備中国 鬼ノ城

鬼ノ城跡 角楼址

 所在地:岡山県総社市黒尾・奥坂

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★★■■



緊迫の古代東アジア情勢が産んだ山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鬼ノ城(きのじょう)は戦国時代ではなく古代の山城跡でござる。その姿は戦国期の山城や統治のための近世城郭などとは明らかに異なり、
むしろ万里の長城のような城壁を連ね、敷地を囲い込む独特なものだ。古代山城は、「日本書紀」などの文献に記載が残る「朝鮮式山城」と
史書に記録のない「神籠石(こうごいし)式山城」の2つに大別されるが、鬼ノ城は後者の神籠石式山城に含まれるものである。前者の朝鮮式
山城には有名な水城(みずき)や大野城(いずれも福岡県太宰府市・大野城市などに跨る大城郭)などがあり、神籠石式山城には大廻小廻
(おおめぐりこめぐり)山城(岡山県岡山市東区)や讃岐城山(きやま)城(香川県坂出市・丸亀市)などが含まれる。文献に載らない神籠石は
遺構の存在でしか確認が取れない為、現在までに日本国内で16箇所のみ発見されているが、鬼ノ城はその1つだ。ちなみに朝鮮式山城は
12城である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
朝鮮式・神籠石を合わせ、こうした古代山城は恐らく663年(天智天皇2年)に起きた白村江(はくすきのえ、はくそんこうとも)の戦いで日本が
破れたので、大陸からの来襲を防ぐ為に急遽築かれた城砦とみられているが、なにぶん時代が古く、詳細な文献なども数少ない故に解明は
あまり進んでいない。ちなみに白村江の戦いとは、朝鮮半島にあった百済(くだら、ひゃくさいとも)が唐(とう、当時の中国正統王朝)と新羅
(しらぎ、朝鮮半島の別の国)の連合軍から攻められ660年(斉明天皇6年)に滅亡した事を受け、百済の同盟国であった日本がその再興軍を
半島に派遣して唐・新羅の軍と戦ったものである。結果、日本・百済軍は大敗して撤退したのだが、大和朝廷は大陸からの報復を予想して
恐慌に陥り、急ぎ西日本各地に防備の城を築いた。鬼ノ城もこういった城の1つと見られるが、文献上には記載がないため明治・大正時代の
頃までは城ではなく古代宗教遺跡と思われていたのだった。太平洋戦争後の発掘調査で、ようやく古代山城という結果が出され今に至る。
さて鬼ノ城だが、総社市の鬼城山(きのじょうさん)山頂を敷地とする平均的な規模の古代山城である。総社は備中の国府が置かれた場所で
周囲には全国4位の規模を誇る造山(つくりやま)古墳や、同10位の作山古墳(読み同じ)が残る歴史の古い地域であった。当時はまだ児島
半島がなく海岸線は随分と内陸側へ入りこんだ場所にあったとされ、陸路だけでなく瀬戸内海交通の要所でもあった事で、築城の候補地に
選ばれたのだろう。現在の総社市は海から10km以上離れているが、当時はもっと近くまで海が迫っていたと言う。気象条件が良い時には、
鬼ノ城から瀬戸内海を挟み四国まで見通せるそうで、陸海の監視に優れた立地だった訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

