備中国 備中高松城

備中高松城跡

 所在地:岡山県岡山市北区高松
 (旧 岡山県岡山市高松)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★★■■



「本能寺の変」西の舞台@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
単に「高松城」とも呼ばれるが、讃岐の高松城(香川県高松市)と区別するため「備中」を付けるのが一般的。@@@@@
日本史上における一大事件と言える「本能寺の変」、天下統一を目前にした前右大将・織田信長が京都本能寺において
配下の部将・明智日向守光秀に襲われ横死した事件であるが、そのもう一つの舞台と呼べるのがここ備中高松城である。
信長軍の先鋒として中国地方攻略を担当していた羽柴筑前守秀吉は、この備中高松城を包囲していた最中に凶報を受け
即座に撤収、「中国大返し」と呼ばれる神速の疾さで主君の仇である光秀の討伐へと引き返したのである。@@@@@@
秀吉はこの武功を皮切に天下統一の覇業を成し遂げたのでござった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
そんな備中高松城は岡山市西端、総社市との境界に近い高松地区にある平城。このあたりは現在も往時の姿と変わらぬ
一面の水田地帯であり、備中と備前を分ける位置。城の南を山陽道、西を大山道が走る交通の分岐点として重要な地点で
あった。周囲には吉備津神社や吉備津彦神社、日本三大稲荷のひとつ高松稲荷、備中国分寺などの重要な寺社が並び、
古くから栄えてきた場所である事が伺える。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この高松に初めて城を築いたのは備中の豪族・三村氏の配下であった石川氏と言われ、その後、安芸から勢力を伸ばした
毛利氏の領する城となった。毛利家の山陽方面司令官であった小早川中務大輔隆景(毛利元就の3男)の配下武将・清水
長左衛門尉宗治(しみずむねはる)が城主に任じられ、この地を堅く守ったのでござる。@@@@@@@@@@@@@@@
備中高松城を最前線とする備中以西は毛利領、岡山城(岡山市内)を本拠とした宇喜多氏は備前を領し、まさにこの周囲が
軍事境界線となる緊張した地域であったが、そこに畿内から勢力を伸ばしてきた織田信長の軍勢が迫ったのは天正年間
(1573年~1592年)の事。1578年(天正6年)宇喜多氏は織田家への臣従を表明し、織田家の中国攻略司令官であった羽柴
秀吉の軍は無血で備前を手に入れ、なおも備中へと攻勢を開始した。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
毛利氏は迫る秀吉軍に対して足守川(備中高松城の背後を流れる川)を絶対防衛線とするべく防備を固め、「境目七城」と
呼ばれる陣城を次々と築き兵士を駐屯させた。宮路山城(兵400)・冠山城(兵300)・加茂城(兵1000)・日幡城(兵1000)・
松島城(兵800)・庭瀬城(兵1000)それに備中高松城(兵5000)の7城である。対する秀吉軍は備前宇喜多氏の援兵を加え
総勢3万。1582年(天正10年)に攻撃が開始され、高松城を除く6城は各個撃破されてたちまち落城してしまった。@@@@
(境目七城の攻略には諸説あり、落城したのは4城とするものも)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ところが勇将・清水宗治の守る高松城だけは頑強に抵抗し、攻めるどころか近づくのも困難な状況だった。元々、高松城は
水田と沼に囲まれた低湿地に単立する要害の城で、城へと侵入する通路は細い畦道か、城側から築かれた橋を渡るしか
なかった。知将でもあった宗治は普通の橋を築かず、川船を並べて橋としていた「舟橋」を用いており、秀吉の攻撃が開始
されるとその船を撤去し橋を消してしまったのである。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
こうなると攻撃軍は身動きの取れない泥湿地を進むか、一列に並んで進む畦道を使うしかない。兵士は次々と討ち取られ、
圧倒的多勢にも関わらず秀吉軍は高松城を攻めあぐねていたのである。秀吉は投降を誘うものの、忠義の将である宗治は
どんなに好餌を示しても寝返らなかった。秀吉の攻勢が始まる前、毛利家当主の右馬頭輝元は宗治の寝返りを心配し予め
領地加増をしようとしたが、「開戦前で勲功もないうちに加増を受けるのは本意に在らず」として固辞した。宗治は毛利家に
絶対の忠誠を誓い、決して秀吉になびく意を持たなかったのである。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

