幕府政所分枝・備中伊勢氏の拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高越城とも。井原市の東端部、末国川の谷合盆地を東に見下ろす標高172.3mの高越山に築かれた山城。末国川は南へと流れ下り、
備中を横断する大河・小田川にこの城山の南側で合流する。小田川に沿って旧山陽道が走り、また当然ながら当時の河川は物流の
大動脈でもあった為、この城は水陸両路の守りを固めるに相応しい拠点であった事だろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■
高越山は南北に細長い山容で、これに山頂から東へ小さな支尾根が飛び出している。山頂を削平したほぼ方形の主郭とし、東側の
支尾根に一段下がった二郭、北に三郭、南に四郭と五郭を置く。如何にも定型の山城と言った縄張だが、曲輪ごとに急峻な切岸を
造成し守りを固めており、城郭愛好家にとっては“分かり易い山城”である。堀切や井戸なども残り、何より主郭からの眺めは末国川
越しの山並みが美しく、また山麓盆地は長閑な農村風景で牧歌的。城が現役だった当時も同じような農村だったであろう事が容易に
想像出来て、建物こそ現代のものだが、それを茅葺屋根の古民家に置き換えれば…と考えるのが楽しい。しかも山間の盆地は気象
条件によって川霧が立ちこめ、雲海のように幻想的な光景(写真)を捕らえる事も可能だ。昨今、雲海に浮かぶ山城が“天空の城”と
して持て囃されるが、この高越山城も“隠れた”天空の城となる名城でござろう。現在、城内は公園として綺麗に手入れされ、直近まで
車で訪れる事ができる。当然、駐車場や御手洗も完備されており、他に比べても簡単に攻略できる“天空の城”と言えよう。ただ、その
駐車場まで登る道は狭く、また曲がり角が分かり難いので運転には注意が必要である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城の創始は鎌倉時代の末期、元寇(弘安の役)に際し鎌倉幕府軍の総大将として九州へ赴いた宇都宮下野守貞綱(さだつな)が
築いたとされる。井原市の説明では南北朝期でも戦いの場になったとか。確かに、備中ならば足利尊氏が都落ちし九州へ逃れ、また
帰洛する経路にあろう。だが、実際に使われた様子が確認されるのは室町時代になってから。高越山の西側に広がる平野は荏原荘
(えばらのしょう)と呼ばれ(現在の井原市東江原町・西江原町・神代町)これが幕府政所執事・伊勢氏の所領となったため高越山城も
伊勢氏の支配下に置かれる事となった。伊勢氏は元々桓武平氏の末裔で、源平合戦の当事者となった平家(平清盛系)と同族だが
維衡(これひら)系の後裔にあたる伊勢氏は清盛系とは一線を画し鎌倉時代にも存続、伊勢守を代々の官途とし伊勢国を地盤として
室町幕府にも重用されたのである。その中で伊勢伊勢守貞継(さだつぐ)の弟・肥前守盛経が備中荏原荘に所領を得た事から、以後
盛経の系統が備中伊勢氏として枝分れするようになった。備中伊勢氏は盛経より後、経久―盛久―盛綱―盛富(いずれも肥前守を
名乗る)と続く(代数・人名や系譜には諸説あり)。また、盛富は他の所領に転出したため彼の弟・掃部助盛景が継いだとの説も。■■
“北条早雲”こと伊勢新九郎出生の城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1453年(享徳2年)伊勢新左衛門行長が高越山城主になったと言うが、この行長という人物は備前守盛定の事である。肥前守盛綱の
4男と言い、盛富・盛景の弟という事になる。地方領主の末子…ならば部屋住みの身分、元来は兄の配下として一兵卒に近い扱いを
受けて当然なのだが、盛定は才覚ある人物だったのか京の伊勢宗家(伊勢伊勢守家)伊勢守貞親の妹を妻に与えられ、伊勢守家を
補佐し幕政に参加するようになった。故に、盛綱は荏原荘を分割相続させ備中伊勢氏嫡流の盛富(盛景)に西荏原を、都に進出した
盛定へ財源基盤として東荏原を与えたようだ。それにより、東荏原を掌握する高越山城が盛定の城になった訳である。そして近年の
研究により、この盛定の娘が駿河今川家の当主・今川上総介義忠に嫁ぎ彼の嫡男である龍王丸(後の治部大輔氏親(うじちか))を
産んだ北川殿だと判明。という事は、彼女の弟とされる新九郎盛時、後の北条早雲も盛定の息子と云う訳だ。従前、無頼の素浪人が
国を乗っ取って関東の一大帝国を築いたと伝承されてきた北条早雲だが、こうした研究の結果、早雲つまり新九郎が生まれたのは
現在ではこの荏原荘おそらく高越山城での事だったと考えられるようになった。新九郎は父・盛定に続いて幕府に関わり、その地位と
姉が入嫁した今川家の地縁・血縁を利用し伊豆や相模で身を興したのだろう。ただ、その為に備前守家は荏原荘を去る事になったと
推測され、自然と高越山城は西荏原の肥前守家に戻されたようだ。そして備中伊勢氏の所領は、戦国乱世が激化すると中国地方の
覇者・毛利氏の支配下に置かれるようになる。盛富の後、系図では左衛門尉盛種―肥前守盛正、記録では伊勢豊後守(実名不詳)・
新左衛門貞春・兵庫助貞勝・盛頼・隆資・盛平・隆秀・盛勝と言う名前が出るも、毛利家の戦いに動員された彼らは山陰の太守である
尼子(あまご)氏との戦いで衰亡し、1566年(永禄9年)には貞春の子とされる又五郎が月山富田(がっさんとだ)城(島根県安来市)の
戦いで討死したそうだ。その結果、高越山城は伊勢氏のものではなくなり、1581年(天正9年)からは毛利氏の重臣・宍戸安芸守隆家
(ししどたかいえ)の持城とされた。隆家は配下の木村平内や神田六兵衛をこの城に入れて守らせたそうだが、1600年(慶長5年)9月
15日の関ヶ原合戦で西軍に与した毛利氏が備中の領土を没収された事により高越山城は主を失い、そのまま廃城になり申した。■■
城址は1975年(昭和50年)井原市の史跡に指定されたが、上記の如く“北条早雲誕生の城”としての認知度が上がった事で地元では
盛んに売り込みを行うようになってきた。高越城址顕彰会は毎年「北条早雲まつり」を開催し、近隣を走る井原鉄道井原線の最寄駅は
「早雲の里荏原駅」の名前が付けられ、高越山城の周辺には伊勢新九郎ゆかりの寺社が。早雲が晩年に領土を広げた伊豆・相模の
観光協会とも連携し、スタンプラリーを開催した事もあった。小田原城(神奈川県小田原市)や韮山城(静岡県伊豆の国市)などを廻る
このスタンプラリーでは、東国各地のチェックポイントでは1点を獲得できたが、高越山城では2点が貰えるようになっていた。更には、
漫画家・ゆうきまさみ先生の作品「新九郎、奔る!」でも高越山城や荏原荘の情景が存分に描かれており、新たなる“地域おこし”の
起爆剤になる事だろう。後北条家を題材にした大河ドラマ誘致も盛んに行われているので、もしそれが実現するなら ――― と言う事も
大いに期待したいものでござる!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
|