古代山城の代名詞■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鬼城山頂は標高397m。吉備高原の最南端に位置する山で、ここから南は一面に岡山平野が広がっている。山の周囲は切り立った花崗岩の
絶壁で、平野側の斜度は40〜60度、東側斜面に至っては70度もあるものの、山頂部一帯はほぼ平面と言って良いくらいになだらかな高原と
なっている。この頂部平面を利用した山城で、古代の城郭はこの形態が一般的とされている。このような平坦な山を「蒜峰(さんぽう)」と呼び、
築城の適地であった。鬼ノ城は鬼城山の8合目〜9合目、急斜面から緩斜面への傾斜変換点をぐるりと城壁で囲い、その内側の平面を城域と
している。城壁は土塁と石垣を織り交ぜて築かれており、全長2.8kmにも及び城郭を完全に一周、平均幅7m・平均高6mの頑強なものである。
特に城の北東端は「屏風折れの石垣」と呼ばれ、岩肌が露出する崖淵の直上に築かれた石垣で、麓からも良く見える構造物であり、この城を
攻めようとする侵略者に堅城である事を印象付ける。その城壁の4箇所、城の東西南北に城門が設置されているが、これらはいずれも石垣の
門礎で固められ、床面にも自然石を敷き詰めた頑丈なもの。簡易な木門などではなかった事が確認されている。門の外正面に対して通路が
開かれてはおらず、城壁に沿った横方向への進入路となるため、戦国時代の城郭における虎口構造と同じく敵の直線的侵入を阻むと同時に
城の内部を直接俯瞰できない効果を発揮している。城門の礎石には大型建物を建てた痕跡がみられ、古代期での建築技術を推量させる。
こうした東西南北の各門は重厚な建物で守られ、かつ厳重な防備が為されていたようで、古代の戦術と併せて考慮すると当時の軍事理論を
解明する重要な手がかりとなっており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鬼ノ城での更なる特徴として、西門の隣に築かれた角楼がある。正面幅13m×奥行4mの大きさと推測され、基台に高さ3mの石垣を持つ櫓で
ある。その石垣外周には4m間隔で角柱が6本埋めこまれていたようであり、基台の上にかなり大規模な平面空間が用意されていた事が推定
される。この平面は武者溜まりのような物と思われ、西門と角楼が連携して敵の防備にあたる重要な拠点となっていた事が推測できる。■■
こうした角楼は朝鮮半島の山城における「雉(ち)」と同様の防御施設で、日本の古代山城では初めて確認された遺構だ。鬼ノ城が百済からの
亡命技術者の知識を以って築城された城郭であった事の証であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このような城壁・門・角楼で囲われた城内は広々とした高原状平面で、有事の際は万単位での兵員を収納する事が可能であった。最高所で
ある鬼城山頂は西門・角楼のすぐ傍にあり、おそらくは烽火台として使われたと思われる。城の中央部には礎石を用いて作られた建物が7棟
あったようで、現在もこの礎石群が残っている。これらは鬼ノ城が恒久的に使用されていた事を示しているものであろう。急場凌ぎの簡易な
掘建建築では礎石を用いないためである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
また、鬼城山は城の生命線とも呼べる水源も豊富であり、城内にいくつもの池が存在する。飲料水・生活用水・防火用水など様々に使われる
水は城にとってなくてはならないものだが、鬼城山は水資源に恵まれた蒜峰であり、滾々と湧き出す水は川となって城外へと流れ出ている。
この水を通すために、城壁には5箇所の水門(排水口)が作られている。西門の傍に第1・第2水門、南門の傍に第3水門、東門の傍に第4水門、
屏風折れの石垣脇に第5水門と並ぶ。いずれも雨樋のような構造で城壁を貫通しており、鬼ノ城の築城が精緻な土木技術と、綿密な測量に
基づいて行われた事を物語っている。これらの水門は現在も残っており、見事に排水口として機能しているのである。特に雨上がりは排水の
様子がハッキリと見て取れるので、鬼ノ城を見学する際には押さえておきたい点である。古代山城は他にもいくつかあるが、ここまで設備の
整った城は見受けられず、鬼ノ城は「古代山城の完成形」と言える城だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

急進展した史跡整備■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の鬼ノ城跡は「鬼城山」として国指定の史跡。1986年(昭和61年)3月25日指定である。古代城郭の典型例として公園整備が進められて
きたが、2005年(平成17年)8月にガイダンス施設である鬼城山ビジターセンターが開業したのに前後して、様々な復元(再現)建築が建ち並ぶ
ようになって、一気に古代山城の雰囲気を体感できるように進化した。現在、城址では角楼と西門が再建された他、版築土塁や石垣の破損
部分が復興され、他の城門跡も見学し易いよう通路や案内板が確保されている。駐車場や御手洗、自販機もビジターセンター前に完備。但し
そこへ至るまでの車道は案内標識が整備されているものの道幅は狭く、通行にはかなりの難がある。城壁沿いは城を一周できるように石畳の
遊歩道が整えられている(さりとて、まともに一周すると2時間近くの時間がかかる)半面、曲輪の内部は欝蒼とした森であり昼でも薄暗い。
(古代城郭の遺構として自然な状態、とも言えるが…くれぐれも危険な所には立ち入らぬようにお気を付けあれ)■■■■■■■■■■■■
こうした整備は数次に及ぶ発掘調査に基づいて行われたもので、2006年(平成18年)4月6日には日本城郭協会が日本百名城の1つに選出。
古代城郭を簡単に、間近に見られる数少ない貴重な場所であり、山道が険しいと言え敬遠するのはもったいない城跡だ。特に西門や角楼の
再現遺構は素晴らしく、加えて南門から望む吉備平野の眺望は絶景!是非とも御覧頂きたいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、吉備路といえば桃太郎の物語で有名であるが、「鬼ヶ島」の題材となったのが、ここ鬼城山であったとも言われている。伝承として
垂仁(すいじん)天皇のころ吉備国に温羅(うら)と呼ばれる鬼が居り、里に出ては乱暴するため朝廷は吉備津彦命(きびつひこのみこと)を
退治に派遣した。この温羅が篭った山が鬼ノ城であるとされ(異形の城壁は“鬼の住処”に例えられたのだろう)、吉備津彦命の放った矢が
温羅の目に命中し、流れ出した血が血吸川(鬼城山から倉敷方面へ流れる川)となったとされる。この逸話を元にされたのが岡山に伝わる
桃太郎の物語である。御伽噺の舞台として見てみるのも楽しいのでは…。もっとも、現代では岡山空港(その名も「桃太郎空港」)の滑走路が
鬼ノ城の先にある為、鬼の住処の上には桃太郎の放った鋼鉄の雉(こっちはキジ)が飛び交っている(笑)■■■■■■■■■■■■■■
写真は鬼城山入山口から望んだ角楼跡の石垣・土塁。まだ角楼が復元される前の頃で、今はこの上に大きな舞台のような建物が乗る。



現存する遺構

建物礎石跡・井戸跡・門跡・水門・石垣・土塁・郭等
城域内は国指定史跡




備中高松城・蛙ヶ鼻築堤・足守陣屋  天神山城