「本能寺の変」西の舞台@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
単に「高松城」とも呼ばれるが、讃岐の高松城(香川県高松市)と区別するため「備中」を付けるのが一般的。@@@@@
日本史上における一大事件と言える「本能寺の変」、天下統一を目前にした前右大将・織田信長が京都本能寺において
配下の部将・明智日向守光秀に襲われ横死した事件であるが、そのもう一つの舞台と呼べるのがここ備中高松城である。
信長軍の先鋒として中国地方攻略を担当していた羽柴筑前守秀吉は、この備中高松城を包囲していた最中に凶報を受け
即座に撤収、「中国大返し」と呼ばれる神速の疾さで主君の仇である光秀の討伐へと引き返したのである。@@@@@@
秀吉はこの武功を皮切に天下統一の覇業を成し遂げたのでござった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
そんな備中高松城は岡山市西端、総社市との境界に近い高松地区にある平城。このあたりは現在も往時の姿と変わらぬ
一面の水田地帯であり、備中と備前を分ける位置。城の南を山陽道、西を大山道が走る交通の分岐点として重要な地点で
あった。周囲には吉備津神社や吉備津彦神社、日本三大稲荷のひとつ高松稲荷、備中国分寺などの重要な寺社が並び、
古くから栄えてきた場所である事が伺える。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この高松に初めて城を築いたのは備中の豪族・三村氏の配下であった石川氏と言われ、その後、安芸から勢力を伸ばした
毛利氏の領する城となった。毛利家の山陽方面司令官であった小早川中務大輔隆景(毛利元就の3男)の配下武将・清水
長左衛門尉宗治(しみずむねはる)が城主に任じられ、この地を堅く守ったのでござる。@@@@@@@@@@@@@@@
備中高松城を最前線とする備中以西は毛利領、岡山城(岡山市内)を本拠とした宇喜多氏は備前を領し、まさにこの周囲が
軍事境界線となる緊張した地域であったが、そこに畿内から勢力を伸ばしてきた織田信長の軍勢が迫ったのは天正年間
(1573年~1592年)の事。1578年(天正6年)宇喜多氏は織田家への臣従を表明し、織田家の中国攻略司令官であった羽柴
秀吉の軍は無血で備前を手に入れ、なおも備中へと攻勢を開始した。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
毛利氏は迫る秀吉軍に対して足守川(備中高松城の背後を流れる川)を絶対防衛線とするべく防備を固め、「境目七城」と
呼ばれる陣城を次々と築き兵士を駐屯させた。宮路山城(兵400)・冠山城(兵300)・加茂城(兵1000)・日幡城(兵1000)・
松島城(兵800)・庭瀬城(兵1000)それに備中高松城(兵5000)の7城である。対する秀吉軍は備前宇喜多氏の援兵を加え
総勢3万。1582年(天正10年)に攻撃が開始され、高松城を除く6城は各個撃破されてたちまち落城してしまった。@@@@
(境目七城の攻略には諸説あり、落城したのは4城とするものも)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ところが勇将・清水宗治の守る高松城だけは頑強に抵抗し、攻めるどころか近づくのも困難な状況だった。元々、高松城は
水田と沼に囲まれた低湿地に単立する要害の城で、城へと侵入する通路は細い畦道か、城側から築かれた橋を渡るしか
なかった。知将でもあった宗治は普通の橋を築かず、川船を並べて橋としていた「舟橋」を用いており、秀吉の攻撃が開始
されるとその船を撤去し橋を消してしまったのである。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
こうなると攻撃軍は身動きの取れない泥湿地を進むか、一列に並んで進む畦道を使うしかない。兵士は次々と討ち取られ、
圧倒的多勢にも関わらず秀吉軍は高松城を攻めあぐねていたのである。秀吉は投降を誘うものの、忠義の将である宗治は
どんなに好餌を示しても寝返らなかった。秀吉の攻勢が始まる前、毛利家当主の右馬頭輝元は宗治の寝返りを心配し予め
領地加増をしようとしたが、「開戦前で勲功もないうちに加増を受けるのは本意に在らず」として固辞した。宗治は毛利家に
絶対の忠誠を誓い、決して秀吉になびく意を持たなかったのである。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
水攻めの開始と本能寺の変@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
力攻めも謀略も効かないと悟った秀吉は持久戦へと移行。秀吉の懐刀と呼ばれた名軍師・黒田官兵衛孝高(よしたか)の
献策を容れ、備中高松城が低湿地にある事を逆手に取り、城の周囲に堤防を築いて足守川の水を引き込み、世に名高い
水攻めを敢行したのである。堤防を完成させた5月は梅雨時の増水も相まって、高松城は容易く水に取り残された浮城と
なってしまった。こうなると城側も思うように出入りが出来なくなってしまい、城内は兵糧を確保できない困窮に見まわれた。