水攻めの開始と本能寺の変@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
力攻めも謀略も効かないと悟った秀吉は持久戦へと移行。秀吉の懐刀と呼ばれた名軍師・黒田官兵衛孝高(よしたか)の
献策を容れ、備中高松城が低湿地にある事を逆手に取り、城の周囲に堤防を築いて足守川の水を引き込み、世に名高い
水攻めを敢行したのである。堤防を完成させた5月は梅雨時の増水も相まって、高松城は容易く水に取り残された浮城と
なってしまった。こうなると城側も思うように出入りが出来なくなってしまい、城内は兵糧を確保できない困窮に見まわれた。
毛利家は宗治を見捨てるに忍びず援軍を差し向けようとするが、これも梅雨に阻まれて思うように進軍できず、高松城は
ますます孤立するばかりであった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
一方、秀吉側も毛利本隊が来援しては軍勢的に不利、仮に高松城を落としてもその後の毛利軍との戦闘は危険と判断し
信長本人の出陣を要請した。尤も、秀吉としては攻め方は選り取り見取り、毛利軍が来ようともそれなりに戦う術を考えて
いただろうから、この出陣要請は高松城攻略の花を信長に持たせるつもりの政治的演出だったと見る向きもござる。@@
ともあれ信長は秀吉の援軍に向かうべく、まず丹波亀山城(京都府亀岡市)に駐屯する明智光秀へ出陣を下命し、それに
続いて自身も手勢200及び嫡子・左近衛中将信忠とその軍500を従えて京都へと向かった。@@@@@@@@@@@@@
高松城を巡る攻防は両者共に一歩も譲らない状況となったのである。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
毛利方は信長出陣の報を受け、援軍派遣と平行して和睦の道も模索し、最前線に構える秀吉に対して度々使者を送った。
対する秀吉は信長来陣を待ちつつも自軍に有利な条件を引き出すために和平交渉を引き延ばしたのだった。@@@@@
硬軟織り交ぜた状況が一変するのは6月2日早朝。深夜に丹波亀山城を出た明智光秀軍は毛利攻めへは向かわず京都へ
進軍。有名な「敵は本能寺にあり」の号令が発せられ、主君・信長の宿所となっていた本能寺へと攻めこんだのである。光秀
謀反の理由は諸説あり定かではないが、これほどまでに叛乱を起こし易い条件が重なったのは奇跡とも言えよう。信長から
出陣の命令を受けていたので大軍を動かしても疑われる事はなく、丹波亀山と京都は目と鼻の先ほどに近い距離である為
行軍を妨げるものは無かったのだ。織田家の諸将は光秀を除いていずれも京から遠く離れた場所で諸勢力と交戦中であり
(羽柴秀吉~毛利軍、柴田勝家~上杉軍、滝川一益~後北条軍、など)畿内で光秀が叛乱を起こしてもこれを討てる勢力は
存在せず、しかも信長は京都での所用を済ませてから軍を整えるつもりだったので、この時に本能寺を守る兵は数えるほど
しかいなかったのである。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
信長は森蘭丸ら近習の者と果敢に抵抗したが多勢に無勢、炎の中で49歳の生涯を終えた。同じく妙覚寺にいた信忠も光秀
軍に襲われ、二条城(現代の二条城とは別の城、京都府京都市上京区)に移り応戦したが討死したのだった。@@@@@
これが冒頭に記した「本能寺の変」でござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

