備前国 下津井城

下津井城址 本丸跡

 所在地:岡山県倉敷市下津井

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★★■■



宇喜多家〜小早川家〜池田家による継続整備■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
瀬戸内海を見渡す児島半島突端にある山城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
瀬戸内は古くから中国大陸と畿内の都を結ぶ海路として拓け、源平の諸合戦が行われるなど歴史的事象が多い事は周知の事実。
下津井に初めて城が築かれたのもこの時期とされている。ただ、この「下津井古城」は下津井城よりも海に近い祇園神社の社叢を
使ったものと言い、都を落ちた足利尊氏が九州で勢力を挽回し都へ攻め上がる際にも、この下津井古城を活用し兵を整えたとか。
この後、戦国時代になるとより険峻な地形を求め次第に城地は移り、一つ上の位置にある山に小城が置かれるようになったそうだ。
戦国時代末期、この小城を改修したものが現在に残る下津井城である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊臣政権下で“備前宰相”と呼ばれ、五大老の一人に数えられた岡山城(岡山県岡山市)主・宇喜多八郎秀家(うきたひでいえ)が、
領内支配の支城として下津井城を採り上げ、家臣の浮田河内守家久(うきたいえひさ)を城主に据えて改修工事を行わせたのが
始まり。この工事は文禄年間(1592年〜1596年)の事とされるが、直後の関ヶ原合戦にて宇喜多家は西軍に就き改易、岡山城主は
金吾中納言こと小早川秀秋に交代する。関ヶ原で寝返り東軍勝利の原因を作った秀秋が、西軍で主力中の主力であった秀家から
備前を引き継いだというのは皮肉だが、その寝返りを進言し秀秋に決意させた小早川家臣・平岡石見守頼勝(ひらおかよりかつ)が
この下津井城に配され、改修を続けた。最終的な大改造が行われ近世城郭となったのは1603年(慶長8年)に着工した池田河内守
長政の手によるもの。その前年、小早川秀秋は早世し岡山には池田左衛門督忠継(ただつぐ)が封じられた。しかし入封時、忠継は
まだ5歳。長政は忠継の叔父にあたり、岡山藩家老の職にあった人物。幼少の藩主・忠継を忠継の兄・武蔵守利隆(としたか)と共に
補佐した長政は従来の下津井城を一新し、総石垣作りの堅固な近世城郭へと生まれ変わらせたのである。一説には、下津井城の
改修は徳川家康により「瀬戸内海監視の要塞を築け」との命があったとか。実は、池田氏は利隆・忠継の父である三左衛門輝政が
家康の娘・督姫(とくひめ)を娶っており、関ヶ原合戦後に大坂の豊臣氏を押さえるため播磨・備前の大封を与えられた。海路の要地
下津井城もこの豊臣氏包囲網の一環として整備され1607年(慶長12年)頃に完成したのだった。この工事では、廃城となった常山城
(岡山県玉野市)の建築古材を転用したと伝えられており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

現在は瀬戸大橋を眺める公園に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長政は下津井城主として3万2000石を領したが、参勤の帰路に伊勢国で病没しており城の完成は見られなかった。同年、長政の子・
伊賀守長明(ながあき)は幼少である事を理由に除封され、1609年(慶長14年)からは池田出羽守由之(よしゆき)が下津井城主に。
由之は輝政の兄・紀伊守元助(もとすけ)の子。その由之も池田宗家の代替わりに伴い1613年(慶長18年)明石城(兵庫県明石市)へ
転任するなど頻繁に入れ替わった。その後は池田家の家老である荒尾但馬守成房(あらおなりふさ)・内匠介成利(なりとし)父子が
播磨国龍野城(兵庫県たつの市)から入り、1615年(元和元年)豊臣氏が滅び一国一城令が出された後もこの城は存城を認められ
池田氏の国替えに伴って岡山城主に池田左近衛権少将光政(みつまさ、利隆の長男)が任じられると(詳しくは岡山城の頁を参照)
1632年(寛永9年)下津井城には池田出羽守由成(よしなり)が入城した。由成は由之の子である。■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、既に江戸幕府が開設されて30年を過ぎ幕藩体制は盤石の時代を迎えていた。数年の後、島原の乱(1637年〜1638年)が
収束すると大名間抗争のみならず支配者・被支配者間での大規模衝突も抑え込まれ天下泰平の世となり、遂に1639年(寛永16年)
下津井城は廃城となる。由成は天城(倉敷市藤戸町天城)に陣屋を構えて移り、下津井城は破却されたのでござった。■■■■■
この時、天城へ移築された城門が日蓮宗恵光山正福寺の山門として現存している。また、同じく天城にある成田不動遍照院の蔵は
下津井城の庫を移築転用したものなんだとか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
下津井城は連郭式の山城。この山の山頂は標高89mを指すが、山容は東西に細長く、その尾根筋に曲輪を横並びに造成している。
西から東へ向けて西ノ丸〜二ノ丸〜本丸〜三ノ丸〜中ノ丸の順に曲輪が一直線に連なり、主城域は東西560m程にも及ぶ。加えて
東の突出部には宇喜多時代の外曲輪と言われる中出丸や東出丸もあった。本丸の北西隅には天守も建てられていたそうだ。慶長
年間に改修された近世城郭なので石垣が多用され、打込ハギが用いられているが、部分によっては野面積みの場所もある。ただ、
廃城に伴い破却されたため、天守台などは欠損している。それでも現在に残された石垣は多く、岡山県内では数少ない近世城郭
遺構として貴重な存在。西ノ丸と二ノ丸の間、三ノ丸と中ノ丸の間には大規模な堀切が穿たれ、特に西ノ丸と二ノ丸の間は明瞭な
土橋が現存する。1968年(昭和43年)7月19日には岡山県指定史跡となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は「瀬戸大橋架橋記念公園」として整備されており、駐車場も広い。その名の通り、公園からは下津井瀬戸大橋が一望できる
絶景の公園、そして随所に石垣を楽しめる静かな城郭でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡

移築された遺構として
正福寺山門・遍照院倉庫








備中国 南山城

南山城発掘現場

  所在地:岡山県倉敷市真備町川辺・船穂町柳井原
 (旧 岡山県吉備郡真備町川辺・浅口郡船穂町柳井原)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■



惜しくも防災工事に消えた名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
読み方は「みなみやま」城、現在は倉敷市に合併されたが2005年(平成17年)7月31日までは浅口郡船穂町(あさくちぐんふなおちょう)と
吉備郡真備町(きびぐんまびちょう)の間にそびえた標高67.2mの低丘陵上に「あった」城跡。城跡なのだから過去形の表現を使った…と
言うのではなく、この山そのものが治水工事で撤去されたため必然的に城自体も消え去った、という「消滅した城」なのである。■■■■
この城の来歴は殆んど不詳である。源平合戦期、源義経に従った河辺平太通綱なる者の居城であったと言う伝承があるものの、山城と
しての構造は明らかに戦国時代のもの、それも16世紀後期のものである。中国地方の太守・毛利氏の勢力は1550年代後半から当地に
進出、岡山に根を張る宇喜多和泉守直家(秀家の父)や備中松山城(岡山県高梁市)の三村氏と集合離散を繰り返し三つ巴の戦いを
繰り広げたが、こうした過程の中で南山城は築かれたようだ。毛利に従う現地の国人・石川久智(いしかわひさとも)が築いたとも、又は
毛利と宇喜多(これには本能寺の変以後に備中・備前平定を成した羽柴筑前守秀吉の影響力を含む)の境界線が確定した後に国境を
防備するため毛利家が直接築いたとも、はたまたその間の期間(毛利と宇喜多・羽柴での戦いが激化した時代)に築かれたとも、諸説
紛々、様々に考えられているが、いずれにせよ“毛利方”が築城主体であったという点では意見が一致している。その毛利氏は1600年
(慶長5年)関ヶ原の戦いで敗軍の将となりこの地から去るので、廃城もそれまでの時期という事になろう。以来、城山は自然の山林に
戻って静かな眠りに就いていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南山城の所在地は、岡山県を南北に流れる大河・高梁川に、同じく東西に流れる小田川がぶつかる地点の南岸である。2つの大河が
合流し、しかも城山を取り巻くように北〜東〜南へと大きく蛇行する流れは「城にとっては」天然の濠で守られた要害の地と言えるだろう。
川の向こうには遮るものがない平野が広がり、その眺望(つまり城の監視域)は抜群。更に、冒頭で浅口郡と吉備郡の境目と記したが、
戦国時代の郡制では浅口郡・下道(かとう)郡・窪屋(くぼや)郡の3郡が接する地点となっており、軍事的緊張度が最も高い場所だった
事になる。現在では失われた城山の山頂からは、特に北側〜東側へ大きく視界が広がり、北の三村氏や東の宇喜多氏が攻め寄せよう
ものなら、その動きは手に取るように把握できた事だろう。だが、大河の合流地点(しかもそこで川が蛇行する)に突き出た山と言うなら
それは水流を阻害するものに他ならない。明治時代の治水対策で河道変更が行われ、合流後の高梁川は一つ東側にある八幡山まで
東遷し、そこから南へ折れるよう改修された。この為、南山城と八幡山の間に旧河道が柳井原遊水池として残されるようになったものの
洪水防止には不十分で、平成に入ってから抜本的な解決策が必要と判断された。よって、川の流れを邪魔している南山城の城山を切り
崩し、小田川の流れを南に逃がし柳井原遊水池を再度河道に戻す事が計画されたのである。そのため、城山全体が消滅する事になり、
その工事に先立って城跡全体を一気に調査する発掘作業が2017年(平成29年)4月から行われた。■■■■■■■■■■■■■■■

