で陣屋の名残と言えなくもない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■








備中国 一橋徳川家江原陣屋

一橋徳川家江原陣屋跡標柱

 所在地:岡山県井原市西江原町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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西江原、一橋徳川家の所領になる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
森家の陣屋は赤穂への転出後に破却されたのか、長らく畑地になっていたと言う。ところが江戸時代後期の1827年(文政10年)2月18日
備中国内の各所をはじめとして計3万3500石が御三卿・一橋徳川家の所領に加えられる。御三卿は徳川将軍家の“家族”として扱われた
家柄で、江戸城(東京都千代田区)内に在住し、もし将軍家(宗家)が絶えた場合には後嗣を輩出する系譜とされていた。一橋家は所領
10万石を与えられていたが、上記の通り“将軍の身内”なので独立した藩とはならず、その領地も時により変更され転々としており、この
領地替えによって西江原が一橋家のものとなった訳だ。「藩」にはならない一橋家だが、領地支配の役所は必要な訳で、小田郡29ヶ村・
後月(しつき)郡26ヶ村・上房(じょうぼう)郡9ヶ村の統治を行うために赴いた代官・伊藤恒三郎は、いったん後月郡の木之子(きのね)村
(井原市木之子町)にある平木京助なる者の家を仮陣屋としたが、森家の西江原陣屋を再興する事とし普請に着工、1829年(文政12年)
9月に竣工した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
再建された陣屋は「江原役所」「江原陣屋」などと呼ばれ、東側に神戸(ごうど)川を背負い、残る3方には濠を巡らせた中に方形の敷地を
構えた。この敷地内に政務所(裁許所)・御白洲・仮牢などを備えた母屋、詰員宅、文庫、木場、井戸などが置かれており、正門(大門)は
南側、常門(通用門)は北側に開いていた。濠を越えた西側の敷地には米蔵を並べ、その蔵屋敷地は柵列と土塁で守られていたようだ。
森家時代に創建されたと述べた稲荷神社もこの時に再興されたものが現在に伝わっている訳で、鳥居には「文政十三年(1830年)」銘と
「平木京助奉納」と刻まれている。陣屋の敷地内にあった神社なので通常は非公開であったが、毎年2月、初午の例祭日にだけは陣屋の
門が解放され、庶民の参拝も許されたそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この陣屋には歴代で9人の代官が赴任。特に1847年(弘化4年)10月から約10年間在任した6代目代官の友山勝次(ともやまかつじ)は、
経済だけでなく医療や教育にも力を注いだ名代官であった。1853年(嘉永6年)には儒学者の阪谷朗廬(さかたにろうろ)を招いて郷校の
岡山興譲館を創設。言うまでもなく、この郷校が明治維新後の新制学校として続き現在の興譲館高校になる。友山勝次の他にも、一橋家
家臣であった渋沢篤太夫(しぶさわとくだゆう)も1865年(慶応元年)にここ江原を訪れ農兵募集を行った。渋沢篤太夫とは、即ち明治維新
後に実業家となり「日本資本主義の父」と称された渋沢栄一の事である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1868年(明治元年)正月に陣屋は新政府の預かる処となるが、明治政府は一橋家を徳川宗家から分離独立させ、初めて「藩」として立藩
させた。その為、この陣屋は一橋藩の役所として再び機能する事となり田口泉助が代官として入った。だが1869年(明治2年)6月17日の
版籍奉還では当時の一橋家当主・茂栄(もちはる)が知藩事に任じられる事は無く、出来たばかりの一橋藩はすぐに廃藩となっている。
一橋藩は倉敷県に含まれる事となり、代官としての役目が無くなった田口は1870年(明治3年)6月に退去。1874年(明治7年)には陣屋の
建物や敷地が売却され、現在では何も遺構が残らないと言う状況。一橋家の陣屋であった事は写真にある木の標柱1本が示すのみだが
これも殆ど朽ち果てたような状況。陣屋マニアには何とも侘びしい光景となっているのが残念…。ただ、興譲館については高校敷地内に
講堂と校門、それに阪谷朗廬手植えと言う紅梅の古木が残る。講堂(書斎付)は本瓦葺き平屋建て、建坪25.5坪(書斎部は4.5坪)の規模。
創建当初(1853年)には藁葺きだったものを、1859年(安政6年)瓦葺きに改めたとか。1908年(明治41年)現在地に移築。校門は桟瓦葺き
薬医門、渋沢栄一の揮毫した扁額が掲げられている。講堂・校門・梅木は1959年(昭和34年)3月27日、岡山県の史跡に指定され申した。
この他、陣屋の長屋門が岡山県小田郡矢掛町の矢掛本陣(石井家住宅)に移築されたと伝わる。従前、森家の西江原陣屋から移された
建物と言われていたが調査の結果それほど古い建物では無いと考えられるようになり、一橋家の陣屋から移したもの?と想像されるが
真相や如何に??■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