そして中国大返しの挙行@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
「信長死す」の急報は瞬く間に秀吉の許へ届く。本能寺に同伴し、辛くも難を逃れた茶人・長谷川宗仁の発した飛脚が秀吉に
訃報を知らせたのである。これが6月3日。また、光秀も各地の大名に同心を求める使者を派遣したが、毛利軍へと使わせた
密使は偶然にも秀吉軍に捕らえられ、光秀謀反の確証が得られた。これも3日の事だった。@@@@@@@@@@@@@
この事実が毛利軍に知られては攻守が逆転した事になり、秀吉は毛利と光秀の挟撃にあう危険があった。毛利の援軍4万は
高松城の近辺に迫り、毛利家当主・輝元や「鬼吉川」こと吉川駿河守元春(きっかわもとはる、毛利元就の2男)、楊柳の知将・
小早川隆景などが布陣していた。頼みの綱であった信長は既に亡く、秀吉は何としてもこの戦闘を終結させなくてはならなく
なったのである。そのため今まで引き延ばしてきた和平交渉を急遽再開、毛利家の外交僧であった安国寺恵瓊(あんこくじ
えけい)を陣に呼び和平条件を提案。高梁川(現在の高梁市から倉敷市へ流れる川)以東の毛利領割譲と高松城の明渡し、
城主・清水宗治の切腹を引き換えに城兵5000名は赦免する内容であった。未だ信長の死を知らない毛利方はやむを得ず
その条件を呑み、宗治もまた自らの命で城兵が救われるならばと承諾した。この交渉中、早くも秀吉は別働隊を姫路へと
先行させて光秀討伐の準備を進める。4日午前に宗治が自刃し講和が成立、享年46歳であった。@@@@@@@@@@
辞世の句は「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」である。@@@@@@@@@@@@@@
この直後、毛利方へも信長死亡の知らせが入り、秀吉は防備を固め5日まで毛利軍の出方を伺った。毛利陣中では秀吉に
嵌められ宗治を失った事に吉川元春が烈火の如く激怒、すぐさま和平の誓紙を破棄し交戦に及ぼうとしたが小早川隆景は
それを引き止める。父・毛利元就の遺訓に従い「一旦交わされた盟約を破るは武士の道に在らず」と主張し、無益な戦闘を
回避したのであった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
6日、秀吉は毛利軍の追撃を防ぐため高松城水攻めの堤防を自ら決壊させ人為的な洪水を起こし、この機に乗じて午後から
撤退を開始。「中国大返し」と呼ばれる大撤退作戦は昼夜晴雨を問わず敢行され、わずか5日後の6月11日には山城国山崎
(現在の京都府乙訓郡大山崎町)に到着し、天王山へ布陣した。この間に秀吉方は高山右近重友・中川瀬兵衛清秀・丹羽
五郎左衛門尉長秀・神戸三七郎信孝(かんべのぶたか、織田信長の3男)らの軍を吸収し4万近くにもなっていた。@@@@
一方、明智光秀は畿内要所を固める為に兵力を分散させており、頼みとしていた細川兵部大輔藤孝・筒井陽舜房順慶らの
同調も得られず孤立無援であった。そこへまさかの秀吉軍の早期来襲となり、動員できたのは僅か1万6000余。6月13日に
決戦が行われたが、この日は朝から雨模様で鉄砲が使えず光秀軍は劣勢を覆す術がなかった。加えて秀吉は山上に陣を
構えていたため、撃ち下ろされる形の光秀軍はたった2時間で壊滅する。軍勢は散り散りになって敗走したが、光秀本人は
逃亡中に小栗栖(京都府京都市伏見区)付近で消息を絶った。時期と場所から推測して、落武者狩りの土民に討たれたと
云うのが通説でござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
反逆者光秀を討ち果たした功績で秀吉は天下の主導権を握り、遂には統一を果たす訳だが、その始まりはこの備中高松
城であったと言える。また、高松城水攻めに協力した宇喜多八郎秀家や中国大返しを追撃しなかった毛利輝元・小早川
隆景は秀吉政権で五大老の地位を得た。この事からも、高松城の攻防戦がいかに重要であったかが証明されるであろう。