毛利家は宗治を見捨てるに忍びず援軍を差し向けようとするが、これも梅雨に阻まれて思うように進軍できず、高松城は
ますます孤立するばかりであった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
一方、秀吉側も毛利本隊が来援しては軍勢的に不利、仮に高松城を落としてもその後の毛利軍との戦闘は危険と判断し
信長本人の出陣を要請した。尤も、秀吉としては攻め方は選り取り見取り、毛利軍が来ようともそれなりに戦う術を考えて
いただろうから、この出陣要請は “高松城攻略の花を信長に持たせる” つもりの政治的演出だったと見る向きもござる。@@
ともあれ信長は秀吉の援軍に向かうべく、まず丹波亀山城(京都府亀岡市)に駐屯する明智光秀へ出陣を下命し、それに
続いて自身も手勢200及び嫡子・左近衛中将信忠とその軍500を従えて京都へと向かった。@@@@@@@@@@@@@
高松城を巡る攻防は両者共に一歩も譲らない状況となったのである。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
毛利方は信長出陣の報を受け、援軍派遣と平行して和睦の道も模索し、最前線に構える秀吉に対して度々使者を送った。
対する秀吉は信長来陣を待ちつつも自軍に有利な条件を引き出すために和平交渉を引き延ばしたのだった。@@@@@
硬軟織り交ぜた状況が一変するのは6月2日早朝。深夜に丹波亀山城を出た明智光秀軍は毛利攻めへは向かわず京都へ
進軍。有名な「敵は本能寺にあり」の号令が発せられ、主君・信長の宿所となっていた本能寺へと攻めこんだのである。光秀
謀反の理由は諸説あり定かではないが、これほどまでに叛乱を起こし易い条件が重なったのは奇跡とも言えよう。信長から
出陣の命令を受けていたので大軍を動かしても疑われる事はなく、丹波亀山と京都は目と鼻の先ほどに近い距離である為
行軍を妨げるものは無かったのだ。織田家の諸将は光秀を除いていずれも京から遠く離れた場所で諸勢力と交戦中であり
(羽柴秀吉~毛利軍、柴田勝家~上杉軍、滝川一益~後北条軍、など)畿内で光秀が叛乱を起こしてもこれを討てる勢力は
存在せず、しかも信長は京都での所用を済ませてから軍を整えるつもりだったので、この時に本能寺を守る兵は数えるほど
しかいなかったのである。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
信長は森蘭丸ら近習の者と果敢に抵抗したが多勢に無勢、炎の中で49歳の生涯を終えた。同じく妙覚寺にいた信忠も光秀
軍に襲われ、二条城(現代の二条城とは別の城、京都府京都市上京区)に移り応戦したが討死したのだった。@@@@@
これが冒頭に記した「本能寺の変」でござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
そして中国大返しの挙行@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
「信長死す」の急報は瞬く間に秀吉の許へ届く。本能寺に同伴し、辛くも難を逃れた茶人・長谷川宗仁の発した飛脚が秀吉に
訃報を知らせたのである。これが6月3日。また、光秀も各地の大名に同心を求める使者を派遣したが、毛利軍へと使わせた
密使は偶然にも秀吉軍に捕らえられ、光秀謀反の確証が得られた。これも3日の事だった。@@@@@@@@@@@@@
この事実が毛利軍に知られては攻守が逆転した事になり、秀吉は毛利と光秀の挟撃にあう危険があった。毛利の援軍4万は
高松城の近辺に迫り、毛利家当主・輝元や「鬼吉川」こと吉川駿河守元春(きっかわもとはる、毛利元就の2男)、楊柳の知将・
小早川隆景などが布陣していた。頼みの綱であった信長は既に亡く、秀吉は何としてもこの戦闘を終結させなくてはならなく
なったのである。そのため今まで引き延ばしてきた和平交渉を急遽再開、毛利家の外交僧であった安国寺恵瓊(あんこくじ
えけい)を陣に呼び和平条件を提案。高梁川(現在の高梁市から倉敷市へ流れる川)以東の毛利領割譲と高松城の明渡し、
城主・清水宗治の切腹を引き換えに城兵5000名は赦免する内容であった。未だ信長の死を知らない毛利方はやむを得ず
その条件を呑み、宗治もまた自らの命で城兵が救われるならばと承諾した。この交渉中、早くも秀吉は別働隊を姫路へと
先行させて光秀討伐の準備を進める。4日午前に宗治が自刃し講和が成立、享年46歳であった。@@@@@@@@@@
辞世の句は「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」である。@@@@@@@@@@@@@@
この直後、毛利方へも信長死亡の知らせが入り、秀吉は防備を固め5日まで毛利軍の出方を伺った。毛利陣中では秀吉に
嵌められ宗治を失った事に吉川元春が烈火の如く激怒、すぐさま和平の誓紙を破棄し交戦に及ぼうとしたが小早川隆景は
それを引き止める。父・毛利元就の遺訓に従い「一旦交わされた盟約を破るは武士の道に在らず」と主張し、無益な戦闘を
回避したのであった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
6日、秀吉は毛利軍の追撃を防ぐため高松城水攻めの堤防を自ら決壊させ人為的な洪水を起こし、この機に乗じて午後から