圧巻の発掘現場、さながら山城が現代に降臨したかの如く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
通常、発掘調査というのは現代生活と共存しながら行うので部分ごとに時期をずらして進めていく。なので、城跡全体が全て一度に掘り
起こされるような事は無い。ところが南山城では、急務となった災害対策に間に合わせるべく、城の全域を同時に調査する事となった。
斯くして樹木が切り払われ埋もれた部分を取り除いた城山は、まるで山城が現代に復活したような姿になったのである。この発掘調査は
途中経過毎に現地説明会が行われ一般にも公開されたが、幸いにも拙者は公開最末期の折に見学させて頂ける機会を得てその状況を
間近に見る事が出来た(彩風さん感謝!)。写真はその時に撮った畝状竪堀を見上げた構図。「とにかく凄い!」の一言である。■■■■
城山の北〜東〜南が川だった為、この城は西側だけが山の主山塊と接続した地形。故に、尾根で繋がる西側に大きく3条の堀切を穿ち
そちらからの侵攻を阻止する構造になっている。残された城域は狭隘で、基本的には単郭の城と言うべき規模なのだが、それでも曲輪の
中央に土塁を置いて東西2つの敷地に分割している。また、この主郭の南側下段には小さな腰曲輪を附属させて前衛としている。城域の
北側斜面は急な崖で屹立し天険の防備に委ねているが(但し、堀切近くには2条ほどの竪堀も作られている)、南斜面は比較的緩いので
(と言っても、北に比べればという話で十分キツい斜面なのだが)こうした腰曲輪を構えた上、その下には確認されただけで21条(!)もの
竪堀をズラリと並べて、敵の侵入に備えている。必然的に、想定される戦闘正面はこちら側という事なのだろう。ご丁寧にも、畝状竪堀を
上がった先(腰曲輪や主郭に取り付く部分)には横堀まで通してあり、登って来る敵兵を「これでもか!」という具合に阻害する構造を作り
出している。現説への入口はこの竪堀と横堀を経て進む「攻城兵の目線」になった訳だが、とにかくあちこちから撃たれる、そして登っても
まだ迂回させられる、更に横矢でも狙われている、という恐怖(歓喜?)の連続になった。小粒の城ながらも、まるで“ハリネズミ”のような
刺々しさを感じさせる名城だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
発掘では主郭東部で大小2つ、西部で大きな1つの、また土塁上にも数箇所、加えて腰曲輪の中にも、それぞれ掘立柱建物の跡を確認。
主郭を分ける土塁の間には門跡も検出し、そこには門礎の石も。そして石に関して言えば、城内のあちこちに集積石が発見されている。
これは間違いなく投石用の石を確保していたもので、南山城が実戦に即した“最前線の城”だった事を物語る。もちろん、弓矢や鉄砲も
必要だったろうが、最も手軽で数多く確保できる投射武器は“礫石”であり、それが城の随所に(本当に、隅から隅まで)置かれていた事は
戦国時代の緊張した国境防衛の様子を垣間見せてくれる貴重な城跡だった訳だ。ただ、集石がそのまま残されていたという事は、実際に
それを使う機会は無かったという事にもなろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他方、城内での出土物には鍋・羽釜・擂鉢・漁具の錘(川で魚を獲ったのか)・銭貨などの生活用品も含まれている。と云う事は、この城は
「戦時にだけ立て籠もる」のではなく「平時から兵が常駐する」城だった事になる。それどころか硯や天目茶碗までも出土しており、城主は
それなりに位の高い人物が充てられていたとも考えられよう。高度な築城技術や天目茶碗のような文化的遺物が確認された状況は、中国
地方の大勢力である毛利氏の関与を裏付ける証拠にもなろうが、今後の考察結果を待ちたいものである。なお、険しい崖となっている北側
斜面には九十九折となっている道の跡も確認されていて、城兵は恐らくここを通用路として用いていたようだ。■■■■■■■■■■■■
2019年(令和元年)の冬、発掘調査の終了直後から山は崩されて現在はほぼ更地のような状況になった南山城跡。地盤地形そのものが
逸失したので当頁での評価は★を1つも付けない異例の「―」表示にしたものの、あの発掘現場を評価するならば「★★★★★(満点)」に
しても良い位であった。つくづく、失うに惜しい名城だったとは思うが、調査中の2018年(平成30年)7月には通称「西日本豪雨」と呼ばれる
大水害が発生、真備町域だけで51人の死者を出す未曽有の災害になってしまった。小田川の付け替え工事がもっと早く行われていれば
軽減できた被害であり、地域住民の安全を確保する観点からは早期の工事完了が望まれよう。戦国時代は“敵を防ぐ”事で地域の安全を
守っていた城なれば、現代においては“水害を防ぐ”ために消え去る事がこの城の宿命なのだと思いたい。■■■■■■■■■■■■■
なお、山の麓には明智大明神の祠が祀られていた事から明智城との別名があるとか。また、堀切を越えた西側の主山塊接続部付近には
弥生時代の竪穴式住居痕や土坑、古墳(南山明地古墳群)なども確認されたそうだが、これも山が失われるのと同時に消える事となった。






三星城・茶臼山城  井原市内諸城郭