攻城戦の実像と、清水宗治への敬慕@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
…と、ここまで長々と「通説」を書き連ねたが、これはあくまでも後世に残された記録による検証なので、「記録に残らない」
事実を考慮すると様々な憶測を呼ぶ。秀吉が3万にも及ぶ大軍を本当に僅か10日で200kmも移動させる事ができたのか、
なぜ毛利軍が秀吉を追撃しなかったのか、切れ者である光秀が事後掌握を狂わせたのか、何よりも秀吉は本能寺の変を
事前に知っていたのか…。余りにも謎が多い10日間なのである。そもそも高松城の水攻めを疑問視する研究もあり、この
地区はかねてから洪水が多発し(事実、太平洋戦争後50年の間に3回も大洪水が起きている)、天正10年も自然発生的に
河川氾濫が起きたと見る向きもある。諸々の史書には「付近住民を総動員し10余日で2km以上もある堤防を作り上げた」と
されるが、実際には極低地の300m程度を封鎖すれば洪水を起こせると思われる。史書は太閤秀吉の偉業を誇大広告し、
都合の悪い事象は抹殺している可能性があり、必ずしも全てが事実とは言いきれないのでござる。@@@@@@@@@@
さてその後の備中高松城であるが、秀吉の城番が置かれた後に宇喜多秀家の重臣・花房志摩守正成(はなぶさまさなり)が
入城し大改修を行った。1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の後は徳川家康の旗本として花房助兵衛職之(もとゆき)が8220石で
入るも、元和年間(1610年代後半)に高松陣屋が築かれ、高松城は廃城となったのだった。@@@@@@@@@@@@@
現在の高松城址は史跡公園として綺麗に整備されているが(写真)なにぶん水田に囲まれた平城跡なので、城跡である事は
素人目には良く分からないだろう。だが城郭に慣れた者ならば、微小な高低差に防御の要諦を見い出す事が出来るだろうし
周囲の沼沢地は今でも健在、その地形は容易に把握できよう。城址公園へ続く道路は綺麗に舗装されているのだが、実は
路盤の地下はそうした泥湿地のままなので、舗装の傍らからは常に水が染み出している様子も確認できる。この城の形は、
一見すると現代の姿に変化しているものの、その実、中身は中世と変わらないのである。よって1929年(昭和4年)12月17日、
城址は国史跡に指定された。また2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城に選ばれている。
なお、城址脇の一角には清水宗治の首塚が建てられている。講和のために切腹させたとは言え、秀吉はその武勇を大変に
惜しみ、高松城付近の石井山にある持宝院(秀吉本陣跡)へ手厚く葬ったが、やはり城内にこそ葬らねば宗治も寂しかろうと
いう周辺住民の厚情により、1909年(明治42年)に移設されたのだった。1957年(昭和32年)に再整備が行われ、永久保存と
なっている首塚である。忠義と領民のために自刃した宗治の遺徳を称える声は今なお強く、1982年(昭和57年)に営まれた
宗治公400年忌法要では高松城址公園が2300人もの参列者で埋め尽くされた。@@@@@@@@@@@@@@@@@@
城址への登城へはやはり車が便利。高松稲荷の大鳥居を目印にして国道180号線を走ればそれほど難しくなく城址公園へ
たどり着ける。鉄道でもJR吉備線の備中高松駅から徒歩で行ける。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








備中国 蛙ヶ鼻築堤

蛙ヶ鼻攻城築堤

 所在地:岡山県岡山市北区高松・立田
 (旧 岡山県岡山市高松・立田)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★■■■