撤退を開始。「中国大返し」と呼ばれる大撤退作戦は昼夜晴雨を問わず敢行され、わずか5日後の6月11日には山城国山崎
(現在の京都府乙訓郡大山崎町)に到着し、天王山へ布陣した。この間に秀吉方は高山右近重友・中川瀬兵衛清秀・丹羽
五郎左衛門尉長秀・神戸三七郎信孝(かんべのぶたか、織田信長の3男)らの軍を吸収し4万近くにもなっていた。@@@@
一方、明智光秀は畿内要所を固める為に兵力を分散させており、頼みとしていた細川兵部大輔藤孝・筒井陽舜房順慶らの
同調も得られず孤立無援であった。そこへまさかの秀吉軍の早期来襲となり、動員できたのは僅か1万6000余。6月13日に
決戦が行われたが、この日は朝から雨模様で鉄砲が使えず光秀軍は劣勢を覆す術がなかった。加えて秀吉は山上に陣を
構えていたため、撃ち下ろされる形の光秀軍はたった2時間で壊滅する。軍勢は散り散りになって敗走したが、光秀本人は
逃亡中に小栗栖(京都府京都市伏見区)付近で消息を絶った。時期と場所から推測して、落武者狩りの土民に討たれたと
云うのが通説でござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
反逆者光秀を討ち果たした功績で秀吉は天下の主導権を握り、遂には統一を果たす訳だが、その始まりはこの備中高松
城であったと言える。また、高松城水攻めに協力した宇喜多八郎秀家や中国大返しを追撃しなかった毛利輝元・小早川
隆景は秀吉政権で五大老の地位を得た。この事からも、高松城の攻防戦がいかに重要であったかが証明されるであろう。
攻城戦の実像と、清水宗治への敬慕@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
…と、ここまで長々と「通説」を書き連ねたが、これはあくまでも後世に残された記録による検証なので、「記録に残らない」
事実を考慮すると様々な憶測を呼ぶ。秀吉が3万にも及ぶ大軍を本当に僅か10日で200kmも移動させる事ができたのか、
なぜ毛利軍が秀吉を追撃しなかったのか、切れ者である光秀が事後掌握を狂わせたのか、何よりも秀吉は本能寺の変を
事前に知っていたのか…。余りにも謎が多い10日間なのである。そもそも高松城の水攻めを疑問視する研究もあり、この
地区はかねてから洪水が多発し(事実、太平洋戦争後50年の間に3回も大洪水が起きている)、天正10年も自然発生的に
河川氾濫が起きたと見る向きもある。諸々の史書には「付近住民を総動員し10余日で2km以上もある堤防を作り上げた」と
されるが、実際には極低地の300m程度を封鎖すれば洪水を起こせると思われる。史書は太閤秀吉の偉業を誇大広告し、
都合の悪い事象は抹殺している可能性があり、必ずしも全てが事実とは言いきれないのでござる。@@@@@@@@@@
さてその後の備中高松城であるが、秀吉の城番が置かれた後に宇喜多秀家の重臣・花房志摩守正成(はなぶさまさなり)が
入城し大改修を行った。1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の後は徳川家康の旗本として花房助兵衛職之(もとゆき)が8220石で
入るも、元和年間(1610年代後半)に高松陣屋が築かれ、高松城は廃城となったのだった。@@@@@@@@@@@@@
現在の高松城址は史跡公園として綺麗に整備されているが(写真)なにぶん水田に囲まれた平城跡なので、城跡である事は
素人目には良く分からないだろう。だが城郭に慣れた者ならば、微小な高低差に防御の要諦を見い出す事が出来るだろうし
周囲の沼沢地は今でも健在、その地形は容易に把握できよう。城址公園へ続く道路は綺麗に舗装されているのだが、実は
路盤の地下はそうした泥湿地のままなので、舗装の傍らからは常に水が染み出している様子も確認できる。この城の形は、
一見すると現代の姿に変化しているものの、その実、中身は中世と変わらないのである。よって1929年(昭和4年)12月17日、
城址は国史跡に指定された。また2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城に選ばれている。
なお、城址脇の一角には清水宗治の首塚が建てられている。講和のために切腹させたとは言え、秀吉はその武勇を大変に
惜しみ、高松城付近の石井山にある持宝院(秀吉本陣跡)へ手厚く葬ったが、やはり城内にこそ葬らねば宗治も寂しかろうと
いう周辺住民の厚情により、1909年(明治42年)に移設されたのだった。1957年(昭和32年)に再整備が行われ、永久保存と
なっている首塚である。忠義と領民のために自刃した宗治の遺徳を称える声は今なお強く、1982年(昭和57年)に営まれた
宗治公400年忌法要では高松城址公園が2300人もの参列者で埋め尽くされた。@@@@@@@@@@@@@@@@@@
城址への登城へはやはり車が便利。高松稲荷の大鳥居を目印にして国道180号線を走ればそれほど難しくなく城址公園へ
たどり着ける。鉄道でもJR吉備線の備中高松駅から徒歩で行ける。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
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