宇喜多家〜小早川家〜池田家による継続整備■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
瀬戸内海を見渡す児島半島突端にある山城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
瀬戸内は古くから中国大陸と畿内の都を結ぶ海路として拓け、源平の諸合戦が行われるなど歴史的事象が多い事は周知の事実。
下津井に初めて城が築かれたのもこの時期とされている。ただ、この「下津井古城」は下津井城よりも海に近い祇園神社の社叢を
使ったものと言い、都を落ちた足利尊氏が九州で勢力を挽回し都へ攻め上がる際にも、この下津井古城を活用し兵を整えたとか。
この後、戦国時代になるとより険峻な地形を求め次第に城地は移り、一つ上の位置にある山に小城が置かれるようになったそうだ。
戦国時代末期、この小城を改修したものが現在に残る下津井城である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊臣政権下で“備前宰相”と呼ばれ、五大老の一人に数えられた岡山城(岡山県岡山市)主・宇喜多八郎秀家(うきたひでいえ)が、
領内支配の支城として下津井城を採り上げ、家臣の浮田河内守家久(うきたいえひさ)を城主に据えて改修工事を行わせたのが
始まり。この工事は文禄年間(1592年〜1596年)の事とされるが、直後の関ヶ原合戦にて宇喜多家は西軍に就き改易、岡山城主は
金吾中納言こと小早川秀秋に交代する。関ヶ原で寝返り東軍勝利の原因を作った秀秋が、西軍で主力中の主力であった秀家から
備前を引き継いだというのは皮肉だが、その寝返りを進言し秀秋に決意させた小早川家臣・平岡石見守頼勝(ひらおかよりかつ)が
この下津井城に配され、改修を続けた。最終的な大改造が行われ近世城郭となったのは1603年(慶長8年)に着工した池田河内守
長政の手によるもの。その前年、小早川秀秋は早世し岡山には池田左衛門督忠継(ただつぐ)が封じられた。しかし入封時、忠継は
まだ5歳。長政は忠継の叔父にあたり、岡山藩家老の職にあった人物。幼少の藩主・忠継を忠継の兄・武蔵守利隆(としたか)と共に
補佐した長政は従来の下津井城を一新し、総石垣作りの堅固な近世城郭へと生まれ変わらせたのである。一説には、下津井城の
改修は徳川家康により「瀬戸内海監視の要塞を築け」との命があったとか。実は、池田氏は利隆・忠継の父である三左衛門輝政が
家康の娘・督姫(とくひめ)を娶っており、関ヶ原合戦後に大坂の豊臣氏を押さえるため播磨・備前の大封を与えられた。海路の要地
下津井城もこの豊臣氏包囲網の一環として整備され1607年(慶長12年)頃に完成したのだった。この工事では、廃城となった常山城
(岡山県玉野市)の建築古材を転用したと伝えられており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在は瀬戸大橋を眺める公園に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長政は下津井城主として3万2000石を領したが、参勤の帰路に伊勢国で病没しており城の完成は見られなかった。同年、長政の子・
伊賀守長明(ながあき)は幼少である事を理由に除封され、1609年(慶長14年)からは池田出羽守由之(よしゆき)が下津井城主に。
由之は輝政の兄・紀伊守元助(もとすけ)の子。その由之も池田宗家の代替わりに伴い1613年(慶長18年)明石城(兵庫県明石市)へ
転任するなど頻繁に入れ替わった。その後は池田家の家老である荒尾但馬守成房(あらおなりふさ)・内匠介成利(なりとし)父子が
播磨国龍野城(兵庫県たつの市)から入り、1615年(元和元年)豊臣氏が滅び一国一城令が出された後もこの城は存城を認められ
池田氏の国替えに伴って岡山城主に池田左近衛権少将光政(みつまさ、利隆の長男)が任じられると(詳しくは岡山城の頁を参照)
1632年(寛永9年)下津井城には池田出羽守由成(よしなり)が入城した。由成は由之の子である。■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、既に江戸幕府が開設されて30年を過ぎ幕藩体制は盤石の時代を迎えていた。数年の後、島原の乱(1637年〜1638年)が
収束すると大名間抗争のみならず支配者・被支配者間での大規模衝突も抑え込まれ天下泰平の世となり、遂に1639年(寛永16年)
下津井城は廃城となる。由成は天城(倉敷市藤戸町天城)に陣屋を構えて移り、下津井城は破却されたのでござった。■■■■■
この時、天城へ移築された城門が日蓮宗恵光山正福寺の山門として現存している。また、同じく天城にある成田不動遍照院の蔵は
下津井城の庫を移築転用したものなんだとか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
下津井城は連郭式の山城。この山の山頂は標高89mを指すが、山容は東西に細長く、その尾根筋に曲輪を横並びに造成している。
西から東へ向けて西ノ丸〜二ノ丸〜本丸〜三ノ丸〜中ノ丸の順に曲輪が一直線に連なり、主城域は東西560m程にも及ぶ。加えて
東の突出部には宇喜多時代の外曲輪と言われる中出丸や東出丸もあった。本丸の北西隅には天守も建てられていたそうだ。慶長
年間に改修された近世城郭なので石垣が多用され、打込ハギが用いられているが、部分によっては野面積みの場所もある。ただ、
廃城に伴い破却されたため、天守台などは欠損している。それでも現在に残された石垣は多く、岡山県内では数少ない近世城郭
遺構として貴重な存在。西ノ丸と二ノ丸の間、三ノ丸と中ノ丸の間には大規模な堀切が穿たれ、特に西ノ丸と二ノ丸の間は明瞭な
土橋が現存する。1968年(昭和43年)7月19日には岡山県指定史跡となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は「瀬戸大橋架橋記念公園」として整備されており、駐車場も広い。その名の通り、公園からは下津井瀬戸大橋が一望できる
絶景の公園、そして随所に石垣を楽しめる静かな城郭でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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