高松城水攻めの堤防@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
一方、こちらは高松城を攻めた側秀吉陣営の戦時遺構。陣城同等の史跡としてここに掲載する。@@@@@@@@@@@
本能寺の変の直前、備中高松城をめぐる攻防戦の概略は上に記した通りだが、その中で秀吉勢が取った行動をもう少し詳しく
紹介すると、宇喜多勢を従えつつ1582年の4月に備中国内へ侵攻した羽柴軍は15日、高松城を見下ろせる龍王山に布陣。この
龍王山は標高286.8m、高松城の真北にある山で、この周辺では最も高い。されども湿地内にある高松城には兵が取り付けず、
長陣になる事が予想された。そのため、水攻めに移行して足守川の水を引き込む堤防を築く事になる。高松城の北には数々の
山が並び、南側に足守川が流れる地形であるが、秀吉方の各部将は受け持ち地域を分担、最短距離を狙って堤防を構築し
高松盆地の南側を封鎖、城を水没させていく。と同時に秀吉は本陣を高松城のすぐ東側にある石井山へ移し、事態の推移を
直近で監督する事にした。秀吉方は近隣の農民に「土俵を大金で買い取る」と触れ回り、10日ほどの間に堤防を完成させる。
タダの土が金になるのだから、人々はこぞって堤防用の土俵を持ち込んだ事だろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@
こうして築かれた堤防は現在のJR足守駅付近を始点とし、川の南岸を大きく塞いで弧を描き、石井山の麓まで繋がった。この
堤防の内側、つまり川の北側が巨大な湖と化し、そこにある備中高松城は水没の危機に見舞われる事となったのである。無論
堤防の周囲には秀吉方の部将が陣を敷き、敵方による妨害・破壊工作に備え毛利勢が簡単に救援できない態勢を築いた。
堤の総延長は約3km、人造湖の面積はおよそ200haにも及んだそうな。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
秀吉の撤収に伴い堤防は自壊され、またその後は耕作地化や河川改修により消えていったが、現在でも断片的に残っている
箇所がある。その内の1つがこの蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤跡で、秀吉が陣取った石井山の南に付属した部分に当たる。
残存した築堤は1929年12月17日に国史跡となっていたが、概ね野晒しの状態だった。しかし1998年(平成10年)4月から発掘
調査が行われ、蛙ヶ鼻では史跡整備が進むようになる。江戸時代の地誌類では基底部の幅24m×高さ8m×上幅12mを有すと
記されていたが、発掘の結果それがほぼ正しいと確認され、土留めに使われたと考えられる木杭や莚(むしろ)、土俵を発見。
その土層には陶器片や骨片、五輪塔の部材などが混入していた。また、土盛りの更に下層部は深い粘土層が堆積しており、
堤を築く前は一帯が湿地であった事も判明してござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
発掘以後、蛙ヶ鼻築堤跡は公園整備が行われ、現在では史跡公園として開放されている。当然、駐車場なども完備しているし
JR吉備線の備中高松駅も目の前で来訪し易い。築堤の土層断面の展示などもあり、高松城を訪れるならばこちらも見学しては
如何であろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

土塁
攻城堤防は国指定史跡








備中国 足守陣屋

足守陣屋跡

 所在地:岡山県岡山市北区足守
 (旧 岡山県岡山市足守)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★■■■



こちらは江戸時代の陣屋@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
足守川近辺で代表的なもう一つの史跡、こちらは江戸時代に築かれた足守藩木下氏の居館。@@@@@@@@@@@@@@@
まずは木下氏についての説明から始めよう。高松城を水攻めした羽柴秀吉、後に関白となり天下人・豊臣秀吉と名乗る人物だが
逆に遡れば小者時代、木下藤吉郎として信長に仕えた。草履取りから身を興した秀吉は、農民の出自である訳だから根っからの
武士という家柄では無い。当然、彼の家に仕える譜代の家臣などというものは持っていない。立身出世を図る藤吉郎にとっては、
出世すればするほど必要とする家臣を取り揃えなくてはならなくなり、一番手近な所つまり身内から家臣に取り立てていく。弟の
小一郎秀長が秀吉の手足となって影の働きを為した事はつとに知られているが、その他にも秀吉の妻となった寧子(ねね)の弟・
杉原孫兵衛(寧子の実家は織田家家臣・杉原家)も、秀吉の配下に加えられ木下姓を称するようになった。杉原孫兵衛あらため
木下肥後守家定(いえさだ)の誕生である。ここから木下家が発生し、豊臣家臣となる訳だが、家定やその後継は「寧子の縁者」
なので秀吉と直接の血縁は無い。また、天下人となった頃の秀吉にとっては既に利用価値が低くなっており、豊臣政権の中では
それほど高い地位には就かなかった。なお、関ヶ原の戦いで西軍を裏切った金吾中納言こと小早川秀秋は、家定の5男である。
寧子の甥、と云う事は秀吉の義甥にあたる秀秋は、当初は豊臣家の後継者候補にあったが武将としての才幹に乏しいと見られ、
後に毛利輝元の養子に出されようとした。使えないヤツならば、せめて毛利家を乗取る手駒にしようと秀吉は考えたのだろう。
その魂胆を見抜いた智将・小早川隆景は、自身に男子がいなかった事から「是非小早川家の養子に」と秀秋を貰い受けたので
ある。使えないヤツを主家・毛利宗家に送り込まれるよりは、家臣筋である小早川家で処理しようと考えた訳だ。秀吉としては
毛利家でなくとも小早川家を吸収できるのならばそれも良し、として秀秋を小早川家へ送り出したのだった。@@@@@@@@@