移築された遺構として

旧矢掛本陣石井家住宅門(伝陣屋長屋門)《国指定重文》
興譲館講堂・校門・梅木《県指定史跡》








備中国 井原陣屋

井原陣屋跡

 所在地:岡山県井原市井原町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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長吉系池田家の生き残り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1642年(寛永19年)以降、この地を治めた旗本池田家(池田修理家)の陣屋。池田修理家の初代は池田左兵衛長信(ながのぶ)、江戸時代
初頭の備中松山城主・池田備中守長幸(ながよし)3男、と云う事は岡山藩主・池田家の縁者だ。長幸の直系、備中松山藩を継いだ長男の
出雲守長常(ながつね)は無嗣断絶となったので大名としての池田家(長吉系)は改易となったが、長常の母である松子姫(森忠政の娘)が
嘆願した事により、幕府は長信が旗本として存続するのを許した。これが池田修理家の創始で、長吉系池田家はこの系譜で命脈を繋いだ。
この他、長幸の2男・長教(ながのり)は龍野藩士として、4男の長泰(ながやす)は岡山藩家老として家系を残してござる。■■■■■■■■
池田修理長信は旗本として後月郡の井原村・片塚村・宇戸川村・梶江村と言う4ヶ村、合計1000石を与えられ、井原に陣屋を置いた。これが
井原陣屋の始まりだ。池田修理家は長信の後、筑後守友政(ともまさ)―修理政応(まさたか)―修理豊常(とよつね)―筑後守政倫(まさとも)
―筑後守長恵(ながよし)―修理長義(ながよし)―長喬(ながたか)―筑後守長溥(ながひろ)―筑後守長発(ながおき)―福次郎長春と続き
明治維新までこの地を守ったが、中でも長恵は1789年(寛政元年)9月7日から1795年(寛政7年)6月28日まで江戸南町奉行を務め、長発は
幕末の外国奉行に任じられ遣欧使節を率い1863年(文久3年)〜1864年(元治元年)までフランスを訪問、ナポレオン3世に謁見した事でよく
知られている。近年、ピラミッドやスフィンクスと一緒に侍の一団が撮影した記念写真の存在が有名になったが、あの集団が文久遣欧使節で
長発の一行だ。当然、彼は開国派であった訳だが、当時の国内情勢では尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、またフランスとの外交も満足した結果を
出せず、帰国後に長発は隠居を余儀なくされ養子の長春(実兄・甲斐守長顕(ながあき)の5男)へ家督を譲る事になってしまう。最幕末期の
1867年(慶応3年)蟄居を解かれ軍艦奉行(幕府海軍の統括職)に復帰したが、それも僅かな期間で辞任し井原へ戻った。■■■■■■■■
さて、現在の井原市域は小田川の蛇行により川の西が井原町、東が江原(西江原町や東江原町)に大きく分かれているが、江戸時代もこの
川を境として池田修理家(井原池田家)の領地(井原知行所)と森家(西江原陣屋)の領地(荏原郷)に区分けされていた。井原の町は東西に
山陽道が走り、南北には東城や備中松山〜笠岡を繋ぐ笠岡道(東城往来)が延び、その交点として宿場町が形成されており、陣屋はそうした
街並みの中心に置かれていた形だ。幕末の当主・長発(長春に家督を譲っても実務を担っていた)は、徳川15代将軍の慶喜が鳥羽・伏見の
戦いから逃亡した事で幕府に見切りをつけ早々に新政府へ帰順、封建統治体制の本拠である陣屋を破却して私塾「心学館」を開こうとした。
ただ、幕府の外国奉行や軍艦奉行と言う要職を歴任した彼が“自身の門弟”を持つ事は“徒党を組む”ように見られる危険性もあっただろう。
結局、私塾を開くのは不可能であったが、教育を施す志は明治の学制発布と一体化し、陣屋跡地には1873年(明治6年)3月15日に尋常元之
小学校が開校したのである。これが現在まで繋がり、陣屋跡には井原市立井原小学校が建っている。学校敷地の為、観光するような所では
なく、また来客用駐車場や御手洗もない。僅かに校庭の一角に写真の石碑と池田長発顕彰の銅像、それに案内板があるのみなので節度を
持った来訪を心掛けるべし。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■






下津井城・南山城  福山城