木下家再封時に築かれる@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
そんな状況下で秀吉が没し、関ヶ原の戦いが勃発する。秀秋は寝返りで東軍へ与したが、木下家定は中立を保ち東軍・西軍の
どちらへも味方しなかった。徳川家康は1601年(慶長6年)3月27日、家定を2万5000石で足守へ封ず。木下家はそれまで播磨国
姫路(兵庫県姫路市)2万5000石を有していたが、中立であった家定は減封こそせぬが国替えとする処置が為されたのだ。
1608年(慶長13年)8月26日、家定は病没。その跡は長男の式部大夫勝俊(かつとし)が継ぐと目されていたが、これは幕府から
認められず、木下家は封を失う。されど大坂の陣では家定の2男・宮内少輔利房(としふさ、勝俊の異母弟)が徳川方として参戦。
秀吉の正室・寧子、夫亡き後は出家して高台院と号していた彼の伯母が大坂城(大阪府大阪市中央区)へ乗り込もうとするのを
阻止した。もし高台院が大坂城に入っていたら幕府軍は政治的配慮から正面切って城へ攻めかかる事が出来ず、歴史は大きく
変わっていたであろう。この功績から木下家は再興を許され、1615年(元和元年)足守2万5000石を回復したのでござる。@@@@
足守陣屋が築かれたのはこの再封木下家の時代、利房から2代後の淡路守利貞(としさだ)期に当る1662年(寛文2年)~1679年
(延宝7年)の間と見られている。利房が構えた居館を中心に足守の町は整備拡大が続けられ、淡路守利当(としまさ)の代を経て
利貞の頃にこうした城下町整備が完成、陣屋の体裁も整えられたのだろう。以後、木下家は肥後守㒶定(きんさだ)―美濃守利潔
(としきよ)―宮内少輔利忠(としただ)―淡路守利彪(としとら)―利徽(としよし、無官)―肥後守利徳(としのり)―備中守利愛
(としちか)―石見守利恭(としやす)と12代続いて明治維新、1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県を迎えた。@@@@@@@@
廃藩後、足守県が成立するが程なく深津県へ統合、これが小田県に改称された後に岡山県へ合併される。無用のものとなった
陣屋は廃され、元来あった建物は破却された。敷地内には旧藩士の屋敷が移設されて来て、こうした建物に旧藩主・木下家も
在住したとされている。ただ、堀が埋め立てられるような事は無く石垣もそのまま残存してござる。@@@@@@@@@@@@@
JR吉備線に足守駅があるが、この駅は実際の足守の町からはかなり離れている。足守駅から国道429号線を北上することおよそ
3.2km、足守川が緩やかに円弧を描くその内側河畔に足守の町があり、陣屋は町の北端、川と接する位置に築かれている。陣屋
北東が足守川、北西は急峻な宮路山があり、山と川に挟まれ狭められた敷地を用いたものだが、町屋に面する方角(大手)には
川とは別に堀を穿ち(写真)体裁を整えている。見事な切石で組まれた石垣と堀は今なお美麗な状態で維持されており、しかも
細かく屈曲を備えて横矢がかかるよう工夫されている。堀幅は狭く実際に防備としては効果が薄いようにも思えるが、されども
形状の美しさは秀逸で関白豊臣家縁者に相応しい壮麗さを見せつける。また、鋭利な屈曲は稜堡式城郭のような計算高さも
感じさせ、一目見れば感嘆と驚愕を覚えるであろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

文化財と文化人の町@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
近代になると陣屋跡地は文教施設の敷地になり、旧制女学校・公民学校・青年学校・新制足守中学校などに転用されていった。
最終的に岡山市立足守小学校のプールと足守幼稚園が置かれていたが、それが移転すると史跡公園として整備され、1995年
(平成7年)から芝生の広場として一般開放されている。藩政期には堀に沿って長屋や蔵が建ち、敷地内には大きく分けて3棟の
建物を連結させた陣屋舎殿が置かれていた。大手口は東向き(現在の足守小学校へ隣接する側)へ開く。@@@@@@@@@
その3棟の建物のうち、一番北側にあった家屋は現在も残されている。この部分は幕末の頃(1851年(嘉永4年)か?)、利恭の妻・
琴姫(陸奥国二本松藩(福島県二本松市)主・丹羽左近衛少将長富(にわながとみ)の娘)が居住するために増築された建物だ。
利恭の養子として木下子爵家を継いだ利玄(としはる、利恭の弟・利永の2男)はこの建物で誕生している。その残存建築から更に
北側、陣屋敷地の最北端部(足守川に接する部分)はかつての陣屋庭園で、近水園(おみずえん)と呼ばれている。大名庭園の
名作と言える池泉回遊式庭園は宮路山を借景としており、故に宮路山は御殿山との別名がある。小堀遠州流を汲むこの庭園は
18世紀初頭に作られたと考えられていて、名庭園の多い岡山県の中でも後楽園(岡山市内、岡山城山里曲輪)・聚楽園(岡山県
津山市、津山藩主別邸)と並び岡山三名園の一つに数えられる程。広さは約5500㎡もあり、池の畔には吟風閣(ぎんぷうかく)と
呼ばれる数寄屋造りの茶室風建物が。吟風閣は木下㒶定が1708年(宝永5年)幕命を受け京都の仙洞御所と中宮御所の普請を
行った際に、その余剰材を持ち帰って建てたものだとか。茅葺切妻の屋根、2階建ての建物で2階が船底天井、1階が刺し天井と
珍しい工法が用いられている。ちなみに刺し天井とは、床の間に向かって天井の目地が並ぶ形式。家屋の最上位の間となる場が
床の間、大名屋敷ならば藩主の座る場所となる訳だが、そこに直角で畳や天井の並びが向かう状態を「刺す」と表現するそうだ。
武士の習いとして「主を刺す」様式は禁忌とされるのだが、吟風閣ではそんなこだわりを捨て風雅さを追い求めたのだろう。@@@
ところで木下利玄は維新後の華族制度で子爵になっているが、同時に木下利玄(りげん)のペンネームで人気を博した白樺派の
代表的歌人でもあった。遡れば木下勝俊も除封後に京都東山へ隠棲し、歌人となり木下長嘯子(ちょうしょうし)と号した。出世を
貪った豊臣秀吉の縁者だが、木下家はむしろ風雅の家系と言えたのかもしれない(何せ名庭園まで造る程なのだから)。そんな
利玄の生家(琴姫邸宅)は1959年(昭和34年)3月27日に岡山市史跡に指定。近水園も同日に岡山市の名勝となっている。陣屋
跡地も2002年(平成14年)4月10日、「足守藩主木下家屋形構跡」の名で市史跡に。この他、足守一帯には木下家の墓所や武家
屋敷など様々な遺跡が残存し、それぞれ市の史跡や文化財になってござる。そもそも、足守の町自体が江戸時代の町割りが残り
街歩きを楽しむのも一興である。そういった散策用の駐車場が街中に用意されており、陣屋へもそこから徒歩圏内となっている。
じっくりと時間をかけて陣屋や近水園それに侍屋敷街などを味わいたい、それが足守という場所であろう。@@@@@@@@@@



現存する遺構

木下利玄生家《市指定史跡》・近水園《市指定名勝》・吟風閣
井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
陣屋域内は市指定史跡




津山城  鬼ノ城